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                    「西暦紀元とは何か」
 
 かつて日本では西暦紀元をあまり問題にしていませんでした。西暦紀元はキリスト教徒の勝手な言い分で、白人社会の独断的な感覚で、こういう規定を設けているのだと思われていました。白人的な世界観を有色人種に押しつけるために、西暦紀元という考え方を用いたのだろうと考えられていたのです。
 今までの日本人は、そう考えている人が相当多かったようです。キリスト的な宗教習慣に基づく価値観だと思っていたのです。
 クリスマスとかペンテコステ(聖霊降臨の祝日)、謝肉祭は世界的にあるようですが、キリスト教の典礼に基づくものです。こういうものを世界的な祭りにしているのですが、西暦紀元もクリスマスと同じような意味で、世界的にこういう暦年算定の考え方を押しつけているのだと思っていたのです。
 ところが、聖書をよく読んでみますと、そうではないことが分かるのです。仮に白人が、西暦紀元を自分たちの宗教習慣によって創設したとします。それを世界の有色人種全般に押し広めて、自分たちの世界観に同意させようという強引な態度をとったとしても、もしそれが地球存在の必然性に一致しないとすれば、そういうことが通るはずがないのです。
 例えば、マルクスの思想が良いものだと白人が考えたとします。そうして、世界全体をマルキシズムに巻き込もうと考えたとします。マルキシズムは歴史的必然性があるという言い方もできますし、社会改革という人権主義的な感覚もあります。従って、貧乏人が金持ちと平等な感覚で生活できるという、誠に人間にとっては願ったり叶ったりの言い分があるのです。何処の国でもマルキシズムの言い分で、国民大衆と言われている人々が賛同しやすい要素が十分にあるのです。
 ところが、案外そうならないのです。理論的には民衆が得をするような考え方をしています。貧乏人と言われている一般大衆の感覚で見れば、当然賛同した方が良さそうに思えるのです。
 何処の国でも一般大衆の方が数が多いに決まっています。いくら金持ちが多いアメリカでも、一般大衆と言われる民衆の方が数としてははるかに多いのです。従って、アメリカでもイギリスでも、マルキシズムは人間の自尊心的感覚、欲望主義的な感覚から考えて、マルクスの思想は当然世界の一般大衆がこぞって歓迎するはずです。
 マルクスはそう考えて資本論を書いたのです。その思想の良し悪しは別として、人間の肉性を煽り立てて迎合する態度を取れば、一般大衆はこぞって歓迎するでしょう。
 いかに封建主義的な残存意識があっても、また、資本主義的な意識があっても、一般大衆にアピールするようなマルキシズムは当然歓迎されるはずです。ところが、歓迎されないのです。二○一七年現在で中国や北朝鮮、キューバは共産主義体制の国ですが、一般大衆で本当にマルキシズムに傾倒している人が何%あるかです。共産党員として国家の指導をしている人は信じているでしょう。しかし、本当に心からマルキシズムに傾倒している人は非常に少ないでしょう。
 マルキシズムのように人間に迎合するセンスを持っているものでも、人々が歓迎するとは限らないのです。結局、神の処置でなければ、人間がある思想を伝播しようと考えても、世界的に行き渡らせることはできないのです。
 ある一部の民族や国家に受け入れられても、全世界にそれが抵抗なく受け止められるということは、人間が考えた思想ではできないのです。マルキシズムがその実例になると思います。
 西暦の場合、これを採用したからと言って、誰かが得をする訳でもありません。国家の民族感情から考えますと、損をしても得はないのです。日本人の島国根性から考えますと、昭和とか平成と言った方が何となくぴったりするのです。
 現在では西暦は便利であると言えますけれど、日本の明治、大正時代では、西暦を用いるのは民族的にも国家的にも、それほど便利であったとは言えないのです。
 外交文書、国際的な貿易をする人には便利だったでしょう。一般大衆の立場から考えますと、西暦を用いても何の利益もなかったのです。むしろ抵抗を感じる方が多かったかもしれないのです。
 ところが今では、西暦が当たり前になっているのです。私はかつて、世界一周旅行を二回してきました。アジア、中近東、ヨーロッパ、アフリカ、南米、中南米、北アメリカの色々な国を訪ねましたが、皆西暦を使っていました。
 日本では平成の後に、果たして元号が新しく作られるかどうか分からない状態になっているのです。元号を作ったとしても、西暦を使った方が便利になっているのです。そうすると、日本の平成の後に作られる元号は、単なる体裁みたいなものになるのです。皇室の行事には元号を用いることになりますが、一般社会の人々は西暦が普通になるのです。
 そういうことがどうしてあり得たのでしょうか。新約聖書が伝播された地域、民族には、無言のうちに西暦が歓迎されているのです。世界全体がイエスの誕生の紀元をそのまま受け入れている。これがおかしいのです。
 年号というのは簡単なことのように思われますけれども、人間生活においては非常に大きい意味を持っているのです。年号を知っても知らなくても、給料をもらうには関係がありませんけれど、社会生活の通念から考えますと、年号の持つ意味は相当大きいものがあるのです。それが大した抵抗もなく世界中で受け入れられているのです。
 神という事実はこのような事がらにおいて、何気なく当たり前のこととして受け止められているのです。これは人間がむきになって反対しなければならない事実とは違うのです。
 ところが、イエス・キリストの誕生が西暦紀元になっているということは、落ち着いて考えたら容易ならない大問題です。イエス・キリストの誕生が、好むと好まざるとに係わらず、暦年算定の基準になっていて、人間は無理なくそれを受け入れているのです。なぜこういうことがあり得るのか。落ち着いて考えたら新約という事がらの意味が少し分かるはずです。
 西暦紀元というのはどういう時代なのか。イエスが生まれる前の世界と、生まれた後の世界とでは、人間存在の位置づけ、本質が全く変わってしまっているのです。人間存在の世界的な価値が変わっているのです。人間が宇宙的に存在する位置が全く変わっているのです。
 イエスが生まれる前の異邦人の位置、世界史的な存在価値は、ゴリラやオランウータンと変わらない状態でした。これは正確には人間とは言えなかったのです。ゴリラやオランウータンとは違って、少し贅沢な動物だったのです。いてもいなくてもどうでもいい存在でした。世界歴史に与える意味を全く持っていなかった。人間という価値を全く持っていなかったのです。
 現在でも、イエス・キリストと無関係だと考えている人の価値はそれです。イエス・キリストと無関係だと考えている人の価値は、動物と同じです。例えば、何処かの工場で仕事をしているとします。その工場は人間生活のために製造して、人間生活のために国家に貢献しているのですが、人間存在の本質にとって何の意味があるかです。
 人間は自分が住んでいる社会を褒めるという妙な癖があるのです。例えば、かつて京都市が琵琶湖から疎水を引きました。それを行った知事がその功績により銅像が建てられたのです。
 京都人としてはその業績によって利益を得たのですが、人間が現世で便利に生活することが、本質的に何の価値があるのかということです。どういう意味を持っているかです。
 旧幕時代の京都人と平成時代の京都人とでは、人間の本質にどういう変化をもたらしたのか。
 人間の意義と価値は、人間が霊魂であることにあるのです。霊魂としての価値が、正当な価値判断の基準です。生活の形態から良いか悪いかは、人間の価値判断の基準にはならないのです。
 現世に生きている人間から考えると、現世の生活が第一だと思うでしょう。しかし、人間が現世に生きていることが何を目的としたものなのか、価値があるかということになると、現世に生きている人間は皆死んでいくのです。文明がいくら良くなっても、結局人間は皆死んでいくのです。
 これは虚無的な考えではないし、反国家的な考えではありません。人間の意識の飾りやごまかしを全部取り去って、人間存在を丸裸の状態で直視することになりますと、そういう価値判断になるのです。
 人間が生きているのは何のためか。人間が生きている意味、目的は何かです。
 人間は現世において世間並に生活して死んでいくのです。世間並から少し良い生活ができて、子供に財産を残しても、子供が愚かになるだけです。だから、西郷隆盛は子孫のために美田は買わないと言ったのです。子孫のために美田を買えば、子供がばかになるだけです。
 そうすると、人間は一体何のために生きているのだろうか。真面目な人だったら答えられないのは当たり前です。無理に答えられる人は、自惚れているか、自分の理屈を言っているだけです。
 そういう人は現世に生活する意義がある、価値があると言いたいのかもしれませんが、正直に人生を考える人は、人生は全く虚しいと考えるに決まっているのです。そう考えない人は、人生を冷静に、公平に判断するだけの能力がないからです。
 人生は果たして生きるに価するかという人がいますが、こういう問いをするのが当たり前です。現在の人間なら生きるに価しないのです。生きていれば罪を犯すに決まっているからです。焼きもちをやき、嘘を言うのです。そういうことをするに決まっているのです。人間が存在することが却って人間を傷つけているのです。
 そうすると、一体異邦人の価値は何かということです。犬や猫なら生活の矛盾はありません。人間には生活の矛盾があります。人間は矛盾した人生をごまかして生きなければならないだけ、犬や猫よりも価値が低いことになるのです。
 人間は文明を造って自惚れているだけであって、文明が宇宙的にどれだけの価値があるのかというと、地球を食い荒らして、やがて地球そのものを滅ぼしてしまう危険性だけがあるのです。
 やがて、国も、民族も、歴史も、文明も消えてしまうでしょう。一体、人間は何をしてきたのかと言いたいのです。ただ争いをして死んでいった。それだけのことです。イエスが生まれるまでの人間はそれだけだったのです。
 イエスがこの地球上に現われてきたから、人間の歴史に大証人が与えられたのです。生きる意味、生きる目的がはっきり輝き出したのです。ここにキリスト紀元の驚くべき意味があるのです。
 イエスが来たことによって、人間の本質、本性、本体が明らかにされたのです。イエスが来るまでは、人間の本質、本体、本性は全く分からなかったのです。
 ユダヤ人でもそうでした。特に異邦人はただ生まれてきて死んでいく。それだけです。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花のことは 夢のまた夢」という豊臣秀吉の歌のとおりです。酔生夢死の人生です。酔っぱらって生きて、夢のように死んでいく。この他に人生の価値はなかったのです。
 孔子はもっともらしいことを言いました。達磨ももっともらしいことを悟ったとして、涅槃の境に入ってそれで終わりです。
 現世で五蘊皆空を悟って、一切の苦厄を度して、楽しく生きたとしても、やはり死んでいくのです。それで終わりです。
 よほど上等になっても犬くらいの価値です。犬は最初から涅槃です。犬には罪が全くありませんから、死の恐れはないのです。日本には犬以上の人は一人もいなかったのです。
 今の日本人はその程度のものです。生きてはいるが自分の値打ちを全く知らない。自分の本性、本体を知らないのです。結婚とは何か。親とは何か。愛とは何か。命とは何か。そういう根本的なことが何も分からないのです。何も分からないから、犬の方が罪がないだけ上等です。
 ところが、イエスが現われてから、人間の価値が全く変わってしまったのです。神の子であるという実質が証明されたのです。人間は神の子であるという驚くべき事実が証明されたのです。そうして、もっと驚くべきことは、イエスが十字架にかかって復活し、昇天したことによって、聖霊が降臨したのです。そして、イエス紀元の時代が現われたのですが、もはや地球は神の国になっているのです。全く大変なことになっているのです。
 これについては分かりやすく説明しなければなりませんが、日本人はあまりにも物を知らなさすぎるのです。これは日本人だけではありません。世界中の人々が知らないのです。
 とにかく、今はもう神の国が来ているのです。悔い改めて福音を信じるという条件さえ果たせば、死ななくなるのです。死なない命を見つけることができるのです。
 やがてこの世界に、千年王国という驚くべき栄光の時代が現われます。地球に千年間の絶対平和が実現します。そうして、地球がなくなった後に、新しい天と新しい地が現われるのです。
 その時、人間は万物の王であり、神の子である本性を輝かせることができるのです。そうして、世々限りなく王となるのです。これは人生の目的としてはあまりにも上等すぎますが、これが私たちの目の前に置かれているのです。
 創世記二章は人間が罪を犯す前の記録です。イエス・キリストの十字架によって罪が贖われた結果、今の地球上にこの二章が実現しているのです。これがキリスト紀元の時代です。
 一度罪を犯した人間が十字架によってその罪が抹殺されてしまった。そうして、陥罪以前の状態、創世記二章の状態が現われているのです。だから、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言っているのです。イエスが十字架にかかる前ですから、神の国は近づいたと言っているのです。
 今は既に神の国が来ているのです。だから、悔い改めて福音を信ぜよと言っているのです。そこで、現在私たちが住んでいる世界が神の国になっているという事実を説明すれば、皆様が素朴で素直であれば分かるのです。
 今生きている人間は死なない人間だということも、また、分かるはずです。
 現在までの人間の生活意識、人生観、世界観、価値観を新しくする必要があるのです。そうしたら、私たち自身が死なない人間だということをはっきり確認することができるのです。
 これは肉体的に死ぬか死なないかということではありません。肉体的には死ぬに決まっています。現世から消えていきます。これは人間の霊魂の生活条件が変化するだけであって、これは死ぬことではないのです。
 現在私たちは生きています。私たちが肉体的に生きているという事がらと平行的に、神の子としてとこしえの命で生きているという事実があるのです。
 肉体的に生きているという事実と平行して、とこしえの命に生きているという事実があるのです。
 私たちは毎日食べています。飲んでいます。それと同時に、命の木の実を現在食べているのです。イエス紀元に生きているということは、命の木の実を食べているということです。
 私たちは現実にイエス紀元に生きています。聖霊が降臨しています。聖霊が降臨したこの地球上に生きていながら、まだ命が分からないとはどういうことかと言いたいのです。
 自我意識と現象意識を捨てればいい。そうしたら、すぐに命が分かるのです。
​                (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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