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                       「瞬間」
 
 肉体は存在していない。なぜ存在していないのかと言いますと、時間が瞬間しか存在していないからです。瞬間、瞬間にしか存在していない。これが時間の本体です。
 ところが、人間は肉体が三十年も四十年も継続して存在していると考えている。もし時間が三十年、四十年継続していたら、そういうことがあるでしょう。しかし、時間は瞬間しか存在していないから、肉体が三十年間継続して存在したのではないのです。
 人間は瞬間、瞬間生きているということだけしかないのです。昨年生きていたという事実はないのです。昨年生きていたというのは人間の記憶です。
 人間の記憶を信じている人は、肉の自分を信じているのです。固有名詞の人間の記憶は全部肉であって、固有名詞の人間の記憶を持ったままで死んだ人は、黄泉(よみ)に行くに決まっているのです。
 肉の記憶を捨てるのです。そして、瞬間、瞬間を生きるのです。イエスが私の名によって生きなさいと言っていますが、これを言っているのです。
 瞬間、瞬間というのはあります。これは神の言の働きです。神の口から出るすべての言葉が、人間が生きている実体です。これは瞬間、瞬間出ているのです。これだけしかないのです。
 神の言葉の働きが瞬間、瞬間であって、神の言葉と同じような働きで人間の命があるのです。これに気付いた者は、神の言葉と同じような命が自分に与えられていることが分かるのです。
 神から人間に命が与えられるとしたら、瞬間、瞬間の命だけです。五十年生きていたから五十歳だという事実はないのです。
 年齢は嘘です。命は瞬間ですから、今生まれた赤ん坊も、五十歳の人も同じです。昨日の自分はないのです。今この時の自分しかないのです。昨日の自分と今の自分とは関係がないのです。
 肉体はないのです。瞬間、瞬間に生きているという事がらしかないのです。生きているという事がらは霊です。
 生きているという事がらはありますが、肉の体はないのです。生きているという事がらが肉の体として現われているだけです。瞬間、瞬間があるだけのことです。継続的に肉体があるのではないのです。
 従って、死ぬということはないのです。肉体があるのではないのですから、死ぬこともないのです。
 こういうことは静かに黙想したら分かります。自分が五十歳だ、六十歳だと考えることが間違っているのです。こういう考えが肉の思いです。
 神の前には、今瞬間生きているということしかありません。わが前に歩めと神は言っていますが、これは瞬間、瞬間に生きていることだけを信じなさいということです。これが神の前に歩むということです。
 人間は瞬間、瞬間しか生きていないのですから、死ぬこともないのです。
 
 「天から下ったパンは先祖たちが食べて死ぬようなものではない。このパンを食べるものはいつまでも生きるであろう」とあります(ヨハネによる福音書6・48~51)。
 
 天から下ったパンは瞬間、瞬間に神の言葉になっているのです。瞬間、瞬間に神の言葉がパンになって人を生かしているのです。イエスは神の言葉のことをパンと言っているのです。
 人が生きているということが神の言葉であって、これがパンを食べているのです。生きているということが言葉です。言葉がパンです。これが命です。
 
 「人を生かすのが霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話している言葉は霊であり、また、命である」と言っています(同6・3)。
 
 言葉が霊であり、命です。神の口から出ている言葉が霊であって、命です。これが人間の本体です。このことはマタイによる福音書の四章四節にはっきり書いています。
 神の口から出る言葉が人間の命です。生きているという事実は瞬間、瞬間であって、継続とは違います。
 本当の存在は瞬間だけで、一時間とか、一日とかいう存在はないのです。これは肉の思いで見ているからそう見えるのです。
 肉の思いを捨ててしまえば死がなくなってしまうのです。生きることばかりがあるのです。これをとこしえの命というのです。
 
 
​              (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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