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                     「虚妄の人間」
 
 現代は虚妄の時代です。現代の中に虚妄があるのではなくて、虚妄が現代に化けているのです。
 命には二つあります。絶対に死んでしまう命と、絶対に死なない命とがあるのです。皆様は死んでしまうに決まっている命を自分の命だと思っているのではないでしょうか。これが現代の虚妄の最も大きいものなのです。誰でも分かる虚妄です。
 皆様は死にたくないという気持ちを持っていながら、死なねばならないと考えています。これが自己矛盾です。
 自分で自分の魂を裏切っているのです。死にたくないと思うならはっきりそう言ったらいいのです。死にたくないという気持ちを持っていながら、それを言い現わすことを恥ずかしいという気持ちがあるのです。
 死ぬに決まっている命を自分の命だと思うことが、死んだら空になってしまうので、それを公に言うことが恥ずかしいと思うのです。そこで、死にたくないと思っていながら、死ななければならない命を命だというように考えているのです。
 これはまさしく虚妄そのものです。現代はそういう時代です。肉体的に生きている人間は何かに頼らなければならないものです。自分の命の本体が分かっていないからそういうことになるのです。
 肉体を持っているということは非常に頼りない条件ですから、何かに頼らずにはいられないのです。お金に頼る、保険に頼る、宗教に頼る、家族に頼るなど、何かに頼って今日という日を何とか過ごしているのです。
 皆様は一体何に頼って生きているのでしょうか。死ぬに決まっている命を持っていて、何に頼っているのでしょうか。
 今の日本人は全部死んでしまうのです。命のことを真剣に考える人がほとんどいないのです。生活のことを真剣に考える人はたくさんいますけれど、命のことを熱心に考えようとする人はいないのです。
 自分の命を守るために生活があるはずです。ところが、生活のことは一生懸命に考えるが、命のことは考えないのです。こういうことが現代の虚妄です。
 何のために生きているのかが分からない状態のままで生きている。生まれてきたから、ただ世間の習慣に従って生きている。
 人間の命は現世だけで終わるものではないのです。生まれてきたと言います。これは生まれる前の人生があったことを意味しているのです。また、現世の人生があります。そして、死んでいくと言います。現世を去った後の人生があるのです。この三つの人生があるのです。
 イエスは、「おまえたちは何処から来て、何処へ行くのか分からないだろう。私はそれを知っている」と言っているのです。
 皆様は現在生きているのです。生きているということは命を経験しているということです。
 人間には自分の命はありません。自分が生まれたいと思って生まれたのではありませんから、皆様の命は皆様のものではありません。自分の命だ、自分の体だとどうして思うのでしょうか。
 そういう不合理なことを現代人は平気で考えているのです。古代人や中世人は命を知っていたのではありませんが、今生きている命は自分の命だと思っている人は少なかったのです。何のために生きているのかということを見極めたいという気持ちが、現代人よりははるかに強かったようです。
 日本の王朝文化を見てみますと、万葉集や古今和歌集には、空観が出ているのです。
 空というのが日本文化の根底になっているのです。従って、平安時代の人々は、今生きている命が空であることを何となく考えていたようです。
 「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」という小野小町の歌にも、空観が出ているのです。
 こういう考え方は王朝時代には普通の感覚だったようです。方丈記には、人間が家を建てて住んでいるのは、ちょうど水虫が巣を造っているようなものだと、鴨長明が言っているのです。
 こういう日本文化の特長が現代ではなくなっているのです。唯物論、現代文明が日本人を変えてしまったのです。日本人の考えを唯物的にしてしまったのです。
 今、日本人は本来あるべき日本文化の良さについて、よく考える必要があるのです。
 般若心経と聖書を宗教の書物だと思っていることが間違っているのです。般若心経を仏教者に任せておくべきではない。また、聖書をキリスト教の指導者に任せておくべきではないのです。宗教者に任せておくとろくなことがないからです。それを商売のネタにしてしまうからです。
 宗教ははっきり言いますと、営業です、般若心経を愛好している人、また、愛読している人は一千万人もいますけれど、本当の空観が分かっている人がいないのです。
 般若心経は現代文化の中で非常に貴重なものでありまして、般若心経の空観は現代人が頂門の一針として、十分に学ばなければならないものです。
 例えば、アメリカと北朝鮮の関係でも、空観があればがたがた言い争う必要がないのです。お互いに理解し合えるに決まっているのです。
 世界全体を十回も破壊してしまうような核兵器を貯蔵する必要がないのです。お互いに相手が信じられないから核兵器を造るのです。
 文明そのものが空なのです。これが分からないのです。現代は、「人盛んなれば天に勝つ」という時代です。人間が理屈を振り回している時には、神は黙っているのです。
 その後に、「天定まって人に勝つ」という言葉があるのです。本当にあるべき状態に帰れば、現代文明は木っ端みじんに潰れてしまうのです。
 天が定まったら天が勝つのです。今は人間が威張っている時代ですが、やがて天が勝つのです。「天網恢恢疎にして漏らさず」です。どんな悪事でも必ず神は罰するのです。
 文明は虚妄です。人間の思考に基づく文明は、宗教も、政治も、教育も学問も、虚妄によって覆い隠されています。
 人盛んな時は天に勝つのです。皆様ご自身の考え方は、死ぬに決まっている命を自分の命と考えています。死ぬに決まっているのが自分の命だと考えることは、自分の命をばかにしているのです。
 皆様の命は天から預けられている命です。その命を自分の命だと考えていることは、天を踏みつけ、自分の命を自ら汚していることになるのです。
 般若心経と聖書を宗教家に任せておくと、命にならないのです。金儲けの道具になってしまうだけです。私たちは般若心経と聖書を、宗教家から取り返そうと考えているのです。
 般若心経をお坊さんに任せておいたら、汚れるばかりです。般若心経をそのまま実行すると宗教ではなくなってしまいます。聖書をそのまま実行したら宗教ではなくなってしまうのです。私たちはこれを提唱しているのです。
 キリスト教は聖書をキリスト教的に解釈して、売り物にしているのです。死んでから天国へ行けると言って、聖書を売り物にしているのです。
 皆様は現在生きています。生きているということは、命を経験しているということです。ところが、命を経験していながら命が分からない。現在、命を経験していながら、命の実物が分からないのです。
 これを端的に言いますと、命を知らないということになるのです。もっと端的に言いますと、死んでいるということになるのです。
 死ぬに決まっているという考え方は、既に死んでいることになるのです。このことを考えて頂きたいと思います。
 現在の人間は本当の平和を求めていますけれど、本当の平和という意味が分からないのです。戦争をなくすことが平和ではないのです。仮に戦争がなくなったとしましても、大地震があったらどうなるでしょうか。台風、津波、洪水があるのです。
 地震が絶えず人間を脅かしているのです。台風、洪水、津波が人間を脅かしているのです。これを平和と言えるのでしょうか。
 犯罪が多発しているのです。強盗、窃盗、傷害、殺人、暴行、誘拐、監禁、強姦、振り込め詐欺が頻発している状態が、平和と言えるのでしょうか。
 また、ガン、心臓病、高血圧、脳卒中、脳溢血、脳梗塞、肝臓病、腎不全、認知症等にいつなるか分かりませんし、コレラ、ペスト、腸チフス、パラチフス、痘瘡、猩紅熱、ジフテリア、日本脳炎、赤痢といった伝染病がいつ襲ってくるかもしれないのです。
 人間が本当に求めている平和は、現在の人間が考えているような平和とは違うのです。人間は内心において直感的に本当の平和を求めているのです。けれどそれは実現しないだろうと思っているのです。これが間違っているのです。
 死は破れるものです。イエスが死を破ったのです。これをまともに勉強しますと、死を破る方法が分かるのです。
 今の人間が命だと思っているものは、命ではないことになるのです。今の人間が考えている平和は、本当の平和ではないことが分かるのです。
 本当の世界平和とは何であるのか。本当の人間の命とは何であるのか。これはイエスが死を破ったということと重大な関係があるのです。
 日曜日はイエスの復活記念日です。イエスが復活したということは歴史的事実です。イエスは死なない命があることを復活によって証明したのです。
 イエスはどのような生き方をして死を破ったのか。イエスは十字架にかかる前から、私は死なないと言っているのです。イエスがどういう生き方をしていたのかということを学びさえすれば、死なない命が自ずから分かるに決まっています。
 イエスの命のあり方と、皆様の命のあり方とを一つにしたらいいだけのことです。
 これはキリスト教の勉強ではありません。キリスト教では死なない命とは言いません。イエスも人なり、我も人なりです。同じ人間ですから、イエスができたことは皆様にもできるに決まっているのです。
 現在の皆様の世界観では、人間は死ぬに決まっていると思っています。こういう世界観を捨ててしまって、新しい世界観を持つことができさえすれば、死なない命が分かるのです。
 現在、世界には一万七千発の核兵器があると言われていまけれど、これを一度に爆発させたら、人類は十回以上全滅することになるのです。人間はこういう愚かなことをしているのです。これが人間の正体です。
 今の人間の人生観の根本が間違っているのです。世界観の根本が間違っているのです。聖書を正しく勉強していないからです。キリスト教の観念だけで聖書を勉強しているからいけないのです。
 新しい聖書の見方をしなければいけないのです。日本から新しい聖書の見方を発信しなければいけないのです。
 般若心経の新しい見方、聖書の新しい見方を日本から提出しなければならないのです。こういうことは日本からでなければできないのです。
 現在、般若心経が用いられているのは日本だけです。般若心経の空観に基づいて、本気になって新約聖書を勉強する。イエスを勉強することが必要です。
 般若心経は五蘊皆空と言っています。人間の考え方は皆間違っているというのです。般若波羅蜜多は向こう岸へ渡ってしまうと言っているのです。宗教ではこの文字の説明はできますけれど、本当に向こう岸へ渡ってしまうことができないのです。
 現在の死ぬベき人間の命をどのように処分すべきなのか。死ぬベき命を持ったままでは死なない命は分かりません。今生きている死ぬべき命を処分しなければならないのですが、それには、般若心経の究竟涅槃を実行して頂きたいのです。
 涅槃というのは蝋燭の火が風に吹かれて消えてしまうような状態を指すのです。これはできないことではないのです。現在の皆様の考えを持ったままでは無理ですけれど、真剣に勉強すれば分かることです。
 自分の状態を冷静に見ますと、自分の思いが自分の命になっていることが分かるでしょう。自分の人生観、価値観、世界観が自分の命になっているのです。
 「肉の思いは死である」とパウロが言っています。肉体的に自分が生きているという思いが肉の思いですが、これが死を意味するのです。死を意味する生命観を捨ててしまったらいいのです。
 今の自分の思想が絶対であると思い込んでいることが人間の妄念です。これを始末するのです。これはできないことではないのです。例えば、資本主義の思想を捨てて、共産主義思想になる人がいるのです。また、共産主義思想をやめて、資本主義思想になる人もあるのです。
 従って、自分の思想を変えるということはできないことではないのです。やる気があれば誰でもできることなのです。
 人間の命は実は天からのものです。天からということは神からということです。日本人は神という言葉が嫌いですから、神と言わずに天と言った方がいいかもしれません。
 日本人が考える神はまともな神ではありません。本当の神とは何か。皆様の心臓が現在動いていることが神です。皆様はこの神から命を預けられているのです。
 この神を正しく生きた人がイエスでした。皆様にもこの命があるのですが、これがどこにあるかが分かっていないのです。これは自分の力だけでは分かりません。御霊の導きによらなければ分からないのです。
 これは今まで皆様が持っていた生活思想や宗教概念を捨ててしまうという度胸があればできるのです。そうして、イエスが生きていたというその生き方を勉強したらいいのです。
 私は命にしがみつこうとしているのではありません。生きているということの本当の意味を知りたいと思っているのです。
 現在の人間の命は必ず死んでしまう命です。この命ではない永遠の命に繋がる考え方があるに決まっているのです。人間はこの命に繋がっているから、百人が百人共死にたくないと考えるのです。
 死にたくないというのが本心ですが、命の本当の意味が分からないから死んでいくのです。私たちは生きている命の本当の意味を打ち出して、本当の生き方をしようと言っているのです。
 神を生きるのです。自分の命がある。死ぬに決まっている命を生きないで、もっと高い命、死なない命に目をつけるのです。私たちは無限の可能性を持っているのです。無限の可能性を約束されているのです。
 例えば、法蔵比丘というお坊さんが、阿弥陀如来になりました。無限の可能性を発見したのです。これは譬話ですが、イエスが復活した。死を克服したという事実があるように、人間には無限の可能性が約束されているのです。
 現在人間が生きているという角度からだけで物事を考えないで、人間の内心の願いを取り出して考えて頂きたいというだけのことです。
 生きているという命の意味をはっきり見つけるのです。イエスの復活を学の対象にしなければならないのです。イエスが地上に誕生したことが、暦年算定の基準になっているということです。これは宗教ではありません。歴史的事実です。
 イエスが復活したことによって、人間は必ずしも死ぬものではないということが証明されたのです。
 イエスが復活したというのは本当か嘘か。イエスの復活が嘘だという証明はどうしてもできないのです。イエスの復活はないと証明したいと思えば思うほど、復活が確かなものになってしまうのです。
 イエス・キリストの復活ということは、人間歴史の最大のテーマですが、日本人はほとんど無関心です。
 人間歴史にはユダヤ人問題という重大な問題があります。これは避けて通ることができない大問題です。このこととイエスの問題とは密着している問題でありまして、よく勉強する必要があるのです。
 日本文化の中には、世界文化の中にはない空観という特長があるのです。現在、般若心経をまともに取り上げている国は日本だけです。日本人以外には空観が取り上げられていないのです。
 全世界の宗教家も、学者も、大学教授、学校の先生、評論家、政治、経済界の指導者も、空に対して謙虚な態度を取るべきだというのが私の提案です。
 とにかく、般若心経をはっきり取り上げている国は、日本以外にはありません。自分自身の存在が空であるということが、まず、自分自身の中に醸成する気持ちにならないと、イエスの復活という問題はとても捉えることができません。
 こういう意味で、私は宗教ではない般若心経ということを申し上げているのです。これは私自身の独断ではありません。般若心経をそのまま皆様にお話ししているだけのことです。私の主観を申し上げているのではないのです。
 皆様の脳波と命の根源を結び付けることができたらいいのです。そうしたら、この世に生きていても生きていなくてもどちらでもいいのです。
 皆様は命の勉強をするためにこの世に生きているのです。命の本体を掴んでしまえば、この世に必ずしも生きていなくてもいいのです。
 この世に生きているだけが人間ではないのです。この世を出てしまっても魂は死なないのです。これはいわゆる霊魂不滅とは違います。
 霊魂不滅と永遠の命とは全然違うのです。現世だけにしがみ付くような気持ちにならないで頂きたいのです。ある人が私に向って、あなたの考えは命にしがみ付いている思想ではないかと言われました。
 私は命にしがみ付いているのではないのです。生きていなければ脳波の勉強ができないから生きているのです。しかし、現世に生きていることだけが本当の命ではないのです。
 現世の命を解脱するのです。現世の命を解脱してしまって、究竟涅槃の気持ちになることが本当の命を見ることになるのです。しかし、般若心経には命はありません。
 般若心経には究竟涅槃があるだけです。涅槃は命ではないのです。蝋燭の火が消えるだけのことです。
 とこしえの命という問題は、聖書を勉強しなければ分からないのです。
 日本人はキリストという言葉が嫌いで困るのです。だから、私はイエスという男と言っているのです。イエスという男が死を破ったという事実の他に、本当の命はありません。イエス以外の人間は全部死んでしまったのです。死なない命の実物はイエスの内にしかないのです。
 病気は治ってもいいですし、治らなくてもいいのです。死なない命を掴んでしまえば、病気は治っても治らなくてもいいのです。宗教的な考えを解脱して、命のことを考えて頂きたいと思います。
​               (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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