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                      「復活の命」
 
 聖書に、「心を新にすることによって造りかえられる」とか(ローマ人への手紙12・2)、「心の深みまで新にされる」という言葉があります(エペソ人への手紙4・23)。新しい角度から新しく見ることをしたら、今までの視野ではない角度の視野が開かれるのです。
 これをするためには自分の世界観を拡大すること、革新することが必要です。ただ思想だけで聖書を解釈するのではなくて、自分の思想を広げていくことを考えさえすれば、新しい視野に広がっていくのです。
 学者が研究するのはそういう方法です。新しい学説を発見すると、今までの範囲内で考えることをやめて、新しい学的分野に進展するように考える。そうすると、新しい分野の学が開かれる。これをするしかないのです。
 私たちは学問を勉強しているのではありませんから、学問と同じことをするのではありませんが、そういう方向になるのです。
 新しい眼が開かれることが必要です。今までの考え方の状態のままで、自分の気持ちだけで新しくなったような気持ちでいる。理論的な面と実感的な面とが伴っていくことになりさえすれば、新しい分野が開かれていくのです。
 実感的な面が開かれずに理論的な面だけが開かれていると、実感では同じ世界であって、理屈だけが広がっていくことになるのです。これですと、結局世界観が変わらないことになるのです。
 理屈と実感とが相伴うような形で自分自身の世界を新しくしていくことです。これが自分の生活に現われてくるようなやり方を自分で勉強するのです。聖書で新に生まれるとありますが、こういうことを言っているのです。
 目で見ているものがそのとおりにあるという考え方が肉の思いです。この考え方だけが肉の思いです。目で見ているとおりのものがあるのではないのです。目で見ている物質は瞬間、瞬間変わっていて、空なるものです。
 人間の常識は肉の思いで通用するのです。肉の思いで聖書を勉強すると理屈は分かりますが、肉の思いで理屈が分かっただけで、世界が新しく開かれた訳ではないのです。
 霊に従いて見るということをしますと、肉の思いで見ている世界ではない、霊の世界が見えてくることになるのです。霊の世界で見て、その世界と聖書の言葉を合わせて考えていけば、新しい命、新しい世界が開かれていくことになるのです。神の国に入れとイエスが言っているのは、こういうことなのです。
 この世に生きていながら、まだ経験していない国へ入っていくのです。これをしないで、この世に生きているままの状態で聖書を学んでいたのでは、命の実体は変わりません。ただ思想が変わるだけです。
 命の実体を変えるためには、国を変えなければいけないのです。そのためには、聖書で学んだ思想を実感的に生活で活用する必要があるのです。
 肉の思いをどうしてクリアーしていくかですが、それにはイエスをしっかり勉強する必要があるのです。自分が生きているということ、イエスが生きていたということに共通性を見い出して、自分の国からイエスの国へ移るようにするのです。そうすると、新しい世界が開けてくるのです。
 生きている場所、生きている国がこの世でなくて神の国になってもらいたい。イエスが神の国に入れと言っているのはこのことを指しているのです。
 神の国と神の義を求めないで、自分が生まれた国のままでいくら聖書を学んでも、命は新しくなりません。
 神の国は肉ではなくて霊です。肉と霊とでは物が違います。霊に従いて見ることができるように、自分自身を訓練するのです。督励するのです。こういう努力を絶えずするのです。
 イエスは、「天国を激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と言っています(マタイによる福音書11・22)。無理やりに強引にするのです。
 男が新しい世界を切り開かなければいけないのです。神は男だけを問題にしています。女は問題にしていないのです。
 神から見た人間は男のことです。男が新しい世界を見つけなければいけないのです。
 そこで、男が自分の正体を知るためには、どうしても女を知らなければならないのです。女を知らなければ、本当のことは分からない。女を知ることが男にとっての基本的な大問題になるのです。
 女の本質を知らずに男だけの考えで割り切ってしまうと、聖書の本当の意味が分からないことになるのです。聖書に対しての合法性、合理性を持たそうと思えば、どうしても女を理解しなければいけないのです。
 そのためには、現在までの男女関係で見ている女はだめです。そういう見方の女を捨ててしまって、新しい角度で霊に従いて女を見ることができなければいけないのです。
 そのためには、新しい意味で女と接触しなければならないのです。これが難しいのです。現世に生きていてこれをするのは本当に難しいのです。
 夫婦になると本当の女が分からないのです。夫婦は一人の人間のようになっているのです。奥さんが主人の癖を呑み込んでいますから、主人が間違ったことを言っても、それを直すように言わないのです。
 すべての夫婦が悪いというのではありません。個々の問題になるのですが、概略的に言います。夫婦になってしまいますと、一つの人柄になっているのです。だから、女を知ったようになっていますが、夫婦として見ている女と、一般の女を見る場合とでは違うのです。こういう点を心得て女を勉強しなければいけないのです。
 学ぶという意味で女の人を見るのです。夫婦は肉的に妥協していますから、肉的に妥協しているという意味ではなくて、男は男として、女は女として、人柄が違った状態での男女の勉強をする必要があるのです。
 これは社会生活をできるだけ活用すればできないことはないのです。聖書を勉強する角度から霊的に女を勉強する気持ちを持っていたら不可能ではありません。
 夫婦の状態で夫が妻を見ていて、これで女が分かったかと言うと分かっていないのです。こういう点を心得て、男は女を勉強する必要があるのです。
 女性が考えるという考え方を男が取り入れて、その考え方で自分自身を再検討するのです。こういうやり方をしないと、神が造った人間が分かりません。
 こういうやり方をすると、生まれながらの自分ではない、別の自分が分かってくるのです。それでも自我意識が強い人はなかなか分かりませんが、自我意識をなくして、本当の無色の自分をできるだけ見ようとしていればできないことではありません。そうすると、御霊の助けがありますから、聖書の言葉についていくことくらいはできるでしょう。
 山上の垂訓(マタイによる福音書五章から七章)の原則を利用していけばいいのです。山上の垂訓はそれほど難しいことを言っているのではありません。自我意識を否定しているだけなのです、これだけのことですから、山上の垂訓は誰でも実行できるのです。
 自我意識はただの誤解です。これは簡単な誤解ではありませんが、自我意識を否定する生活をできるだけ実行しようと思っていたら、自我意識がただの妄念であることを聖霊によって教えられるのです。すると、自我意識を捨てることがだんだん上手になるのです。
 イエスの真似をすることは不可能なことではありません。イエスの回りには多くの女性がいたようです。女性の方が鋭いですから、イエスの思想のすばらしさに共鳴した女性が多くいたでしょう。霊魂についての感覚は、男よりも女の方が鋭いですから、イエスの元に多くの女性が集まったでしょう。これは当然のことです。
 男は理屈で納得しなければなかなかついていこうとしませんけれど、女の場合は直感で分かるのです。感受性から考えても女の方が鋭いのです。イエスの人柄に同化しやすいのです。男はイエスに同化しにくい面があるのです。
 継続性という点では、男の方が優れているようです。女は燃えやすいが冷めやすいのです。
 人間という生き物が、こういう格好で理性と良心に基づいて人格的な生活ができるということが、神の子であることを証明しているのです。これが不思議なのです。
 原形的に言えば、理性と良心によって生活できるということが、イエスと同じ条件を与えられているのです。
 自我意識で生活しているから間違っているのです。自我意識さえ抜きにして、生ける神の子という自覚を持てば、私たちはイエスと同じです。
 問題は自我意識であって、自我意識さえ否定したら、私たちはイエスと変わりません。理性や人格の実質はイエスも私たちも同じです。ただこれを肉の思いで用いるか、霊の思いで用いるかの違いがあるだけです。
 人格は一つです。心を開いて霊によって用いるということさえしたら、イエスを信じることは誰でもできるのです。従って、死なない命を理解することは誰でもできるのです。
 ユダヤ人の場合には、聖書を信じることが民族的な宿命になっています。だから、般若心経等がなくても、神の約束が人間の基本なのだということが、ユダヤ人には理解できるのです。異邦人はこれが分からないのです。だから、般若心経から入っていく必要があるのです。
 私たちが生きていることが、そのまま約束に繋がっているという感覚は、ユダヤ人は持てるのです。異邦人は持てないのです。
 生きていることがそのまま約束だということは、ユダヤ人なら持てるのです。異邦人はこれが分かりません。ただ生きているだけだと思っているのです。これが異邦人とユダヤ人の違いです。
 ユダヤの青年がイエスに、永遠の生命を得るにはどうしたらいいのですかと聞いていますが(マタイによる福音書19・16~30、マルコによる福音書10・17~31、ルカによる福音書18・18~30)、こういう質問を異邦人はしないのです。これがユダヤ人と異邦人の違いです。
 ユダヤ人の約束に対する受け取り方が、間違っているのです。現在の歴史の流れが神の約束だとは思っていません。政治の流れが神の約束だと見ているのです。ところが、本当を言いますと、現在の人間の命が神の約束なのです。
 人間が生きているということが神の約束です。これが分からないのです。
 現在の人間の政治の流れ、国があること、民主主義があること、これが神の約束だとユダヤ人は考えているのです。だから、ユダヤ人は政治指導のことをやかましく言うのです。国際連合とか国際機関のことばかりを考えているのです。
 ところが、神は人間が生きている状態を見ているのです。
 モーセは、ユダヤ民族が存在して、民族が歴史的に恵まれることが、神の導きだと考えたのです。現在のユダヤ人もそう考えているのです。ユダヤ人が歴史的、民族的に恵まれることが神の処置だと考えたのです。
 モーセにはエホバという名前を知らせました。エホバという名前を知らせるということは、神の本命を知らせることになるのです。だから、神はモーセに近づいたように見えるのです。ところが、これが間違っているのです。
 神がモーセにエホバという名前を知らせたのは、他人だから知らせたのです。神との間隔が開いていて、他人だから知らせたのです。アブラハムは神の目の前に平伏しているのです。目の前に平伏しているということは、アブラハムは神の前から消えていたのです。
 「我は全能の神である。汝わが前に歩みて全かれ」と言われた時に(創世記17・1)、アブラハムは平伏したのです。その時アブラハムという人間は消えてしまったのです。消えてしまったから、ありてあるという必要がなかったのです。
 アブラハムと神との関係は全くの親子関係になったのです。モーセと神とは他人の関係です。だから、約束という関係で繋いでいかなければならなかったのです。アブラハムとモーセとは霊のあり方が違っていたのです。
 掟を与えたということは、他人行儀を意味するのです。お互いに分かっていたら掟はいらないのです。他人行儀のしるしに掟を与えたのです。
 モーセはその程度の人間でした。アブラハムのように神の中に溶け込むことができなかったのです。皆様も神の中に溶け込むことができるかどうかが問題です。
 神の中に溶け込むことができないと、他人行儀になってしまうのです。
 モーセとアブラハムは、事情境遇も違いますし、時代も人間も違うのです。その時にはモーセ以上の人間はいなかったのですから仕方がないのです。アブラハムのような人がいなかったのです。
 出エジプト記の三章を読んでみますと、神の方がモーセに大変気を遣っています。アブラハムには全然気を遣っていません。
 アブラハムの神とありますが、アブラハムの神が本当の神です。現在のユダヤ人はモーセの神を信じているのです。ユダヤ人はアブラハムの神を知らないのです。アブラハムの神が分からないのです。
 アブラハムの神はイエスの神です。これをユダヤ人は知らないのです。
 モーセと神は他人行儀であるために、神に近づいていなかったのです。その時はそれでよかったのです。モーセの時代には、アブラハムのような人物はいなかったのです。神はモーセを用いたのです。
 私たちが生きていて、食事をしたり、仕事をしたり、話をしたり、読んだり書いたりしているのです。これは大変なことをしているのです。これがアブラハムの信仰です。
 人間が生きていて、自分の体を動かしているということは不思議なことです。人間が人間の体を動かしているということが、神の法則に適っているのです。神の御心に適ったような動かし方でなければできないのです。やれないのです。
 人間の体は神の御心に適ったように動かすし、また、飲んだり食べたりしているのです。自分がいくら飲みたい食べたいと思っても、神の御心に適わないことはできないのです。この不思議さが分かる人はアブラハムの信仰を持っているのです。
 人間の生態はそのまま神を生きているのです。モーセはこういう感覚がなかったのです。モーセは何かの神の役割を演じていたと思っていたのです。神の仕事をしていると思っていた。
 アブラハムは神の御心どおりに生きていると考えていたのです。モーセは神の仕事をしていると考えたのです。
 神を信じる霊魂の雛形がアブラハムです。モーセは掟を行う人間の雛形です。もしアブラハムがいなかったら、イエスの信仰の基本もなかったと言えるのです。
 人間の生態がそのまま神の御心であるということは、イエスだから分かったのです。イエスがいなかったら、新約の神の見方はできないのです。
 私たちの生活が信仰になっているのです。神を信じていない普通の異邦人でも、人間の生活がそのまま信仰になっているのです。だから、人間は生ける神の子であるというのは当たり前のことです。それでも自分が生きている人間から見れば、有難すぎてそのように思えないのです。
 ところが、肉体を持っているのです。神の子なら死ぬはずがないのに、肉体を持っていると必ず死ななければならないのです。必ず死ななければならないという条件があるところを見ると、人間が神の子であるのが、本当なのかと疑いたくなるのです。
 質的には人間は神の子であるかもしれないけれど、肉体を持っているという条件があるところを見ると、人間は神の子ではない。やはり、人間ではないかと考えるのは、常識的な合理性によるのです。この点を注意しなければならないのです。
 肉体を持っているところから考えると人間であって、生ける神の子ではない。従って、神の命がそのまま私たちの命ではないと考えるのです。
 肉体は物質ですから、やがて使えなくなるに決まっています。しかし、神から与えられた命は死なないのです。
 大体、人間が生きているということが不思議なことです。理性的に生きているということが不思議です。食事の時には食事をします。仕事をする時にはそのような働きをするのです。こういうことができるということは、その内容を見れば動物がすることではないのです。神の仕事をしているのです。神がすることを人間はしているのです。
 人間が肉体を持っていることが不思議です。人間が食事をしている状態は、犬や猫、猿や牛がしている食事の仕方とは違います。神が食事をすることを人間の肉体がしているのです。 
 神が成すべき事がらを、肉体を持っている者がしているのです。これはおかしいことをしているのです。人間が霊の世界と肉の世界とを繋ぎ合わせているのです。食事の段取りとか、食事の仕方は霊の世界です。
 行儀作法とか、味付けとかいうのは霊のあり方の世界のことです。霊のあり方の世界を肉のあり方で合理化しているのです。これが不思議です。霊の世界の事実を肉の世界の事実にしているのです。ここに神の国があるのです。
 私たちが食事をしていることが神の国です。イエスが神の国を求めよと言っているのは、私たちが食事をしていることの中に神の国があるから、これを求めよと言っているのです。
 神の国は食事をしていることだけではありません。家庭生活をしていること、社会生活をしていること、人間の生活全般というものが、神の国なのです。
 これはすべて神と神の使いがすることです。これを人間がしているのです。だから、神の国と神の義を求めることは当たり前のことです。
 人間社会は神の国の模型です。だから、神の義が行われて当たり前です。人間は神の国の模型の生活をしながら、神の義を行わないで人間の義を行っているのです。悪魔が人間の中に入り込んで、神の義を横取りしているからそうなっているのです。神の義を悪魔の義にしてしまっているのです。霊の義を肉の義にしているのです。
 霊の事がらを肉の事がらにやり直してしまっているのです。これが間違っているのです。
 私たちの生活そのものが、神の国、神の義になっているのです。私たちの生活が神の国であり、神の義になっていることに気付いて、そういう生活をしたら、死なないものになるに決まっているのです。
 肉体的に生きていると思っているから間違っているのです。この点が非常に大切なことです。
 皆様は聖書を信じていますが、肉体的に生きていると思っているでしょう。これが間違っているのです。聖書を信じているのはいいことですけれど、肉体的に生きていると思っているでしょう。これは霊と肉とを混同しているのです。混同している状態で生活しているのです。これがいけないのです。
 これを整理しないと、皆様は神の敵に回ることになるのです。人間が肉体的に生きているという思想は、悪魔の思想です。
 神の国を生活しているというのは神の思想です。イエスは神の国のあり方を、神の子として生きていたのです。
 人間は神の国のあり方を肉のあり方で生きている。これがいけないのです。肉の思いで生きることをやめなければいけないのです。
 自分が生きている。自分が生活していると思っている。この考えがいけないのです。神の国と神の義を求めよとイエスが言っているとおりに実行しなければいけないのです。
 肉体があっても、生きるという事がらが働かなければ肉体は動かないのです。動かなかったら食事もできないのです。
 肉体が食事をしているのではなくて、肉体を生かしている力が働いているから食事ができるのです。生きる力、霊の力が食事をしているのです。肉体は形だけのものです。
 人間は霊の力で生かされているのです。霊の力で仕事をしているのです。このことがはっきりしていないとだめです。
 イエスの言葉はそのまま生ける神の子の言葉になっているのです。私たちもそうならなければいけないのです。
 実はこの世いっぱいに神の霊が働いているのです。小さなことから大きいことに至るまで、この世いっぱいに神の御霊(みたま)が働いているのです。命が働いているのです。この命が私たちに働いているから生活が成り立っているのであって、肉体が生きているのではありません。
 神の御霊が働いている。この中に私たちの肉体があるから生きているのです。肉体が生きているように見えるのです。
 肉体が生きているのではないのです。神の御霊の命が地球いっぱいに働いているのです。ここに私たちがいるのですから、神の御霊という命によって、私たちの肉体が働いているように見えるだけです。
 これがはっきり分かっていたら、仮に肉体が故障して肉体から出なければならなくなっても、命が働いている世界がありますから、この世界へ入ったらいいのです。
 心臓が止まる時が来ます。これは肉体の故障であって、命の故障ではないのです。だから、心臓が止まろうが、肺が止まろうが関係がないのです。
 肉体的に生きている者は死ぬに決まっているのです。人間は肉体的に生きています。肉体はやがて滅びます。ところが、命は死なないのです。
 死なないものが命です。その上にイエスの復活という事件があるのです。イエスの復活の命は現世の命ではないのです。永遠の命です。
 神は永遠の命の実体を、イエスの復活という形で人類の前に突き出したのです。人の命は死なない神の命ですが、この上に復活の命という特別の命が乗っているのです。二重の命になっているのであって、イエス・キリストの復活の命を信じる者は、絶対に死なないのです。
 人間が絶対に死なないということを、イエスの復活の命が保障しているのです。イエスが第三の天にいるという実体によって、私たちの命が保障されているのです。
 復活の命は霊の命であって、神の国に働いているのです。イエスがこの世に来た時に、神によって新しく造られたのが神の国です。それまでは神の国はなかったのです。
 イエスがこの世に来た時に、神の国が来たのです。神の国と神の義が現われたのです。イエス・キリストの復活によって神の国が確立したのです。
 現世の命は地球がなくなったらなくなります。しかし、神の国はなくなりません。神の国に入ってしまえば地球がなくなっても大丈夫です。
 イエス・キリストの復活の命が、第三の天において現存しているのです。これはイエス・キリスト自身の信仰と、教会の信仰によって確立しているのです。
 現世の命の他に、イエス・キリストの復活の命という上等の命があるのです。これが永遠の命です。これは地球がなくなってもあるのです。この中に入ったらいいのです。黙って入ったらいいのです。これが神の国に入ることなのです。
​                (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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