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                       「性」
 
 神が日本に開いている神のメッセージを十分に了解する必要があるのです。皆様は神の使者として、全世界の人間の前に立たなければならない義務があるのです。
 世界観が小さいからいけないのです。
 現在の人間の世界観は白人の世界観ですが、これは非常にレベルが低いのです。命について何も分かっていない。聖書から見るとそう言わなければならないのです。
 男性を中心にして文明を造っていることが間違っているのです。キリスト教は頼りない宗教ですけれど、聖書を信じているのです。聖書を信じているつもりで全く聖書が分かっていないのです。
 聖書を信じていながら現在の世界観になっているというのは、何という盲目なのかと言わなければならないのです。皆様にキリスト教の欠点がよく分かっていないのです。
 固有名詞の自分は神が認めていない自分です。神が私たちを相手にしているのは、固有名詞でないものとして相手にしているのです。イエスと同じものとして神が相手にしてくれているのです。
 私たちがイエスが主であると確認しているから、私たちを主イエスと同じように扱っていてくださるのです。私たちの霊魂がイエスと同じ立場に立たされていることを前提として、神が私たちを扱っているのです。従って、私たちがイエスと同じ立場に立っていることを認識していなかったら、何にもならないのです。
 空観が白人には分からないのです。ユダヤ人にももちろん分かりません。新約聖書は空観を基礎にしなければ理解できないものです。空観を認識しなければ自由に読むことができないのです。
 空観に立つことを前提にしなければ、聖書を読むことができないのです。偉そうに言いますが、これができるのは、今のところ日本の私たちしかできないのです。なぜなら、空観をしっかり学んで聖書を勉強しているからです。
 キリスト教ではこれが分からないのです。皆様が気が付いていない人間の間違いがあるのです。女に対する男の見方が間違っているのです。
 聖書そのものの感覚で言えば、セックスというものがないのです。これは現世の世界観が勝手に造り出したのがセックス観という思想です。こんなものは初めからないのです。神が認めていないのです。
 アダムが深く眠らされて、あばら骨の一本を抜かれたということはあります。そうして、女を造ったのですが、男と女の関係はセックスとは違うのです。
 女は男のあばら骨を抜かれて造られたのですから、女はどこまでもあばら骨です。これはセックスの対象とは違うのです。あばら骨は人格の中心です。アダムは人格の中心を引き抜かれたのです。
 あばら骨は人格の中心ですから格です。性とは違います。女は性ではなくて格です。骨の骨とは人格の核心です。だから、女が主体になるべきものです。
 男を深く眠らせて、あばら骨の一本を抜いて女を造ったとあります。眠りから覚めて男は女を見て、「私の骨の骨」と言ったのです。こう言った時、アダムはまだ正気でした。
 神はアダムを中心にして人間を捉えているけれども、人間の方としては、アダムを中心にして見たら間違ってくるのです。
 神はアダムを中心にして経綸しているのです。しかし、人間の側から言えば、アダムは中心を抜かれているのです。骨の骨を抜かれているのです。
 骨の骨を抜かれてしまってからの男は、罪を犯しても犯さなくてもだめなのです。罪を犯さなくてもだめです。罪を犯したらもちろんだめです。
 この男が中心になって世界を造っていますから、現世は全く悪魔の世界です。
 男の中心ははっきりなくなっていることを創世記の二章は書いています。男の中心は格ですが、これが抜かれているのです。従って、今の男は格のない男です。このことを男が認識したら、考え方が全然変わってくるはずです。
 ところが、男は格を失っていることを知らないのです。男と女の関係は別格です。性別ではないのです。このことをユダヤ教もキリスト教も全然知らないのです。
 男と女とは、性という考え方をすべきものではないのです。性という考え方をすべきではなくて、格という考え方をすべきです。
 男と女の違いは性の違いではなくて、格の違いです。性の違いだと考えるから、男と女の感覚が間違ってくるのです。
 そこで、男と女を一つにすると、人間の人格が一つになるのです。男と女の人格が統合されると、イエスが主であるという人格になるのです。イエスによらなければ統合できないのです。
 今の男は女を統合できないのです。女はもちろんできません。女は骨の骨ですから、男に帰らなければならないことになるのです。ところが、男の方は骨の骨を持っていないのだから、正当に物事を判断する力を持っていないのです。
 男は神からはっきり罪人と言われています。しかし、女は罪人になっていないのです。聖書が人間をどのように扱っているのかということを、具体的に、正確に見ていかなければならないのです。
 現在の私たちの人生観や性別観を取り上げる前に、聖書がどう見ているのかということを考えなければならないのです。
 生きているということは神と一緒にいることです。アダムは生きているということを正当に認めようとしなかったのです。生きているということは事がらです。事がらが神であるということがなかなか分かりにくいのです。
 今の人間にも生きているということ、リビングということがあります。リビングというのは神の御霊という人格です。神の御霊という人格がリビングとして現われているのです。生きているという事がらが、神だということがなかなか分からないのです。
 神を信じるも信じないもない。生きているということが現にあるのです。これが神です。
 私たちが考えなければならないことは、人間は三世に生きているということです。創世記の二章と三章は前世のことです。青草とか木はない。男も女もいないのです。前世では男と女という言葉が使えないのが当たり前です。
 創世記の二章、三章は前世のことです。この世が成立する前です。前世で男と女が分裂しているのです。創世記の二章三章が、私たちが生まれる前のことを書いているのですから、生まれる前の事が知りたければ、第三章の二十二節、二十三節を見たらいいのです。
 人間が罪を犯したからエデンから追い出したと書いています。前世を追い出して、現世を造ってそこに置いたのです。
 エデンの園は前世のことです。前世では罪はなかったのです。罪を犯すことは可能でしたが、罪の実体はなかったのです。
 ところが、現世では罪しかありません。現世には罪の実物しかありません。罪でないものは現世にはないのです。
 性というものはないのです。現世の性を認めると、神もそれを認めているように思い込んでしまうのです。これは間違っているのです。罪を犯してこの世に放り出されたから、性があるように思ったのです。
 男と女という性があると思うことが、罪人の証拠です。神はそれを認めていないのです。本来、男と女は一つです。
 皆様にお願いしたいことは、できるだけ男女の性別を考えないで生活するような人格を持とうとして頂きたいのです。こういう感覚で生活して頂きたいのです。そうすると、御霊を崇めるということが具体的にできるのです。
 男女の性別を考えない生活をするのです。格別を考えたらいいのです。男女をセックスの関係と考えないで、格だと考えたらいいのです。
 あばら骨という問題は格の問題であって、性の問題ではないのです。今の人間が考えているセックスは、情欲になってしまっているのです。ところが、情欲にならなくても正常な意味での性は成立するのです。欲として成立しなくても愛として成立するのです。
 愛として成立する性というのは、現在の人間の考えているものとは全然違うのです。性があるのではない、格があるのです。あばら骨という格があるのです。あばら骨が自分の中に帰るのです。これが愛です。
 白人主義で考えるセックスは全部間違っています。これは現在の医学が間違っているからです。肉体に関する見方が間違っているのです。こういうことからまず修正して頂きたいのです。
 罪を犯した現在の人間が、罪を犯す前の状態を考えることは無理です。一から十まで合理的に考えることはできませんが、できるだけ陥罪以前の状態に立とうとすることが、御霊を崇めることになるのです。
 男は受動性を持っていない。だから、男が女の受動性を取り入れるのです。その結果、男女が一つになるのです。男女が一つになると性がなくなるのです。格になってしまうのです。
 人格が二つに別れて男女になっているから、人格が二つに別れる以前になってしまうと、あばら骨を取られる前の人格になるのです。そうなると、女の素直さが男のハートに帰るのです。
 イエスの他に人間はいないのです。人間のすべてが主イエスになる。これが新約のあるべき状態です。神は人間を主イエスとして扱おうとしている。この神の処置が分かると、人間自身が主イエスになっていることが分かるのです。
 女が男に帰るのです。男と女が全く一つになると、セックスがなくなってしまうのです。人間が考えるセックスは、罪人が肉的に考えるセックスです。これは滅ぼされる人間が考える人生観であって、これを脱ぎ去ってしまうのです。
 セックスが本当にあると考えている間は、本当に御霊を崇めることができません。セックスが邪魔になってできないのです。セックスの思いを持っている人間が、聖霊を崇めることができないのです。
 リビングが神ですから、これを実行しようと思えば、まず御霊を崇めるための正当なあり方の人格を造らなければいけないのです。正当な人格のあり方を造ろうと思えば、女の優しさが自分の中に帰ってもらわなければいけないのです。
 それでは性の交わりも消えるかというと、消えないのです。性の本質が変わってしまうのです。情欲がなくなってしまうのです。
 情欲を持ったままで御霊を崇めようとすると、偽善者になってしまうのです。宗教観念になってしまうのです。
 ダビデの場合は、旧約という条件があったから許されたのです。新約の場合は、私たちが生きていることがそのまま約束になるので、言い訳ができません。
 男と女は格が違うのです。人格としての格の相違です。男は神に背いて罪人になっています。現在の世の中は男が造っているのです。これは根底から滅びるのです。
 現在の学問も、宗教も、本当の理想、本当の目的を全然持っていないのです。これは世の中が滅んでしまうことの明白な証拠になっているのです。
 キリスト教でさえも聖書の結論を持っていません。人間はどうなるのか、世界はどうなるのかを、キリスト教の人々は全然知らないのです。
 理想もないし、目的もない状態で人間は生きているのです。この人間は死ぬために生きているのです。死ぬために生きているということが、現代人の赤裸々な姿です。
 人間は現世でできるだけ道徳的に生活しなければならないと考えます。それは、死後の世界を無意識に考えているからです。
 来世を無意識に考えますから、人に嘘を言わないとか、善事善行をしなければならないという精神状態を持たされるのです。こういうことが男と女の状態の基本になるのです。
 来世があることが、現代人が間違っていることの有力な証拠になるのです。
 聖書をしっかり読んでいきますと、この世を去った後にどうなるかが分かるのです。人格は来世を持っているのです。来世を持たなければ、現世の人格は成立しないのです。男は罪人ですが、女は罪を犯していない。男と女が一つになると救われるのです。
 女は罪を犯していませんから、男は女と一つになったらいいのです。こういう有難い方法があるのです。
 こういうことは従来の聖書の勉強の仕方では分からないのです。
 セックスはないのです。こういうことをはっきり確認できる精神構造を持って頂きたいのです。セックスがないから情欲もないのです。これが分かると、家庭生活の内容が変わってしまうのです。これを変えないと携挙(けいきょ)に与ることはできないのです。
 男性は罪人ですから、何を考えても罪です。男性は消えてしまわなければいつまでも罪人です。
 世間一般の人間が考えているセックスの考えを持っていると、来世が考えられなくなるのです。来世を成立するためには、現世においてセックスという考えをなくすことが必要です。性別という考えをやめて格別という考えをするのです。 
15.不思議な人間存在
 
 自分の意志によって自分の思想を左右することができるのです。これができる人は、自分の命を思うようにすることができるのです。生命の実質を左右することができるのです。
 自分の生命の実質を左右することができる人は、他人の生命の実質を左右することが許されるのです。これをよく考えて頂きたいのです。
 その人の年齢と立場によって、自分が非常に偉い者のように見えるのです。現世において重大な者のように思えるのです。
 自分が置かれている立場、また、今までの自分の経験を考えると、自分が重要な人間のように思えるのです。聖書がある程度分かると選ばれた人という気持ちになる。つまりユダヤ人のようになるのです。
 選ばれたことは間違いないのです。選ばれなければならない状態になるのです。だから、選びます。選ぶと偉くなるのです。自分の立場を意識するからです。
 これは本当に困ったことです。実力がある人物を神が使うのです。ところが、神に使われると自分を意識するのです。そうしてだめになるのです。
 生きているのは人間が生きているように見えますが、神の御霊に生かされているのです。生かされているということが、入れ子になっているのです。神の御霊が生きているのであって、御霊が生きているという原理によって生かされているのです。
 私たちが生きているのではない。これさえはっきり分かればいいのです。生きているということは誠に不思議なことです。生きているということほど不思議なことはありません。飲むにしても、食べるにしても、御霊そのものの本質をそのまま経験しているのです。
 経験している私たちの能力性もまた御霊です。御霊によって御霊を経験しているのです。これが生きているということなのです。
 私たちの人格、理性は御霊の働きです。同時に時間、空間の働き一切もまた御霊の働きです。時間、空間の働きを人格と理性によって経験しているのです。
 大きい神の御霊の働きを、小さい個々の御霊が経験しているのです。これを生きているというのです。このことが実感できると偉そうな気持ちは全くなくなってしまうのです。自分はいない。生きていないのですから、死なないのです。
 生きていないのですから、死ぬはずがないのです。自分で生きているのなら死にますが、自分で生きていないのですから、死なないのです。ただ神の御霊を経験しているだけです。
 肉体を脱ぐということはあります。しかし、これも神の御霊の経験です。ただ神の御霊の経験を人の御霊がしているだけです。人の御霊もまた神の御霊です。自分が生きているのではない。これが入れ子の原理です。
 自分という人格を意識すると、自分が生きていることになるのです。時間、空間における万物があることを認識させられているけれど、認識させられているのは自分ではないのです。これが神の子としての働きです。
 神の子としての人格はありますが、これは自分とは違うのです。神の継続の神の子としての人格はありますが、これは自分というべきものとは違うのです。神と離れた形になっています。神から命の息を吹き込まれたという形になっていますが、こういう格好で神の子になっているのです。
 神と別れた格好になっていますが、神の子ですから、実は神と離れているのではないのです。
 ところが、人間は神と別の人格があると思っているのです。命の息が神から離れているだけです。しかし、人格が神から離れている訳ではない。命の息が離れているだけのことです。
 人格が離れていると考えると、神から独立した人格があると考えるのです。これが陥罪です。人間は神と分離した形で生きてはいるけれど、神から離れてはいないのです。神を経験するためにそういう在り方になっているのです。
 存在という面からいうと、人間と神は別ですけれど、命という点から言いますと、続いているのです。携挙されると別になるのです。新しい人格が与えられるのです。
 新天新地では神と離れた人格が神と共にいるのです。新天新地では人の人格は自立しますが、現在は自立していないのです。御霊に生かされているのです。人間は現在神と継続して生きているのです。神なしには生きられないのです。鼻から息を出し入れせずに生きられないのです。
 人が生きていることが神と一緒にいることの証なのです。
 まず自分がいるという意識をできるだけ持たないように訓練するのです。神の御名が自分という形で動いているということを意識することによって、イエスが主であるということを認識することができるのです。生ける神の子である自分を認識するのです。
 現世に生きている間は、霊なる神と肉なる人間が離れているように思えるけれど、肉なる人間は実はいないのです。肉なる人間がいるというのは悪魔の認識です。これは間違っているのです。
 肉に従って見ると、肉体的な自分がいると思えるのです。肉体は瞬間、瞬間しか存在していないのです。瞬間というのはあるのかというとないのです。ただ御霊の働きがあるだけです。これが瞬間です。瞬間的に存在しているということは、実は存在していないということです。
 人間が純粋に霊になってしまうと神から別れるのです。肉体にいる間は神と一つです。霊的に携挙されますと、人格的に別になるのです。
 肉体にいる間は、存在という形は肉と霊になっていますが、人格的には一つなのです。生かされているということがあるだけです。
 生かされているということは御霊です。神の御霊が肉体的な形で実感できるということだけなのです。肉体的に実感できるということは、現世をそのように経験させられているということなのです。実は現世はないのです。
 皆様に徹底的に知ってもらいたいことは、現世はないということです。時間、空間は神の言葉の働きであって、実体的には存在していないのです。神の言葉の働きはあるけれど、実存していないのです。
 このことを毎日の生活で実感するまで黙想して頂きたいのです。自分の生活で神の言葉や神の御霊を黙想するのです。肉体があるように見えるのは、神の御霊の働きです。自分の命があるように思えるのは、神の言葉の働きです。神の言葉を黙想したり、神の御霊を黙想したりして自己訓練するのです。
 人間は自分の立場を持ったらそれにこだわってしまうのです。だから、自分の立場を持ったらだめです。人間はいないのですから立場を持つことが間違っているのです。
 人間的にいうと肉体があるように思いますが、人間的な感覚に従う必要がないのです。「肉に従うものは肉のことを思う」と聖書にあります。自分の肉の思いに自分が従う必要はないのです。
 肉体があるような感じがしますが、神の御霊によってそういう感じをさせられているのです。肉体的に生きているような感じがするというのは、実は瞬間であって、瞬間的には肉体が存在している感じを御霊が与えるけれども、継続的に存在しているように思えるのは、人間が勝手に思っているのです。
 目で見ているのは瞬間だけです。瞬間、瞬間が続いているだけのことです。見ている本人は継続しているように見ているけれど、瞬間、瞬間を見ているのです。
 神の計画があるだけで、時間、空間は一切存在していないのです。闇が淵のおもてに座り込んだので、神の霊が水のおもてを動かし始めたのです。
 闇が淵のおもてにいるということがなくなってしまわなければ、時間、空間はなくなりません。悪魔の意識が消えてしまうまでは、人間の中に時間、空間の意識はあるのです。しかしあるような気がするのであって、実存はしていないのです。
 人間は時間、空間があるように意識させられているのです。人間がそのように意識させられていなければ、神の役に立たないからです。人間は神と悪魔の両方を理解する意識構造を持っているのです。
 闇が淵のおもてにありと、神の霊が水のおもてを覆っているという両方を意識することができるのが人間です。この両方を意識して、正しく理解することができた者だけが、神の側に行くことができるのです。
 神の御霊によって生かされているという事実があるだけです。自分が生きているということはもちろんありません。あるべきはずがないのです。
 自分が生きているという実感はあります。御霊に生かされているという実感はあります。神の命を実感できなければ神の役に立つことができないからです。そのために命の実感を与えているのです。
 これは自分の命を実感しているのではなくて、人間の機能としてあるだけのことです。従って、自分が生きているという事実はないのです。
 このことを徹底して、現世で御霊に満たされていることが十分に分かって、それをマスターすることができた者は、改めて命が与えられるのです。これが復活です。イエス・キリストの復活を信じることを許されるのです。
 復活を信じることを許された者は、新しい命が与えられたのです。だから死なないのです。キリストの復活が自分の命だということが十分に信じられるまでは、生きていないのです。
 キリストの命が自分の命になるのです。自分の命はありません。神から貸し与えられているのが現世の命であって、これによって新しい命を見つけるのです。これが復活の命、五タラントの命です。
 私たちがよくよく知っておかなければいけないことは、私たちがこの世に生まれてきた命、現世で肉体的に持っている命は必ず死ぬということです。この命を脱ぎ捨ててしまわなければならないのです。
 肉体的に生きているのは死ぬに決まっているのです。この命を自分だと思ってはいけないのです。これは御霊に生かされているということを弁えるために、仮に生かされているのです。
 肉体的に生きているということは仮に存在しているのであって、これは自分の命ではないのです。罪人が肉の形で生きているのであって、肉体的に生きている自分は何処までも罪人です。これは生きているのではなくて死んでいるのです。
 肉体的に生きている自分は死んでいるのだということが分かると、脱ぎ捨てることができるのです。これを脱ぎ捨てると霊の命が分かってくるのです。これをよくお考え頂きたいのです。
​               (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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