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                      「霊と肉」
 
 この地球上に現われている命は、動物も人間も、生きているのは霊ばかりです。これが神の御霊(みたま)です。森羅万象を生かしているのが御霊の働きです。御霊は宇宙のプラスのエネルギーです。その霊の思いが人間にあるのです。
 人間の霊の思いが分からないのです。霊で生きていても、また、霊の思いを持っていても分からないのです。文化という言葉も霊になるのです。文化という言葉の中心思想は霊になるのです。
 霊の思いは命であるということを、実際に知っておかなければならないのです。
 自分が生きているという思いは肉ですが、生きている事がらは霊です。そこで、死んでしまうのです。
 人間の精神構造は霊ですが、それが肉で働く場合があるのです。肉の思いというのはやはり精神構造です。肉の思いは死です。人間が常識で生きていることが死です。道徳的に生きていることが死なのです。
 ここから抜け出さなければいけないのです。道徳的に生きている状態を、霊の思いで生きることに切り替えなければならないのです。この所が難しいのです。
 肉というのは目に見える物質です。なぜこういうものがあるかです。物理的にいうと、電子が原子核の回りを回っているだけです。これが原子です。
 電子の運動はあるのですが、物は何処にもないのです。電子の運動によって原子がある。その集合体が物質のように見えるのです。ところが、それが長持ちすることが分からないのです。
 物理運動は瞬間、瞬間の働きです。物質が瞬間、瞬間あるというのなら分かりますが、ところが、どうして何年もの間あるのかということです。
 地球ができていから四十五億年経過していると学者は推定していますが、なぜそうなるのか。この説明ができないのです。
 物理運動が物質になっています。その物質が何年も存在しているのはどういうことなのか。この説明ができないのです。
 パウロは物質が継続的に存在することを、神が人間に教えていると言っています。人間の肉体が四十年も五十年もあるのはなぜかです。物理運動の説明はできますが、肉体が四十年も五十年もあるということの説明ができないのです。
 聖書にはその理由が書いてあります。聖書なら説明ができるのです。物質があることが霊です。人間の肉体は実は霊です。消化、吸収、排泄などの機能が肉体になっているのですから、肉体は肉ではなくて霊です。
 パウロは「神ご自身がとこしえの力を持っている。それを人間は知っているはずだ」と言っているのです。聖書に基づいて人間の心理構造を調べると、神を知っていることが分かるのです。
 例えば、瞬間、瞬間しかないはずの肉体が、五十年も六十年もあるように思えるのです。机や椅子が五十年も六十年あるのはなぜか。瞬間しかない物理現象が、五十年も六十年もある。これがおかしいのです。これは継続的に保っている神の力によるのです。これをエバーラスティングパワー(everlasting power)というのです。
 物質を人間の常識で見ると肉(固定した物体)になるのです。ところが、聖書に基づいて見ると霊になるのです。
 地球は常識で見ると物体です。ところが、聖書に基づいて見ると、霊(事がら)になるものです。神によって創造されたということが霊です。そうすると、肉というものは存在しないのです。
 人間の常識で見ると物質があるように思えるのです。これが肉です。常識で見ると机があるように見えるけれど、実はないのです。聖書によって神の信仰によって見ると、皆御霊の働き、霊の働きばかりになるのです。
 人間は物があると思っている。これが肉の思いです。肉の思いを持っていると、自分は死ぬし、肉の思いで見られている地球も死んでしまうのです。ところが、霊の働きによって存在していることが分かりますと、死なないことになるのです。
 私たちは聖書を勉強している間に、現在の肉体と物質が全部霊なのだということを、生活できるくらいに分からなければいけないのです。これを神の国というのです。
 肉体を認めている人間が見るから肉があるように見えるのです。肉体人間から見ないで、生かされている事がらで見ると、肉はない、霊として見えるのです。
 肉体人間と肉体的に生かされている人間とは違うのです。生かされているのは肉体的に生かされているのです。これは肉体ではありません。肉体的な条件で生かされているのですが、肉体とは違うのです。
 常識的に生きていたら死ぬのです。常識的に生きている人は、肉があると思っていますから死にます。信仰によって霊的に生きると死なないのです。肉はない、霊があるからです。従って、世間で考えている道徳とか法律の根本が間違っていることになるのです。
 肉の思いで生きている人がたくさんいますから、そういう人には法律はいるのです。本当は人間が生きていることが霊です。生きていることが霊ですから、死なないのが本当です。
 常識的に生きていることが間違っているのです。肉の思いを持って生きている人は必ず死にます。私たちは肉の思いを更えて霊の思いで生きなければいけないのです。まず私たちがこれを実行して、また、希望する人々に教えなければならないのです。
 とこしえの命とは何か。霊で生きることが分かれば死なないのです。生きているという事がらが霊ですから、これを生きることがとこしえの命です。
 肉体的に生きるということは、現世で生きる条件です。肉体的に生きる場合であっても、肉体はないのです。血液が循環していることによって肉体が保たれているのです。血液が循環しなかったら肉体は生存できないのです。
 肉体という固定したものがあるのではない。循環現象が肉体になって現われているのです。だから、肉体があるのではなくて、肉体的に存在しているものがあるのです。肉体は肉ではなくて霊になるのです。
 肉体はないのであって、人間の思いが肉体を産んでいるのです。人間は思いを変えてしまいますと、肉体はなくなるのです。そうすると、死ななくなるのです。
 これを頭で理解するだけではなくて、現実に生活しているのは肉体ではない、霊的に生きているという実感にならなければ、信仰にはならないのです。
 人間が生きていることは、神という霊、霊という世界に生きているのです。生きているということはそうなっているのです。ところが、肉体は生きているということが値打ちです。
 生きていることが、肉体が存在するとことの原理です。もし生きていなければ肉体があってもしょうがない。それは肉体とは言えないのです。ただの物体です。
 生きているから肉体というのです。生きていることのお陰で肉体があり、森羅万象があるのです。
 生きているということは霊です。霊があるから肉を認めているのであって、肉があるから霊を認めるのではないのです。人間の思想の根源は皆霊です。
 
 ローマ人への手紙の一章十九節から二十一節は難しいことを述べているのです。
 「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って、彼らには弁解の余地がない。
 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神として崇めず、感謝もせず、却ってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」。
 
 人間は生まれた時からこのことを知っていると、パウロが言っているのです。神は人間を造った時、人間の精神構造の中に神の永遠の力と神性とを知らせているのです。人間が造られた時に、天地が造られたということの真意を、神が人間に知らせていると言っているのです。
 私たちの本性を理解したら、永遠の命が自然に分かるのです。これが霊です。だから死なないのです。
 地球が造られた時からそうなっているのです。地球の性質がそのまま人間の性質になっているのです。人間が自分自身の性質をよく勉強したら、地球の性質が自然に分かるようにできているのです。
 地球と人間とは同じものです。これが霊です。
 世間並の人間は皆死んでいく人間です。常識的に生きている人間は皆死んでいくのです。だから、世間の常識を脱ぎ捨てたらいいのです。常識を信じていると死ぬのです。常識は肉の思いですから死ぬのです。
 ところが、人間は神の永遠の力と神性とを知っているのです。知っているけれどもそれを用いていない。
 人間は神の永遠の力を何となく知っているのです。何となく知っているけれども用いてはいないのです。人間は死んでいく常識で用いているのです。肉の思いの方で用いているのです。
 用いていない方を掘り起こすのです。これが聖書の勉強です。人間には生まれた時から霊の思いがあるのです。これを聖書によって掘り起こしたらいいのです。
 世間並の常識で生きていると死んでしまいます。世間並の常識は死んでしまう人が造ったものだからです。これを捨てないといけないのです。
 霊か肉かというのは大切な問題です。道徳とか法則というのは肉のことです。これは死んでいく人間が造ったものです。
 信仰というのは霊ですから、道徳や法律に関係がないのです。
 人間存在と言いましても、肉を指す場合と霊を指す場合と両方あるのです。生きているということは霊です。肉体を実体とすると肉になるのです。
 すべて霊で見る習慣をつけますと、死なない思想が分かってくるのです。
 善悪はないのです。肉と霊があるのです。肉は死です。霊は命です。人間は生まれつき神の永遠の力を与えられているのです。
 人間は生まれつき死なないものにできているのです。ところが、この世に出てきて、この世で大きくなったために、この世の肉の思いを信じてしまったのです。
 人間は普通に自由に生きています。人間が自由に生きていることが一番恐ろしいのです。人間はやりたいことをして、言いたいことを言っているのです。これは神と同じだけの権利を持っているということになっているのです。これが恐ろしいのです。
 ところが、十字架によって肉が殺されてしまっています。命はあるのです。これが平安です。自分が生きていると考えると、神と並んでいるような形になるのです。これは神から離れている人間になるのです。これは死ぬ人間です。
 ところが、肉がなくなってしまいますと、生きているという事がらだけになるのです。生きているという事がらは霊ですから、神と並んでいるのではなくて、神の中に入っている状態になるのです。
 生かされている人はいますけれど、肉は死んでいるのです。これが十字架上のイエスのあり方です。だから、死なないのです。
 人間は自分の思いで死んでいくのです。自分の思いによって自分で善悪を造っていくのです。自分で造った善悪によって死んでいくのです。納得して死んでいくのです。死にたくない、死にたくないと思いながら、死ぬことを納得して死んでいくのです。
 妙な理屈です。死にたくないと思いながら死ななければならないことを納得しているのです。これが肉の思いです。もし死にたくなければ、死ぬことを納得しなければいいのです。死にたくないと思いながら、死を納得しているのです。
 人間の常識は死が来ることをよく知っています。常識的に生きている人は、死にたくないと思いながら死ぬことを承知しているのです。これがいけないのです。
 無常とはとこしえを否定しているのです。無常観というのは、死にたくないけれども、死ななければならないという見方です。常とは死にたくないという気持ちです。百人が百人、千人が千人共、死にたくないという常を持っているのです。常とはとこしえですから、死にたくないのです。
 無常とはとこしえではない。人間の命はとこしえではないから、死にたくないけれども死ななければならないとなるのです。現在生きていることを自分で否定しているのです。これが無常観です。
 命の実体を見ていないからそう考えてしまうのです。肉の思いで自分の思いを見ているのです。死ななければならないに決まっている自分を見ているのです。とこしえではない自分の方を見ているのです。
 死にたくない、死にたくないと思っている。常ではない自分を見ている。これが無常です。こういう考え方は日本人だけにあるのです。
 肉体的に生きている自分を見ていると無常になってしまうのです。死にたくないけれども死ななければならないことになるのです。肉体的に生きている自分を見ないで、生きているということだけを見るのです。肉体的に生きている面を見ないで、生きている状態を見るのです。
 生きているという状態は、この世ができる前からあったもので、永遠というものがこの世にやってきているのです。これが生かされている状態です。永遠がこの世にやってきて、生かされている状態になっているのです。
 生かされている状態を見ると霊が分かるのです。生きている自分を見ると肉になってしまうのです。生きている自分は死ななければならないに決まっています。生かされている自分は死なない自分です。
 生かされているということに目を付けていると、生かされているという事がらの意味が分かってくるのです。神の永遠の力と神性が人間の命の中にあるのです。人間が生かされている命の中に、神の永遠の命と神性が入っているのです。こちらの方に目を付けますと、死なない自分が分かるのです。
 肉体の方を見ないで、生かされている神の永遠の力の方に目を向けるのです。そうすると、死なない自分が見えてくるのです。
 行いが良いとか悪いとかいう問題とは違います。自分の目の付け所を変えるだけでいいのです。生かされていることの本質に基づいて自分の命を見るのです。
 自分が生きているという方の自分を見ないで、生かされているという面の自分を見るのです。主観的な自分を見ないで、客観的な自分を見るのです。
 人間の命は客観的には素晴らしいものです。これに目を付けて生きると、腹を立てないし、くよくよしない、善悪利害を考えない生き方になるのです。これが十字架に付けられたイエスの状態です。肉が死んでしまっているイエスです。
 十字架に付けられたイエスの状態で生きるのです。そうすると、神の平安が分かるのです。
​                (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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