top of page
                     「人格と肉体」
 
 死ということを問題にしてもしなくても、生の目的を明確にしていない者は、既に死んでいるのです。
 聖書が死について丁寧な説明をしていないことは当たり前です。生を知らない者は死を知っても仕方がないのです。死という言葉が、生という言葉に対する対峙現象としてあるのです。死という言葉だけを説明しても何もならないのです。
 生という言葉の意味を知らない者に、死の説明をすることは無意味です。今の人間は何のために生きているのかが全く分かっていないのです。
 生の目的を本当に知りたいという人には、死の説明が必要になるのです。ところが、現代人は生の目的を全く考えていません。ただ生活だけを考えているのです。
 大会社の役員は仕事をすることで十分に人生の目的を果たしていると考えているのです。家族を養い、会社の勤務を真面目にすることで、人間としての目的を果たしていると考えているのです。果たしていると思い込んでいるのです。こういう人にはいくら言ってもだめです。
 生の目的は生活することだと考えているのです。生と生活の区別がつかない人には、死の説明をする必要はありません。こういう人は死んだらひどいことになるでしょう。
 生きているうちに言っても聞きませんから、死んでから永遠に苦しめられた方がいいのです。
 人間がどうして地球上に現われたのか。人間が現われた理由、目的について、死という問題が付随しているのです。
 人間存在が地球に現われた理由を正しく認識しないことが、死に値するのです。実はこの世に生まれてきたということが死を意味しているのです。
 この世に生まれた人間は死なねばならない状態で生まれてきたのであって、これを生まれてきたと思っていることが、死んでいることになるのです。
 この世に生はありません。生活はありますが生はないのです。この世の生活から離れて生を見るべきです。この世の生活を捨てなくてもいいのです。真理を本当に求めていれば、生活は勝手にできるのです。
 人間はこの世に生まれてきたから生きているだけのことです。この世に生まれてきたことが死んでいることです。だから、命とは何かを勉強しなければならないのです。
 この世に生まれてきたことは死んでいることです。本来、人格と理性は肉体を持つべきものではないのです。操(みさお)というものは肉体を持ってはいけないものです。ところが、肉体を持っている。肉体を持って貞操という考えを持つのが間違っているのです。
 道徳とか貞操とかいう問題は、肉体を持つ人間が考えてはならないのです。考えても仕方がないことです。肉体を持っている人間が貞操を守れるはずがないのです。道徳が守れるはずがないのです。
 守りたいと思うことはいいですが、守れるはずがないのです。こういう根本的な問題を考えるべきです。
 どうして人間はこの世に出てきたのかということを考えるべきです。私たちはなぜ死ぬのか。これが問題です。
 人格とは何か。これは神のペルソナと同じものです。神のペルソナが人間のパーソナリティになっているのです。パーソナリティはペルソナからきているのです。
 ペルソナの本質を持ったものは肉体を持つ必要がないのです。持ってはいけないのです。ペルソナは神性です。神の性質です。神性であるものが肉性であってはならない。
 イエスが肉体を持っているのは、桁外れの出来事であって、法則を破っているのです。
 人格は神格から来ているのです。神格が人格になっているのです。これは人間の霊魂が長い、長い、永遠という時間の間、神と一緒に生きていたから、神格が人格に移ってしまったのです。
 人間の人格は元々ないのです。宇宙には神格だけがあるのです。これが人間の人格になっているのです。従って、人格が肉体を持ってはいけないのです。
 ところが、現世に肉体を持った人格が生きている。こういうものはあるべき道理がないのです。人格を持った者が肉体を持っているということは、死んでしまっているということです。
 罪人は人格を持っていながら肉体を持っている。これは最初から地獄へ行くようになっているのです。肉体を持つことは肉になったことで、神は霊ですから神に敵対することになるのです。
 肉を持っていることは神に反する立場になるのです。神に反する立場を取っていながら人格を持っている。これは生まれた時から神に反する立場を持たされていることになるのです。これを死というのです。
 生まれた時から神に反する立場に立たされている。これを死というのです。こういう哲学的な理解がいるのです。
 私が言うことは難しかろうが、理解できなかろうが、宇宙の鉄則を述べていますから、これに逆らう人は地獄へ行くしかないのです。これを知らない人は罰せられるだけのことです。知らぬ存ぜぬとは言えないのです。
 人間は生まれてきた時の実感を持っていない。これは肉体を否定するポイントになるのです。自分がいると思うと肉体が否定できなくなるのですが、自分がいないという立場に立てば、肉体を持っていることを否定できるのです。
 生まれた時の実感はない。従って、今いるのは自分ではないのです。生きているのは魂であって、自分ではない。魂は神の子であって、人間ではないのです。これを自覚すると霊魂が直接神に繋がっているのが分かるのです。
 魂は霊なる神に繋がっているものですから、肉体を持っていないのです。生きているという事がらが魂です。
 人格を持っていることは霊なることです。肉体を持っていることは肉です。自分の立場は霊なのか肉なのか、どちらかはっきり決めたらいいのです。どちらを自分の本体にするかです。人格を持っているのが自分と思うなら、肉体があっても問題にしない生き方をしたらいいのです。
 現実に生きている人間、金に仕え、生活に奉仕している人間は、肉体に仕えているのです。人格に仕えていません。これは人格を問題にしていないのです。だから、神を問題にしていません。この人は死んだら地獄へ行くだけです。
 生きている間はそれでもいいのです。私たちは生きているうちは合理性を持っていません。だから、死んでから合理性を持つのです。
 現世に生きている間に合理性を持っている者は、死んでから合理性を持てなくなるのです。霊か肉かどちらかになるのです。
 この世というのは肉の合理性を持っているのです。そこへ霊の人格を持っている者が入り込んできたのです。こういうことはあるべき道理がないことです。
 この世は悪魔の世です。悪魔が支配する世です。この世には死ぬべき者ばかりがいるのです。この世はやがて灰になってしまいます。地球は消滅してしまうものです。森羅万象も全部灰になってしまうのです。
 地球にあるものは全部燃えてしまうものばかりです。肉の思いはユダヤ人によって世界に広げられたのです。特にルネッサンスにおいてはその傾向が顕著に現われているのです。
 重大なことは、人格を持った者がなぜ肉体を持つようになったのかということです。神は人格を持つ者になぜ肉体を押しつけたのかということです。
 人格は神のペルソナの延長です。人格を持つ者が自分を意識した。これが悪魔です。人格を持つ者は、神と同じ認識を持たなければならないのです。
 神は人格の根源ですが自我意識を持っていません。神には自我意識はないのです。人間は人格を持っていながら自我を意識しているのです。そこで悪魔と同類になったのです。
 悪魔は人格を持っていて自我を意識したのです。これが蛇です。アダムは蛇の言葉を聞いて罪を犯したのです。そこで、人間は人格を持っていながら、人格に従わないで自我意識に従ったのです。自我意識という肉を押しつけられたのです。これが人間の有様です。これが死を押しつけられたことになるのです。
 人間は前世で失敗したのです。そこで現世に放り出されたのです。現世に生まれた人間は死ぬに決まっているのです。これから逃れなければいけないのです。
 現世は何のためにあるかと言いますと、裁きの準備をするためにあるのです。現世を去った後に裁きは執行されますけれど、裁くためにはその方法を考えなければならないのです。
 例えば、刑務所を造るとか、刑法の準備をするとかが必要です。処刑するための原理、原則を定めなければならないのです。一つひとつの罪に対して正確に刑罰しなければならないのです。
 自我意識を持ったことが罪ですが、これだけでは処罰が抽象的になるのです。具体的にならないのです。そこで、処罰を具体化するために、現世に人格を送ったのです。
 自我意識という抽象人格を現世に送って、現世で抽象人格を具体化したのです。具体的に生活させて、具体的に罪を実行させたのです。七十年、八十年、九十年とこの世に生きていて、人間は一つひとつ罪を犯したので、一つひとつ刑罰されなければならない条件が揃ったのです。
 人間は現世にいる間に、自分自身が刑罰されるべき罰則条項を一つひとつ造ったのです。そこで、この世を去ると、自分が造った罰則条項に当てはめられて、一つひとつ刑が執行されるのです。そのために現世があるのです。
 人間は自分の刑罰を自分で造っているのです。無意識では本当の刑罰はできないのです。意識的に一つひとつきちっと受け取って、毎日の生活において意識的に神と繋がっていなければいけないのです。
 神に救われるためには、毎日の生活が神と面接していなければならないのです。
 大体、人格という霊が肉体を持って現われるはずがないのです。神の内に住んでいた地のちりが、肉体を持って神から離れるということが、あるべき道理がないのです。
 人格を持っている者が、肉体を持って地球上に現われているというのは人間だけです。人間以外にはあり得ないのです。肉体を持った者が人格を持ってはならないという法則を、人間だけが破っているのです。これは人間が自分自身の罪を認識するために、こういう処置を与えられたのです。
 人格を持っていながら肉体があるために、人間の生活は咎になってしまうのです。人間の生活はぴんからきりまで、すべて咎になっているのです。飲んだこと、食べたこと、仕事をしたこと、生活したことがすべて咎になっているのです。
 人格が食べることは霊です。それを肉体を持つ自我意識が食べている。人格が食べないで自我意識が食べている。これが咎です。
 犬や猫が食べるのは咎ではありませんが、人間が食べると咎になるのです。人間は食欲で食べるのです。犬は食欲で食べないのです。犬は本能という生理現象に基づいて食べているのです。ここが違うのです。
 人間は人格がありますから、神を信じるということをすれば助かりますが、神を信じなければとことん神に踏み付けられるでしょう。食べること、飲むことが全部反逆になるのです。肉欲になるからです。飲んだり食べたりしたことが、徹底的に地獄の対象になるのです。
 最初に造られたアダムは、前世にいたのです。これは罪のない人間であって、アダムは現世の人間のような肉体を持っていなかったのです。
 アダムには神の人格がパーソナリティとして与えられたのです。生きものを治めなければならないような性格を持たせられていたので、肉体を持っていなくても、肉体を持っているのと同じような感覚を持つことができたのです。
 アダムは死ぬべき肉体を持っていなかったのです。ボディは持っていましたが、死ぬべきボディではなかったのです。
 前世におけるアダムのボディと、復活したイエスのボディとは同じものだと言えるでしょう。
 霊の思いで見れば肉の地球は存在しないのです。般若心経はこれを言っているのです。霊の思いで見れば肉はないのです。これが色即是空です。肉の思いで見れば肉ばかりであって、霊の神の国はないのです。
 イエスが水と霊とから新に生まれて神の国へ入れと言っているのは、霊的に見る訓練をしたら、この肉の地球に生きていながら神の国に入ることができるのです。
 神の国へ入ってしまえば復活と同じことになるのです。エデンと同じことになるのです。自分が肉の思いを持って生きるか、霊の思いによって生きるかは、自分の自由意志によってどちらもできるのです。これが現在の地球です。
 信仰によって自分の命は自由になるのです。地球存在は絶対ではないのです。人間の意志はすごいものです。人間の自由意志は、自分自身の命の本質を決定する力を持っているのです。これは恐ろしいものです。
 自分の意志が決定したものを神が認めてくれるのです。なぜなら神自身が意志だからです。人間が意志を用いると、神が同意してくれるのです。これが有難いのです。
 神を信じるという意志は、非常に信じがいがある意志です。神は皆様が信じるという意志を大変尊重して、皆様の意志に同意してくれるでしょう。これは独り合点ではありません。
 この世のことは自分の意志によって自由になるのです。イエスはこれをしているのです。この世を自由にしたのです。
 イエスが主であると信じることによって、イエスが生きていたのと同じ条件が私たちに与えられるのです。これが有難いのです。
 イエスが主であると信じて下さい。イエスと同じ存在であることを信じて下さい。そうしたら、この世は自由になるのです。
 神の御心に従って自由意志を用いることは難しいことですが、不可能ではないのです。イエスがしたことは私たちにも可能です。自分を捨ててしまったらできるのです。これができる人だけがイエスと同じ者として取り扱ってもらえるのです。
 皆様の命は初めからないのです。自分の命があると思っているとばかを見るのです。
 人格を持つ者が肉体を持つことは、宇宙の原理からいうとあり得ないことです。人格は霊であり、肉体は肉ですから、霊と肉が一つの存在で混在することはあり得ないことです。全く次元が違うものです。生と死が一つになっているのです。
 生と死が一つになるということを神がするはずがない。これをしたのは悪魔です。悪魔のやり方に人間が同意したので、人間がそうなってしまったのです。
 人格を持っていながら肉体を持たされた結果、現世で生きていますが、人格によって生きるか、肉体によって生きるかを神が見ているのです。霊によって生きるか肉によって生きるかで、その人の将来が決まるのです。
 この世で生活することを第一に考えている人は、結局、肉の生活しか分からないから、自分自身の人格を尊ばないで生きていたのです。現世を去ってから、その人の人格はさんざん裁かれることになるのです。
 現世に生きている間に人格という霊を尊ばないで、肉の生活ばかりを尊んでいたから裁かれることになるのです。これは当たり前です。
 地獄はそういう人のためにあるに決まっているのです。地球存在は永遠のものとは違うのです。しばらくの間のものでしかないのです。聖書は地球ができてから滅亡する間のことを書いているのです。ですから、地球に住んでいることが聖書を信じることになるのです。
 地球に住んでいることと聖書を信じていることは同じことです。地球に住んでいながら、聖書を信じていないという人は気の毒な人です。自分自身の霊魂の運命を知ることができない人ですから、死んでからばかを見ることになるのです。
​              (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
bottom of page