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                    「カルマの根本原理」
 
 人間は自分が何をしているのか知らないのです。皆様は神からすばらしい五官、心理機能、生理機能を与えられているのに、それに気が付いていないのです。
 聖書の話を聞いて感心しているのですが、顕在意識を持ったままで感心していてもだめです。潜在意識で聞かなかったらいけないのです。
 潜在意識は誰でもある意識です。顕在意識は現世にいる間に働く意識ですが、これは現世を去ったらなくなるのです。
 人間に顕在意識があることが、業(ごう)を背負っていることなのです。このことに気が付いてほしいのです。
 顕在意識は現世に生きている間は必要です。だから、これを完全に否定することはできません。現世に生きている以上、肉の思いを完全に拭い去ってしまうことはできないのです。
 もし肉の思いを完全に拭い去ってしまうことができたら、神の約束が本当のことではないことになるのです。
 現世にいる間は、肉の思いを完全に拭い去ることができないから、神の約束が実体になるのです。肉の生活をしていながら、完全に肉の思いから解脱することができたら、神の約束、神の援助は必要ではなくなるのです。
 私は皆様に現世において完全な人間になりなさいと言っているのではありません。原則的に聖書の言葉が自分の命であって、肉の思いは生活の一辺にすぎないと考えて頂きたいのです。
 聖書の言葉が命です。肉の思いは生活の断片です。命と生活の断片とは全然違うのです。皆様にいいものが与えられていますから、それを生かさなければいけないのです。
 神の前には、本質的には善悪がないのです。それがあると思っていると悪魔につける者になってしまうのです。
 あるものはすべて霊に決まっています。善悪という概念がどうして発生したのかと言いますと、人間が肉に生きるという習性ができてから発生したのです。
 それまでは善悪という概念はなかったのです。掟がなければ罪はないのです。戒めができたことによって、罪が生まれたのです。
 カインはアベルを殺したのですが、彼は悪いことをしたと思っていないのです(創世記4・8)。当時、殺人罪はなかったのです。掟がなかったからです。従って、殺人ということが悪いことではなかったのです。
 善悪というのはすべて人間が造った概念であって、セックスに関する概念も同じです。人間が造った概念を人間が信じているのです。これが間違っているのです。
 こういう根性を持ったままでは、聖書をいくら勉強してもだめです。聞いていても皆、馬耳東風になるのです。こういう悪い習慣をやめて頂きたいのです。
 神は皆様を愛していますが、それを愛として受け止められないのです。
 マタイによる福音書五章から七章にある山上の垂訓は善事善行を言っているのではないのです。肉を問題にしないということを言っているのです。人間の道徳には関係がないのです。
 人間は善とか悪をいつも問題にしていますが、本質的には善とか悪はないのです。生きるか死ぬかがあるだけなのです。霊か肉かだけなのです。
 人間の善事善行は皆悪いのです。肉の思いでしているからです。どんな悪事に見えても、霊ならいいのです。これが人間には分からないから困ったものです。
 人間存在を根っ子から考えるのです。イエスは聖人でも君子でもなかったのです。義人だったのです。神につける人、神から見て良い人だったのです。
 神が私たちに福音を説いたのは、ラッパの声を発するためです。私はキリスト教は間違っている。宗教ほど悪いものはないと言っていますが、これはラッパの声として言っているのです。
 お金を盗むのは悪いのですが、魂を盗むのはもっと悪いのです。これが宗教の悪です。
 人間の潜在意識は山上の垂訓と同じものを持っているのです。山上の垂訓は道徳や善事善行を説いているのではない。ただ命を説いているのです。
 信じるということは聖書に書かれている原理を自分のものにしてしまうことです。従うというのはなかなか実行できないから、それに服従するのです。
 従うことは善ですが、信じることは最善です。信じることができなかったら従うことです。従っていたら分かるのです。
 聖書の言葉は皆様の霊魂が賛成しなければならない言葉です。人間の霊魂がどうしても受け取らなければならないことです。
 山上の垂訓の最後に、イエスが、「律法学者のようではなく、権威ある者のように教えられた」とありますが(マタイによる福音書7・29)、これがラッパの声です。
 権威ある者の教えには、信じるか服従するしかないのです。最低で服従です。抗弁は許されないのです。ところが、皆様は私の話に内心で抗弁しているのです。
 皆様は表面的には反抗していませんが、内心で反抗しているのです。できることはしますが、できないことは仕方がないという感覚です。できないことは仕方がないということが問題です。
 皆様の本心は福音を歓迎しているのですから、本心に従ったらいいのです。顕在意識が間違っているのです。本心を信じたらいいのです。
 異邦人である日本人が聖書を学ぶことは難しいと言えるのです。聖書を学ぶことの難しさというのは、単数の罪、いわゆる原罪が分からないのです。
 複数の罪は分かるのですが、単数の罪が人間には分からないのです。
 人間が生きているということが、単数の罪の原点です。
 人間が生きているということはないのです。日本人であることももちろん関係がないのです。人間が現世に生きていることが間違っているのです。
 神の内に生きているということが原点になるのです。原罪はこの原点を否定しているのです。存在の本質を認めないままの状態で、存在することを鵜呑みにしているのです。
 人間は無意識にこれをしているのです。人間のハートの原点に間違いがあるのです。だから、人間はカルマを軽く見てしまうのです。
 仏教はカルマと言いますが、カルマの実体が分からないのに、カルマを強調しているのです。これは仏教の良い所ですが悪い所でもあるのです。
 人間は業の実体は分からないのですが、人間に業(ごう)があることは分かるのです。業の本質、実体が分からないのに、業があることは分かるのです。
 キリスト教はカルマがあることを知らないのです。罪ということを言いますけれど、キリスト教的に解釈した罪をいうのです。キリスト教的な意味で解釈して、原罪が分かったと言っているのです。
 カルマは人間が理解できるものではないのです。理解できないからカルマというのです。人間の理解を越えているものがカルマです。これがキリスト教の根本的な間違いです。
 カルマというのは、現世に生きている人間が理解し、納得できるものではないのです。生きている人間が納得できないものを原罪というのです。これが分からないのは聖書を甘く見ているからです。聖書の構成原理が正確に分かっていないのです。
 「地は形なくむなしくて、闇が淵のおもてに座りこんだ」とあります(創世記1・2)。これは明らかに神の進行をストップする行為です。神はそれを喜ばなかった。これが神の反発の一番最初です。これがカルマです。
 神の進行を妨害した。神の進展を妨害した。これがカルマそのものです。
 仏教ではカルマを因縁だと考えるのです。因縁というのは、知能的なテクニックのようなものだと思っているのです。
 聖書はそう考えていない。聖書はカルマに人格を付与しているのです。カルマは人格だと言っているのです。これが悪魔です。
 悪魔というのはカルマのことです。人間が肉体を持って生きていることがカルマであって、悪魔です。これが分かると初めてセックスの底が抜けるのです。そうして、肉ではないセックスがはっきり分かるのです。
 カルマを人格と認めたら分かるのです。自分という人格がカルマそのものです。自分の立場が無条件で死角を造ってしまっている。だから、カルマが分からないのです。
 自分がいくら聖書の勉強をしてもだめです。自分がセックスを考えてもだめです。セックスに対する考えの根底を変えてしまわなかったらだめです。とことんまで変わらなければいけないのです。底の底まで変わってしまわなければだめです。
 人間は現在の自分のセックス観を是認しようという意識があるのです。自分の性行為を神に認めてもらおうと考えているのです。
 神は人間の性行為を一切認めていないのです。なぜなら、人間が性行為と考えるものは一切ないからです。そういうことがあると思うことが原罪です。
 そういう考えが人間の中にしみ込んでいるから、新に生まれなかったらだめです。全く新しい考え方になれる所まで行くのです。
 人間は肉の思いをどうしても捨てられないのです。ところが、肉の思いを持ったままで、霊の世界へ入って行かなければならない。これが人間の宿命です。
 これがパウロがガラテヤ人への手紙で述べている霊と肉との闘いです。これが私たちがこの世に生きている意味なのです。
 自分という存在は一つの世界です。全世界と同じ大きさで自分という存在があるのです。自分という存在を自分が征服することができると、世界を征服することができるのです。
 私たちは肉の思いを持ったままで霊の思いを教えられたのです。教えられた以上は実行しなければならない責任があるのです。正当なことを聞いたなら、それを実行しなければならない責任があるのです。それでどうするかということです。
 自分の中にある肉の思いを憎むのです。イエスは自分の命を憎めと言っていますが、これを実行するのです。
 自分の命を憎むのです。今まで五十年生きてきた、六十年生きてきたという感覚を憎むのです。それを自分が呑んでしまうと、それが固定化してしまうのです。
 この世に何十年間か生きてきたことが嘘です。パウロは情欲と言っていますが、人間のあらゆる欲望の根源が情欲(lust)です。情欲があらゆる欲望の根源になっているということを、パウロは言いたいのです。
 情欲の嘘、嘘の情欲です。嘘の情欲が人間にはびこっているのです。これが人間のあらゆる欲望の根源になっているのです。これと喧嘩するのです。
 肉体的な条件で生きていながら、情欲の根源と闘うのです。これは不可能です。できないことです。できないことをしなければ救われないのです。
 できないことをするという事実がなければ救われないのです。イエスはこれをあえて実行したのです。してはならないことをしたのです。
 そこで、私たちにとって唯一無二の方法は、イエスが主であると言い現わすことです。これしかないのです。自分が自分であるなら、どうしても悪魔に勝てません。
 イエスが主であるということをいつも言うのです。これを実行すれば勝てるのです。自分が勝つのではなくてイエスが勝ったのです。
 自分が消えてしまわなかったらいけないのです。イエスが主であるということをいつも言うのです。いつも言っているとそうならざるを得なくなるのです。
 イエスが主であると言うだけではいけないのです。自分の心で、神が死人のうちから甦らせたと信じるなら救われるとあるからです(ローマ人への手紙10・10)。
 心に信じて義とせられ、口で言い現わして救われるのです。この方法しかないのです。
 自分が生きているということが悪いのです。イエスが主であると言ったらいいのです。これしかないのです。イエスが主であるという行いができなくてもいいのです。ただイエスが主であるというだけで神は認めてくださるのです。
 イエスのような行いができなくてもいいのです。イエスが主である、イエスが主であるといつも言っていると、上からの助けがあるのです。
 女の人はいつでも待っているのです。誰を待っているのかというと、王子様を待っているのです。なぜ王子様を待っているのかというと、人間が肉体的にいることを超えてしまおうと考えているからです。
 なぜそう考えるのかと言いますと、女は善悪の木の実をアダムに食べさせたからです。肉体的に生きている自分そのものを否定したいのです。だから、肉体的に生きている男を認めたくないのです。
 女が肉だという考え方を男が変えなければいけないのであって、女の方からそれを言い出すと、創世記三章に反するのです。
 女は自分からそれを言ってはいけないのです。なぜなら善悪を知る木の実を食べさせたのは女だからです。原罪の発端は女にあるのですから、女を肉で見ないようにと、女の方から言い出したらいけないのです。男から言わなければならないのです。
 男は女の姿を見て自覚しないといけないのです。女の姿は霊なるものです。女の美しさは霊なるものです。男が女に感じる色気は霊なるものなのです。色気の本質は霊気であって、女を見たら霊気を感じるのです。だから、女はマドンナになるのです。
 霊によって女性を見たら、初恋の時よりもっとすばらしい女性を見ることができるのです。マドンナ以上に見えるのです。
 初恋の場合には女性をマドンナとして見れますが、霊によって見たらもっとすばらしい聖なるものになるのです。初恋の時よりももっと高いものにならなければいけないのです。これが骨の骨です。
 アダムは初めてエバを見た時に、「これぞ、今やわが骨の骨」と驚いたのです。こういう感覚にならないといけないのです。
 こういうように女性を見ることができた男性は、女性から見たら王子様になるのです。
 イエスはそういう人だったのです。イエスが主であるという以上は、自分自身がそうならなければいけないのです。女の人がきらきらして眩しく見えなければいけないのです。
 本当の女というのは骨の骨である自分が現われているのです。
 男から見て女があることが、神があることです。女から見て男があることが、神があることです。これが人間創造の原点です。「神の形のように人を造り、これを男と女とに造った」とあるのです(創世記1・26)。
 神の形のように造ったことが、男と女に造ったことになるのです。だから、男と女は生ける神の子に基づいてお互いを見なければいけないのです。
 人間がこの世に生まれてきたのは、カルマを乗り越えるために来たのです。業(ごう)を果たすために来たのであって、カルマを乗り越えることが人間の大使命です。
 カルマを乗り越えないままで死んでしまえば、必ずカルマの虜になって地獄へ行くことになるのです。
 神の形のように造られた人間は、神と同じ能力を持っていて何でもできるのです。やりたいことが何でもできるのです。悪魔に提携することもできるし、神の子になることもできるのです。何でもできる人間は全世界そのものです。そこで自分に勝つということは、悪魔を足台にしたということです。
 肉の思いを持っている者が、肉の思いに従わずに霊に従って歩んだとすると、自分の敵を自分の足台にしたことになるのです。これができると初めて、イエス・キリストの花嫁になる資格が与えられるのです。
 これはできますから絶対にして頂きたいのです。イエスが主であるということ、イエスが復活したことを信じることです。この二つを実行したらいいのです。
 現世に生きていく心得として、自分の中にある肉の思いを絶対に恐れてはいけないし、それに負けてはならないのです。
 肉の思いというのはなければならないのです。もし肉の思いがないのでしたら、楽ですけれど、救われることもないのです。私たちがキリストの花嫁になれるということは、肉の思いと闘って、これを足台にすることができるからです。
 肉の思いを足台にすることが、キリスト自身が肉を足台にしたことと同じ効果を持つのです。
 
 聖書に次のようにあります。
 「主はわが主に仰せになった。あなたの敵をあなたの足台にするまでは私の右に座していなさい」(使徒行伝2・34、35)。
 
 これはダビデの言葉ですが、ダビデが主と言っているのは、ダビデが仰いでいた霊魂の夫です。
 ダビデはイエスを知らなかったのですが、魂の夫としてのメシアがあることを知っていたのです。神なる主が夫なる主に仰せになった。
 「あなたの敵をあなたの足台にするまでは、私の右に座していなさい」
 神がイエスの敵をイエスの足台にしているのです。肉であり、悪魔であり、死であるものがなければ、足台がないのです。足台がなければ計画は実行できないのです。キリストは完成しないのです。
 皆様も自分の肉の思いが自分の中にあるからこそ、キリストの花嫁になれるのです。皆様の中に肉の思いがなければ、キリストが贖いになれないのです。
 肉の思いに負けてはいけないのですが、肉の思いを無視してはいけないのです。
 肉の信仰が全くないと言ったキリスト教の一派がありました。プレマスの信仰がそれです。キリストの贖いによって人間の罪は全くなくなったから、どんなに悪いことをしても良いと考えたのです。
 イエス・キリストの十字架によって、人間のすべての過ち、すべての考え違いは全部消されたのだから、人間は何をしても良いと言うのです。こういうキリスト教の一派があるのです。こういう考え方が間違っているのです。自分はいない。固有名詞の自分はいない。この世に生まれた古き人はいないという立場に立って生きなければいけないのです。
 私たちは肉の思いを持ったままの状態で、イエスが主であると言わなければならないのです。肉があるからこそ、イエスが主であると口で言わなければならないのです。
 肉があることは足台があることですが、足台がなければ天に上ることはできないのです。天に上るためには足台がどうしても必要です。足台となるのが自分自身の肉です。
 自分の肉が地球のカルマです。自分の肉と闘うと考えずに、地球のカルマと喧嘩をすると考えるのです。そうすると、やりがいがあるのです。
 敵は悪魔です。自分が地球のカルマと闘うのです。悪魔と闘うのです。地球があることはどういうことか。悪魔の闇が淵の表にあるという認識があるから、神はやむを得ず地球を造ったのです。
 地球を造らなければならなかったというのは、神にとっては無念残念なことです。神は地球を造りたくなかったのです。
 今の地球は神が喜んで創造したのではないのです。やむを得ず創造したのです。これは創世記の一章を見たら分かるのです。
 闇が淵の表に座り込んだから、神の霊が水の表を動かすことになったのです。闇が淵の表にあったという、非常に不本意な状態が地球創造の原点になっているのです。
 皆様は肉体を持ってこの世に生まれたというカルマがあるのです。これは地球のカルマであって、それを私たちは今経験させられているのです。
 だから、今までの自分の考えに固執してはいけないのです。肉の思いはあってもかまわないのですが、それに捉われてはいけないのです。肉の思いに負けてはいけないのです。
 今まで持っていた肉の感覚を、霊なるものとして用いていくのです。肉を霊だとごまかして用いるのではないのです。ごまかして用いればプレマスの信仰になってしまうのです。泥棒をしようが、人を殺そうが勝手だというのです。自分の罪はないというのです。
 この考えが間違っているのです。存在ということが霊です。肉体が存在するということが、霊が肉という形で現われているのです。
 神によって造られたものはすべて霊です。肉の形をとっていても本質的には霊です。このことをイエスは証明したのです。
 イエスは肉体を持っていた。これが霊であることをイエスは証明したのです。これが変貎山のできごとです(マルコによる福音書9・2~8)。
 六日の後にイエスは山に登ったのです。ここに意味があるのです。六日の後にイエスは山に登るのです。六日は六千年です。七千年目にイエスは地球の頂点に立つのです。これがキリスト王国の実現です。
 イエス・キリストがやがて王国を実現するのです。これをペテロは見通していたのです。ペテロは変貌山でイエスを見たとやかましく言っていますが、これは王国を見たのです。
 イエスが本当の肉体はこういうものだということを、人の前で見せたのです。イエスの体が輝いたのです。本当の体は太陽のように輝くものを持っているのです。これが本当の肉体です。
 人間が考えるような肉体があると思うことが、原罪、カルマです。人間の肉体があるという感覚を否定しながらイエスを信じると、人間の感覚を否定することができるのです。
 イエスが主であると信じたら実行できるのです。理性と良心に従って生きていることがイエスです。人間が理性的に生きていることだけで、自分の主がイエスであることが分かるのです。
 人間が理性的に生きているということは、神の言(ことば)が肉となっているということです。神の言が肉となったのがイエスです。その実体を弟子に見せたのです。弟子たちは、私たちはその栄光を見た。霊が肉の形で現われているという、その栄光を見たのです。
 それは神が生みたまえる一人子の栄光であって、恵みと誠に満ちていたとあるのです(ヨハネによる福音書1・14)。
 ヨハネがイエスを見たように、イエスを見るのです。イエスは肉体を持っていながら肉に勝つことができた。これが神の栄光だと言っているのです。これが私の主であると考えたらいいのです。そうすると、イエスが行ったことが自分の功績として与えられるのです。
 イエスが現世に生きていたという事実が、そのまま私たちの事実になるのです。こういう角度から人生の様々な問題を見れば、本当の意味が分かるのです。
 人間を含めて、万物全体の被造物を代表するものを、キリストというのです。キリストはすべてのすべてです。イエスがキリストとして位置付けられたことを信じる者は、神から生まれたのです。
 自分の立場で考えることをやめるのです。イエスの立場で考えるのです。肉の思いがある状態で、イエスが主であると信じるところに価値があるのです。肉の思いはなければならないのです。
 肉の思いがあるからこそ、それと喧嘩をして勝てるのです。肉の思いがなかったら喧嘩をするものがないから、腐ってしまうのです。喧嘩をする相手があることは、自分の信仰の励みになるのであって、もし喧嘩する相手がなかったら、信仰の目標もなくなるのです。
 肉の思いを恐れる必要はないのです。神がキリストの再臨を命令するまでは、キリストは神の右にいなければならないのです。
 キリストが第三の天にいなければならないということが、御座に座する者があえて冠をかぶろうとしないのです。キリストを復活させていながら、あえてこれを天下公然のこととして認定しないのです。これが位に座する者が冠をかぶっていないということです。だから、皆様の信仰の訓練になるのです。
 もし神が、キリストが復活したことを歴史の実体として、公然のこととして神が公認するとどうなるのか。イエス・キリストの復活が世界の絶対になってしまうのです。そうすると、もう信じる必要がなくなるのです。信じなくてもいい。世界の絶対だからです。そうすると霊魂が救われなくなるのです。
 神は冠をかぶらないままの状態で、イエスを黙って復活させて敵を足台にするまでは、天に隠れていなさいと言っているのです。そうすると、私たちは目に見えないものを信じなければならないことになるのです。そこで、発奮努力する値打ちがあるのです。
 こういうことをよく考えていくと、信仰ということの有難さ、肉の思いの有難さ、その値打ちがよく分かってくるのです。そうすると、女の人が眩しく見えてくるのです。
 人間に肉があるからこそ、イエスが主であるということのすばらしさが分かるのです。
 悪魔は霊を肉としてしまったのです。闇が淵の表にありとは、霊をすべて肉にしたのです。神の霊が水の表を覆った。水を霊にしたのです。水を霊にするというのが神の御霊の考え方です。
 神の霊が水の表を覆った。この言だけで人間は救われるのです。
 すべての万物は神の栄光が現われているのです。花は神の栄光の現われです。万物はすべて神の栄光の現われです。
 イエスが生きていた感覚が分かるところまで、イエスが主であると言い続けなければならないのです。
​                (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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