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                    「背任横領罪」
 
 日本人は正しい意味での世界観を持っていないのです。社会制度はありましたけれど、これは他の国から取り入れたものを模倣していただけです。
 聖徳太子の十七条の憲法も中国の制度を取り入れて、仏教的に焼き直しただけです。日本の社会制度や法制度は皆外国から取り入れたものです。日本独自のものは一つもないのです。
 明治維新も同様です。西洋の制度の真似をしただけなのです。
 日本民族は哲学のない民族です。生活だけしかないのです。日本人の皆様はそういう悪いところがあるのです。これをよく心得て頂きたいのです。
 まず自分の悪さを知ることが本当に必要です。日本民族は目的を持っていない民族です。ひどい民族です。
 歪んでいるけれども、はっきり目的を持っているのはユダヤ民族だけです。ユダヤ人以外の民族は皆目的を持っていない民族です。生きていながら、その意味が分からない人間ばかりです。
 日本民族は世界の最低民族ですが、最低の民族の中の私たちに最高の福音が与えられたのです。これは本当に不思議なことです。
 世界の最低民族の私たちに、ユダヤ民族にも分からない、アブラハムの約束の驚くべき真髄を、神が示してくださったのです。
 アブラハムの約束というのは、永遠の命の実体です。これさえ分かれば死ななくなるのです。
 アブラハムの約束というのは、空という言葉の実質です。般若心経に空という言葉はありますけれど、実質の説明はないのです。
 般若心経の空という言葉は、アブラハムの約束を意味するのです。ですから、空はすばらしく偉大なことなのです。これは仏教では説明ができないのです。空の説明ができるお坊さんは日本には一人もいないのです。
 聖書を勉強しなければ空という言葉の内容は分かりません。これが命の基礎になるのです。
 世界の歴史の根源とは何か。地球がなぜあるのか。人間はなぜ生きているのか。社会構造とはどういうものか。こういうことが分かったら死ななくなるのです。
 今までの皆様の世界観、人生観は皆間違っているのです。この世に生まれてきたのが自分の命だと思っているでしょう。これは必ず死んでしまう命です。
 この世に生まれてきた命が自分の命だと思っている命の見方は、一○○%死んでしまう命です。
 最近の日本は経済的に成長して世界第三の経済大国になりましたので、日本人は有頂天になっているようですが、世界観、価値観に対する意識が低級です。
 皆様はこの世に生まれたことを本気になって信じたらだめです。この世に生まれたのは、試みに人間生活をテストさせられているだけです。
 何十年間かこの世に生きていて、本当の命を見つけるか見つけないかということを、神が試験しているのです。
 毎日生きている間に、食べるものの味わい方、物の見方、考え方によって、分かる人には分かるのです。命の本質とはこういうものかということが分かるのです。これが分かった人だけが、永遠の命を与えられるのです。分からない人は全員火の池へ放り込まれるのです。
 この世に生まれた命を本当の命だと思ったらいけないのです。死んでしまうに決まっている命を、自分の命だと思わないことです。これが一番必要なことです。
 生きていることに対する皆様の考え方が間違っているのです。皆様は聖書の内容の説明を聞くというよりも、なぜ聖書を勉強しなければならないのかということの勉強の方が大切です。
 聖書の勉強をする前に、なぜ聖書を勉強しなければならないかを勉強する必要があるのです。今の人間はどのように間違っているかということを、まず知る必要があるのです。こういうことを知らないままで、いくら聖書を勉強してもだめなのです。
 なぜ聖書を勉強しなければならないのかということを、勉強しなければいけないのです。これが分かってから聖書を勉強するとよく分かるのです。
 日本人の場合には特にこれが必要です。皆様が現世に生まれてきたことが間違っているのです。この命は本当の命ではないのです。
 生まれてきたと思っていることが間違っているのです。これは仮に命を与えられたのです。命をどのように扱うかということを見るために、仮に命を貸してもらったのです。
 このことはタラントの命を貸し与えてもらったものとして、はっきり書いているのです(マタイによる福音書25・14~30)。
 皆様は仮に命を貸してもらっているのです。その命をどのように扱うかによって、皆様の永遠の運命が決定されるのです。
 今の皆様の命は借り物です。借り物の命を自分の命のように扱っている。だから、皆死んでしまうのです。借り物を借り物のように扱った人は救われるのです。
 借り物を自分の物のように扱った人は死んでしまいます。そうして、刑罰を受けることになるのです。
 今の人間が死んでしまうのは当たり前です。借り物を自分の物として扱っているからです。これは背任横領になるのです。背信行為です。
 命を貸した人は、その人を信頼して預けたのです。そうして、その命をどのように扱うかを見ているのです。神は私たちを信頼して命を預けている。私たちはそれを幸いにして、自分の思うように扱っているのです。命を泥棒しているのです。
 預けられた物を自分の物として扱っていますから、背任横領罪になるのです。こういうことを真面目に考えて頂きたいのです。
 株式会社は株主に責任があるのです。そのように命を預けられた者は、預けた神に対して責任があるのです。社長が会社のお金を自分の都合で勝手に使ったら背任横領罪になるのです。
 それと同じことを人間は自分の命に対してしているのです。
 天皇の位は天皇のものではありません。これは世界的にすばらしいものです。それを日本的にしか見ることができないのです。やがて、天皇制は日本のものではないことが分かる時が来るのです。そうすると、本当の世界平和が訪れるのです。
 聖書に、「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た」とあります(ヨハネによる福音書1・9)。これはユダヤ人だけではなくて、すべての人間を指しているのです。
 誠の光というのは、肉体的に生きている人間に対して、肉体的に生きているのと同じ条件で現われたのです。
 この光が世に来たのです。これは仏教でいう阿弥陀如来とは全然違うのです。阿弥陀如来は誠の光があって世に来たのではないのです。
 仏典には西方極楽浄土に阿弥陀如来がいると言っています。これは阿弥陀経に書いているのです。人間社会から離れた十万億土の果てに、阿弥陀如来の国がある。そこに、阿弥陀如来がいると書いているのです。しかし、これは実体的なことではないのです
 聖書にすべての人を照らす誠の光があって、世に来たというのは、すべての人間が生きている状態をそのまま照らしているという意味です。そうして、すべての人が生きている状態が、そのまま照らすものと同じだということになるのです。
 この点が阿弥陀如来と全然違うのです。イエスは人間と同じ肉体を持って来たのです。イエスと私たちとは、同じ肉体の持ち方をしているのです。肉体を持っているという点だけを考えますと、イエスと私たちとは寸分の違いもないのです。ただ思い方が違っているだけです。
 肉体的に生きているという点だけを取り上げてみますと、イエスと皆様とは少しも違わないのです。
 ところが、普通の人間は自分が生きていると思い込んでいるのです。これが死んでしまう原因になるのです。日本人であるとか、固有名詞の人間であるという考えが間違っているのです。
 自分が生きているという気持ちがなくなってしまったら、日本人であるという意識もなくなってしまうでしょう。自分という意識がなくなれば、肉体的に生きているということと、イエスが生きていたこととは全く同じことになるのです。ただ自分が生きているという認識だけが間違っているのです。
 自分が生きているという気持ちさえ撤回してしまうと、イエスと同じになるのです。己を捨てる、自分が生きているという認識だけを捨ててしまうと、皆様は死なない命が分かるのです。
 自我意識はこの世の人間に神が与えた最も辛辣な罪、誤りです。誤解です。自分が生きていると思う意識を人間に与えたことが、最も辛辣な試みです。
 自分が生きているという気持ちさえ捨てたらいいのです。これだけでいいのです。
 今皆様が肉体的に生きているということは、客観的に生きているのです。これは死なない自分です。これが霊魂です。自分ではなくて霊魂です。霊魂が人格的に、肉体的に生きているのです。
 肉体的に、人格が生きているということが、死なない自分の本体です。これだけになったらいいのです。そうすると、心配事とか、病気とか、精神的な行き詰まり、悪い癖は皆消えてしまうのです。気が短いとか、精神的な臆病さは皆消えてしまうのです。
 自分が生きていると思うから、苦しみ、悩み、悲しみがあるのです。自分がいなければそういうことは一切なくなってしまうのです。個人的な癖も一切消えてしまうのです。
 自分が生きているという思いを捨てても、生活のあり方は少しも変わらないのです。思い煩いがなくなるから却って楽しいのです。嬉しくなるのです。肉体的に生きている状態を、卑下する必要は全くないのです。
 性欲でさえも本質が変わってしまうのです。聖書には性欲という言葉はありません。情欲と言っていますが、情欲の本質が変わってしまうのです。情欲ではないものになってしまうのです。
 人間の本能性は欲ではありません。本能性が欲望だというのは、学者が勝手に言っている説です。本能性は生まれる前からのものです。生まれる前というのは先天性です。先天性の本能が後天性の欲望であるはずがないのです。
 先天性の本能を持っていながら、後天性の欲望を持って抱いている。だから、皆罪になるのです。これが地獄になるのです。ばかなことをしているのです。
 誠の光であるイエスが現われて、人間はどのように生きたらいいのかという模範を示したのです。だから、イエスも小便をしたのです。私たちと同じ生理機能を持っていたので当然小便をしたのです。
 イエスは仏教でいう如来ではないのです。普通の人間でしたが、仏さんでもできないことをしたのです。宗教の仏さんは人間が造った作り話です。
 十万億土の彼方に阿弥陀如来がいるというのはお伽噺です。織田、豊臣時代には、これを信じる人が日本中にたくさんいたのです。
 阿弥陀如来を信じれば死んでから仏国浄土へ行けるという後生安楽の思想が広がったのです。生きている間はご主人に仕えなければならないけれど、死んでからは阿弥陀如来の国に行けるという思想に侍が飛びついたのです。家康の家来の三分の二程の武士がそれを信じたのです。家康は困ってしまったのですが、家康自身も、「厭離穢土欣求浄土」という旗を立てて戦いをすることになったのです。そこで武士たちは家康についていったのです。
 西方極楽浄土に阿弥陀如来がいるということが嘘です。西方十万億土の彼方に極楽浄土があると言いますが、これは無限に遠い所にあるという意味です。
 今人間が住んでいる所から見れば、十万億土という遠い距離にあるのです。永遠というのは距離があるということです。そこに仏国浄土があるのです。
 ところが、自分が生きているという思いさえ捨ててしまえば、すぐに阿弥陀如来の命になるのです。
 阿弥陀如来というのは譬え話です。イエスはすべての人を照らす誠の光です。これが世に来たというのは、人間として現われたという意味です。阿弥陀如来と同じ者が、十億万土の彼方からこの世に出て来たのです。これがイエスです。
 イエスと皆様との違いは何かと言いますと、イエスは自分が生きているとは思わなかったということです。神の命が自分にあると思ったのです。ここが違うのです。
 皆様も、神の命が今働いていると思ったらいいだけのことです。命は自分のものではないと思ったらいいのです。
 これがなぜ難しいのでしょうか。皆様のように頭がいい人がなぜ難しいと思えるのでしょうか。
 命は皆様のものではありません。もし命が皆様のものなら、死にたくないのに死ななければならないということが、あるはずがないのです。
 命は皆様のものではない。命は神のものです。このことを教えるために、もろもろの人を照らす誠の光が、人間としてやってきたのです。
 自分が生きているという気持ちさえ捨てたらいいのです。自分の気持ちを持ったままで、イエスの命を持つことはできないのです。
 自分は生きていない。梨を食べたら梨の味がする。柿を食べたら柿の味がします。この味は自然の味、神が付けた味です。神が付けた味を、神が付けたとおりに皆様は味わうことができるのです。これは皆様の味の感覚が神の味を知っているということです。
 皆様の舌は神の命をそのまま生きているのです。神の命が皆様の舌にあるのです。
 景色も神が造ったものです。皆様はそれをきれいだと思えるのです。神の業が皆様によく分かるのです。
 大自然の景色はどこまでも神の景色です。神が造った天然です。これが皆様には分かるのです。それが死なない命です。
 神が造った景色が分かるということは、皆様の中にある五官で分かるのです。これが死なない命です。実は、五官が死なない命の実体です。皆様は死なない命を持っていながらなぜ死ぬと思うのでしょうか。
 景色を見て本当にきれいだと思える自分が誠の自分です。この自分は皆様がこの世に生まれてできたものではない。生まれる前からある人間の本能性です。これによって見ているのです。
 人間の本能性によらなければ、景色がきれいだということは分からないのです。皆様の本能性はそのままイエスです。これを信じたらいいのです。
 難しいと思う必要はないのです。景色がきれいだと思っている自分と、自分が生きていると思っている自分とは違うのです。
 自分が生きていると思う自分は自我意識です。自我意識と、景色を見てきれいだと思う自分とは違います。
 景色を見てきれいだと思うのは、天然自然の自分です。天然自然を見てきれいだと思えるのは死なない自分です。天然の自分です。天然の自分に帰ったらいいのです。
 天然の自分ではなくて、この世の自分を自分だと思うことがいけないのです。
 この世の自分は死んでしまう自分です。この自分を自分だと思うことをやめたらいいのです。
 天然の自分、生まれる前の自分を自分とするのです。生まれる前の自分が天然の自分です。天然の自分は死なない自分です。
 この世に生まれてきた自分は業(ごう)の自分です。業の自分をなぜ信じるのでしょうか。業の自分を捨てて、天然の自分を見たらいいのです。
 梨を食べておいしいと思う自分、景色を見て美しいと思う自分が本当の自分です。皆様は天然の自分を毎日毎日経験していながら、なぜ死んでしまう自分に執着するのでしょうか。
 この世に生まれた自分は幻の自分です。この世に生まれたことが幻です。この世に生きている皆様は幻です。幻の自分を自分だと思っているから死ぬのです。これは当たり前のことです。
 美しい景色を見たいというのは天然の自分です。また、それを見て感動しているのも天然の自分です。
 美しい景色を見ることを観光と言います。光を見に行くのです。光というのは生まれる前の命を指すのです。
 すべての人を照らす誠の光とはこのことです。光がイエスです。これが皆様の中にあるのです。
 皆様の魂が求めているのは、光を求めているのです。光とは何かと言いますと、生まれる前に魂が一緒にいたものです。生まれる前の皆様の魂が景色を見ていたのです。だから、その美しさが分かるのです。
 美しい景色を見たいと思うのは、自分の命を確かめたいと思うからです。自分の命の本当の姿を見たいと思うのです。
 すべての人を照らす誠の光を、黙って受け取ったらいいのです。ところが受け取ろうとしない。この世に生まれきた自分に執着しているからです。
 自分が生きていると思う気持ちが自我意識です。自我意識に執着することをやめるのです。そうすると、今までの自分の考え方が変わってしまうのです。奥さんに対する考えが変わってしまうのです。性欲の対象ではなくて、女の真髄が見えてくるのです。
 女であることに価値があるのです。そうすると、奥さんが観音さんになるのです。女が造られたままの女、骨の骨の女が観音さんになっているのです。
 霊的に女を見ると、観音さんに見えるのです。こういう見方が当たり前です。今の皆様ではそういう見方ができないでしょう。この世に生まれた自分が頑張っているからです。
 この世に生まれた自分を捨ててしまうのです。命は自分のものだという気持ちを捨ててしまうのです。そうすると、男であるという自分、天然自然の自分が見えてくるのです。
 男であるという純粋の魂が、女であるという純粋の魂を見るのです。そうしたら、本当の愛が分かるのです。

      (内容は梶原和義先生の著書からの引用)

 
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