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                                                                           「生活と生命」
 
 人間が現世に生きていることがどういうことなのかはっきりしないのです。古代から中世にかけて、また、中世から近代にかけて、そして資本主義から社会主義、共産主義経済へ、そして共産主義から資本主義経済へと移行しているのです。このような流れがあるのですが、文明は一体何処へ行こうとしているのか。何をしようとしているのか。これに対して明確な考え方が存在していないのです。
 マルキシズムは社会を基本にして考えています。ところが社会を構成している人間についての考え方が、どうもはっきりしていないのです。
 人間とは何かということがはっきりしていないのです。学者は人間は現実における生活過程の実体だと定義づけていますが、生活過程の実体というのは、人間が生活している状態を指しているのです。
 ところが、人間の本質という点から考えますと、人間の命についての解明が全然なされていないのです。
 人間の生活はもちろん必要です。生活を抜きにしては人間存在は考えられないのですが、その生活は命のためになければならないのです。
 もし命がなかったら、生活はもちろん存在することはないのです。生活というのは命を生きることです。命があるから生きているのです。
 ところが、命とは何であるのか。生命の本質は何であるのかということがはっきりしないままで、学問が構築されている。これは人間存在の基本的な意味での究明がなされていないことになるのです。
 仮に学者が言うような社会が実現したとしてどうなるのか。その時に、人間の生活は安全になるでしょう。ところが、人間が何のために存在しているのかという問題は、依然として残っていくのです。
 人間とは何かということについての徹底的な究明がなされないままで、社会改革を何回繰り返しても、結局人間の本質という問題は置き去りにされてしまうのです。これが社会構造改革思想の欠陥ではないかと思われるのです。
 人間とは何であるのか。人間は何のために生きているのか。文明は生活のことだけしか考えていないのです。皆様は生活していても、やがてピリオドが打たれる日がやってくるのです。死ぬということがあるのです。
 人間から死ぬという問題を削除することができないのです。ところが、人間は死ぬのは当たり前だと考えているのです。死んでしまえばそれまでだと考えるのです。これは非常に無責任な考えです。
 死んでしまえばそれまでだということを、誰が決めたのでしょうか。死んでしまえばそれまでだという考えが、どうして正当な考えだと言えるのでしょうか。
 人間には魂があります。魂は死んでもなくならないのです。ある雑誌にありました。割腹自殺をした三島由紀夫の霊を呼びだして、今何をしていますかと聞いたら、「原稿を書いている」と言うのです。何の原稿を書いていますかと聞いたら、黙っていたのです。
 死んだ人の霊を呼びだすというのは、日本だけではない。世界各地で行われているのです。これは科学的方式の一つです。神霊科学の方式なのです。
 このように、神霊科学的な方式を用いますと、人間が死なないことが証明できるのです。
 人間の肉体は消耗して使えなくなりますが、魂は現世を去っても黄泉で眠っているのです。これは皆様が夜、お休みになることと同じことです。これが死と同じ状態です。
 人間は死ぬのではなく、他界して永眠するのです。ところが、眠ったら必ず起こされるのです。目が覚める時機が当然やってきます。
 眠っている者がいつ何処で目を覚ますのか。こういうことは聖書を勉強しないと分からないのです。仏典には書いていないのです。
 人間の魂は肉体をとって地上に現われてはいますけれど、人間は何のために生まれてきたのかということです。現代文明の世界観で言いますと、人間は現世に生きるために生まれてきたのです。現世で楽しむために生まれてきたと考えているのです。
 現世で楽しむとはどういうことかと言いますと、性欲、食欲、物欲を満足させるためということになるのです。現世で欲望を満足させるために、生きていると考えるのです。これが人間文明の中心思想になるのです。
 現代文明は倫理、道徳、哲学、宗教と色々ありますが、これを煎じ詰めると、結局人間が現世で生きることが目的になるのです。
 何のために生きるかという解答はないのです。現世に人間が生きるために文明が存在しているのです。ところが人間文明は人間が心から信用できるものではないのです。
 現代の文明は、非常にあやふやないいかげんなものでありまして、心から信用できるものではないのです。
 人間とは何かということがはっきりしないままで、文明が展開しているのです。マルキシズムの欠点、資本主義の欠点は文明そのものの欠点なのです。文明の欠点は、白人文明の欠点なのです。
 何のために人間は存在するのか。人間とはどういうものなのか。人間の本質は何であるのか。こういうことが皆目分からないのです。
 生きていながら命が分からないのです。命とは何か。現在、皆様は命を経験しているのですが、命とは何かと言われると分からないのです。命を現在経験していながら、命が分からないのです。
 今の人間は、人間の常識、知識、いわゆる顕在意識を信じ込みすぎているのです。人間の知識、常識を過大に評価しすぎているのです。
 人間の生活感覚がいわゆる顕在意識です。これを今の人間は信じすぎているのです。学問、人間の習慣、伝統、情報は皆、顕在意識です。
 これを般若心経では五蘊と言っているのです。五蘊は皆空であると言っているのです。五蘊は全部空だと言っているのです。
 人間の常識、知識をいくらひねり回しても、人間とは何であるかという返事はできないのです。人間は何のために生きてきたのか。これが全部分からないのです。
 何のために生きているのかが分からないままの状態で、社会とか国家、政治、経済ということを考えているのです。生きている間はそれでいいでしょう。それでは魂ということが全く置き去りにされているのです。
 現在の文明で、魂のこと、また、命のこと、人間存在で一番重大なことを、真面目に考えている学問は一つもありません。こういうものが現代文明です。だから、現代文明は信用できるものではないと申し上げているのです。
 人間は生きていながら命が分からない。これで人間の責任が果たせるかどうかということです。
 人間はこの世で生活して楽しむために生まれてきたのではありません。魂の目を開くために生まれてきたのです。魂の目を開くとは、魂とは何かをはっきり弁えて、魂が出てきた所へ帰ることです。
 ところが、今の人間は魂の目を開かないで、肉体生活の便利さだけを考えて生きているのです。確かに現代文明によって生活は便利になりましたが、魂はますます盲目になっているのです。こういうとんでもない悪現象が起きているのです。
 般若心経はそういう意識で生きている人間は空だと言っているのです。そのとおりです。人間の常識や知識を信頼している人間の意識は、空っぽだと言っているのです。これが般若心経の思想であって、これは宗教ではありません。般若心経が言うとおりなのです。
 般若心経は東洋無の精神を述べているのです。これは単なる宗教ではありません。単なるインド哲学でもありません。
 実際に現世の人間の常識、知識は空なのです。空そのものです。
 人間は何のために生きているのかということが全く分からないままで文明を造っている。そうして、人間はどんどん死んでいくのです。それだけのことです。こんなばかな人間の生き方は、空だと言わなければならないのです。
 般若心経がいう色即是空という考え方は、全く本当のことです。これは宗教ではありません。
 新約聖書はイエス・キリストが復活したことが中心のテーマになっているのです。イエスが死を破ったのです。これは歴史的事実です。
 日曜日はイエス・キリストが復活した記念日です。現在七十四億の人間が、イエスが復活した記念日を日曜日という形で守っているのです。一週間に一回ずつ守っているのです。
 このような歴史的必然性がどうして存在するかということです。
 今年が2017年であるということは、イエスの誕生を暦年の基準にしているのです。世界の歴史はイエスが存在したこと、また、復活したことを中心にして展開しているのです。従って、このことは宗教ではありません。
 キリスト教で考えている聖書は宗教です。キリスト教の神学を抜きにして、聖書そのものを直接取り上げて考えてみますと、聖書は宗教ではありません。
 般若心経も宗教ではありません。これは人間の魂の目を開くための重要な道しるべと言えるのです。
 人生を勉強するためには、何かの基準、何かの道しるべが必要になりますので、般若心経の空と、聖書の復活を取り上げて、皆様と一緒に命の勉強をしたいと思うのです。魂の目を開くための勉強をしたいと願っているのです。
 今の人間は生活のために有頂天になっているのです。顕在意識にたぶらかされて、本当の意味での魂を全然問題にしていないのです。これは非常に危険な状態です。
 こういう危険な状態であることをよく考えて、皆様と一緒に命の勉強をしたいと考えているのです。
 本当に人生の勉強を真剣にしようと考えるのでしたら、何年か一緒に寝泊まりして生活を共にして話し合えば、そういうことかとお分かり頂けるでしょう。しかし、そういうことは現在のところ皆様には無理のようですので、原理的なことをお話ししたいと思います。
 まず皆様に理解して頂きたいことは、亡霊と生霊ということです。
 亡霊は死んでしまっている人間の霊です。生霊は現在生きている霊です。亡霊は死んでしまっている霊ですが、魂は眠っている訳で、死んでいるのではないのです。
 眠っている証拠に、霊媒によって呼び出すと起きてくるのです。起きてくるというのは、死んでいないということです。
 人間は眠りはしますが、死にはしないのです。それでは死ぬということはないのかと言いますと、あるのです。
 今の人間が死ぬと言っているのは、この世を去ることを指しているのです。この世を去るのは死ぬのではなくて、眠るのです。
 本当の死というのは、人間としての責任を果たしていない者が、人間としての責任を果たさせられるために、強制的に責められるということです。
 現世を去ることが死ではなくて、現世で魂の目を開いていなかったその怠慢を責められるのです。その責任を究明されるのです。これが死です。
 逆に言いますと、人間とは何かということを知らないことが、精神的に死んでいる状態です。人間とは何であるのか。何のために生きているのかということをはっきり知らない状態が、既に死んでいる状態です。だから危ないのです。
 はっきり言いますと、今の人間社会は全部死人の社会です。人間文明は死の文明です。
 人間の魂の本質、生命とは何であるのか。人間とは何かを知らないままで社会を造っているのです。だから、今の人間の魂の状態が死んでいるのです。だから、危ないと言っているのです。
 魂の目を開くのです。魂の目を開くということは、死んだ人間が生き返ることです。今の世界の人間は全部死んでいるのですから、死なないようにと考えて自分を守る必要はありません。死なないようにと考えるよりも、命とは何かということを考えて頂きたいのです。
 命を求めなければいけないのです。人々はちょっと体の状態が悪いと病院に駆け込みます。もし病院へ行けないくらいに悪ければ救急車を呼ぶでしょう。
 皆様は肉体生命については敏感です。ところが、魂の命については全然考えていないのです。こういう物の考え方が死んでいる人の考え方なのです。
 文明というのはただの生活の知恵です。今の大学で教えているものは、全部生活の知恵ばかりです。生命の知恵は一つもありません。
 大学を出た人が社会の指導者になるのですから、社会がどんどん曲がってしまうのです。そうして死の文明を造って得々としているのです。
 亡霊というのは眠っている霊です。生霊というのは生きている霊です。亡霊と生霊とどういう関係があるのかと言いますと、それぞれの家系において、死んでいる魂は生きている魂を非常に当てにしているのです。死んでいる魂は生きている魂を非常に頼りにしているのです。
 こういうことは仏典にも聖書にも書いているのです。生きている人間の勉強次第では、死んでいる人間の魂を幸福にすることはできるのです。
 「孝行したい時に親はなし、墓に蒲団は着せられず」と言いますが、墓に蒲団を着せても仕方がないのです。
 皆様は生きているのですが、皆様の家系で亡くなられた魂は、今生きている皆様を大いに頼っているのです。
 生霊にはものすごい力があるのです。生霊の考え方というものは亡霊に相当強く響くのです。
 なぜ生霊に力があるのかと言いますと、それは神と共に生きているからです。生きているということは神と共にいることです。
 皆様の心臓が動いているということが、神という事実です。皆様の目が見えるということが、神という事実です。
 神は事実です。神というのは事がらです。今皆様は神と一緒にいるのです。だから、強いのです。皆様が偉いのではなくて、皆様と共にいる神が偉いのです。
 ところが、皆様は神を知らないのです。だから、皆様の精神は死んでいるのです。もし皆様が神を知れば、亡霊にそのことが分かるのです。
 自分の家系の死んだ魂が、今生きている生霊に神がはっきり分かりますと、何となく感じられるのです。そこで、因縁を断ち切ることが可能になるのです。
 現世に今生きている人間は、亡霊に対して、また、天地万物に対しても非常に大きい責任を持たされているのです。人間は万物の霊長としての非常に大きい責任を持たせられているのです。だから、生活しているだけで有頂天になってはいけないのです。これをはっきり申し上げたいのです。
 私たちは共に命の勉強をすべきです。顕在意識に捉われないで魂の声を聞くべきです。
 皆様の魂は神を知っているのです。命の本質を知っているのです。ところが、人間の常識や知識はそれを押さえ付けているのです。だから、五蘊皆空を悟って、魂の目を開きたいという熱心な気持ちになれば、命を知るということ、神を知るということは可能なのです。
 命の本質を捉えることはできるのです。私は現在行っています。行っているからこうして皆様に呼びかけているのです。
 私たちは神と一緒に生きているのです。生きていることは神と会話していることなのです。この神は天地を造った神を言っているのです。日本の氏神や土産神とは違います。今現実に人間を生かしているのが神です。
 私たちは現在人間を生かしている神と対話しているのです。対話して生きているのです。生活しているということは、神と対話していることになるのです。
 色が見える、形が分かる、食べたら味が分かるということは、神と対話していることになるのです。色、形、味は神の自己顕現です。神がそういう形で現われているのです。
 神が万物として現われているのです。それを皆様は現在目で見ているのです。だから、分からないはずがないのですから、魂の目を開いて頂きたいと思うのです。
 教育ということが、現世に生きる生活の知恵に留ってしまったのでは何の意味もないのです。人間完成への足掛かりにならないからです。
 読むこと、書くこと、考えることが基礎になって、人間の命の本質にタッチしていくような傾向に伸びていくことが最も望ましいのです。人間の本質、さらに、宇宙の本質に向かって伸びるための足台が人間の教育です。
 足台がなくては伸びていけませんので、その意味での素養はどしても必要なのです。学校の先生自身が、人間の本質への前進、宇宙への前進に志して頂ければと思うのです。生徒へ及ぼす影響も甚大であると思うのです。
 人生は現世に生きている間だけが人生ではないのです。生まれてきたと言います。死んでいくと言います。生まれてきたというのは、何処からか来たのです。死んでいくというのは何処かへ行くのです。
 人間は生まれてきて死んでいくのでありまして、過去、現在、未来という三つの世代を現世という状態で、今経験しているのです。
 皆様が今生きている現実の中に、生まれる前の命があるのです。また、皆様がこの世を去ってしまった後の命もあるのです。
 このことを仏典では三世と言いますが、三世の人生は現実を中心にして展開しているのでありまして、現実、現在、現前をしっかり見つめるという態度を取って頂いたら、生まれる前の自分についての目が開かれます。
 また、この世を去った後の自分についてもはっきり見えてくるのです。これはそんなに珍しいことでもないのです。人間の理性はそれを弁える力を持っているのです。
 今の学者が用いている理性という言葉は、本当の理性ではなくて知性のことです。合理主義の考え方、自然科学的な考え方は、知性であって理性ではないのです。
 理性は現象世界よりも深いもの、高いものです。現象世界によって制約されるものではないのです。理性は現象以上の広がりを持っているのです。
 理性が目を覚ましますと、生まれる前の自分が分かるのです。
 禅宗に、「父母未生以前の本来の面目とは何か」という公案があります。両親が生まれる前のおまえの本当の姿が分かっているかと言うのです。自分が生まれる前ではないのです。両親が生まれる前のおまえの本当の面目が分かっているのかと言っているのです。
 これは碧巖録の中にある言葉ですが、父母未生以前の我が本当の面目です。
 神が分かれば、皆様の理性の目が開かれるのです。神は理性の本源です。神は天地のロゴス(言)の本源です。天地の言、天地の理の本源ですから、神が分かれば皆様の魂の目が開かれるのです。そうすると、父母未生以前の自分自身が分かるのです。
 また、死んだ後の自分も分かるのです。この世を去った後の自分も分かります。
 過去世、現世と未来世の三つがワンセットになったのが人生です。三世を貫く考え方が本当の人生観であって、現世に生きている間だけが人生ではないのです。
 神とは何かということですが、新約聖書のへブル人への手紙の十一章六節に、「神に来る者は、神のいますことを必ず信じる」とあります。これは英訳ではfor he that cometh to God must believe that he is.となっています。
 神がisであることを信じなければならない。神はイズ(is)です。ビー(be)動詞が神です。男が男であることが神です。女が女であること、太陽が太陽であることが神です。
 太陽があることも神です。太陽があることも、太陽が太陽であることも神です。これは日本人が考える神とは全然違うのです。全く違うのです。
 皆様が人間であることが神です。地球が存在するという事がらが神です。あることと、であることがイズ(is)です。これが神です。これが神の本質であって、I am that I am.と神自らが言っているのです。私はアム(am)であると神が言っているのです。
 これが神の本質であって、キリスト教が考えているようなもの、いわゆる天にまします神とは違うのです。
 天にましますということがアイアム(I am)ということなのです。
 キリスト教の人々は聖書を読んでいますが、聖書の本質が読まれていないのです。宗教観念で読んでいるからだめです。
 神は昨日のことでもないし、明日のことでもない。今のことです。昨日のことをあれこれ考えるのは、本当の神が分かっていない人間のことです。明日のことを色々と思い煩うのも神が分かっていないのです。
 現前を的確に掴まえて頂きたいのです。現前を的確に掴まえますと、この中に過去のことも未来のこともあることが分かるのです。
 中国禅の第三祖僧、鑑智禅師の著作と言われている「信心銘」の中に、「至道無難 唯嫌揀擇 欲得現前 莫存順逆」とあるのです。
 最高の真理に至るのは難しいことではない。ただ取捨、憎愛の念を起こして選り好みをするのを嫌うだけである。憎むとか愛するとかがなければ、それはこの上なく明白になると言うのです。
 「信心銘」にはこのように書いていますが、本当の真理を捉えた人は、禅宗にはいないのです。仏法に空がありますが、実はないのです。聖書は実ばかりを書いている。そこで聖書を勉強しなければならないのですが、人間が妄念を持ったままで聖書をいくら読んでも分かりません。
 聖書を正しく理解するために、人間の常識、知識である妄念を捨てなければならない。そのために、まず般若心経を勉強して頂きたい。こういう順序になるのです。
 最高の真理を得ようとしたら、般若心経と聖書の両方がどうしても必要であることをご承知頂きたいのです。
 
              (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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