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                    「死は勝にのまれた」
 
 パウロが言っています。
 「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」(ローマ人への手紙8・5、6)。
 
 霊に従うという言葉は、聖書を勉強している人なら誰でも知っています。知っていますけれど、霊に従いて歩むとはどうすることなのかが分からないのです。
 ここでは霊という字を大文字のSpiritという言葉を使っています。これは御霊(みたま)を意味しているのです。
 御霊に従いて歩むという者は、御霊のことを思うと言っているのです。霊の思いというのは、御霊の思いそのものを意味するものと考えるべきなのです。従って、霊に従いて歩むということは、御霊に従いて歩むということになるのです。
 「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」とパウロが言っていますが(ガラテヤ人への手紙5・25)、文語訳では御霊によりて生きなば、御霊によりて歩むべしと言っています。
 御霊によりて生きなばとは、御霊によって生きているなら、御霊によって歩むのは当然だと言っているのです。
 人間が現在生きていることが御霊によるものですが、これは命の本質そのものを意味するのです。従って、霊によりて歩むとパウロが言っているのは、命の本質によって生きるということを言っているのです。
 現在の人間は、生きてはいるが命が分からない。これは命の本質によって生きていないから、生きていながら命が分からないのです。
 生きていること自体が、もちろん命によって生きています。命によって生きていながら、命が分からないのです。これは命の本質である、命の働きの本体である御霊の思い、御霊の心を知らないから、命によりて歩めないことになるのです。
 「あなたがたは見ているけれど見えていない。聞こえているけれど聞こえない」とイエスが言っています。見てはいるけれど見ていない。認めていないのです。
 見ているということが御霊の働きです。人間の目が見えるということ自体が、命の働きであり、御霊の働きなのです。
 ところが、御霊の働きに従って見ていないと、何を見ているのかよく分からないのです。御霊の働きという機能は用いているけれど、御霊の働きによって見ていると思っていないために、つまり霊の思いによって生きていないために、見えてはいるけれども認めていないということになるのです。
 目という生理機能はそのまま霊の働き、御霊の働きです。見るというのは、宇宙の神の霊の働きです。ところが、見ている人の心が、御霊に従っていると思っていない。従って、見てはいるけれども認めていないことになるのです。こういう妙なことになるのです。
 例えば、桜の花が爛漫と咲いているとします。一本や二本の木では爛漫とは言えませんが、数百本の桜が並んで咲いている状態は見事なものです。
 それを見ている時、人間は物質を見ているとは思いません。桜の花は人間の科学的常識によれば、物質に決まっています。ところが、物質である桜の花を見ていながら、物質を見ているとは思っていないのです。
 花が咲いているということは、神の御名のすばらしい働きですが、神の御名のすばらしい働きに圧倒されると、物を見ているとは感じられないのです。その時には御名の働きを見ているのです。だから、物を見ているという感じがしないのです。
 人間は花を見ていると言います。花とは何かと言いますと、桜の花が咲き誇っていること、咲き乱れている状態を花と呼んでいるのです。
 花というのは固形態の物質ではなくて、桜の花が咲いているという状態を花と呼んでいるのです。
 桜の花は流動しているのです。つぼみが花となり、刻々と変化している。これはそのまま大自然の働き、神の霊の働きを現わしているのです。
 何百本もの桜が咲いていると、その盛んな霊の思いに圧倒されるのです。御霊の働きに人間の思いが圧倒されて、物を見ているというのではなくて、桜の花が咲いているという神の御霊の働きをそのまま現わしていると思えばいいのです。
 御霊のすばらしい働きで、人間の心に迫るような形ですと、花を見るという語法を用いるのです。人間の心が神の力に圧倒されてある驚きを持っていますから、物が物と見えないのです。それで花が咲いているという状況に従って、流動的な形でそれを捉える語法を用いるのです。これが花が咲いているということになるのです。
 例えば、海の場合、のたりのたりと波打っている状態ですと、海を見ていると言います。海がそんなに感じられているから、海を見るというのです。
 ところが、狂乱怒涛で十メートルもの大波が押し寄せてくるような暴風雨状態の海になりますと、海を見ているという感じがしません。波を見ている感じです。
 見ているのは波です。波を見ているという感じ方は、やはり花を見ているのと同じです。瞬間、瞬間動いているものすごい動体を見ているのです。流動体を見ているのです。
 こういうことが、人間が霊に従いて物を見ていることの微な例になるのです。しかし、波を見ているくらいでは、霊に従いて物を見ているとは言えないのです。
 物を見ていると考えないで、花を見ていると考える。そういう人間の思惟の仕方、受け取り方が、霊に従いて歩むことの微な例になるのです。
 人間が本当に見ているのは何か。ごちそうを見ている時、物を見ているのではなくて、おいしそうだというごちそうを見ているのです。物質を見ているのではありません。おいしそうだという味を見るというのがおかしいのです。舌が味を見るのなら分かりますが、目が味を見ているのです。
 人間の目の本当の働きは、霊に従っているのです。例えば、おいしそうなお寿司を見ている場合、肉の思いでは寿司という物質を見ていると思っているのです。ところが、物質を見ていない。寿司の味を見ているのです。
 「あなたがたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」ということを(マタイによる福音書6・23)、現実に私たちも経験しつつあるのです。目はおいしそうだなと思って見ていながら、自分の思いとしては、寿司という物を見ていると考えている。これが肉に従いて歩んでいる肉の思いです。
 肉に従う者は肉のことを思うとあります。肉に従う心を持っている者は、肉のことを思っているのです。これがその人の魂を死に到らせることになるのです。
 人間の思いが罪のために肉の思いになっている。現象を実体だと思っているのです。だから、寿司というものを、寿司という物として見ているのです。これが肉の思いです。こういう思いから抜け出さなければ、死から抜け出すことができないのです。
 肉の思いは死ですから、死から脱出することなしに命を獲得することはできません。死に勝つことができません。肉の思いからどうして抜け出すか。これが人間に与えられた最大のテーマになるのです。
 人間が生きていることを、肉体的に生きていると考えている。ところが、人間が神の御霊によって生きている状態を見ますと、肉体によって生きているのではないのです。
 肉体の本質は水です。自分が生きていることは水です。これは神の創造の原理によるものという意味です。
 神の創造の原理、原点が水という言葉で言い現わされているのであって、肉体が水です。「すべての物質は水から出て、水によって成り立っている」と聖書にあります(ペテロの第二の手紙3・5)。
 人間の肉体は本質的に神の創造の原点から見ますと、水になるのです。これは私たちが毎日飲んでいる水(water)ではありません。水の表、霊なる水を指しているのです。
 物質的な水は霊なる水を最も端的に表現しているのです。霊なる水を最も端的に譬えているものが、肉なる水です。これが肉体です。
 水を現在の物理学的な表現で言えば、水素原子ということができるでしょう。ヘリウム、窒素、炭素という原子はすべて、水素原子に電子の数が加わった状態でできているのです。すべての基本の原子が水素原子です。地球は九十%以上が水素原子によってできていると言われているのです。
 生きている状態は血です。血液です。肉体としての水と、命としての血が人間の構成要素です。動物の命は血によって現わされているのです。
 人間は血と水によって生きているということを納得できればいいのです。このような精神状態になることが御霊の証です。そこで、水と血を御霊の証と言っているのです(ヨハネの第一の手紙5・6、7)。
 肉体は水です。生きていることは血です。これを証するものが御霊です。水と血と御霊の証の三つは一つです。この証は神ご自身の証です。
 神の子である者は、この証を内に持っているはずです。この証を持っていない者は、神の子を信じていないのです。自分自身が神の御子であることを信じていないのです。このようにヨハネが言っているのです。
 水と血と御霊の三つの証が、皆様の中に成立していなければならないのです。焼き付けられていなければならないのです。
 これはただの観念ではだめです。自分はそのように思想的に理解しているというだけではいけないのです。
 思想的に理解していることが、まず観念となる。思想的に理解していることが、観念的に自分の思考方式に張り付いている状態が必要です。
 しかし、観念だけではまだだめです。生活感覚には影響しないのです。生活感覚がこの三つの証に従って働くことになりますと、その人の生活のあり方が、そのまま霊に従って歩むことができるようになるのです。
 私たちがこのような状態に具体的に導かれること、そういう生活態度を取らしめることが、信仰の本当のあり方なのです。
 これが信仰の本当のあり方なのであって、御霊によって歩む、霊に従いて歩むとパウロが言っている状態にさせられることを切に望むべきです。
 そうすると、初めて死が勝に呑まれるのです。最終の敵は死ですが、この死が勝に呑まれてしまうのです(コリント人への第一の手紙15・50~56)。
 勝とは何か。イエス・キリストによる神の勝利です。「我すでに世に勝てり」と、イエスが弟子たちに言われた勝です。
 勝が死を呑んでしまうのです。ここにおいて初めて、私たち自身の魂に、復活の義の太陽が輝くのです。
 毎日の生活そのものが死を呑んでいく、肉を踏みつけていく、肉を乗り越えていく。そういう生活感覚がその人の生活に定着するようになりますと、初めてキリストの花嫁の備えが全うされるのです。
 現世に生きないで、神の国に入ってしまうのです。神の国で生きていることが実現するのです。「すべての肉に私の霊を注ぐ」ということが成就するためなのです(使徒行伝2・18)。
 神の見方をしますと、物質はありません。肉があるだけなのです。そこで、すべての肉に私の霊を注ぐとなるのです。
 これはイエスの復活に伴って、森羅万象に対して神の霊が注がれたのです。森羅万象に神の霊が注がれるという驚くべき事実が成就したのです。
 その結果、神の国が到来したのです。これがイエス紀元(西暦紀元)の特長です。私たちがそれを知っても知らなくても、イエス紀元が既に実現しているのです。神の御霊がすべての肉に注がれているのであって、御霊によってすべての肉を見るなら、すべての肉はもはや霊化されているのです。
 肉なる地球はもうなくなっている。そのまま新天新地を証しているのです。神の第二創造(新しい創造)を証しているのです。
 第一創造(現在の地球創造)はもはや消えてしまっているのです。第二創造を証しているのです。そこで、霊に従って歩むことが可能なのです。
 目で見ている現象世界が実体ではなくて、現象はそのまま神の業(わざ)を証しているのです。神の経綸によって、神の国が成就しているのです。
 現在は物があるのではない。霊がある。物理が働いているのではない。霊理が働いているのです。物理的に物を見ているのではなくて、霊理的に物を見ているのです。これはそんなに難しいことではない。御霊を崇めるという気持ちだけでそれが分かるのです。
 そういう思想がまず私たちに与えられ、その思想がだんだん固まっていく。例えば、地球がかつてどろどろであったものが、水と土に分けられて土が固められた。そして、今の地球ができたのです。
 そのように人間のめちゃくちゃな思いが修正されるのです。霊の思いがその人の生活感覚として、ぴたっと固定することになる。これが信仰です。
 霊において物を見るとはどういうことか。私たちは知らず知らずに、桜の花を見ているのです。花を見ているとは、桜の花が咲いている状態を見ているのであって、花という物を見ているのではありません。
 そのように、御霊を受けていない人でも、この程度のことは分かるのです。霊によって見ることはできないことではないのです。
 その場合でも、花を見ているという言葉を使っていながら、やはり花という物を見ていると思っているのです。見れども見えずという状態になっているのです。
 私たちは自分の目が働いている状態を正しく認識すれば分かるのです。目が働いている状態に心が同化すればいいのです。目の働きと心が一つになる。これをビーシングル(be single)と言っているのです。
 「おまえたちの目の働きがビーシングルであるなら、全身が明るくなる」。目が見ている状態に心が一致するなら、全身が明るくなるのです。
 肉体が生かされているのは、御霊によるのです。御霊によって生かされている状態が心に感じられるのなら、御霊の働きとその人の思想が一つになるのです。これが信仰です。
 神はあばら骨で女を造って男に与えた。この女をどのように見ればいいかということです。男の見方が正しいかどうかによって、携挙されるかどうかの決め手になると考えられるのです。
 女性の場合困ったことに、現象感覚がとても強いのです。だから、焼きもちをやくのです。焼かなければ損のようにやくのです。
 女性は現世の生活の権限を持っていないから、焼きもちをやくという方法で、権限を確立しようとするのです。男は生活の権限を与えられていますから、そんなにやかないのです。やかなくても自分がいることに明確な意識が与えられているのです。
 女性が持っている現象意識とは何か。これが厄介なのです。アダムは神に造られて、鼻から命の息を吹き入れられた(創世記2・7)。神から直接命を吹き込まれたのですが、女性は直接命を吹き込まれていないのです。アダムのあばら骨の一つを取って、女を造ったとあるのです。
 女性は神が鼻から命の息を吹き込んだと書いていない。そこで、男のように霊的に感受性が強くないのです。
 女性の客観的なあり方はすばらしいのですが、主観的なあり方は、男ほどの明敏さはないのです。女性は見かけはすばらしいウーマンボディーを持っていますが、内心はそれほどでもない。それほどでもないどころか、マイナスの方に歪んでいるのです。見た所は穏やかでおしとやかですが、内心は茨だらけのごつごつした、野心まんまんたる状態です。見かけが良いだけ内心が悪いのです。
 そこで、男が責任を持たなければいけないのです。「私の骨の骨、肉の肉」というアダムの名付け方は、女は骨の骨というすばらしい見かけはあるのですが、肉の肉というとても悪い内容もある。女の良さと悪さを、アダムはうまく名付けたのです。
 今の女は肉の肉になっているのです。女が肉の肉になったので、男が肉の肉の肉になったのです。肉の肉の奴隷ですから、肉の肉の肉です。そこで、男は肉の肉の肉という三つの肉を克服して、霊なる女に造り変えなければならない責任があるのです。女を救わなければならない責任が男にあるのです。
 男の助けとして女が与えられたのですから、男が救われることなしに、女だけが救われることはないのです。
 独身の女性は、男なしにキリストの花嫁にふさわしい霊的状態になればいいのですが、夫婦の場合にはそうはいかないのです。夫が責任を持たなければいけないのです。これが人間創造に対する神の御心です。
​               (内容は梶原和義先生の著書からの引用)
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