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                      「形と本質」
 
 今生きている皆様のあり方を、正確に認識できたらいいのです。ところが、皆様は自分のあり方を冷静に、平明に認識できないのです。
 誰でも、芋にはこういう味がある、サツマイモを食べたらこれはおいしい味がする、こういう味があると思っているのです。ゴボウにはゴボウの味がある、ニンジンにはニンジンの味があると思っているのです。
 芋に味があるのではないのです。世ができる前に芋の味があった。それが芋によって表現されているのです。
 宇宙にはそういう味があるのです。芋でなければ表現できない味があるのです。その味が芋という状態で現われているのです。人間の考え方とは反対です。
 ある霊なることがあって、霊なる事がらが肉として現われているのです。
 皆様は人間とは何であると思われるのでしょうか。人間がいるのではありません。人間という形で現わさなければならないことがあるのです。
 芋という形で現わさなければならない味があるのです。これは芋だけではありません。。芋の形、芋の色、芋の味を現わさなければならないものがあったのです。
 植物があるのではない。植物が現わさなければならない本質があるのです。これが植物になっているのです。
 動物もそのとおりです。虫も同様です。何万とも何十万とも言える生き物がいるのです。そうなるべき質があるのです。その質が形で現われているのです。これが現象世界です。
 植物がある、動物がある、人間があるというのは、観念が固定した見方です。現象的なあり方を信じ込んでいますから、芋にはこんな味がすると思っているのです。
 芋という現象を信じているから、そういう考えになるのです。こういう考え方を肉の思いというのです。こういう考え方は死んでからは一切通用しません。
 死んでしまいますと、形がない世界に行くのです。形があるという意識を持ったままですと、その意識はもう一度やり直しをしなければならないことになるのです。意識を根本からやり直しをさせられることになるのです。これが地獄です。
 意識のやり直しはとても辛いことです。生きている時は自由に意識が変えられるのです。死んでしまいますと、自由意志はありませんから、自分の意識を自分で変えることはできないのです。そこで、地獄になるのです。
 人間という妙なものが宇宙にいるのです。これは神の子にもなりますし、悪魔の子にもなるのです。従って、神の子でもあるが、悪魔の子でもあるという妙な存在が人間です。
 こういうことは宇宙構造の原点を訪ねると分かってくるのです。地球にいることをやめられるというチャンスを与えられるのです。洗礼を受けても、こういう経験をできる人は非常に少ないのです。
 洗礼を自分が受けるからいけないのです。自分の魂が受けたらいいのです。魂が洗礼を受けると、自分が消えてしまうのです。そうして、死ななくてもよい人間になるのです。
 これを水によりて新に生まれるというのです。「すべての人を照らす誠の光が世に来た」とあります(ヨハネによる福音書1・9)。すべての人を照らす誠の光というのはイエス自身であって、イエスは客観的にだけ自分の命を見たのです。
 客観的にだけ自分の命を見ることを、神を信じるというのです。神は命ですから、これを信じるだけのことです。
 自分が生きていると思っていると、死んでしまいます。神を信じるというのは、今生きている命がそのまま神だということが分かるだけのことです。これだけで死ななくなるのです。そうすると、生理状態も変わってしまうのです。
 神が分からない。神とは何か分からないという人がいます。それは自分が分からないと思っているのです。
 皆様の心臓が動いていることが神です。これが分かったらいいだけのことです。これを納得したらいいのです。難しいことはないのです。
 これが分からないというのは、死んでしまう人間の気持ちです。死んでしまう人間の気持ちがなぜ大切なのでしょうか。
 死んでしまうに決まっている自尊心がなぜ大切なのでしょうか。自分のプライド、自分の立場、自分の意見は死んでしまうに決まっている人間の気持ちです。この気持ちになぜ遠慮しなければならないのでしょうか。
 この気持ちを脱いでしまうのです。帽子を脱ぐように自分の気持ちを脱いでしまったらいいのです。
 死んでしまう自分の気持ちを、なぜそんなに大切に奉らなければいけないのでしょうか。
 仏典は空になれと盛んに言っていますが、空になることがなかなか難しいのです。禅宗のお坊さんで本当に空じているお坊さんは一人もいないのです。禅宗のお坊さんは嘘ばかり言っているのです。
 主観的な自分の命は自分が生きていると思っていることですが、自分の命はないのです。客観的な命が一つあるだけです。命は一つしかない。世界中に命は一つしかないのです。
 砂糖をなめたら世界中の人間が全部甘いと感じるのです。これは命が一つしかないことを示しているのです。
 命は一つです。これが皆様の客観的な命です。これがイエスです。なぜイエスになるかと言いますと、神のお陰で生きているということを短くするとイエスになるのです。
 神のお陰で生きているということが、イエー・ズー・スーです。これがイエスになったのです。自分の命ではない命を人間は生きているのです。これがイエスです。
 世界中の人間が一つの命で生きている。この命の名前をイエスというのです。神が救いである。神と一緒に生きている。神がおやじだということです。世界中の人間の名前がイエスです。
 神が一緒にいるというのがイエスという名前です。
 
 聖書に、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは『神われらと共にいます』という意味である」とあります(マタイによる福音書1・23)。
 
 イエスというのは固有名詞ではない。人間が生きている状態がインマヌエルなのです。人間の本当の姿がイエスとして現われたのです。
 「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た」とありますが(ヨハネによる福音書1・9)、これがイエスです。これが人間になって現われたのです。
 すべての人を照らす誠の光というのは、世界全体の人間の本当の命の実物のことです。本当の命の実物が、人間として現われたのです。
 すべての人を照らすとありますが、これは照らされる内容が皆様にあることを意味しているのです。すべての人が照らされる内容を持っているのです。
 照らすというのは、すべての人にイエスと同じ内容があることが第一です。もう一つは、すべての人がイエスによって照らされると、自分の命の実体が分かるのです。
 自分の命の実体は、客観的に見たらすぐに分かるのです。誰でも心臓が動いています。誰でも砂糖をなめたら甘いと思うのです。これが客観的な命です。これがインマヌエルです。これがイエスです。
 イエスという名前は固有名詞ではないのです。人間生存の実体をそのまま名前で呼んだのです。人間生存の実質をそのまま単語で呼びますと、インマヌエルとなるのです。インマヌエルを縮めるとイエスになるのです。
 イエスは皆様の他人ではないのです。皆様の本体です。
 人間は死にたくないといつも思っています。これは何かというと、皆様の中にいるイエスの気持ちです。皆様の中にいるイエスは、死にたくない、死にたくないと思っているのです。
 現世の男や女と一緒にいたら死ななければならないと文句を言っているのが、皆様の中にいる常識です。死にたくないと思っているのはイエスです。死にたくないけれど死ななければならないと思っているのが、固有名詞の皆様です。
 自我の自分は生きているのが辛いと思いながら死んでいくのです。これは生きている命の本質に目を向けないで、自分の気持ちに目を向けているから辛いと思うのです。自分の主観意識に引っ張られて、自分は死ななければならないと勝手に思っているのです。だから、私の話を聞いても、分からない、分からないと思うのです。
 こういうことを聞いてもどうしても分からない人は、地獄しか行く所がないのです。「地獄では悲しみ、歯がみする」と聖書にあるのです(マタイによる福音書25・30)。
 世界中に人間は一人しかいないのです。砂糖をなめたら世界中の人は甘いと思う。塩をなめたら世界中の人は辛いと思う。これは人間は世界に一人しかいないということです。
 そうすると、自分が生きていると思わなければならない義理は何処にあるのかと言いたいのです。義理を立てたら必ず損をすることになるのです。
 人間は死んだらすぐに地獄へ行くのではありません。死んだらまず黄泉(よみ)へ行くのです。地球が終わるまでの間は、黄泉でじっと寝ているのです。
 地球が終わってしまうと、地球上に生まれてきた七、八百億人という人間が全部生き返るのです。これが第一の復活です。この時に、救われるために生き返る者と、火の池に放り込まれるために生き返る者と両方あるのです。
 死んだままで地獄へ行くのなら楽でいいのです。夢うつつだから楽でいいのですが、そうはならないのです。今人間としてこの世に生きている間は、頭が悪いのです。物忘れをしたり、考え違いをしたり、言い間違いをしたりするのです。
 生きている間は勝手つんぼが通用するのです。死んで生き返りますと、考え違いや物忘れは完全になくなるのです。百四十億の脳細胞が復活するからです。
 そうすると、すばらしい聡明な頭になるのです。現在より何百倍ものすばらしい頭になるのです。迷いは一切なくなるのです。肉の迷いは一切なくなって、霊の世界へ入って、霊で復活するのです。
 霊で復活したのに思いが肉になっているのです。そこで困るのです。頭はすばらしく聡明になるのですから、今までの間違いが全部分かるのです。
 今までの七十年、八十年の人生のやりそこないが皆分かるのです。この状態で火の池へ放り込まれるのです。
 今の人間と、死んで復活した人とは全く違うのです。死んで生き返った皆様は、すばらしく頭が良い人間になっているのです。そうして、地獄へ放り込まれるのです。
 こんなことなら生きている間に神を信じたほうが良かったと思ってもだめです。火の池でしまった、しまったと思うのですが、後の祭りなのです。
 生きている間に悲しい、辛いと言っていますが、この自分をやめて、復活したイエスを受け取ったらいいのです。主観的な自分を捨てて、客観的な自分を受け取ったら、そのままイエスになってしまうのです。
 皆様の心臓が今動いています。これを自分の心臓が動いていると思わずに、イエスの心臓が動いていると考えたらいいのです。
 自分の目で見ていると考えずに、イエスの目で見ていると考えたらいいのです。そのように思ったらいいのです。何も難しくないのです。
 自分が生きているという気持ちが非常に悪いのです。これは自殺行為です。自分が生きていると思っているのは自殺しているのです。
 この気持ちを五分間でもいいからやめるのです。そうしたら、本当に気楽な気持ちになるのです。それを難しいと自分で思っている。その思いを捨てたらいいのです。
 自分の思いを自分で捨ててしまって、自分は生きていないと思うのです。
 皆様は今の状態でしたら、必ず死んでしまいます。死んだら必ず火の池へ行きます。これは絶対に間違いのないことです。
 イエスが復活したことによって、このことが明々白々になったのです。このことが歴史的に証明されているのです。人間が死んだら地獄へ行くことは決まっているのです。
 これが恐いのです。恐いからイエスの復活の命を自分のものにしたらいいのです。
 地球が終わってしまいますと、地球上に生まれた七、八百億の人間が、もう一度生き返るのです。そうして、神によって大審判を受けるのです。
 何百億人という人が神の前に並んで、一人ひとり神の審判を受けるのです。死んでもう一度復活すると、以前よりも頭が何百倍も良くなるので、生きていた時の記憶が全部甦るのです。
 七十年、八十年の記憶を全部思い出すのです。その時に、自分の思いを捨てて、イエスを受け取ろうとしてもだめです。
 自分の思いを捨てて、イエスの復活の命を受け入れるのは、現世にいる人間だけです。現世にいる間に勝負しなければいけないのです。
 現世にいる間に、自分は他人だということに気が付いたらいいのです。自分は他人です。自分で自分の人格を製造したことはないでしょう。
 生まれる前の霊魂が生まれた後になっているのです。生まれる前の霊魂は、神と一緒に生きていたのです。
 皆様は神の前に自分の命を置いたことがないのです。だから、自分の言い分、自分の感情が神の前でも取り上げられるという甘い気持ちが皆様にあるようです。これがいけないのです。
 今の人間は、なぜ天地自然があるのかということが分からないのです。こういう考え方は日本人にはないのです。大自然がなぜあるのか。大自然を見て何を感じるかということです。
 天然自然は非常に厳しい面と、穏やかな面とがあるのです。天然自然はおのずからが現われているのです。皆様はおのずからをもっと深く考えて頂きたいのです。
 皆様の命はおのずからのものであって、自分のものではないのです。人間がこの世に生まれてきたのはおのずからによるものです。
 おのずからとは何か。地球が存在するのはおのずからです。おのずからというのが、色々な形、色、知恵、知識になっている。論理構造になり、科学的な実在になって現われている。
 おのずからの命はおのずからのものです。みずからのものではないのです。みずからと考えていることを、おのずからに切り替えたらいいのです。そうしたら楽になるのです。
 命を自分の命として自分が生きていると、必ず死んでしまいます。自分の命はないのです。地球が存在することが、そのままおのずからの命です。地球が存在している命に同化したらいいのです。
 自分の命と天然自然のあり方が一つになってしまったらいいのです。
 女性のボディーラインは、おのずからの非常に和やかな面が出ているのです。おのずからに同化してしまうのです。そうすると死なない命の色々な在り方が分かってくるのです。
 難しく考えなくてもいいのです。考え方のスケールが小さいからいけない。もっと大きく考えて頂きたいのです。地球がなぜ存在するかということを考える頭になって頂きたいのです。皆様の命は地球から出てきているのです。
 この世の中は幻です。男はなかなか現世が幻だという実感が与えられにくいのですが、女性はそういう実感を持てるのです。
 女の人が現世が幻に見えるというのは、有難いことです。これは女の特長です。男は現世が実物に思えてしようがないのです。五十年生きてきた。六十年生きてきたということが、実物のように思えてしようがないのです。皆様がこの世で今まで生きてきたのは、そのまま幻です。
 
 聖書に次のようにあります。
 「見よ、あなたは私の日をつかのまとされました。
 私の一生はあなたの前では無にひとしいのです。
 まことに、すべての人はその盛んな時でも
 息にすぎません。
 まことに人は影のように、さまよいます。
 まことに彼らはむなしいことのために
 騒ぎまわるのです」(詩篇39・5、6)。
 
 人は盛んな時でも、ただ鼻から息をしているだけだと言っているのです。自分に力があるとか、知恵があるとかいうけれども、ただ息をしているだけにすぎないと言っているのです。
 神から見た人間は影のようにさまよっているのです。神と同じような見方ができたら、神を信じることができるのです。神が人間を見ているのと同じような見方ができたら、神を信じているのです。
 自分が生きていることが幻のように考えられるとはっきり言えなくても、大体そういう気持ちが持てるとしたら、その人は神がだんだん分かってきているのです。
 人間は自分が生まれたいと思って生まれたのではない。従って、自分の命があるのではない。自分が生まれたいと思って生まれたのなら、命は自分のものかもしれませんが、自分が生まれたいと思わないのですから、命は自分のものではないに決まっているのです。
 時間とは何か。時間は約束によって発生しているのです。地球に未来が発生した。そこで地球に時間が発生したのです。もし地球に未来が発生しなければ、時間は必要がないのです。
 未来が発生したのは約束によるのです。神は新しい地球、新しい人間ができることを約束したのです。地球が完成する、人間が完成することを約束したのです。
 旧約というのは古い約束です。新約というのは新しい約束です。約束が宇宙に発生したのです。奇妙なものが発生したのです。
 約束があらゆる存在の原理です。物が存在することの原理が約束です。約束によって時間が発生したのです。
 未来ができた時に時間が発生したのです。未来が発生しなければ、時間の観念は一切発生しないのです。
 地球に未来があるのです。大宇宙に未来があるのは地球だけです。銀河系の何処にも未来がある星はありません。アンドロメダ星雲とか、カニ星雲とか、色々な星雲が宇宙にありますけれど、未来がある星は地球以外にはないのです。
 宿命、天命、運命と言います。運命も宿命も本質的には同じものです。宿命は客観的な条件が相当あるようです。運命という言葉を使う時には、主観的なものになります。自分の立場からだけ考えたら運命になりますが、他人から考えたら宿命になるのです。
 天命というのは、宿命も運命も両方ひっくるめた言い方になります。天命というのはおのずからの命です。
 地球は天命によって存在しているのです。天然がおのずからであって、天然が自然になって現われているのです。
 天然と人間が一つになる。天然の中に人間の生活がある。これが千年王国、キリスト王国です。天然の中に人間が住み込んでしまうのです。
 神の永遠の中へ人間の命が入り込んで生きるのです。この時初めて、人間は命の本当のあり方を味わうことができるのです。これが千年王国の状態です。
 私たちの目的は、千年王国を実現することなのです。
 イエスが復活したのは、地球の将来を予告したのです。今の日本人はそういう角度で見ることができないのです。実に小さいことを考えているのです。常識を超えてもっと大きい気持ちを持って頂きたいのです。
 今までの人間の経験はしれたものです。永遠を経験した者の言うことを信じた方が得です。これがイエスの見方です。私はイエスの見方の真似をしているのです。
 現世での八十年、九十年の経験は何になるのでしょうか。もし人間が無人島に一人住んでいたら、自分が良くなろうとか、自分が得をしようとか、道徳とか、常識とか、商売とか、権利、義務はなくなってしまうのです。こうなったらいいのです。
 現在、皆様は都会に生きていますから、自分の家族がある。自分の商売があると思うのです。
 ところが、命は自分のものではないのです。だから、自分で命を伸縮することはできないのです。そうして、大自然の中に住んでいる自分を見たらいいのです。
​               (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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