top of page
                    「神は未完成である」
 
 日本人は神の約束ということを知らないのです。これは日本人だけではなくて、アメリカ人でもイギリス人でも、ユダヤ人以外の民族は、神との約束に係わりがないのです。
 ところが、日本人は極端に聖書に対して拒絶反応を持っているのですが、これがおかしいのです。日本は地理的に他の国から独立していたために、中国や朝鮮から文物は入ってきましたけれど、文化としての影響はあまり受けていなかったのです。
 文物は受け入れたのですが、心理的な文化は入ってこなかったのです。儒教や仏教はなじみやすいものがあるので、日本人は割合に感化されやすい状況にあったのではないかと思われるのです。
 聖書は一般の文化とは違うのです。キリスト教は本当の聖書の内容とは違います。それでも、神の約束とかキリストと言いますので、ヘレニズムで想像できるものなのです。
 キリスト教社会では本当の聖書は存在していないのです。本当の命を掴まえることになりますと、本当のヘブライズにならないと分からないのです。
 どの角度から聖書に入っていったらいいのか。どの角度から入っていってもいいのですけれど、概略的に申しますと、霊ということと、肉ということになるのです。
 これはキリスト教の教義的な語法ですが、聖書にも霊と肉という言葉があるのです。哲学にはこういう言い方はありません。
 ドイツ観念論とか、イギリスの経験論は肉のことばかりを考えていて、霊ということは全くありません。霊に触れることができないのです。
 これがヘレニズムの人間の持つ特長です。今の学問は本質的に皆ヘレニズムばかりです。ギリシャ哲学の流れです。
 霊というのは上という意味です。天と言ったら分かりやすいかもしれません。天というと目に見える空のことかと思われるかもしれません。上というと上下の上と思われるかもしれません。
 聖書が言っている上というのは、本質的には霊のことを言っているのです。聖書に「新に生まれる」という言葉がありますが(ヨハネによる福音書3・3)、これは上から生まれるという意味です。
 上から生まれるという生まれ方は、自分の意志によって生まれるという意味です。これが新に生まれるということです。
 
 イエスは言っています。
 「よくよくあなたに言っておく。誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(同3・5)。
 神の国ということが霊になるのです。上から生まれなければ神の国が分からないのです。
 皆様が死なない命を見つけると、神の国が分かるのです。例えば、花が咲いているというのは命が咲いているのです。これが神の国を現わしているのです。
 生まれるという動詞は主語がいるのです。主語がなければ生まれるという言葉が使えないのです。私という人間が主体になって、新に生まれるのです。この場合には、主語となるべき人格の意志が働かなければならないのです。
 世界中の人に言えることですが、自分の意志によって生まれた人は一人もいないのです。生まれさせられた状態を生まれたと言っているのです。
 これは聖書的に言いますと、間違っているのです。生まれたという言葉が正当に用いられるような生まれ方を、人間はしていないのです。自分の意志に全然関係なく生まれているからです。
 人間は他者の意志によって生まれているのですから、人間の人生は本質的に自分のものではないのです。本質的に自分のものではないものを、人間は送らせられているのです。そういう人生を経験させられているのです。自分の人生を経験しているのではないのです。
 自分の主体となるべき人格が確立されないままで、何となく五十年、六十年生きていたということなのです。この点をまず気付いて頂きたいのです。
 釈尊は自分が今まで生きていたことの間違いをはっきり悟って、自分の考えは空であったと喝破したのです。
 皆様は自分が生まれたという言葉を何となく使っています。これは文明の概念が基本的に間違っているということを意味しているのです。
 人間は知らず知らずのうちに、文明の概念によって魂が束縛されているのです。自分が生まれたのではないのにも係わらず、生まれたという言葉を使っています。生まれた覚えがないのに生まれたと言っているのです。
 死ぬということも同じです。死んでいくと言いましても、死んでいく当人は知らないのです。
 以前に、京都大学で神霊科学の研究をしていたグループがありましたが、当時その研究に参加していた助教授が、朝、バスに乗っていたところ、そのバスが市電と正面衝突したのです。運転手のすぐ後ろにいた助教授も即死したのです。
 そのことが学校に分かったので、早速神霊科学の対象にして助教授を呼び出したのです。「先生、今どこにおられますか」と聞いたところ、「バスに乗っているよ」と答えたのです。「なぜバスに乗っているのですか」と聞くと、「学校へ出勤するためにバスに乗っている」と答えたのです。
 助教授は死んだことを知らないのです。人間は生まれたことも死んだことも分からないのです。親が冬の寒い日に生まれたと言いますが、生まれた本人はそんなことは知らないのです。知らない間に生まれているのです。
 死ぬということも同様です。本人が意識しない間にこの世を去ってしまうのです。
 人間は現在生きていると言いますけれど、本当の命を知らないのです。
 
 こういう人間を聖書はどのように扱っているかと言いますと、次のように書いています。
 「見よ、あなたは私の日をつかのまとされました。
 私の一生はあなたの前では無に等しいのです。
 まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。
 まことに人は影のように、さまよいます」(詩篇39・5、6)。
 
 人間が生きているということは息にすぎないのです。人間が生きていることは、ただ息をしているだけなのです。鼻から息をしているだけなのです。命、命と言いますけれど、人間の命は鼻から息をしているにすぎないのです。神から見たらこういうことになるのです。
 六節に、人は影のようにさまよっているとありますが、この箇所を文語訳では、「人の世にあるは影に異ならず」とあるのです。
 人間がこの世に生きているということは、神という命の実体から言いますと影なのです。人間は生きているつもりです。ところが、実体は影です。ただ鼻から息を出し入れしているだけなのです。
 生理機能が働いているだけのことであって、生命意識は全くないのです。人間は生命感覚はありますけれど、生命意識はないのです。
 生きているという生活意識はあります。生命意識はないのです。この世から去ると生活意識は途絶えますが、これを自分では意識できないのです。眠った状態になるのです。
 霊媒によって眠っているものが覚まされますと、ほっと気が付きます。そうすると、返事をするのです。この世を去る時の意識のままでいるのです。ところが、客観的に言いますと、その人は死亡しているのです。
 京大助教授の例で言いますと、学生たちは助教授が即死したことを知っていますが、霊媒によって助教授を呼び出すと、「今、バスに乗っている」と言うのです。自分が死んだことを全然知らないのです。
 なぜこういうことになるのかと言いますと、人間は生活意識は持っていますけれど、生命意識を持っていないのです。この世を去りますが、死ぬことにはならないのです。死んだと思っていないからです。
 死とはどういうものかをよく考えなければいけないのです。英語でいうdeadは死んでしまった者を指しているのです。
 「神は死んでしまった者に生活を与えている」という言葉があります(ローマ人への手紙4・17)。現在皆様の魂は死んでしまっているのです。生きているのではないのです。だから、生活してはいるが生きていないとなっているのです。
 現在の人間は生活意識はありますけれど、生命意識を持っていない。その証拠にあなたは生きていますかと聞くと、生きていると答えます。生きているのなら命が分かりますかと聞くと、分からないというのです。
 生きているという言葉を使う以上、命がはっきり説明できなければならないはずです。
 例えば、砂糖をなめている人に、砂糖の味は分かりますかと言えば、分かっているというでしょう。とても甘いですというでしょう。これは砂糖の味を実際に経験しているから甘いと答えられるのです。
 ところが、生きているということを経験している人に、命が分かっていますかというと、分からないというのです。命の本質とは何か、どんな味わいかと聞いても分からないというのです。命についてはっきり説明ができないのです。
 人間は現在命を持たせられているのです。命が与えられているのです。どのような状態で命が与えられているのか。
 皆様には本当の命を持って頂きたいのです。そのためには、今までの皆様が生きてきた命を、本当の命だと思わないで頂きたいのです。なぜかと言いますと、それは本当の命ではないからです。
 皆様が生活してきたということはよく分かります。しかし、本当の命を知らなかったのです。
 命には死ぬに決まっている命と、死なない命の二つがあるのです。死ぬに決まっている命というのは、今の人間が経験している命です。
 今の人間は命の正体を正しく認識しないままの状態で生きているのです。これを物心と言います。物心で生きているのは、命で生きているのではないのです。
 物心というのは生活意識です。皆様には生活意識はありますけれど、はっきりした生命意識はないのです。
 皆様に生命意識を持って頂きたいのです。皆様に本当にそれを持ちたいというお気持ちがあるかどうかということです。
 本当の命を持ちたいという燃えるような気持ちがあるのなら、すべてを捨ててもそれを獲得したいという気持ちがあるのなら、それを得ることができると思います。
 本当にやる気がない方はだめです。日本人の大多数は死ぬのが当たり前だと思っている。日本人の現在の生命認識の状態は世間並だから良いと思っている。だから、死んでしまうのです。
 世間並の人間は命を正確に認識していないのです。この世を去っても、まだ死んだと認識していない。今の人間はこの程度のものです。死んでいるのか生きているのか分からないのです。
 人間が現世に生きているのは、世間の習慣に従って生きているのです。これは現世の概念です。この概念というのは死人の概念です。故人の概念です。
 この世の概念は死んだ人が言い残したこと、考えたことで、死人の概念です。
 聖書の創世記第六章から九章にかけて、ノアの洪水という事件があります。この事件を日本人は全然知らないのです。これが日本人の見解の狭さになっているのです。常識の低さになっているのです。生命的な教養の低さになっているのです。
 ノアの洪水という大事件が起こったのはどういうことなのか。これをはっきり説明できる人が日本にはいないのです。国際キリスト教大学の教授でも説明ができないのです。
 ノアの洪水以後の人間は故人です。神はそういう扱いをしているのです。この人間に対して神は生活を与えているのです。
 神は死んでしまっている人間を仮に生かしているのです。皆様は仮に生きているのであって、本当に生きているのではないのです。従って、生命意識がないのです。
 親鸞とか、道元、日蓮上人、法然、弘法大師とかいうと、偉い人間のように思いますけれど、聖書から見たら全く子供みたいなことを言っているのです。命を知らないからです。
 日本の宗教家の中で命を説明した人は一人もいないのです。最澄でも一休でも空海でもだめです。空也もだめです。彼らは宗教の説明ばかりしていて、命を知らなかったのです。
 いろは歌を空海が作ったと言われているのです。現世がはかないことを知っていたとしても、本当の命が何処にあるかを知らなかったのです。
 空海は地面を掘ったら水が出たとか、温泉が出たとか、奇跡みたいなことをしていますが、命が分からなかった彼の人生は失敗です。
 エデンの園で、神はアダムに善悪を知る木の実を食べてはいけないと厳命したのです。人間のハートは本当に神が分かりますと、ハートの内容がエデンの園になるのです。見るもの聞くものが皆エデンの園になるのです。すべてが輝いて見えるのです。
 花の美しさとは何か。死なない命が花になって現われているのです。大自然の命、宇宙の命が現われているのです。
 花という状態で、死なない命を天が見せているのです。皆様は物心を自分の命だと思っているために、花が現わしている死なない命の中へ入って行けないのです。
 固有名詞の自分を自分だと限定しているのです。これが物心です。自分の命をしっかり握っていますから、花が示している永遠の命を目の前に見ていながら、その命の中へ入って行けないのです。これを自縄自縛というのです。
 人間文明の概念は人間の霊魂を束縛しているのです。命を考えられないようにしてしまっているのです。これはとんでもない根性です。この世という世界へ入り込んでいるからです。この世に閉じ込められていてこの世から出られないのです。
 こういうことの間違いに気が付いて、物心がつく前の気持ちに帰ってください。そうすると、死なない脳波が皆様に働き始めるのです。これを皆様に経験して頂きたいと思っているのです。
 日本人は生ける神を知らないのです。花を咲かせている神が分からないのです。天道人を殺さずとか、天網恢恢疎にして漏らさずと言います。天とは何か。これが分からないのです。
 天道は人を殺さないのです。人道は人を殺すのです。人間の常識、人間の知識を信じている人は、必ず死んでしまうのです。
 皆様も人間の常識を信じていたら必ず死ぬのです。今までの常識から一歩踏み出して、常識では受け止められなかった事実を受け止めるのです。
 死んでいる人間はどうしたら生き返るのか。影のようにさまっているという聖書の言葉が皆様に焼き付きますと、皆様の魂が生き返るのです。神は愛なりとか、新に生まれるとかいう言葉の一句が、皆様の魂に定着したらいいのです。この一句が神の精子になるのです。永遠の命の精子になって皆様の中から新しい命が生まれるのです。
 人間は女性です。女性の卵子になるのです。神を求めてやまないのです。女性は年中求めているのです。女は結婚して体は夫に与えますけれど、心は与えないのです。これが女性の本能です。
 女子の本能はすばらしいものです。実は女性の本能が男性の命です。男性の本命です。
 女は体を与えるが心は夫に与えないのです。神はこういう女性を造ったのです。女の心は男性のような安物に与えるものではないのです。神に与える準備をしているのです。そういうことを、女性を通して男性に示そうとしているのです。
 女性は男性の手本です。エデンの園において、アダムはどうしても神を認めることはできなかった。しょうがないからアダムのあばら骨を一本引き抜いて女を造ったのです。男性のハートの情緒性を引き抜いて、女を造ったのです。だから、女は男の栄光です。
 男が女に惚れるのは、自分自身の栄光に惚れているのです。男が女を何回抱いても、また、抱きたくなるのはなぜか。自分自身の栄光だから、見捨てる訳にはいかないのです。自分の栄光だから、何回でも抱いて栄光を確かめたいのです。
 こういうことは日本人の常識では分かりません。聖書を勉強しないと分からないのです。人間の命にはこういう秘密があるのです。
 こういう秘密を勉強したいと思ったら、物心がつく前の幼子になった気持ちで聞いて頂きたいのです。常識人間、物知りだと思って頂きたくないのです。
 生きていながら命が分からないという人は、物知りとは言えないのです。今の日本で、そして、世界中で、死なない命、永遠の生命を与える人はいないのです。私は幸いにして神から教えられたので、こうして皆様にお話しすることができるのです。
 女の人は自分では意識していないようですが、帰るべき古里があることを知っているのです。女は男のあばら骨で造られたのですから、男に帰りたいと思うのですが、今の男は帰るべき古里ではないことが分かるのです。
 今の男が本物ではないことが分かっているのです。女の直感は恐ろしいものです。そのことが分かるのです。女の本能は恐ろしいものです。
 今の人間は本能というのは欲望だと考えているのです。ところが、本能は人間の本願、本心を意味しているのです。皆様は魂の本能に目覚めて頂きたいのです。
 沈没する船にいるネズミは港に停泊中に逃げてしまうと言います。モズは冬の積雪を見通して、木に刺す餌の位置を決めているのです。これは動物の本能です。
 人間にも本能があるのです。死にたくないという本能です。皆様はこれが世間の人よりも強いのです。本能にも強い人、弱い人がありまして、クモが精巧な巣を造るのは本能です。幾何学的にすばらしい巣を造りますが、クモはどうしてそういうことが分かるのかということです。実はクモの中に神がいるのです。モズの中に神がいるのです。ネズミの中に神がいるのです。だから、沈没する前にネズミは逃げているのです。
 近代文明というものはユダヤ人が造ったものであって、人間の本能を削り取っているのです。これが学理学説です。教育によって人間の魂を隠してしまったのです。ユダヤ人がノーベル賞を設けたために、人間の知識に枠が設けられたのです。こういう愚かなことをユダヤ人がしたのです。
 私たちは文明意識から超脱すべきです。人間の考えよりもはるかに上に立って、命を見直して頂きたいのです。また、女を見通して頂きたいのです。
 女性は本命に基づいて、今の男が本当の人ではないことを知っているのです。陥罪を犯す前の男の骨が女になっているのです。今の男は陥罪後の男です。
 女の古里は陥罪前の男、死なない男の前に帰りたいのです。今の男は死ぬ男ですから、本当の古里ではないことを知っているのです。だから、今の男に心を与えないのです。これが女の欲深いところです。女は百人が百人、千人が千人共シンデレラばかりです。
 罪悪の木の実を食べて死んでしまう前の男のあばら骨で女が造られたのです。女は男に従属する魂ですけれど、善悪の木の実を食べたら必ず死ぬと言われたのは男の方です。女は言われていないのです。
 男は神に善悪の木の実を食べてはいけない、食べたら必ず死ぬと言われたのです。女は言われていないのです。
 人間と神との関係は非常に難しい問題ですが、男は善悪の木の実を食べて、はっきり死んだのです。女は善悪の木の実を食べたら必ず死ぬと言われていないのです。
 女が女であることの勉強をよくよくしていきますと、女の奥底にシンデレラ性があることが分かるのです。男はお金や地位名誉がありますと、それに飛びついて満足できるのです。そういう安っぽい所が男にはあるのです。会社の社長とか、大臣になれば大満足ですが、女はそうではないのです。
 男と女は違うのです。女は男ほど頭が良くないのです。あばら骨ですから頭はないのです。頭は働かないがハートが働くのです。女の考えはハート的です。男の考えはヘッド的です。
 男は現世向きです。この世向きです。政治、経済について考えるのは男です。女は政治、経済の問題よりももっと次元の高い情緒の問題を考えるのです。これが女のシンデレラ性です。
 ウーマンボディー、ボディーラインがすばらしいのです。どんなすばらしい景色よりも、女のボディーラインの方がはるかにすばらしいのです。女であることが、女のボディーラインに焼き付けられているからです。
 陥罪以前の女の素直さが、女のボディーラインに出ているのです。
 陥罪以前の人は、神に造られたままの人です。仏教的に言いますと、罪を犯していない人、無明煩悩ではない人間です。これが観自在菩薩です。
 観自在菩薩は陥罪以前の人です。陥罪以前にエデンの園で観自在菩薩のような男がいた。これがアダムです。そのあばら骨が女です。
 私の聖書の説明はキリスト教会では全く言われないことになるのです。ですから、キリスト教神学から考えますと、私の説明は異端になるのです。
 ペットボトルでも、前から見た場合と、後ろから見た場合とは違います。上から見る場合と、下から見る場合とでも違って見えます。こういう見方が自由自在にできないと、本当のことが分からないのです。
 「女が善悪の木の実を食べて、それを男に食べさせた」と聖書に書いています(創世記3・4~6)。
 善悪を知る木の実を食べてはいけないという戒めを、女は受けていなかったのです。このことを男から聞いてはいたと思われますが、直接神から宣告されていなかったので、それに対する意識が正確ではなかったと言えるでしょう。
 意識が明確ではなかった人間が罪を犯すのと、意識が明確である人が罪を犯すのとでは、罪の取り上げ方が違ってくるのです。
 男は神から食べてはいけないとはっきり命じられていたのです。女は直接命じられていなかったのです。聞いてはいただろうけれども、感覚が薄かったと言えるのです。従って、犯罪行為としては同じであっても、神の処置が違ってくることになるのです。
 
 神は男に対して次のように言っています。
 「あなたが妻の言葉を聞いて、
 食べるなと私が命じた木から取って食べたので、
 地はあなたのために呪われ、
 あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
 あなたは野の草を食べるであろう。
 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。
 あなたは土から取られたのだから。
 あなたはちりだから、ちりに帰る。(創世記3・17~19)。
 
 ちりだからちりに帰るという奇妙な言葉を書いているのです。土だから土に帰るというのは分かります。肉体が土だから土に帰るのです。
 ちりだからちりに帰るという言葉は、キリスト教神学では誰も説けないのです。キリスト教では何のことか分からないのです。
 ユダヤ人の社会には、塵灰に伏すという言葉があるのです。ユダヤ人はそのための儀式みたいなことをするらしいのですが、その意味が分からないのです。
 現在の人間は生きてはいるが命が分からないのです。命が分からない状態で聖書を読んでいるのです。ですから、神は分かりません。ユダヤ人でもキリスト教信者でも、神が全然分からないのです。
 ユダヤ民族が世界中に散らばっていて、ユダヤ民族の存在が神の実在を証明しているのです。もし神がいなかったら、ユダヤ民族がいるはずがないのです。
 今ユダヤ人は世界中で大きな顔をしているのです。悪い意味で存在しているのです。かつて、イエス以前には旧約の民族として、神の約束の民として、独自の活躍をしていたのです。
 もしユダヤ民族がいなかったら、聖書の神が本当の神だという証明はないのです。ユダヤ民族は困った民族ですが、この民族がいるということは、聖書の神だけが神であるという証明になるのです。
 日本の神は頼りないものでして、日本の神をアメリカやヨーロッパに持って行っても通用しないのです。聖書の神は世界中どこへ持って行っても通用するのです。
 世界中で通用するのは聖書の神だけです。それ以外の神は世界中に通用しません。
 何処の国でも民族神はありますが、世界の神はイスラエルの神だけです。聖書の神はイスラエルの神と自ら称しているのです。この神だけが本当の神です。ところが、この神がユダヤ人を嫌って、嫌って、嫌い続けているのです。嫌い続けていながら、ユダヤ人をどうしても見切ってしまうことができないのです。
 今神はユダヤ人を見切った状態になっています。神はユダヤ人を人間として認めていないのです。これがアウシュビッツなどによるユダヤ人の虐殺事件になったのです。もし神が選民として認めていたら、六百万人とか七百万人というユダヤ人が、白昼に殺されるはずがないのです。
 かつて異邦人を人間として認めていなかったのです。旧約時代にはユダヤ人だけを人間として神が認めていたのです。ユダヤ人以外は人間として認めていなかったのです。動物として認めていたのです。
 ユダヤ人が中東地域を治めていた時に、ユダヤ人がユダヤ人以外の者をどんどん殺したのです。神がある村の人間を女も老人も子供も皆殺せと命令しているのです。ユダヤ人の神はとてもひどい神だという人もいるくらいです。
 ノアの洪水以後は、神は人間と動物とを同様に扱うと宣告しているのです。約束を与えたアブラハムだけを子孫として認定したのです。
 約束の民というのは、人間として認定するという意味です。ユダヤ人以外の人間は、皆動物並に扱われているのです。動物並になったから、動物を食べてもよろしいとなったのです。
 ライオンがシマウマを食べるように、人間は牛肉を食べるようになったのです。牛肉のステーキが食べられるのは、有難いような有難くないようなことになるのです。人間は動物だから、動物を食べるようになったのです。
 人間は本当は穀類と野菜、果物だけが食物だったのです。人間の染色体は純粋さを保とうと思えば、穀類と野菜、果物だけを食べるべきだったのですが、人間が堕落したので動物を食べることになったのです。ノアの洪水以後人間が動物並になったので、動物を食べることを許されたのです。
 肉類を好む欧米人は、動物的な性格にならざるを得ないのです。野菜や穀物を好む東洋人は、欧米人ほど動物的ではないのです。
 今の人間は全部動物並になってしまったのです。アブラハムの子孫のユダヤ人だけが人間並に扱われたのです。
 現在ではその反対になっているのです。ユダヤ人が動物並になった。イエスを十字架につけて殺したので、神が本気になって怒ったのです。
 ユダヤ人は旧約時代に預言者を殺してきたのです。最後に一人子であるイエスをユダヤ民族に送ったのに、そのイエスを殺してしまった。そこで、ユダヤ人を動物並にして、異邦人を人間並に扱うことにしたのです。これがキリスト紀元の神の処置です。
 異邦人が人間であると神が認定したのは、キリストの復活以後です。これがキリスト紀元です。西暦紀元です。キリスト紀元が始まってからは、ユダヤ人は獣になったのです。だから、アウシュビッツのようなことが起きるのです。
 七百万人のユダヤ人がガス室で殺されても、神は何も言わなかったのです。神は知らん顔をしているのです。動物だからほったらかしているのです。
 かつて旧約時代には、ユダヤ人をして異邦人を殺さしめた神は、新約時代には異邦人をしてユダヤ人を殺させているのです。動物だから殺させているのです。
 イエスを殺した後に、ユダヤ人は世界中に離散して迫害を受けているのです。なぜユダヤ人は世界中で迫害を受けているのか。動物だから迫害を受けているのです。
 イエスを殺して動物になったから、ユダヤ人は世界中で迫害を受けているのです。ユダヤ人は世界中で何処にも安穏な所はないのです。
 皆様はルネッサンスをご存じでしょう。十四世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広がった文化運動です。古代の文明と、中世の文明、近代の文明とでは文明の内容が違うのです。
 こういうことは聖書の勉強をしないと分かりません。聖書が本当に分からないと説明ができないのです。
 世界中で一番悪いのはユダヤ教とキリスト教です。この二つが、神の名によって神に反抗しているのです。ユダヤ教とキリスト教が消えますと、全世界に本当の文明が成就するのです。
 やがて現われる本当の文明は驚くべきものです。これはキリスト王国です。千年間の絶対平和が実現するのです。
 キリスト教の聖書の見方と私の聖書の見方の何処が違うのかと言いますと、私はthe name of Godに基づいて聖書を見ているのです。the name of Jesusに基づいて見ているのです。
 
 聖書に次のようにあります。
 「すべての人を照らす誠の光があって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
 しかし、彼を受け入れた者、すなわちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1・9~12)。
 
 彼を受け入れたとは、イエスがキリストである、救い主である、イエスが神の代理者として現われたことを承知したという意味です。受け入れることを同意したのです。
 すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのであるとあります。その名を信じるとはどういうことか。キリストを本当に受け入れるということは、彼の名を信じることを意味するのです。
 信じるという言葉は、その事がらをはっきり受け入れるだけではなくて、その事がらに基づいて考えるのです。これを信じるというのです。受け入れた事がらに基づいてでなければ考えないのです。これを信じるというのです。
 イエスを信じるというのは、イエスに基づいてでなければ考えないのです。イエスに基づかない考え方を一切しないのです。
 神を信じるというのは、神に基づいてでなければ一切考えないのです。人間に基づいて考えることをしないのです。こういうことを信じるというのです。
 イエスの名とはどういうものかと言いますと、不思議なことに、全世界二十億のキリスト教信者の中に、イエスの名を信じている人がいないのです。ひょっとすると個人としては一人か二人いるかもしれませんけれど、グループとしてイエスの名に気付いている人はいないようです。
 the name of Jesusとは何かと言いますと、イエスはアラミ語でイエー・ズー・スーと言います。へブル語ではエー・シュー・ヤーとなります。
 これはどういうことかと言いますと、エホバが救いであるという意味になるのです。エホバとは何かと言いますと、英語ではI am that I am.と訳しています。ヘブライ語ではエイエイ・アシュル・エイエイとなりますが、これはただあるということだけではなくて、私はありたいとか、あるべきだとか、あろうとしているとかという意味になるのです。I am that I will be.となるのです。I will beでも正確には言い現わせませんけれど、英語ではI will beと言わなければしょうがないのです。
 I am that I will be.という言い方が非常に近いということになるようです。I will beというのは、まだ本当の神が現われていないということです。I will be というのは、未来に関する神の完成を意味するのです。
 神はまだ完成していないのです。神は未完成です。未完成の神です。これがキリスト教では分からないのです。キリスト教の人々は神は完成していると思っているのです。
 聖書の神はI am that I will be.という神です。神は完成することがある神です。
 これは地球自体を指しているのです。また、人間自体を指しているのです。太陽系宇宙自体と言ってもいいでしょう。現在の太陽系宇宙はまだ完成していないのです。今の地球も完成していないのです。これは神の未完成をそのまま現わしているのです。
 神の存在がそのまま現在の地球のあり方を証明しているのです。I am that I will be.神自らが未完成であることを宣言しているのです。これは大変なことです。
 こんなことはキリスト教では分からないのです。神が未完全である。神は完成していないということは、キリスト教では一切言いません。私はこういうことを言っていますので、キリスト教の人々から異端者だ、悪魔だと言われているのです。
 私のことを悪魔だと言うのなら、キリスト教の人々はもっとひどい悪魔だと言えるのです。
 ネーム、オノマというのは、実質、実体がそのまま現われていることを言うのです。例えば、石部熊五郎という人がいるとします。この人がいつも女郎を買ったり、博打ばかりしていたら、オノマとは言えません。石部熊五郎という名前はありますけれど、オノマにはならないのです。
 オノマというギリシャ語は、名前どおりがそのままその人の本質になっているという場合に限って、オノマという敬語が使えるのです。オノマというのは絶対的な尊崇を意味することになるのです。
 イエスの名というのは神の存在がそのまま救いであるということです。神の存在とは何かというと、花を咲かせていることがオノマです。これが神の存在です。
 花が咲いていることが神の御霊の働きを示しているのです。神の御霊とは宇宙のエネルギーです。宇宙のエネルギーが花を咲かせているのです。
 宇宙のエネルギーが神の御霊として働いている。聖書に、「エホバの御霊出ずる時、百物皆つくらる」という言葉があります(詩篇104・30)。
 神の御座が働き出すと、天地万物が造られるのです。花は咲くし、実が実るのです。電場と磁場が神のネームとして働くのです。
 神の御座というのは電気の御座です。神の御座からは稲妻と雷鳴が出ているのです。神の御名がプラスのエネルギーの本源です。これがエホバです。
 エホバという言葉は、エイエイ・アシュル・エイエイから母音を全部抜いてしまったのです。子音ばかりになるのです。そうすると、エホバになるのです。英語では子音ばかりでは発音できないのですが、ヘブル語ではできるのです。これがヤハー、即ちエホバになるのです。
 エホバとは何かと言いますと、花を花としている力です。太陽光線を太陽光線としているエネルギーです。これがエホバです。プラスのエネルギーがエホバです。
 命の根源がエホバというオノマです。キリスト教では神の実体、オノマをはっきり言わないのです。分からないからです。私はこれを神から教えられたのです。
 私が鼻から息を出し入れしていることがエホバです。目が見えることがエホバです。神の命が私と一緒に働いているのです。これをインマヌエルというのです(マタイによる福音書1・23)。
 神のオノマが私と一緒に働いていることを、生きているというのです。これがI am that I am.になるのです。
 私の目は今見えるだけではない。未来を見ようとして働いているのです。私の精神はいつでも前に向って働いているのです。だから、明日のことを考えない訳にはいかないのです。
 明日のことを考えるのが、今日の私の仕事です。皆様の行動はすべて前向きばかりです。いつでも前に向って行動しているのです。
 皆様の魂は前に向ってでなければ動かないのです。前に向ってでなければ活動しないのです。ところが、皆様のマインドは後ろのことばかりを考えて生きているのです。これが絶対矛盾です。
 皆様は昨日の経験、一年前の経験、今までの経験に基づいて明日のことを考えようとしています。これが間違っているのです。これが人間が死んでいる証拠です。
 人間は後ろにある経験に基づいて前のことを考えようとしているのです。今の政治家は皆そうです。そこで、人間生活にはいつでも矛盾がつきまとっているのです。
 人間の霊魂は前に向って働いている。ところが、人間の思想は後ろに向って判断しているのです。こういう矛盾があるのです。
 皆様が本当に命が分かるとどうなるかと言いますと、前のことを見て、前に歩むようになるのです。これがイエスという人の生き方です。
 神に向って神を生きるのです。神は前にあるものです。後ろにあるものではないのです。皆様の目は前に向って働くのです。皆様の生理機能はいつでも前に向って働いているのです。前に向って働くという状態がエホバです。
 エホバが人間の霊魂の完成の原理になっているのです。これがイエスという名前の意味になるのです。イエスの名を信じるというのは、実は皆様が今生きているということが、そのまま神と一緒に生きているということです。
 生きているということが、神と一緒にいることです。これは極めて自然な状態です。老子的な言い方をしますと、いつでも無の世界に生きているのです。
 明日のことを考えるというのは、明日に対して自分は無です。いつでも無為を生きているのです。
 いつでも無の働きを生きているのです。しかも、無の働きを生きることが、神を生きることになるのです。神を生きるということが、死なない命を生きるということになるのです。
 神とは死なない命のことです。神のネーム、神のオノマを生活すれば、皆様は死なない命に生きることになるのです。宇宙の死なない脳波が、皆様の大脳に働きかけることになるのです。これをするための原動力が皆様の精神構造です。
 精神構造はエネルギーの法則です。精神のエネルギーこそが本物のエネルギーです。精神のエネルギーが物理的に作用する場合に、物理的なエネルギーが発生するのです。
 エネルギーの本当の意味は、物理力を意味するというよりも精神を意味すると考えられるのです。精神力が物理的にも転用されることになるのです。
 神のザ・ネーム、即ち実体が精神的なエネルギーの原則です。原理です。神には原理、原則、原動力の三つの働きがあるのです。これを父、御子、御霊と言います。これがすべての幾何学の原理になっています。三位一体の働きです。
 原理、原則、原動力の三つの働きが一つになって初めて、花が咲くのです。原理、原則、原動力の三つが働かなければ花は咲かないのです。原理だけでは咲きません。原則だけでも咲きません。
 原理がなければ原則は発生しません。原則がなければ原動力は発生しないのです。原理、原則、原動力という三位一体の神は聖書だけにあるのです。聖書以外にはこういう神はないのです。
 聖書の神は非常に物理的ですし、また。哲学的です。幾何学的です。物理とか幾何ということの原理がエホバからきているのです。自然にそうなっているのです。
 神の御名、原理、原則、原動力という合理性を認識するのでなかったら、近代学は成立しないのです。近代学は知らず知らずの間に、原理、原則、原動力に立っているのです。
 あらゆる学理大系の原理は、三位一体の神です。学問は知らず知らずの間に、神の勉強をしているのです。
 父なる神はあらゆる学の原理になっているのです。
 プラスのエネルギーの原理が人間の霊魂に対して働く場合には、the name of jesusになるのです。天地万有に対して働く場合には、the name of Godになるのです。
 プロミス(promise)という約束は父なる神によるものです。テスタメント(testament)というのは、イエス・キリストによるものです。約束には二つの面があるのです。
 テスタメントの実体がイエスの御名です。イエスの御名が分かりますと、その人は神の子としての特権を与えられるのです。神の御名が分かりますと、その人は存在としての正当な位置が分かるのです。存在としての位置と、神の子としての位置と二つがあるのです。
 旧約ではエホバ、新約ではイエスが聖書の原点です。神の実質と、イエス・キリストの実体が人間の命になっているのです。命はこれしかありません。皆様が何処を探しても、この他に命はありません。
 こういうことが達磨太子、聖徳太子、鑑真にも空海にも分かっていなかったのです。親鸞、道元、日蓮、法然、栄西、最澄、弘法大師に分かっていなかったのです。
​               (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
bottom of page