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                    「不思議な人間存在」
 
 自分の意志によって自分の思想を左右することができるのです。これができる人は、自分の命を思うようにすることができるのです。生命の実質を左右することができるのです。
 自分の生命の実質を左右することができる人は、他人の生命の実質を左右することが許されるのです。これをよく考えて頂きたいのです。
 その人の年齢と立場によって、自分が非常に偉い者のように見えるのです。現世において重大な者のように思えるのです。
 自分が置かれている立場、また、今までの自分の経験を考えると、自分が重要な人間のように思えるのです。聖書がある程度分かると選ばれた人という気持ちになる。つまりユダヤ人のようになるのです。
 選ばれたことは間違いないのです。選ばれなければならない状態になるのです。だから、選びます。選ぶと偉くなるのです。自分の立場を意識するからです。
 これは本当に困ったことです。実力がある人物を神が使うのです。ところが、神に使われると自分を意識するのです。そうしてだめになるのです。
 生きているのは人間が生きているように見えますが、神の御霊に生かされているのです。生かされているということが、入れ子になっているのです。神の御霊が生きているのであって、御霊が生きているという原理によって生かされているのです。
 私たちが生きているのではない。これさえはっきり分かればいいのです。生きているということは誠に不思議なことです。生きているということほど不思議なことはありません。飲むにしても、食べるにしても、御霊そのものの本質をそのまま経験しているのです。
 経験している私たちの能力性もまた御霊です。御霊によって御霊を経験しているのです。これが生きているということなのです。
 私たちの人格、理性は御霊の働きです。同時に時間、空間の働き一切もまた御霊の働きです。時間、空間の働きを人格と理性によって経験しているのです。
 大きい神の御霊の働きを、小さい個々の御霊が経験しているのです。これを生きているというのです。このことが実感できると偉そうな気持ちは全くなくなってしまうのです。自分はいない。生きていないのですから、死なないのです。
 生きていないのですから、死ぬはずがないのです。自分で生きているのなら死にますが、自分で生きていないのですから、死なないのです。ただ神の御霊を経験しているだけです。
 肉体を脱ぐということはあります。しかし、これも神の御霊の経験です。ただ神の御霊の経験を人の御霊がしているだけです。人の御霊もまた神の御霊です。自分が生きているのではない。これが入れ子の原理です。
 自分という人格を意識すると、自分が生きていることになるのです。時間、空間における万物があることを認識させられているけれど、認識させられているのは自分ではないのです。これが神の子としての働きです。
 神の子としての人格はありますが、これは自分とは違うのです。神の継続の神の子としての人格はありますが、これは自分というべきものとは違うのです。神と離れた形になっています。神から命の息を吹き込まれたという形になっていますが、こういう格好で神の子になっているのです。
 神と別れた格好になっていますが、神の子ですから、実は神と離れているのではないのです。
 ところが、人間は神と別の人格があると思っているのです。命の息が神から離れているだけです。しかし、人格が神から離れている訳ではない。命の息が離れているだけのことです。
 人格が離れていると考えると、神から独立した人格があると考えるのです。これが陥罪です。人間は神と分離した形で生きてはいるけれど、神から離れてはいないのです。神を経験するためにそういう在り方になっているのです。
 存在という面からいうと、人間と神は別ですけれど、命という点から言いますと、続いているのです。携挙されると別になるのです。新しい人格が与えられるのです。
 新天新地では神と離れた人格が神と共にいるのです。新天新地では人の人格は自立しますが、現在は自立していないのです。御霊に生かされているのです。人間は現在神と継続して生きているのです。神なしには生きられないのです。鼻から息を出し入れせずに生きられないのです。
 人が生きていることが神と一緒にいることの証なのです。
 まず自分がいるという意識をできるだけ持たないように訓練するのです。神の御名が自分という形で動いているということを意識することによって、イエスが主であるということを認識することができるのです。生ける神の子である自分を認識するのです。
 現世に生きている間は、霊なる神と肉なる人間が離れているように思えるけれど、肉なる人間は実はいないのです。肉なる人間がいるというのは悪魔の認識です。これは間違っているのです。
 肉に従って見ると、肉体的な自分がいると思えるのです。肉体は瞬間、瞬間しか存在していないのです。瞬間というのはあるのかというとないのです。ただ御霊の働きがあるだけです。これが瞬間です。瞬間的に存在しているということは、実は存在していないということです。
 人間が純粋に霊になってしまうと神から別れるのです。肉体にいる間は神と一つです。霊的に携挙されますと、人格的に別になるのです。
 肉体にいる間は、存在という形は肉と霊になっていますが、人格的には一つなのです。生かされているということがあるだけです。
 生かされているということは御霊です。神の御霊が肉体的な形で実感できるということだけなのです。肉体的に実感できるということは、現世をそのように経験させられているということなのです。実は現世はないのです。
 皆様に徹底的に知ってもらいたいことは、現世はないということです。時間、空間は神の言葉の働きであって、実体的には存在していないのです。神の言葉の働きはあるけれど、実存していないのです。
 このことを毎日の生活で実感するまで黙想して頂きたいのです。自分の生活で神の言葉や神の御霊を黙想するのです。肉体があるように見えるのは、神の御霊の働きです。自分の命があるように思えるのは、神の言葉の働きです。神の言葉を黙想したり、神の御霊を黙想したりして自己訓練するのです。
 人間は自分の立場を持ったらそれにこだわってしまうのです。だから、自分の立場を持ったらだめです。人間はいないのですから立場を持つことが間違っているのです。
 人間的にいうと肉体があるように思いますが、人間的な感覚に従う必要がないのです。「肉に従うものは肉のことを思う」と聖書にあります。自分の肉の思いに自分が従う必要はないのです。
 肉体があるような感じがしますが、神の御霊によってそういう感じをさせられているのです。肉体的に生きているような感じがするというのは、実は瞬間であって、瞬間的には肉体が存在している感じを御霊が与えるけれども、継続的に存在しているように思えるのは、人間が勝手に思っているのです。
 目で見ているのは瞬間だけです。瞬間、瞬間が続いているだけのことです。見ている本人は継続しているように見ているけれど、瞬間、瞬間を見ているのです。
 神の計画があるだけで、時間、空間は一切存在していないのです。闇が淵のおもてに座り込んだので、神の霊が水のおもてを動かし始めたのです。
 闇が淵のおもてにいるということがなくなってしまわなければ、時間、空間はなくなりません。悪魔の意識が消えてしまうまでは、人間の中に時間、空間の意識はあるのです。しかしあるような気がするのであって、実存はしていないのです。
 人間は時間、空間があるように意識させられているのです。人間がそのように意識させられていなければ、神の役に立たないからです。人間は神と悪魔の両方を理解する意識構造を持っているのです。
 闇が淵のおもてにありと、神の霊が水のおもてを覆っているという両方を意識することができるのが人間です。この両方を意識して、正しく理解することができた者だけが、神の側に行くことができるのです。
 神の御霊によって生かされているという事実があるだけです。自分が生きているということはもちろんありません。あるべきはずがないのです。
 自分が生きているという実感はあります。御霊に生かされているという実感はあります。神の命を実感できなければ神の役に立つことができないからです。そのために命の実感を与えているのです。
 これは自分の命を実感しているのではなくて、人間の機能としてあるだけのことです。従って、自分が生きているという事実はないのです。
 このことを徹底して、現世で御霊に満たされていることが十分に分かって、それをマスターすることができた者は、改めて命が与えられるのです。これが復活です。イエス・キリストの復活を信じることを許されるのです。
 復活を信じることを許された者は、新しい命が与えられたのです。だから死なないのです。キリストの復活が自分の命だということが十分に信じられるまでは、生きていないのです。
 キリストの命が自分の命になるのです。自分の命はありません。神から貸し与えられているのが現世の命であって、これによって新しい命を見つけるのです。これが復活の命、五タラントの命です。
 私たちがよくよく知っておかなければいけないことは、私たちがこの世に生まれてきた命、現世で肉体的に持っている命は必ず死ぬということです。この命を脱ぎ捨ててしまわなければならないのです。
 肉体的に生きているのは死ぬに決まっているのです。この命を自分だと思ってはいけないのです。これは御霊に生かされているということを弁えるために、仮に生かされているのです。
 肉体的に生きているということは仮に存在しているのであって、これは自分の命ではないのです。罪人が肉の形で生きているのであって、肉体的に生きている自分は何処までも罪人です。これは生きているのではなくて死んでいるのです。
 肉体的に生きている自分は死んでいるのだということが分かると、脱ぎ捨てることができるのです。これを脱ぎ捨てると霊の命が分かってくるのです。これをよくお考え頂きたいのです。
​                (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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