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                  「生まれる前に神と一緒にいた」
 
 現代の教育の一番悪い点は、「ある」ということが何であるかを知らないことです。一番目の前にあることが分からないのです。目の前にありすぎて分からないのです。
 大きな会社の役員は、自分の位とか、経済については知っているでしょう。自分の現在の立場とか利害の前に、まず自分がいるのです。会社があるのです。社会があるのです。国があるのです。地球があるのです。すべてのものがあるのです。
 空気がある。地面がある。あるということの絶対原則が目の前にあるのです。これを知らないのです。
 あるということが神を非常に有力に証しているのです。聖書の基本原理が開かれる原理がここにあるのです。
 キリスト教はあるということを知らないのです。一番分かりやすいことが分からないのです。イエスは幼子のようになれと言っていますが、幼子はあることを知っているのです。ただそれを認識することができないのです。
 幼子は認識する能力はありませんけれど、あるということを知っているのです。大人はあるということが分からないのです。自分の常識で物を考える。利害得失を第一に考えるのです。
 あるということが前提にならなければ、利害得失が成立しないのです。これは分かり切ったことですけれど、分からないのです。
 私たちは聖書を勉強しているというより、人間が現世に生きているという絶対的事実を勉強しているのです。あるというのはそれです。絶対的事実を勉強しているだけのことです。
 聖書を見なければ分からないから聖書を勉強しているだけであって、聖書の勉強ではないのです。地球存在の勉強です。
 地球存在をそのまま文字に現わせば聖書になるのです。地球には歴史と地理と両方あります。歴史と地理の両面を神の角度から文字によって描写すれば、聖書になるのです。物理的に表現すると地球になるのです。
 これは宗教とは違います。あるということを具体的に見ているだけです。だから、私たちの言っていることを覆そうと思っても絶対に覆せません。私たちの見解以上の学はないからです。
 私たちが言っていることを覆そうと思ったら、現実を否定しなければならないことになるのです。私は当たり前のことを当たり前に言っているのです。皆様は当たり前のことを当たり前に勉強している。世間の人は当たり前のことを知らないだけのことです。
 世間の人はあるということと生きるということを知りません。「ある」と「生きる」という二つの重要なことを知らないのです。
 生きるということ、生きているということはどういうことを指しているのか。その実体は何かです。あるとはどういうことを指すのかです。
 今の哲学ではこの二つが全然分からないのです。哲学で見るから分からないのです。自分自身が生きている現実で見れば分かるのです。
 学問という思考方式が間違っているのです。大学の物の考え方が間違っているのです。
 あるというのは事実です。事実を覆す方法はないのです。覆らないから深いように見えるだけです。私の論理は深い論理ではありません。覆らない論理です。覆らない論理ですから深いように思えるだけのことです。
 人間が考える学問というのは、「人間が生きている」、「人間がある」に対する弁解です。自分がいるということを強調したいのです。バイオテクノロジー、ハイテクというのは、人間にこれだけ力があるということを示すための理論にすぎないのです。
 人間は弁解ばかりしているのです。この世に生まれた人間というのは、生まれた時から罪人です。罪人は死ぬに決まっているものです。
 人間は死ぬはずがない、死にたくないということを色々な角度から言いたいのです。これが科学になっているのです。これが法律です。哲学であり、経済であり、政治なのです。
 死にたくない、死にたくないということを政治という理論や、経済、科学という理論で言っているのですが、やはり死ななければならないのです。
 学問がなければ人間は却って死なないのです。学問を考えて弁解しよう、弁解しようとするから死ぬのです。これが分からないのです。大学教授が日本を腐らせているのです。
 「生きている」ことと、「ある」ということを見ていけば、死なない命が分かるのです。私自身の物の見方は命を改めることです。革命です。私の思想は宗教思想ではなくて、革命思想です。
 イエスの思想も革命思想です。山上の垂訓で言っていることも革命です。
 天にいる神の御名を崇めると、現実に生きている命の本質が変わってくるのです。これは革命です。人間の革命よりも次元が高いのです。生きているうちに命が改まってしまうのです。自分が生きていないことが分かりますから、命が改まります。
 イエス・キリストの復活は人間完成の典型であって、人間完成というものは哲学ではなくて事実です。これをイエス・キリストは自らの復活において現わしたのです。
 今の学問は現在の人間の生活感覚を擁護するために弁解しているのです。弁解が学理学説になっているのです。
 学問は、神に対する人間の弁解です。バイオテクノロジーも弁解です。弁護、弁解というのは、神に対する悪魔の発言形式です。自分が神を信じないのはこういう理由だということを述べているのです。これが学です。
 学理、学説は悪魔自身を代弁しているのです。ユダヤ人がこれを率先してやっているのです。人間文明も同様です。人間文明が悪魔自身を代弁しているのです。
 人間自身の現実感覚が間違っているのです。これは肉の思いです。人間自身の現実感覚は、肉体的に存在していることを踏まえているのです。
 肉体的に存在していることを第一義にしているのが人間の感覚です。これが間違っているのです。
 「ありてある」ということを考えてください。ありてあるものとは何か。存在とは何か。ありてあることが神です。ありてある神という原点に立って考えることです。これが命です。
 命は前から流れてくるものです。前から流れてくるものに対しては、前を見る意識が第一に必要です。現在の人間は前を見ることができない命に生きているのです。後ろばかりを見ているのです。人間のすべての学問、すべての記録は、むしろ後ろ向きになっているのです。
 昨日の記録、去年の記録、今まで人間が生きていた過去の記録に基づいて未来を見ているのです。これが間違っているのです。後ろを見て前に向っているのです。だから、人間の姿勢は後ろ向きになって前に歩いているのです。後ろを見ながら前に歩いているのです。だから、何処へ行くか分からないのです。
 生ける神の印を額に受けて頂きたいのです。額に神の印を受けると前向きになるのです。前が見えるのです。前向きに生きることになるのです。これがとこしえの命の生き方です。
 皆様も前向きに生きて頂きたい。昨日の記憶、今までの自分に基づいて考えることをやめて、これからの自分、未来の自分を見るのです。
 時間は前から流れてくるのです。前から流れくる時間に対して前向きに生きるのです。この生き方を信仰というのです。これは当たり前のことです。見ざる事がらを誠とするのです。まだ見ていない事がらを誠として生きるのです。
 学問は見ざる事がらを誠としていない。見たこと、経験したことを誠としているのです。これが肉の思いです。後ろ向きに生きているのですから、これが死んでいる状態です。
 人間が考えると後ろ向きに考えるのですが、これを前向きに通用させようとするのです。これが学問です。だから、言い訳になってしまうのです。すべての学問というのは全部言い分けです。
 今までの人間の生活の弁解ばかりしている。これが学問です。現実の実体とは何か。あるということと、生きるということが現実ですが、これが人間に分からないのです。
 今、今ということが分からないのです。ここにあるということが分からないのです。今、ここに、あるというこの三つが分からないのです。
 絶えず考えておかなければならないことです。
 「あなたは祈る時、戸を閉じて隠れた所にいる父に祈りなさい」とイエスが言っています(マタイによる福音書6・6)。
 学理、学説は自分たちの共通の部屋を造っているのです。共通の部屋に人間を入れているのです。そこへ追い込んで閉じてしまうのです。これが学会です。
 自分の部屋に入って戸を閉じるということをできるだけ経験して頂きたいのです。自分の部屋がはっきり分かると、自分の魂をはっきり認識できるのです。自分の部屋を確実にすればするほど、生きるということがはっきりします。
 自分の部屋に入って戸を閉じると書いています。人間的には戸を閉じることになるのですが、神に向っては戸を開くことになるのです。これを人格の統合というのです。
 人間の魂は、神を媒体にしてイエスという死なない人格に統合されるべきなのです。そのためには、現実に生きている部屋ではなくて、霊的に生きているという部屋に入り込んでしまう必要があるのです。
 現実に生きているのは肉体です。人間は肉体的に生きているのです。現実に生きている命は死ぬ命です。死ぬに決まっている命です。
 今の人間が生きているのは死ぬに決まっている命です。それを今の人間は知っているはずです。ところが、この命から離れることができないのです。
 死なねばならないことが分からないのなら仕方がない。死なねばならないことが百%分かっていながら、その命から離れることができないのはどういうことか。死ぬに決まっている命からなぜ離れようとしないのかというと、困ったなという顔をしているのです。
 死なねばならない命をなぜ自分の命だと思うのか。死なねばならない命は自分の命ではないのですから、捨ててしまえばいいのです。脱ぎ捨ててしまえばいいのです。脱ぎ捨ててしまわないで自分の命だと思って、死なねばならない命にしがみついているのはどういうことか。これをいうと皆困ったという顔になるのです。
 死なねばならない人格を自分の頭からかぶっていることが悪いのです。死なねばならない人格を脱ぎ捨てたらいいのです。
 肉の自分は死んでしまったと思っても、心臓が止まるのではない。目が見えなくなる訳でもない。そうすると、肉の自分というのは捨てることができる人格なのです。
 捨てることができる人格であることが分かっていながら、それを捨てることができないのです。仏教の禅では解脱、解脱と自分を捨てることをしきりに言います。言っていながらそれをしないのです。
 仮に解脱したとして、次に何を着るのかです。これが日本の禅宗に分からないのです。だから、日本の禅は腐ってしまったのです。脱いでも着るものがない。だから、脱いだものをまた着ることになるのです。これを日本の禅宗がしているのです。
 解脱、解脱と言いながら、全然解脱していないのです。解脱というのは死ぬべきものを脱ぎ捨てて、新しいものを着ることです。これをしなければ解脱ということができないのです。
 これをいうと禅宗のお坊さんはとても嫌がります。これが禅宗の最大欠点だからです。
 パウロは「古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を着よ」と言っていますが、これができないのです。
 聖書に、「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所をさがす」とあります(マタイによる福音書11・43)。汚れた霊を追い出すのはいいのですが、汚れた霊が何処に行くか。汚れた霊が行くべき所を指示せずにただ追い出すのですから、また帰ってくるのです。
 汚れた霊は火の池に入れてしまわなければいけないのです。宗教観念はこれをしていない。だから、もっと悪くなって帰ってくるのです。
 肉の思いの欠点を色々な方面から弁解しているのが学問です。現世に生きている間しか通用しない理屈を並べて、現世に生きている人間が満足したらいいというのが学問です。
 現世だけに通用したらよいというものではありません。死んでから後にも通用するような思考方式でなかったらいけないのです。生まれる前にあった思考方式で、現世でも通用するもの、また死んでからでも通用するものでなかったらいけないのです。
 過去、現在、未来に通じるような考え方を身に付けるのです。従って、現世に生きていて、今ここにあるというポイントを押さえて考えなければいけないのです。
 隠れたるにいます父というのは、過去、現在、未来に通じる父です。この人の前に出るのです。そうすると、自分が生きている命が、過去、現在、未来に通じる命になるのです。
 神を信じることは、三世に通じる命に生きることになるのです。現世だけで分かった、分かったと言っているのではない。三世に通じて分からなければいけないのです。
 皆様が飲んだり食べたりしているものは、前世のものばかりです。前世のものばかりを食べたり飲んだりしているのです。これは実は来世のために飲んだり食べたりしているのです。
 食物の味は前世の味です。皆様は前世にいる時に、神の内に住んでいたのです。神の中に住んでいたのです。世々限りなき住処を神としていたのです。神の住処に一緒にいた時に、あらゆる植物、あらゆる動物を、神と共に造っていた。だから、植物の味も動物の味も皆知っているのです。
 果実も根菜類も、牛も豚も魚介類も、すべて皆様が造ったものばかりです。自分が造ったものを食べているのですから、味に馴染みがあるのです。神の中に住んでいたのですから、味が分かるのです。
 私たちは神の中にいる時に、神に協力して万物を造っていたのです。それを味わっているのです。
 私たちはこの世に出るまでの間、長い間神の中に住んでいたのです。だから、人間は隠れたるにいます父をよく知っているのです。お天とうさんをよく知っているのです。
 神なんかあるもんかという人がいますが、それは現世の人間の常識、知識を信じているからです。
 人間が生まれる前に神と一緒にいたという最も明確な証拠は、人間に人格があるということです。人間にパーソナリティがあるということです。
 人間の人格は、三位一体の神のペルソナがそのまま映っているのです。長い間、神と一緒に住んでいたので、神のペルソナが人間のパーソナリティーに映っているのです。そうでなければ、人間に人格があるということの説明ができないのです。
 創世記には人間は神によって命の息を吹き込まれたと書いていますが、人格のことは書いていません。人間の霊魂は長い間神の中にいたのです。そこで、神のやり方、神の考え方がそっくり人間に移ってしまったのです。
 だから、人間がおいしいと思うのは神もおいしいと思うのです。腹を立てる時には神も腹を立てるでしょう。苦しいと思う時には神も苦しいと思うでしょう。
 人間の喜怒哀楽は神の喜怒哀楽と同じことです。神と同じ感覚を人格的に人が持っているということが、神の中に住んでいたという証拠になるのです。だから、人間が神を信じられないということは絶対にあり得ないのです。信じようとしないから信じられないだけのことです。
 神を信じてイエス・キリストの復活を信じるのが当たり前です。イエス・キリストを信じられないのはばかな人間です。自我意識が頑張っているからそうなるのです。
 毎日、毎日、食物を食べています。食べていない人間はいません。食べていながらその味が前世のものであることを知らない。味は前世からしか来る所がない。こんな簡単なことがなぜ分からないのかと言いたいのです。
​               (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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