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                      「肉とは何か」
 
 聖書に肉という言葉がありますが、一般の人間の常識には肉という言葉はありません。肉という言葉は聖書独特の思想であって、目に見える現象を肉と言っています。般若心経では色と言っています。
 肉は物質ですが、物質は実は存在していないのです。正確に言いますと、物質は存在していないのです。物質はあるべき道理がないのです。原子の運動はありますけれど、物質はないのです。原子の運動が物理構造になって、それが自然に物体になっているだけです。
 物体というのは構造であって、物質ではないのです。聖書はこれを肉と言っているのです。
 人間は物質があると思っています。人間は物質的に生きている。肉の思いで生きていますから、肉という言葉は却ってないのです。その代わりに物という言葉があるのです。
 科学という思想は物を対象にしていますが、物を対象とするという思想は聖書にはないのです。
 物というのは人間の思いによってあるのです。人間の思いが物になっているのです。肉の思いが物を造っているのです。人間に肉の思いがなかったら物は存在しないのです。
 物はあるように見えるだけなのです。これは肉の思いが物をあらしめているのです。だから、聖書では物と言わずに肉と言っているのです。これはあるように思えるだけです。
 聖書によって言いますと、物は存在していないのです。人間の思いが肉を造っているだけです。だから、聖書では携挙(けいきょ)があるのです。すべての存在は霊であるか肉であるかです。霊で見れば霊であり、肉で見れば肉です。同じものが両方に見えるのです。
 肉という実体はないのです。肉の思いで見ているから肉があるのです。肉の思いを捨ててしまうと肉は一切ないのです。
 肉の思いで生きていると、その人の魂が勝手に地獄を造っているのです。地獄はないのです。ないのですが、その人が勝手にありもしないものを造っているから、来るべき世界を地獄にしてしまうのです。
 現世で肉がないということに徹してしまえば、来世で地獄がないのです。地獄を造る必要がないからです。
 肉の思いという思想が神に反しているのです。肉体的に生きているということと、肉の思いとは違うのです。肉体的に生きているということはありますけれど、これは肉があるのとは違うのです。
 肉体的に生きているというのは、神が現在の人間に躾として与えているのです。人祖アダムがエデンの園で、神が絶対に食べてはいけないという善悪を知る木の実を食べてしまった。罪を犯したのです。罪を犯した人間は肉の思いを持ってしまったのです。
 肉の思いを持ってしまったので、躾をしなければならない。そこで、肉の世界があるように思えるのです。これは神が人間に与えた躾です。この神の躾をよく理解して、肉に従わないで霊に従えば、肉のない世界に入れるのです。そこへ入った者は天へ行く。入れなかった者は神の躾に抵抗した者ですから、来世に地獄を自分で造ることになるのです。これが地獄の苦しみです。
 神が言うとおりに来世を造っていけば、来世が救いになるのです。神の国に入って、神と共に住むというほどの立派な救いを与えられないとしても、地獄へ行かなくてもいいのです。
 「神が人と共に住み、人は神と共に住む」と書いていますが(ヨハネの黙示録21・3)、こういう立派な救いに与る人はごくわずかでしょう。しかし、天国の民になるのは相当の人数になるのです。神の躾に従って、霊の思いで何とか生きた人は、天国の民になることができるのです。
 現世に生きていながら、肉の思いで生きないで霊の思いで生きるのです。何としても霊に生きるのです。異邦人としてこれができたら上等の方でしょう。まずこれをすることに熱中して頂きたいのです。
 イエスが主であると本当に信じるのは、全く神に同化することなのです。一人の人の中に入ってしまうのです。自分は消えてしまうのです。肉の自分はなくなってしまうのです。これがイエスが主であるとなるのです。
 一番分かりやすいけれども一番難しい問題は、自分が生きていると思うことです。ところが自分が生きていると思うのは、どう考えてもおかしいことです。
 自分というのはいるはずがないのです。人間は天然自然に生まれてきたのですから、それを自分だと思うのがおかしいのです。自分が生きているとか、自分が死ぬとかいうのがおかしいのです。
 今生きている自分は、経験する人格として生かされているのです。経験する人格として生かされているので、自分という認識を持っていなければ経験できないのです。だから、自分という人格を神が与えてはいるけれど、これは自分ではない自分です。経験するための自分であって、自分が生きているのとは違うのです。
 ここが聖書で一番難しい所です。この世を経験するためには、経験者としての人格がいるのです。経験者に人格がないと、動物と同じになってしまうのです。ただ生きているだけになるのです。
 人間は神の命の息を与えられていますから、神のペルソナと同じ人格が与えられているのです。だから、神に代わって物がある世界で経験する使命が人間にあるのです。
 そのためには、経験しなければならないのです。生きているということを経験をしなければならないのです。これをするためには、経験の主体としての人格がいるのです。そこで自分という認識が与えられていますけれど、これは自分が生きているのではないのです。
 生かされていることを通して、神が人間を生かしていることを経験するのです。神が万物を造ったことを経験するのです。神に代わって神の業を経験するのです。そのための人格が与えられているのであって、自分が生きるためではないのです。
 自分が生きていると考えると、途端に地獄へ行ってしまうのです。ここが人間の人生観と聖書の人生観の違いです。
 「人間の無知な心は暗くなった」とありますが(ローマ人への手紙1・21)、自分の命があると思うから暗くなるのです。自分の命というものはないのです。
 神が生かして神に経験させられているのです。神の命の息が、人という格好で現われているのです。これは自分とは違うのです。
 神を経験しなければならないので、自分という人格はあるのです。自分という人格はあるが、自分の命とは違うのです。ここが難しいのです。
 自分は経験者としての人格であって、存在者としての人格とは違うのです。経験はしているけれど存在はしていないのです。生きてはいないのです。
 生活を経験させられているのです。良いにしても悪いにしても経験させられているのです。良かったり悪かったりしている生活を経験しているだけです。だから、自分の思想に自分が執着する必要がないのです。そうすると、救われるのです。ありもしないものをあると思うから地獄が発生するのです。
 人権ということが最近盛んに言われていますが、理屈では人権はあります。現代思想では人権という理屈は成り立ちますが、本質的に言えば、人間に人権があるべき道理がないのです。
 人権と言える基礎を人間は持っていないのです。命は自分のものではないのですから、人権はないのです。自分の命を持っていない者が人権があるはずがないのです。
 今の人間は自分の命があると思っているのです。これが根本的な間違いです。だから、基本的人権は人間の妄念です。
 私たちがこの世に生まれる前に、人間は前世で罪を犯したのです。前世で罪を犯したので、現世の人間は罪の人生をそのまま送っているのです。だから、基本的人権という、ありもしないものを勝手にあると思い込んでいるのです。
 社会や国は現世ではありますが、前世ではなかったのです。国家社会というものは人間の業が造ったものです。道徳や法律も人間が造ったものです。学問は人間の経験に基づく知識であって、生き様の情報です。生きるための情報が学問になっているのです。学問は現世の生活情報ばかりです。生活情報でないものは一つもありません。宗教でさえも生活情報です。
 聖書を厳密に読んでいきますと、一人の人のことを書いていることが分かるのです。個々の人間のことを全然書いていません。一人の人のことを書いています。なぜかと言いますと、人間は一人しかいないからです。二人以上の人間がいると人間は勝手に思っているのです。
 人間社会の常識で見れば多数の人間はいるのです。しかし、神の原理に基づいて見ると、人間は一人しかいないのです。
 固有名詞の人間は初めからいないのです。固有名詞の人間が肉体的に生きているというのは全部嘘です。これは人間の原罪が造った思想です。
 エバというのは動物の母を意味するのです。エバが産んだ子供、女が産んだ子供は全部動物です。霊魂と違うのです。
 聖書に、「エバはすべて生きたものの母だからである」とあります(創世記3・20)。生きたものの母というのは、すべての生きものの母という意味です。
 女が産んだ子供は動物を意味するのです。人の子とは違うのです。固有名詞の人間は動物人間であって、神から生まれた人とは違うのです。だから、絶対に救われないのです。固有名詞の人間がいくら聖書を勉強しても、その人は救われません。自分がなくなってしまわなければいけないのです。
 イン・クラスト(in christ)とありますが、キリストという人格で救われるのであって、自分が救われるのではないのです。
 フェイス・イン・クラスト(faith in christ)とあるのは、キリストの信仰を持つのです。自分が神を信じてもだめです。
 これは何回言っても分からない所ですが、自分が聖書を信じることが間違っているのです。良くても悪くても、自分が聖書を勉強していたらだめです。
 イエスは私に来なさいと言っているのです。イエスの人柄の中へ入ってしまうのです。イエスという一人の人だけがあるのです。イエスの名によって固有名詞の人間が救われるのではないのです。
 固有名詞の人間は絶対救われないのです。固有名詞は良くても悪くても問題にならないのです。イエスという人格の中へ入ってしまうしか救われないのです。
 本当のキリストの教会というのは、イエス・キリストの中へたくさんの人が入ってしまうことをいうのです。この点で現在のキリスト教は完全に間違っているのです。
 民主主義は神の前には絶対に通用しません。人権主義は妄念だということを強く主張していきますと、神の御霊が助けてくださるのです。そうすると、力がついてくるのです。
 同時に固有名詞の人間が救われると決して考えたらいけないのです。固有名詞を持っている人間は、現世に生きている時から消えてしまわなければいけないのです。
 エバは動物の母です。現在の地球上の動物は、人間の女であるエバが頭になっているのです。例えば、牛のメスが頭になるとおかしいのです。ところが、エバが頭になると、エバは人間の頭であり、エバが産んだものがすべて生き物の頭になるのです。
 すべての動物は人間を頭にしているのです。エバが産んだのは肉体人間です。肉体人間は動物の頭です。
 聖書が見ている人間は肉体人間ではないのです。聖書がいう人間とは、生かされている人間です。鼻から息を出し入れしている人間です。鼻から息を出し入れしているというのは、肉の人間を指していないのです。生かされている人間を指しているのです。
 聖書は厳密に言いますと、一人の人間しか指していないのです。人間の女から生まれた人間は動物人間であって、動物に属しているのです。
 二○一七年現在、世界に七十四億の人間がいますが、すべて動物に属しているのです。聖書でいう一人の人は、動物人間ではないのです。神に直接生かされている人間のことです。
 イエスは一人の人です。七十四億の動物人間とは違います。私たちは七十四億の動物人間の中に入ってはいけない。イエスの中に入らなければいけないのです。
 イエス・キリストを信じるということは、七十四億の人間から出ることを意味するのです。これをパウロは古き人を脱ぎ捨てると言っているのです。古き人を脱ぎ捨てて新しい人を着るのです。
 新しい人は一人しかいないのです。古い人を脱ぎ捨てて、義と聖とに満たされた新しい人を着るのです。エバが産んだのは肉体人間です。肉体人間は動物人間であって、救われるべき人間とは違うのです。救われない人間です。
 動物人間は罪人であって、救われない人間のことです。罪人である人間を脱ぎ捨てなければいけないのです。
 罪人である状態のままで聖書を勉強してはいけないのです。毎日、毎日、古い人、罪人を脱ぎ捨てるのです。事あるごとに自分を脱ぎ捨てるのです。これが信仰です。
 世間並の人間として生きていたらいけないのです。世間並の人間から出ていなければいけないのです。日本人として生きていたらいけないのです。日本人から出てしまわなければいけないのです。
 一人の人とはイエス・キリストを指すのであって、私たちはイエス・キリストと同じ命を持つのです。固有名詞を捨てて名前のない人間になるのです。
 これは難しいことかもしれませんが、毎日、毎日そうなりたいと思っていたら、だんだんそうなれるのです。毎日、毎日そうなることが自分の仕事だと思ったらいいのです。
 肉体人間の自分は救われません。生かされているという事がらが救われるのです。生かされているという事がらは肉体ではないのです。肉体ではないから救われるのです。肉体人間は必ず死んでしまうのです。
 仏教では、現世に生きている人間は空だというのです。死ぬべき人間が空になればいいというのです。新しい人、新しい命を言わないのです。一人の人が分からないからです。
 生かされている人間と、生きている人間とは違うのです。生きている人間はエバの末です。これは動物人間です。生かされている自分は霊なる自分であって、生きている人間とは違います。
 生かされている人間というのは魂のことです。魂は神と共にいる一つのグループです。義と聖とによりて造られた新しい人なのです。
 魂は人口の中に入らないのです。毎日、毎日魂が自分だということを自分に言い続けるのです。そういう癖を自分に付けるのです。自分の信仰が良かろうが悪かろうが、問題にしない。
 分からないと思う自分をほっといて、鼻から息を出し入れしているという事実を見るのです。これが神に生かされている自分です。これは罪人ではないのです。
 固有名詞の自分は罪人である自分です。これは救われなくてもいいのです。救われなくてもよい人間のことを考えないで、救われなければならない人間のことを考えるのです。これがイエス・キリストの命です。
 自分がキリストの中に入らなければならないと思うのです。これが間違っているのです。自分がキリストの中へ入らなければならないのではない。自分が生かされているという状態が、イエス・キリストと同じ状態なのです。これに気が付いたらいいのです。
 苦労したり、悩んだり、苦しんだり、失敗したりするのは肉体人間です。鼻から息を出し入れしている自分は失敗しないのです。いくらばかだと言っても失敗しません。失敗のしようがないのです。霊魂は嘘を言おうとしても言えないのです。喧嘩をするのは肉体人間です。
 肉体人間のことはほっといて、霊的人間の方が自分だと思う癖をつけるのです。こういう訓練をするのです。
 人間と霊魂とは違うのです。霊魂は神に生かされている状態です。状態が霊です。人間と魂の違いをよく考えて頂きたいのです。
​                (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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