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                    「人類の犯罪」
 
 ある小学生に、先生が自信を持って答えなさいと言いました。その小学生は、「先生、自信て何ですか」と質問したのです。
 皆様は自信を持っているからいけないのです。人間が持っている自信は皆間違っているのです。学校の先生の教え方、親の教え方が間違っているのです。
 人間は自分が罪を犯していることが分からないのです。人間が自信を持って生きていることが、犯罪です。人類全体が罪を犯しているのです。人類は犯罪の集団です。
 
 パウロは言っています。
 「私たちは、法律は霊的なものであると知っている。しかし、私は肉につける者であって、罪の下に売られているのである」(ローマ人への手紙7・14)。
 
 これがユダヤ人に分からないのです。これが現在の世界の混乱の根本的な原因になっているのです。
 米ロが会談して話し合いをすると言っています。軍縮とか核兵器の問題を話し合うよりも、お互いの不信の穴を埋めるような会談をした方がいいのです。
 人間が生きていることについて、それぞれの国がそれぞれの考え方を持っている。これが犯罪です。自分の国が自分の国是を持っているということが、犯罪なのです。
 現在生きているのは犯罪社会で、犯罪的な思想によってでなければ生きていけないのが人間です。
 「私は肉なる者であって、罪の下に売られている」とあります。これが仏教では説明できないのです。仏教では人間が罪の下に売られているという説明がないのです。だから、罪の下に売られているという説明ができないのです。
 仏教ではカルマと言います。業(ごう)のことを言いますが、罪のことは言わないのです。これが説明できる哲学者も神学者もいないのです。
 私は肉なる者にして、罪の下に売られているという考え方が、皆様に分かりますと、初めて皆様の命の本質が変わってしまうのです。
 日本人は罪の下に売られていることが分からないのです。日本は仏教国だと思っていますが、仏典の値打ちを知らないのです。
 仏典には値打ちがありますが、それは宗教的、哲学的な値打ちであって、生命的な値打ちではないのです。仏教には宗教、哲学はありますが、命に関する説明は一切ないのです。
 皆様は悪魔がどこに隠れているかご存じでしょうか。これを見つけて引っぱり出したら勝ちなのです。
 人間は鬼ごっこをしているようなものです。子どもの鬼ごっこは、人間が隠れていて鬼が人間を捜すのですが、人生の鬼ごっこは、人間が鬼を見つけるのです。悪魔が何処にいるのかを見つけるのです。
 悪魔は宇宙のマイナスのエネルギーの根源になっているのです。実は悪魔ができたということは有難いことなのです。本当に有難いことです。
 悪魔ができたお陰で太陽が輝いているのです。悪魔ができたお陰で、皆様は地上に生きているのです。
 人間は悪魔の正体を知らないのです。悪魔の悪さも分からないし、悪魔の良さも分からないのです。悪魔はマイナスのエネルギーですが、その効果が分からないのです。
 マイナスのエネルギーにどれほど大きい効果があるのかということが、人間に分かっていないのです。だから自分の罪が分からないのです。
 
 聖書に次のようにあります。
 「初めに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた」(創世記1・1、2)。
 
 これがカルマの原因です。これを聖書に明記しているのです。キリスト教ではこの説明ができないのです。ユダヤ人もできないのです。できないのでユダヤ人が苦しんでいるのです。
 「私は肉なる者であって、罪の下に売られている」と聖書にありますが、この説明ができないのです。
 初めに神が天と地を造ったとありますが、大体、こういうものを造る必要がなかったのです。ところが、天地を造らなければならない理由ができたので造ったのです。
 天と地がなぜ造られたのか。形なくむなしくということが淵という言葉で現わされているのです。形なくむなしくという状態そのものが、淵になってしまったのです。形なくむなしくという状態を闇が確認したのです。
 闇というのは神ではない人格です。神ではない唯一の人格です。神という人格と、闇という人格が初めて表面に出されているのです。
 創世記の一章一節は、神が天と地を造った。二節には闇が淵のおもてに座ったと書いているのです。これが宇宙のカルマの始まりです。
 般若心経に三世諸仏が無上の悟りを持った。無上の平安、本当の事がらを悟ったとあるのです。本当のこととは何なのかということです。
 般若心経は是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪と言っています。人間の一番大きい教えであり、一番すばらしい知恵である。これより上のものはない、これに等しいものもない。般若波羅蜜多だけが絶対の真理であると繰り返し言っているのです。
 これは天地が造られる前の世界のことを、何とか言おうとしているのです。マイナスのエネルギーが発生する前の、本当の平和を言おうとしているのですが、それが分からないのです。
 本当の神という思想が日本にはないのであって、因縁だけしかないのです。因縁がどうしてできたのかという説明ができないのです。皆様は生まれてきた以上、生まれてきたという因縁を十分に認識して、生まれてくる前の自分は何であったのか、従って、死んでから後にどうなるのかということを、弁えようとするくらいの遠大な求道心がないと、本当の命を掴まえることはできないのです。
 今皆様は生きているつもりですが、本当に生きているのではない。死んでいるのです。自分が生きていると考えている命は、死んでいる命なのです。
 死んでいるから自分が生きていると考えるのです。人間がこの世に生まれてこなければならなかったのはカルマです。もし地球ができなければ、人間は生まれてくる必要がなかったのです。
 地球が造られたので、人間は最終的な責任者として、生まれなければならないことになったのです。
 人間が住んでいる社会は、地球の最後の状態です。人間文明の今の状態は、地球の最後の状態です。人間文明を最後にして地球は壊滅するのです。
 人間が住まなくなっても地球が存在していると、SFの小説には書いていますけれど、そういうことはないのです。地球は人間を住まわせるためにできたのです。最終の創造が人間であって、人間がこの地上にはびこってしたいことをしてしまうと、それで地球は終わるのです。
 人間文明の終わりは、地球の終わりを意味するのです。それ以上地球があっても仕方がないのです。
 人間は地球の責任者にならなければならないカルマを持っているのです。これが人間のカルマの本質です。人間は地球全体の締めくくりをしなければならないという、絶対的な責任を持っているのです。
 人間はこの世で生活することが目的ではないのです。地球を締めくくること、地球の結末をつけなければならないのです。これが人間の唯一無二の責任です。
 これを心得ている人は、勝手に生活ができるようになっているのです。生活に苦しんでいる人は、人間の責任が分かっていないから苦しんでいるのです。
 人間のカルマをはっきり見極めている人は、自分自身が地球存在に対して、どのような責任を持つべきかということを心得ているのです。
 神は天地の主宰にして、人は万物の霊長である。これは明治時代の国定読本の中にあった文句です。
 人間が責任を持たなければ、地球の責任を持つ者はいないのです。ところが、人間は責任を持とうとしていないのです。だから、全部地獄へ行くことになるのです。
 地球の責任を持とうとしたら地獄へ行かないのです。地球の責任を持とうとしないから地獄へ行くのです。
 今の皆様は地球の責任を持たねばならないという待遇を受けているのです。皆様の中にある理性と良心はすばらしいものです。これが人間に与えられた待遇です。
 理性と良心を与えられたというのは、神が前払いで一生の給料を払ったことになるのです。人間に一生生きていける力を与えているのです。
 理性と良心という力があれば、人間は勝手に生きていけるのです。理性と良心の目的は何かと言いますと、万物の霊長になることです。そうして地球の結末をつけるのです。
 イエスはこれを実行したのです。仏教ではこれが分からないのです。仏教では人間が万物の霊長であるということが分からないのです。地球の運命が分からないからです。
 仏教では地球が何万年も、何億年も存続すると考えているのです。宇宙は無始無終と言っているのです。これがバラモン教の間違いです。ヴェーダという神話と祭式の伝統の上に成り立ったウパニシャッドの間違いですが、これが仏典の中に紛れ込んでいるのです。
 人間は人間から抜け出してしまって、人間でないものになる必要があるのです。人間がありのままの状態ですと、皆行き詰って死んでいくのです。
 死んでしまったら責任を果たさなかったという刑罰を受けることになるのです。
 人間の理性や良心はただこの世に生きるためのものではない。ただこの世で生きているだけなら、理性と良心という高尚な機能は必要がないのです。常識だけで十分です。損得勘定さえできれば、十分に生きていけるのです。
 理性という超高級な機能はいらないのです。人間は必要以上のものを与えられているのです。人間は能力を与えられすぎているのです。だから、原子爆弾を造ったり、生物化学兵器を造るのです。
 人間には必要以上の能力を与えられているのです。だから悪いことを考えるのです。人間が猿や犬程度の頭なら、核兵器を造るはずがないのです。ミサイルや細菌兵器を造るはずがないのです。
 皆様は現在の地球ができる前のことが分かっているはずです。太陽系宇宙以外の宇宙は、地球ができる前を現わしているのです。そういう星雲が、宇宙にはたくさんあるのです。
 地球が終わったらどうなるのか。これは新約聖書の終わりに少し書いてあるのです。今の天と地ではない、新しい天と新しい地ができるのです。
 「新しいエルサレムが天から下ってくるのを見た」と書いているのです(ヨハネの黙示録21・2)。
 新しい天ができて、地は地獄になるのです。聖書にはこういう歴史の秘密が書いてあるのです。
 神がどのように天地を造ったのか。神がどのように人間を生かしているのか。人間の命は一体何なのか。こういうことが分かりますと、死んでから自分の魂がどうなるのかが、はっきり分かるのです。
 この世が始まった時に、隠れたものがあるのです。隠れるべきものが隠れたのです。そこで現われるべきものが現われたのです。
 現われたものを見ると、隠れているものが分かるはずです。男のハートとは何なのか。女の色気が男自身のハートです。女を見ると女が造られる前の状態が分かるのです。
 満開に咲いた桜を見ると、桜の木ができる前の桜が分かるのです。桜ができる前の桜が花になって現われているのです。
 隠れているものを現わそうとしているのです(マタイによる福音書13・35)。これが神の天地創造です。これは御霊に聞かないと分からないことです。
 皆様が見ているのは物質ではなくて、物質として現われている神の状態を見ているのです。物質になって現われている神そのものを見ているのです。
 桜の花はチューリップとは違った現われ方をしているのです。形も違いますが、色も違います。香りも咲く時も違います。咲き方も違います。花と言いましても、桜とチューリップとでは全然違うのです。
 在り方の相違というのは人間的に言いますと、言葉使い、文章の書き方の違いになるのです。
 目に見えないものを、目に見えるものにしてあげよう。そしてこの世が始まった時に、隠れたものがある。現象世界によって現象世界ができる前の世界を現わしていると言っているのです。
 こういうことを説明することが、神の預言です。神に代わってこういう説明をする人のことを預言者と言うのです。
 従って、皆様は神の預言者を目で見ていることになるのです。皆様が見ている森羅万象は、神の言葉を見ているのです。音として聞いているのは、神の言葉を聞いているのです。
 目で見ること、手で触れること、食べること、匂いでみることは皆同じことをしているのです。人間の五官の働きというのは、神の言葉に触れているのです。
 皆様の霊魂はいつでもそういう状態で、神と交わっているのです。人間が生きているということは、肉体ができる前の条件で生きているのです。これが霊の命です。
 人間が今生きているのは、肉体ができる前の条件で生きているのです。男が女に惚れているのは、女ができる前の女です。それに男は惚れているのです。これが女の色気です。
 色気と欲は違うのです。それを現在の人間は色気と欲を結び付けているのです。そのために、女性の本当の値打ちが分からなくなっているのです。
 女性の本質はどんなにすばらしいものか分からなくなっているのです。今の人間はセックスが性欲だと思っているのです。性欲だと思い込んでいますから、肉体的な女しか見えないのです。
 イエスは「肉体的に女を見たら姦淫になる」と言っているのです(マタイによる福音書5・27)。肉体的に女を見ない方法とは何か。これが今の人間には分からないのです。だから全世界の人間は皆姦淫しているのです。
 聖書の建て前から言いますと、キリスト教の信者でも信者でなくても、全部地獄へ行くのです。
 本来のあり方を知らない者に、その間違いを知らせてあげなければならない責任が、神にあるのです。だから、地獄の裁きがあるのです。
 本当に素直な人は、女性を性欲的に見るのが苦しいのです。だから、私にどうしたらいいのかと質問しますが、答えても答えても分からないのです。
 人間は生きていることを肉体的にしか見ることができないのです。自分の命を肉体的にしか見ることができない者は、霊的に生きることができないことを意味するのです。自分ができる前に自分がいたのです。自分がこの世に生まれる前に、自分の原形があったのです。
 自分の原形がどんなものかということを見ずに、今生きている自分しか見ないのです。だから、今生きている自分しか知らないのです。
 地球ができる前に地球の原形があったのです。地球の原形が今の地球として現われなければならない理由ができたのです。それは悪魔という人格が現われたからです。
 死という事実が宇宙に発生したのです。死が宇宙に発生したので、やむをえず物を現わさなければならなくなったのです。本当のあり方と、嘘のあり方の二つのことを現わさなければならなくなったのです。そこで、「初めに、神が天と地を造った」と書いているのです。
 初めにということは、時間がなかった時のことです。時間が始まった一番最初に神がしたことは、天という原則と、地という原則を造ったのです。天という原則は隠れた原則です。地という原則は現われた原則です。
 神は隠れた原則と現われた原則の二つを造った。これが聖書の始まりです。こういうことは聖書を勉強しないと分からないのです。
 キリスト教ではこういう説明をしません。キリスト教の人々は私たちと同じ聖書を読んでいますけれど、隠れた世界、地球ができる世界のことは皆目分からないのです。
 今私たちは肉体的に生きていますが、これを実物だと考えてはいけないのです。今地球がありますが、地球ができる前の地球、未必の地球があるのです。未必の地球が既必になって現われているのです。
 森羅万象が地球にありますが、地球に現われる前の森羅万象があったのです。これは何であったのか。なぜそれが地球に現われなければならなかったのか。
 現われている森羅万象はやがて消えるのです。現われたものは消えるに決まっているのです。
 皆様は今現われていますが、この世に現われるまではこの世を知らなかったのです。知らなかったから森羅万象を見ることができなかったのです。
 森羅万象を見ることができない人は、神の力、神の実物、神のあり方を認識することができません。
 チューリップという格好で神が発言しているのです。桜という形で神が発言しているのです。神の言葉を聞こうと思いますと、チューリップの花からチューリップの言葉を聞くのです。桜の花から桜の言葉を聞くのです。皆その人その人の因縁によって、神が語る言葉が違うのです。同じチューリップの花でも、花心がある人と花よりも団子がよい人とがあるのです。
 チューリップも人によって言い方が違うのです。その人の魂のあり方に従って、神が語りかけているのです。
 神は一つの言葉によって千差万別のことを語るのです。一つのチューリップの花を千人に見せたら、千人皆違うように感じるのです。神は一つのチューリップによって、千人の人に語っているのです。神はこういう言い方をするのです。
 皆様はチューリップの花を見て何を感じるのでしょうか。誰でもきれいだと思うでしょう。きれいとは何でしょうか。すばらしいと思うのは何でしょうか。
 チューリップの花は発言しているのですが、肉体人間にはチューリップの格好しか見えないのです。魂の人間にはチューリップの言葉が聞けるのです。
 チューリップは人間の魂に語っているのです。形は人間の目に見せていますけれど、チューリップの心は人間の霊魂に語っているのです。花には花の霊があります。
 前大僧正行尊は、「もろともに あわれと思え 山桜 花よりほかに 知る人もなし」と詠んでいますが、これは花の心を詠もうとしているのです。
 行尊は花が咲いている状態しか詠んでいないのですが、もっと花の心を詠んでいきますと、人間の魂に呼びかけている言葉が分かってくるのです。
 二、三歳の子どもは花を見ると、花、花と言って花の中へ頭を入れようとするのです。二、三歳の子どもは、人間として生きていなくて、魂がむき出しで生きているのです。魂と花が一つになっているのです。だから、子どもは花の中へ頭を入れようとするのです。そこに、同類がいるからです。
 花が咲いている姿と、人間の霊魂の本質とは同類です。これが生け花の本当の心です。生け花は人間の魂にものを言っているのです。花を活かすことによって、人間の魂に天地の心を教えているのです。これが茶の心です。
 ところが、今ではこれが分からなくなっているのです。天地の心は人間の魂に何を訴えているのでしょうか。この世は造られる前に隠れたものがあるのです。隠れたものが訴えているのです。
 何が隠れたのかと言いますと、天地が現われた時には死の力が働いているのです。天地が現われる前には死がなかったのです。命だけがあったのです。死はなかったのです。
 花は死のない命だけを現わしているのです。これがとこしえの命です。とこしえの命が花に現われている。だから、美しいと見えるのです。
 聖書に、「私は口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」とありますが(マタイによる福音書13・35)、何を語っているのか。死のない世界を語っているのです。
 この世が始まる前には、死はなかったのです。死が発生したので、神はやむをえず万物を現わしたのです。今の人間の社会は死の社会ですが、花には死がない命がそのまま現われているのです。これに気が付いたら本当の風流が分かるのです。これを愛と言うのです。
 死なない命、とこしえの命を神が花によって見せている。これが愛です。聖書に「神は愛なり」とありますが(ヨハネの第一の手紙4・16)、とこしえの命、死なない命を教えるのが神の愛です。
 神を信じるというのは、愛を信じることです。愛の受け止め方が分かると、初めて本当の恋が分かるのです。
 恋は欲ではありません。もっと高いものです。女の上の女、男の上の男です。女の上の女、男の上の男が恋愛をすると、初めて本当の恋愛が分かってくるのです。こういう恋愛をして頂きたいのです。
 愛が分かると魂が喜ぶのです。死なない命を経験するのですから、その人の命がとこしえの命に移っているのです。
 人の上にある人がイエスです。人間全体の上にある人間の本質がイエスです。このイエスが死を破ったのです。イエスの復活を勉強しますと、死なない人、死ぬはずがない自分が見えてくるのです。これを皆様にも勉強して頂きたいのです。
 なぜ人間に矛盾があるのか。人生は矛盾に満ちています。もし矛盾がなかったら気楽に生きていけますけれど、自分自身の魂を完成することは全く不可能です。矛盾があるから魂を完成することができるのです。
 人生に矛盾がなかったら、生きていても何にもならないのです。宇宙に矛盾がなかったら、神は人間を造る必要がなかったのです。
 皆様がこの世に現われた以上、この世のカルマ、業を果たさなければならない責任があるのです。花を見たり、魚や肉、野菜、果物を食べたりしているのですから、天地の心が人間の心にアピールしようとしていることを、いつも感じているはずです。
 冬の日に日向ぼっこをしていると、ほこほことした温もりを感じます。温もりが天地の愛を示しているのです。
 天地の愛というのは、おのずからの命です。地球があってもなくても、地球ができる前に命があったのです。その命は死なない命だったのです。
 宇宙に死の法則が現われたので、これを消してしまう必要が生じたのです。死の法則を消してしまうということがカルマになったのです。
 死を消してしまうために、神が天地を造ったのです。天地を造ったということは、神が愛を現わしたのです。神が愛を現わすことによって、死が自滅しなければならない方法を神が考えたのです。これが天地の創造です。
 皆様はカルマによってこの世に生まれたのであって、カルマがこの世に生まれたことの原因です。
 人間は自分が生まれたいと思ってこの世に生まれたのではありません。業(ごう)によって生まれたのです。生まれたということがカルマです。これは避けることができないのです。
 罪とはどういうものかと言いますと、原罪のことを言うのでありまして、単数の罪と複数の罪があるのです。単数の罪は人間が肉体を持っていることによって、肉の思いを持たねばならないようになったことです。
 人間が生まれたのは肉体的に生まれたのではありません。生きるという事がらがこの世に出てきたのです。ところが、人間はそれを肉体的に受け取ってしまったのです。
 生きるという事がらが生まれてきたのです。これが命の息です。命の息が生まれてきたのです。これを人間の祖先が肉体的に受け止めてしまったのです。
 今皆様は、肉体的にしか命を受け止めることができないようになっているのです。これを罪というのです。
 罪とカルマとは違うのです。
 人間の命がこの世に現われなければならないようになったのです。命の息がこの世に現われたのです。これだけなら良かったのですが、女であるエバが大変な考え違いをしてしまったのです。
 エバが間違えたのです。愛を間違えたのです。肉体的に愛されることが愛だと思ったのです。これが人間の原罪の始まりです。これについては創世記の二章、三章に詳しく書いていますので、参照して下さい。
 セックスの原理とは何か。何処からきているのかと言いますと、女のペースです。女が喜ぶこと、女を喜ばすことです。それを男が喜んでいるのです。今のセックスは女の原理になっているのです。
 ところが、人間存在の本質は女です。女のお好みが世界の歴史を動かしているのです。男のお好みは世界を動かさないのです。男の仕事はお金儲け、権力の争奪です。
 文明のセンスは女のセンスが中心になっているのです。性についての感覚はすべて女性のペースです。女が喜ぶこと、女を喜ばずことがセックスだと思い込んでいるのです。
 人間の学問も宗教も間違っているのです。人間にとって一番関心が高いのはセックスです。これを説明することが最も難しいのです。
 人間はセックスについてどう間違ってきたのかと言いますと、女の本質はハートです。人間のハートが女です。人間のハートが女になって現われているのです。
 ハートは何を願っているのかと言いますと、愛です。ハートは愛されることを願うのです。女はそれが分かっていますから、セックスに引きずり込まれている状態について怪しいものだということが分かるのです。セックスが生臭いことだということが、女には何となく分かるのです。
 男は生臭いものだと思わない。結構なことだと思えるのです。女は生臭いと思っていながら喜んでいるのです。ここが違うのです。女は生臭いと思いながらセックスがやめられないのです。ここに女のカルマがあるのです。
 罪は女のセックスからきているのです。セックスの原理が罪の本質です。人間が地獄へ行くことの根本原理がここからきているのです。
 女は元々愛を求めるはずだったのです。それがセックスになってしまったのです。肉(現象)は食べてはならないものだったのですが、それを食べたのです。
 女が肉(現象)を見たら、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」と思われたので食べたのです。
 エデンの園でへびが女に言ったのです。へびというのはどういう人格なのか。善悪を知る木の実を食べた結果、へびの人格が女に乗り移ったのです。女に乗り移った女のセックスの感覚が、今日の人間の性欲の根源になっているのです。
 男は威張ってはいるけれど、セックスは女の言う通りになっているのです。女を喜ばせることが第一だと考えているのです。
 神は男に善悪を知る木の実を食べるなと言ったのです。女には言ってはいないのです。女は神に食べるなと言われた覚えはないと言って、逃げることができるのです。
 食べたのは女ですけれど、食べるなと言われたのは男です。女は食べるなと言われていないから、へびの言葉を聞いて食べたのです。この時男は、私は神が食べてはいけないと言われたから、私は食べませんと横を向いたとすると、罪が発しなかったのです。従って、死ぬということがなかったのです。だから、地獄はなかったのです。
 人間の煩悩、苦しみの根本原因はセックスにあるのです。男が本当の見方が分かってくると、人生の矛盾がなくなるのです。女は自分の間違いを、女自身で改めることが現在ではできなくなっているのです。それは現世は男が中心になるべきだということを決めてしまったからです。
 なぜ神がそう決めたのかと言いますと、女が罪を犯したので、過ちをしなかった男に、女が従わなければならないことになったのです。そういうことを神が女に命令したからです。
 女は男のハートです。男はただのマインドです。ハートの方がマインドよりも上等です。しかし、現世の人間生活はマインドが中心であって、ハートが中心になっていないのです。これが現世の人間生活のあり方です。
 今の時代において、人間の罪をどのようにしたらいいのかということです。イエスは女の末であって、女の代表者です。処女からイエスは生まれましたが、これは女の末を意味しているのです。
 イエスは父親なしに生まれたのです。イエスの父親は神であって、この世の父親ではなかったのです。
 現世では本当の責任者は男になっているのです。男の救いはイエスを信じなかったらできませんから、男がイエスを信じることは、男が女の末になることを意味しているのです。
 女は愛の本質を見極めるために造られた人格でしたが、女は本当の愛、アガッペーの愛をエロスにしてしまったのです。
 エロスは肉の愛です。女がアガッペーをエロスに摩り替えてしまったのです。今では愛という言葉はエロスに考えられていますが、実は、愛はアガッペーの愛でなければいけないのです。
 チューリップが示している愛は本当の愛です。これが死なない命です。チューリップは死なない愛を見せているのです。これが本当の愛です。死なない命を見ることが女の本願だったのです。
 ところが、女は死なない命よりも、この世の楽しみの方を選んでしまったのです。男はそれを認めてしまったのです。そこで、男の責任になってしまったのです。
 そこで今の男はこの世で楽しむよりも、とこしえの命の本質は何であるのか、本当の愛とは何であるのかということを確認しなければならない責任があるのです。
 女の末であるイエスが、それを見事に達成したのです。そこで私たちは、イエスが死を破ったということにどんな価値があるのかということ、どういう効能があるのかということを認識しなければならないのです。
 そうすると、皆様がこの世に生きている原理、セックスの原理ががらっと変わってしまうのです。
 チューリップの花は、花ができる前の命、目に見えないとこしえの命を現わしているのです。神は目に見えないとこしえの命を現わすために、チューリップの花を造ったのです。
 死なない命を現わすために、植物を造り、川を造り、青い海を造ったのです。空が青いのも死なない命を現わすためなのです。
 天地万物を読んでいけば、死なない命が分かるようにできているのです。
 皆様は美しい景色を見ることが楽しいでしょう。なぜ楽しいのでしょうか。死なない命を見ることができるからです。死なない命を勉強することができるからです。
 天地自然の景色は、皆様に死なない命、とこしえの命を教えているのです。
 景色を見ることを観光と言います。観光というのは神の光を見るのです。神の光を見るから観光というのです。
 景色を見ることがなぜ観光になるのか。景色の本当の実物、空が青いこと、海が青いこと、その姿の本物を見破ることができると、自分の中にとこしえの命があることが分かってくるのです。
 イエスはこういう考え方をしていたのです。私もイエスの考え方をもらったので、イエスと同じ考え方ができるようになったのです。
​             (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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