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                      「負け犬思想」
 
 今の人間は死ななければならないと思いながら生きているのです。これは負けるに決まっている戦争をしているようなものです。負け犬思想です。敗北思想です。
 私たちの勉強会を通して、死ななくてもよい人間存在があるということ、人間は必ずしも死ぬに決まっているのではないということを学んで頂きたいのです。そういう人生になって頂きたいと思うのです。
 死ななければならないが、しょうがないから生きている。これは全くの負け犬思想です。人間は負け犬であってはいけないのです。死ななければならないと考える必要はないのです。
 
 イエスは、「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・25、26)。
 また、「私は天から下ってきた生きたパンである。私を食べる者は、いつまでも生きるであろう」と言っているのです(同6・50、51)。
 
 釈尊はこういう言い方をしていませんが、彼は人間の生活が空であると言っているのです。イエスは、「私を見る者は命の実質を見ているのだ」と言っているのです。
 イエスは、私を信じる者は絶対に死なないと言った証拠に、死から甦ったのです。復活したのです。死を破ったのです。イエスはそう言っただけでなく、事実死を破ったのです。
 一ヶ月に四回日曜日がありますが、日曜日というのはイエスの復活を記念する日です。イエスの甦りを記念するのが日曜日でありまして、今は全世界の人間が、好むと好まざるとに係わらず、知ると知らざるとに係わらず、日曜日に休んでいるのです。イエスの復活記念日を守るという習慣を与えられているのです。
 これは歴史的必然性です。このような歴史的必然性がどうして発生したのか。イエスの復活なんか私は関係ないと言ったところで、イエスの復活記念日を休んでいるのです。全世界の人間はほとんど日曜日に休むという習慣をつけられているのです。
 このように人間文明はイエスの復活を記念するという習慣を持ってしまっているという事実があるのです。これは人間歴史の中に、人間が知らないことが存在していることを意味しているのです。
 文明の底に流れている必然性をよく考えますと、皆様は死ななくてもよい人生があることを承知することができるのです。
 死ぬことが、ただ現世から去っていくということだけなら大したことではないかもしれませんが、そうではないのです。人間の命とは何かということを知らないままで生きている人は、命の本質が分かっていないから死んでいくのです。
 死なねばならない、死なねばならないと思って生きている人は、実は人間の命の本質が分かっていないから、そのような生き方をしているのです。
 命の本質を知らないままで生きていますと、その人の人生は無駄に生きていたことになるのです。
 人間は人間の尊厳を持って生きています。犬や猫のような生き方ではなくて、人間として生きていたという事実があるのです。人間のように生きていながら、人間の本質を知らないで生きていた。これはけしからんことです。
 人間面をして生きていながら、人間としての正しい認識を持たずに生きていた。これはその人の一生を冒涜していた、汚していたことになるのです。
 人間は万物の霊長としてこの世に生まれてきているのです。従って、万物の霊長としての責任を自覚しなければならないのです。これは当然のことです。
 人間は犬や猫のように這いつくばって餌を食べるような生活をしていません。人間は人間らしい食べ方をしているのです。
 そのように自尊心を持って尊厳的に生きているということは、それだけの責任を感じなければならないことを意味するのです。
 ところが、今の日本人は全くけしからん生き方をしているのです。人間らしい生き方をしている人は、一人もいないと言ってもいいのです。でたらめに生きているのです。こういう人は死んでから大変な罰金を取られることになるのです。
 死の意味を知らず、生の意味も知らずに、ただ漫然として現世の生活を楽しんでいる。こういう生き方は全く間違っているのです。
 死にたくないと考えること自体が、死を恐れていることなのですが、なぜ人間は死を恐れているのかということを、その人の魂は知っているのです。死んだ後に碌なことがないことを知っているのです。
 死んでしまえばそれまでだと考えている人が多いのですけれど、これは大変な間違いです。全くでたらめな考えです。
 顕在意識は死んだらしまいです。皆様の常識、知識は死んだらしまいです。ところが、皆様の潜在意識、皆様の魂は死んだらしまいではないのです。死んだらしまいではない。死ねないのです。
 人間の魂は宇宙の造化の主の生き写しです。天の神の生き写しです。造化の主が永遠に死なないように、人間の魂も永遠に死なないのです。これを霊魂不滅というのです。
 霊魂不滅だから恐ろしいのです。死んでしまえばそれまでということならいいのですが、潜在意識というものは死なないのです。他界するだけです。顕在意識と別れるだけです。
 潜在意識は他界して眠っているだけですが、やがて目を覚ますのです。そうなるのが当然のことです。
 目を覚ました後が恐いのです。人間でありながら人間とは何かということを考えないで生きていた。せっかく命を持っていながら、命の本質を弁えないでぼやっと生きているというのは、怠慢しごくです。
 人間が生きているというのは、生命を経験していることです。生命の本質は生です。生存は生きている状態です。生活は手段です。生命と生存と生活の三つの生がありますが、今の人間は生活しか考えていないのです。
 今の文明はそういう間が抜けたものです。学問は非常に間が抜けた考え方であって、生活の手段しか考えていないのです。
 今の人間は生活のことだけしか考えていないのです。そういう間が抜けたことをしていますから、人間の魂には真っ向から厳しい裁きが行われることになるのです。
 人間の霊魂は不滅です。死なないのです。死んでいかないのです。人間が現世で経験した記憶は、永久になくならないのです。そこで、人間はどのように生きたらいいのかということを、どうしても考えなければならない本質的な責任があるのです。
 人間文明は生活を豊かにすることを考えているのです。これは欧米人の考えです。文明のことを英語ではcivilizationと言います。これは市民の生活という意味になるのです。
 ところが、文明という言葉を東洋で考えますと、生きているという事がらを明らかにすることです。大自然と人間との関係を明らかにすることです。
 文というのは綾模様という意味です。文という一字だけで森羅万象のあり方、森羅万象の曼陀羅のような意味を持っているのです。
 江戸時代の俳人、山口素堂の句に、「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」とあります。「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり」という道元禅師の歌もあります。
 このような大自然の動きというものが、綾模様です。大自然の命と、人間の生命とは非常に大きい関係があるのです。
 皆様は自分の命を生きているのではありません。宇宙の命を生きているのです。大自然の生命がそのまま皆様個々の人間に分かれて、皆様は生きているのです。
 犬や猫が生きているのも、皆様が生きているのも同じ命に生きているのです。桜の花が咲いているのも、サツキの花が咲いているのも、皆様の命に関係があるのです。
 皆様一人ひとりに個別の命があるのではない。加藤さんの命、田中さんの命、山田さんの命があるのではありません。宇宙にある大生命はただ一つです。その命が個々の人間に分脈してあるのです。そういう状態が命です。
 そこで、皆様が大自然の命はどういうものかということを見極めさえすれば、死ななくなるのです。皆様は大自然の真ん中で生きているのですから、大自然の命とはどういうものかということを突き止めさえすれば、皆様は死ななくなるのです。
 イエスはこれを実行したのです。そうして復活したのです。イエスの復活ということは、歴史的事実です。
 今年は2017年です。イエスが生まれたことが、新しい歴史の紀元になったのです。また、日曜日があるということは、イエスの復活を記念しているのです。
 皆様は宇宙の大生命を弁えて、死を破った人物の歴史的な必要性において生きているのです。それなのに、死ななければならないと考えている。これは全く間が抜けた考えなのです。
 そこで、般若心経と聖書を学んで頂きたいのです。こういう言い方は押し売りになるかもしれませんが、それでもいいでしょう。皆様は死ぬことを思えば、押し売りされるくらいのことは我慢して頂きたいのです。皆様が死ぬか生きるかの大問題ですから、それくらいは我慢して頂きたいのです。
 今の政治家、今の学者は皆様の命には全然責任を持っていません。皆生活のことだけを考えているのです。生活と生命とは違うのです。
 政治や社会が皆様の責任を持ってくれるのでしょうか。生命のことは自分で考えなければならないのです。これが人間の責任です。現在皆様は大自然の命で生きているのですから、大自然の命のあり方さえ弁えさえすれば、死なない命が分かるのです。
 皆様はせっかく現世に生まれて生きていながら、死ななければならないと考えている。めそめそと死んでいく。こんなばかな人生はありません。
 私は死ななくても良い命を経験しているのです。経験している以上、皆様が死んでいくことを見過ごしにできないのです。人々が死んでいくのを見過ごしにできないので、こうして皆様にお話ししているのです。人間は死ぬべきものではない。イエスが復活した事実をしっかり検討したら、人間が死なないものだということがはっきり分かるのです。
 私はキリスト教の話をしているのではありません。キリスト教はこういうはっきりしたことを言いません。人間は必ず死ぬものだということがキリスト教の考え方だからです。
 キリスト教は宗教の宣伝をしているのです。私はイエスが復活したという歴史的事実を皆様にお話ししているのです。
 日本のキリスト教は皆間違っています。皆宗教教義を述べているからです。
 日本で般若心経を信じている人はたくさんいます。皆様の中にも般若心経を毎日唱えている人がいるかもしれません。
 般若心経を読んでいる人はたくさんいますが、五蘊皆空という事実を弁えている人はほとんどいないでしょう。めったにいないでしょう。
 なぜこんなことになっているのかと言いますと、般若心経が仏教の経典だと思っているから、まともに信じなくてもいいと考えているのです。
 般若心経を写経している人はたくさんいます。ある奈良のお寺では、般若心経を写経して千円を付けて送るとご利益があると言います。
 百万の人から千円を集めますと十億円儲かるのです。今まで六百万人以上の人から、写経をして千円を同封して送ってもらっていますから、六十億円以上儲かったことになるのです。
 般若心経を写経してもだめです。その内容の意味がはっきり分からなければ、何の意味もないのです。お寺は儲かりますが、写経をして送っている人には何のプラスもないのです。
 五蘊皆空というのは事実です。皆様の常識や知識は空っぽです。人間の常識や知識は死んでからは通用しません。
 私たちは死んでからも通用するような考え方を学ぶ必要があるのです。現世と来世とを貫く考え方をする必要があるのです。
 私たちには生まれる前の生、前世があったのです。そして、現世があるのです。この世を去った後には来世があるのです。三世の全体が人生です。
 こういう見方で人生を考えれば、本当の命が分かってくるのです。
 イエスは「何処から来て何処へ行くのかを知っている」と言っているのです。皆様はそれをご存じでしょうか。皆様が落ち着いて現在生きている命の実体をよく見れば分かるのです。
 青葉の青さ、若葉の匂い、鳥の声、花の香りをよく見れば、大自然の命の実体が分かるのです。死なない命の実体が分かるのです。永遠の生命の事実が分かるのです。
 今の皆様は目が見え、聞いたり食べたりできます。そのように肉体的に生きていますけれど、物事の考え方が死んでいるのです。宇宙の命をはっきりと掴まえていません。これを死んでいるというのです。
 宗教というものには教義がありまして、それを教えているのです。教義を説明するのが宗教です。
 神道には神道の教義があります。キリスト教にはキリスト教の教義があります。仏教でも自力宗と他力宗とでは教義が違います。そのように教義を教えるのが宗教です。
 宗教家は本当の命を知りません。生とか死を扱うのは宗教ではないのです。生とか死を扱うのが本当の宗教であるべきですけれど、現在の日本の宗教にはそういうものを扱う宗教はありません。教義ばかりを扱っているのです。
 宗教は信者をつくることに一生懸命になっているのです。だから、耳が痛いことは言いません。私のように本当のことを言いません。私は本当のことを言いすぎるので人に嫌われるのです。
 本当のことを勉強しなければ、人間は本当の命が分かりません。私たちは冗談で生きているのではない。本当に生きているのです。
 皆様は生きている以上、命を知らなければならないのです。ところが、宗教を信じている人で、命とは何かを本当に知っている人は、一人もいないのです。
 宗教の教義ばかりを教えられているのです。なぜかと言いますと、人間は無明煩悩から生まれてきたのです。大乗起信論によりますと、人間は無明から生まれてきたのです。
 無明というのは十二因縁の基本的な思想です。小乗仏教は無明とか老死という十二因縁を説いています。人間は無明から出てきたと説いているのです。
 妄念が妄念を受け継いで、無限の無明に落ち込んでいる。これは大乗起信論の説です。そのように、人間は無明から生まれてきたのです。
 ずばり言いますと、人間がこの世に生まれるきっかけは、両親の性欲です。両親の性欲によって人間が生まれてきた。これが人間の煩悩です。親の煩悩によって子どもが生まれたのです。
 聖書の中で、「私の母は罪にありて私を孕んだ」とダビデが言っています。そのように、人間は無明煩悩から生まれてきたのです。無明煩悩によって育てられたのです。
 皆様の両親、また、世間一般の人はすべて無明の中で生きているのです。無名の中で生きていますから、命とは何かということが分からないのです。この状態が死んでいる状態です。精神的に死んでいるのです。
 だから、皆様は死なないようにと考えるよりも、命とは何かということを勉強すべきです。死んでから天国へ行く、死んでから極楽へ行くというのではなくて、現在目の黒いうちに、命とは何かということを勉強して頂きたいのです。
 現在の人間は生活のことばかりを考えていますが、この状態は無明なのです。無明煩悩の状態です。無明煩悩の状態が既に死んでいる状態です。だから、今のままで放っておいたら皆様は死んでいくのです。
 現在の人間の生き方は無明そのものです。でたらめです。全くでたらめです。今の学問、大学では人間の生命の本質を教えてくれません。それは学問が命を知らないからです。
 政治家はもちろん真理を知らないのです。そういう人々が国の政治をしているのです。国民全体が本当のことを知らないのです。国民全体が無宗教の状態です。無宗教の無自覚の状態であって、命を全く知ろうとしていないのです。
 命を知ろうとしていない精神状態が死んでいる状態になるのです。
 そこで、皆様は死を破るとはどういうことか、どうしたら死を破ることができるかということを考えて頂きたいのです。無明を破って本当のことを見出すためにどうしたらいいのか。命とは何であるのかということを勉強することが必要です。
 イエスは死を破ったのです。人間の歴史の底を流れている本質をよく考えて頂きたいのです。
 聖書に、「肉の思いは死である」とあります。肉体人間が考えていることは、すべて死であるとあります。肉体人間が考えている常識、知識は、すべて死であるとあります。本質的には人間は死んでいるという意味です。
 肉の思いは死です。この言葉がはっきり分かれば、そういう思いはだめだ、命を勉強しなければならないと考えるはずです。
 日本では人間の迷いが正しく捉えられていません。キリスト教は皆間違っているのです。イエス・キリストの復活をはっきり教えている教会は、日本にはありません。
 命は皆様の近くにあるのです。イエスが復活したことと、現在、皆様が大自然によって生きていることとは、密接な関係があるのですから、これを勉強して頂きたいと思います。
 皆様はせっかく生きているのですから、この命を活用して、命の本質を弁えるということをすれば、本当の命を必ず捉えることができるのです。
 今の人間は死んでいますから死が分からないのです。。命を知らない人間には、命の本当の意味が分からないのです。
 現在の人間は全く酔生夢死の状態です。夢の中で酔っぱらっているようなものですから、本当のことが分からないのです。
 本当の人生とは何かを掴まえて頂きたいのです。生きている人間の実体をはっきり見て頂きたいのです。
 宗教は人間を相手にして、現世の人間に気に入られるように説いているのです。これが宗教教団のあり方です。
 ところが、イエスは宗教が一番嫌いな人でした。宗教の悪さを徹底的に攻撃したのです。そのためにユダヤ教の人々と律法学者によって殺されたのです。
 宗教家は真理を述べる人を非常に嫌うのです。真理を説く者を必ず気違いだというに決まっているのです。
 私が述べていることは、私の思想ではありません。イエスの思想をそのまま述べているのです。だから、殺されかねないのです。日本は宗教に熱心な人がいませんから、私を殺す人がいないのです。
 日本の宗教は皆半死の宗教ばかりです。キリスト教も仏教も半分死んでいますから、私に反論してくる宗教家はいないのです。
 ところが、イエスの時代はそうではなかったのです。ユダヤは宗教国家です。イエスはその真ん中で宗教の悪口を言ったのです。ぼろくそに言ったのです。ユダヤ教のラビを掴まえて、悪魔の子だ、偽善者だと言ったので、とうとう殺されたのです。
 イエスは宗教家に殺されたのです。そのイエスを現在のキリスト教会はご開山として祀っているのです。宗教はこういうおかしなものです。
 もう一度イエスがやって来たら、キリスト教の人々を叱りつけるに決まっているのです。キリスト教はイエス・キリストの名によって商売をしているのです。
 
 「仏は法を売り、祖師は仏を売り、来世の僧は祖師を売る。汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、花は紅の色いろ香。池の面には月は夜な夜な通へども、濁さず影も止めず」という一休禅師の言葉があります。
 
 仏さんは宇宙の法を売っている。日蓮とか親鸞、道元、弘法大師、最澄とかいうお祖師さんは仏を売っているのです。末世の僧は祖師を売っているのです。
 一休禅師は私よりひどいことを言っているのです。私は売っているという言い方をしていません。私は宗教にも良い点があると考えています。法隆寺、金閣寺、東大寺等の優れた建築物は、それなりに価値があると考えています。国宝級や重要文化財が多数あるからです。
 もし仏教がなかったら、国宝級や重要文化財は存在しなかったからです。芸術的な面で尊敬すべき価値があると思うのです。
 仏教は天地創造を考えません。造化の主を仏教は考えないのです。地水火風、四大というのがありまして、これが組み合わさって地球ができているというのです。
 仏教は無始無終でありまして、初めもないし終わりもないというのです。万物が造られたものではなくて、初めからあった。終わりまであると考えているのです。
 科学では地球が誕生したことが証明できますし、地球がなくなることも証明できるのです。形あるものは必ず毀れるのです。
 地球はいつかなくなるのです。だから、人間も住めなくなるのです。国も滅びるし、社会もなくなるのです。人間も文明も跡形もなく消えてしまう時があるに決まっているのです。
 仏教は終末を考えないのです。弥勒という思想がありますが、これは終末論ではないのです。釈迦入滅後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現われて衆生を救うという思想で、地球の終末を意味するものではないのです。
 仏教には宇宙の原理となるべきもの、宇宙の大本となるべきものが存在していないのです。大日如来という思想がありますけれど、これは釈迦の死後はるかに後からできた思想です。釈尊が述べたものではないのです。
 これは密教の思想であって、顕教の方にはこういう思想はほとんどありません。毘盧遮那仏とか大日如来とかいうのは、造化の主とよく似たような所がありますけれど、聖書にある天地創造の神とは全然違います。
 地球が存在する以上は、地球が造られたということがなければならないのです。造られなければ現在存在するはずがないのです。原因がなければ結果が発生するはずがないのです。
 何らかの原因で造られたからこそ、地球が存在しているのです。存在している地球はやがてなくなるに決まっているのです。
 地球はなぜ存在しているのか。人間がなぜ造られたのか。仏教ではこれについて一切説明ができないのです。ここに仏教の欠陥があるのです。
 そこで、般若心経だけでは人生の本当の真理が分からないのです。般若心経の無という思想は非常に良い思想です。これは聖書にはない言い方です。
 般若心経の本来空という思想は非常に良い思想です。これは聖書にはない言い方です。
 般若心経の本来空というのは、非常に優れた思想です。五蘊皆空というのは本当のことです。現在の人間の常識も知識も、地球自身でさえも、やがて空になってしまうのです。これは厳然たる事実です。
 聖書にはそういう言い方をしていませんが、やがて地球が火で焼かれることを書いています(ペテロの第二の手紙3・10)。
 聖書は空という言い方をしていませんが、般若心経の空という言い方は、端的で日本人向きで非常に良いと思います。だから、般若心経を学ぶことは大いにいいと思います。
 般若心経を学ぶことは、仏教を学ぶことにはならないのです。般若心経は釈尊自身の悟りでありまして、彼は宗教家ではなかったのです。
 釈尊は今のお坊さんとは違います。彼は釈迦の皇太子でした。宗教的に素人です。イエスも素人です。イエスはナザレ村の大工の青年でした。
 大工の青年とか、皇太子という全くの素人が本当の真理を見つけて主張しているのです。だから、般若心経を仏教の経典と考えてはいけないのです。
 聖書をキリスト教の教本だと考えてはいけないのです。そういう考え方をしているから本当のことが分からないのです。
 仏典にないところが聖書にあるのです。般若心経と聖書の両方を勉強していきますと、本当のことが分かってくるのです。
 般若心経では五蘊皆空、色即是空と言っていますが、皆様が現在生きているという事実があるのです。地球が回っているという事実があるのです。これは空と言って、放っておけないのです。
 空ではない事実があるのです。お腹が空いたら食事をしたいということがあるのです。本来空と言っても、お腹が空いたということがあるのです。「悟りつつ 身はなき者と思えども 雪の降る日は寒くこそあれ」となるのです。
 人間存在が現存しているのです。これは五蘊皆空という言葉だけでごまかしてはおけないことなのです。
 空ではない実体が何処かになければならないのです。人間が現世に生活している状態が空であるとしても、空ではない実体が何処かになければならないのです。
 このことをイエスは神の国と言っているのです。神の国というのは人間の霊において感じることができる国です。
 皆様が現世に生まれてきました。男は男として生まれてきた。女は女として生まれてきたのです。これは誰のせいでしょうか。
 皆様は生まれたいと思って生まれたのではありません。また、死にたいと思って死ぬのではありません。生まれてきたとか死んでいくという事実があるのです。こういうことを誰が支配しているのでしょうか。
 人間にはどうにもならない事実があるのです。このことを聖書は神と言っているのです。神が嫌なら絶対と言ったらいいでしょう。こういうものがあるのです。
 地球は自転しながら公転しているのです。これは人間が回しているのではないのです。これは本来空と言ってすまされることではないのです。
 地球が回っている原理を何処に見出すかです。これは科学でも説明ができません。哲学でも説明ができません。聖書を見なければしょうがないのです。天地創造の原理は、聖書を見なければ絶対に分かりません。
 人間創造の原理は聖書にしか書いていないのです。そこで、般若心経の空を前編として、聖書の神を後編とするのです。釈尊を前編とし、イエスを後編として学ぶのです。そうすると、人間存在の本当の価値が分かるのです。
​              (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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