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                     「女性を尊敬する」
 
 人間が死ぬということがおかしいのです。死にたくないという気持ちを持っていながら、死なねばならないということに束縛されているのがおかしいのです。
 死にたいのなら死んでいくのが当たり前です。死にたくないというはっきりした性根を持っていながら、死なねばならないという束縛を強制されているのです。
 どうしてそういう強制が人間にあるのか。これを世間の人間は誰も考えない。とにかく大人は死なねばならないということを全部鵜呑みにしているのです。一体、大人とはどういうものなのか。学者でも宗教家でも、こういうことを鵜呑みにしているのです。人間は全部ばかではないかと言わなければならないのです。
 死なねばならない、死なねばならないと言っていながら、死にたくないのです。本当に死にたくないのなら、死ななくてすむ方法が何処かに、何かの方法でなければならないはずです。
 もし人間が絶対に死なねばならないものなら、死にたくないという考えを人間が持つはずがないのです。死ぬことが当然であって、死なねばならないことが全く必然であるとしたら、死にたくないという気持ちを人間が持つはずがないのです。
 ところが、百人が百人、千人が千人まで、皆死ぬのが嫌だと言っているのです。これがおかしいのです。そこで、私は死とは何かを考え始めたのです。
 死にたくないのに死なねばならないというのは、死を強制されていることです。殺されることなのです。人間は死ぬのではなくて殺されるのです。
 人間は他動的に死なしめられるのです。他動的に死なしめられるというのは、どういうことか。他動的な力とは何なのか。
 人間は自動的に死ぬのではない。他動的に死ぬのです。他動的というのは何なのか。死なねばならないと考えている人間の精神状態は、他動的な意識なのです。これが罪です。
 死なねばならないというのは、自動的な意識ではないのです。他動的な意識で死なねばならないのですから、これははねのけられる可能性があるはずです。
 他動的な意識をはねのけるためにはどうしたらいいのか。自分の意識に捉われていると、いつまでも他動的な意識に閉じ込められなければならないのです。そこで、どうしたらいいのかというと、空っぽになったらいいのです。そこで、般若心経が役に立つのです。
 死とは何か。自分が生きているから死に掴まえられるのです。掴まえられる自分が空になってしまえば、掴まえられる自分がなくなるのです。まずこれをはっきり認めてもらいたいのです。
 ところが、次に何をしたらいいのか。空になっても、空を本当の実体にすることができないのです。般若心経以外の何かを持ってこなければ、空が実体にならないのです。そこで聖書が必要になるのです。
 今まで日本で偉いお坊さんがたくさん出ましたが、ただ生活のことばかりを考えていた。死に勝つということを考えなかったのです。弘法大師も親鸞も、道元も死に勝つことを考えなかったのです。
 曹洞宗で空をしきりに言います。一切空と言いますが、空の実体が分からないのです。道元禅師もはっきり言っていないのです。結局、曹洞宗では空の実体が分からないのです。
 本願寺ではナムアミダブツと拝んでいますが、曹洞宗では文句が決まっていないのです。だから、色即是空、空即是色と言っているだけです。自分に確信がないのに拝んでいる。これをしていれば一般の民衆は有難がっているから、そうしているのです。
 聖書を底の底まで勉強しようと思ったら、なぜ人間は死ぬのかを深く考えなければならないのです。
 現在地球があります。これは造られたものです。造られたものはやがて潰されることになるのです。ペテロの第二の手紙を見ると、地球が滅亡することをはっきり書いています。大変なことを書いているのです。
 
 「『主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変わってはいない』と言うであろう。
 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水で覆われて滅んでしまった。
 しかし、今の天と地とは同じ御言によって保存され、不信仰な人々が裁かれ、滅ぼされるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保存されるのである。
 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあって、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々が遅いと思っているように、主は約束の実行を遅くしているのではない。ただ、一人も滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
 しかし、主の日は盗人のように襲ってくる。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けて崩れ、地とその上に造り出されたものも、皆焼きつくされるであろう。
 このように、これらは皆崩れ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、清く信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は焼き崩れ、天体は焼き失せてしまう。
 しかし、私たちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」(ペテロの第二の手紙3・4~13)。
 
 このことをしっかり頭に入れておいて頂きたいのです。今の地球があることが絶対ではないのです。従って、現在人間が生きていること、日本という国があること、アメリカがあること、国際連合が存在していることが絶対ではないのです。
 人間はこれが絶対にあるように考えているのです。政治家や、学者、宗教家、教育者は、今の世界が永久の世界のように考えているのです。ところが、国家とか社会は一時的なものであって、これは幻です。
 政治の世界、経済の世界は幻の世界です。命はこういう社会のものではないのです。政治家、経済界の指導者、学者は自分自身の境遇のために、自分の精神が束縛されているのです。
 現在の人間の歴史が暫定的なものです。地球は実存しているのではなくて、仮存しているのです。仮に存在するような形を取っているだけです。
 地球は一つの読み物です。地球があるということを読み物にしている思想が般若心経です。これが色即是空です。
 般若心経は地球は空だと言っています。しかし、地球の実体は何かということの説明はできません。そこで、地球の実体を知ろうと思ったら、聖書を読むしかないのです。
 死ぬのは仕方がないと言っている人には、命の話をする必要はありませんが、本当に死にたくないと言っている人には、とこしえの命の話をしたらいいのです。
 本当に死にたくないと思うのは、死ななくても良い方法があるからです。それは地球があることを読んでいったらいいのです。地球があること、人間がいることをよくよく読んでいけば、それがそのまま聖書になるのです。
 聖書を勉強することと、人間存在を勉強することとは同じことです。人間存在を勉強することは少し手数がかかりますから、とても面倒ですが、聖書を勉強すれば簡単明瞭に中心点を学ぶことができるのです。
 政治、経済、哲学、文化のあらゆることを勉強しても、聖書以上のものはありません。聖書の結論はイエス・キリストが復活したことです。これ以上の勉強はありません。
 お金儲けが悪いというのではありません。お金儲けだけで一生が終わるという小さい考えを持たないで、もっと大きな考えを持ってもらいたいというだけのことです。
 花の形とか香り、色、雲の流れ、山の景色が、皆人間の霊魂に係わりがあるということは、文学の最高レベルと皆関係があるのです。文学や哲学の相当深い思想が分かる人は、聖書が分かる人です。
 神と巡り会うことが必要です。神と巡り会うということは、文学が得手の人は、文学の筋道を通って神と巡り会うのです。
 政治に関しては、政治をとことんやれば、政治の筋道を通って神と巡り会うことができるのです。経済でも法律でも同様です。専門学を通り抜けてしまうと、そこに神がいるのです。すべての専門学を通り抜けてしまうと、そこに神が立っているのです。
 ところが、向こう側へ行ってしまわないで、学の中でうろうろしているから神が分からないのです。自分の今までの経験をとことんやり通してしまうような度胸があると、神に巡り会えるのです。向こう側へ出てしまえば神がいるのです。
 世間の人は気の毒なことをしているのです。自分の思想から抜けてしまえばいいのですが、これがなかなかできないのです。
 人間の経験はどんな経験でも前世の再経験になっているのです。ペテロが述べているように、地球が燃え尽きて消えてしまうような事件が起きても、これも再経験なのです。
 人間は地球がないことを知っているのです。また、ペテロが一日は千年のようであり、千年は一日のようであると言っています。現世で千年生きていても、神の国では一日になるのです。逆に肉の思いで、現世で一日生きていることは、霊で千年生きていることに相当するのです。
 刑罰という点から考えますと、現世で、肉で一日楽しんでいることは、来世では霊で千年の間苦しむことになるのです。
 聖書に書いてあることは、人間は皆知っているのです。なぜなら、かつて神の中で生きていたからです。だから、人間はよくよく神を知っているのです。神を信じることは誰でもできるのです。ただ現世でもう一度神に出会うように運命づけられている者と、神と再び会うことができないように運命づけられている者との区別があるのです。しかし、誰でも皆神を知っているのです。地獄へ行くに決まっている人間でも、神を知っているのです。ただ知り方が違うのです。
 神の元へ帰らなければならないという必然性を実感している人と、実感していない人とがいるのです。皆様は自分自身を神の元に帰らねばならないという必然性を実感している者として、自分を見るように決めてしまえばいいのです。決めてしまわないと失敗することがあり得るのです。
 自分の運命を決定するのは自分です。神に従うか、自分という悪魔に従うかを決定したらいいのです。
 毎日のリビングということが、そのまま神の前に引き出されていることなのです。リビングという事実に基づいて、神を認識できるかできないかだけです。
 毎日のリビングを通して、神を認識したいと思うか思わないかというだけのことです。人間の意志は恐ろしいもので、そうしたいと思えばそうできるのです。したくないと思えばできないだけのことです。そうしたいと思わなければできないのです。そうしたいと思えばそうできるのです。
 これは誰でもできるのです。「我前に歩みて全かれ」と、神はアブラハムに言いましたが、神の前に歩みたいという意識を持てば、必ず神の前に歩めるのです。誰でも歩めるのです。
 難しいことはありません。ただ歩みたいと思わないだけのことです。
 神を信じるということは極めて自由です。生きている間は極めて自由です。難しいことは少しもありません。難しいと思うのは、自分自身の意識によって自分が混乱しているからです。自分の意識を自分で整理したらいいのです。
 神の前に出ることは何でもないことです。神は遠い所にいるのではない。生きているということが神です。生きていることを真正面から見たらいいだけのことです。生きていることを正視したらいい。それだけのことです。信仰というのはそれだけのことです。
 人間が生きているということは、客観的に見れば誰でもイエスと同じ状態です。ローマ人への手紙の十章九節に、Jesus as Lordとあります。アズ(as)というのは、そのようなとか、生き写しとかいう意味になるのです。
 人間が生きている状態はアズです。アズロード(as Lord)です。これを日本語の聖書は主であると訳していますが、これは正しい訳とは言えないのです。むしろ、イエスは主そのものと訳したらいいのです。イエスは主それ自身と訳した方がいいと思います。
 自分はいないのです。最初からいないのです。自分という意識がそのまま悪魔なのです。これを棚上げしたらいいだけのことです。
 自分という意識が悪魔の意識であって、この意識は死の意識です。自分という意識を問題にしないということを毎日訓練したらいいのです。自分を問題にするからいけないのです。ただそれだけです。
 自我意識による自分を認めたら死ぬだけです。現世に生まれてきたのは、死ぬために生まれてきたのです。死ぬのが嫌だったら自我意識を認めなかったらいいのです。
 人間が現世に生きていると、自分の思いが大変大きいものに思えるのです。自分の感情、自分の意識、自分の生活感覚が山のように大きく思えるのです。大山脈のように思えるのですから、とてもはね返すことはできないと思うのです。
 これがレメクの恫喝です。私たちは肉の思いに恫喝されているのです。これをはねのけるためには、毎日の生活のリビングで、自分自身のリビングを壊していくのです。自分自身のリビングを持っていると、神のリビングが消えてしまうのです。
 自分自身のリビングを壊すと、神のリビングが自分のものになるのです。自分自身のリビングを持っていることをやめるのです。
 リビングは一つしかないのですけれど、人間は自分が生きているというリビングを持っているのです。聖書を勉強していると、自分が聖書を勉強していると思っている。
 生活の形はあってもいいのですけれど、自分の心を持っていてはいけないのです。固有名詞の人間の形は生きていてもやむを得ないのですが、心が自分であってはいけないのです。
 だから、般若心経の五蘊皆空をそのまま実行するしかないのです。
 女の人は目の前の用事に仕えようとしている。それに仕えていれば幸せになるに決まっているのです。男は女がいるということに仕えていけばいいのです。男は女がいるということに頭を下げるのです。霊の頭を下げ続けるのです。
 男は女がいるということを尊敬するのです。そうすると、神が分かってくるのです。男はこれができなかったらだめです。
 女は用事に頭を下げる。男は女に頭を下げるのです。これをすると神に生きるという要領が分かってくるのです。
 なぜそうしなければならないかというと、神が人間に頭を下げているからです。もう少し正確に言いますと、神がキリストに頭を下げている。キリストは男に頭を下げている。そこで、男は女に頭を下げるのです。
 神の栄光はキリストです。キリストの栄光は男です。男の栄光は女です。だから、男は女に頭を下げなければいけないのです。
 神はキリストに頭を下げているのです。キリストは男に頭を下げているのです。なぜかと言いますと、男がキリストを崇めなかったら、キリストである教会が完成しないのです。だから、キリストは男を崇めているのです。男を尊敬しているのです。
 男はキリストを尊敬するよりも、女を尊敬したらいいのです。この秘密が男に分からないのです。人間から考えると反対に思えるのです。これは本当のキリストが分かった人間なら分かるのです。これが分かった人はキリストの花嫁になれるのです。
 神はキリストに頭を下げているのです。キリストは男に頭を下げている。男は女に頭を下げるのです。女は何に頭を下げるのか。女は事がらに頭を下げるのです。女は生活に頭を下げるのです。
 男が女に頭を下げるとはどうすることか。いちいち女にはいはいということではない。心で女がいることを尊敬するのです。女の存在そのものを尊敬するのです。
 これはかかあ天下になることではありません。もし男が女を自分が思うようにこき使おうとすると、神を崇めることは絶対にできません。
 男が自分が思うように女をこき使って、自分勝手な生活をしていたら、聖書を絶対に信じることはできません。男はこれをよく承知して頂きたいのです。
​                 (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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