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                       死ぬべき運命から逃れる方法

 

 聖書に、「一度だけ死ぬことと、死んだあと裁きを受けることが、人間に定まっている」とあります(へブル人への手紙9・27)。

 

 昔から先哲賢人と言われる人がこのテーマに挑んだのですが、その真髄を捉えた人が、果たして何人いたのでしょうか。

 イスラエルの歴史を貫いても、旧約時代の預言者、新約の使徒たちはこの問題の中心を捉えていたに違いないのですが、それを解決することができたかどうか。それほど重大な問題です。

 皆様は人間の格好をして生きていますけれど、人間を全く知らないのです。

 全能者の前に出るには、どういう気持ちが必要か。自分を虚しくしていれば出られるのです。自分が全く木の葉みたいなものだということが分かっていれば、出られるのです。頭は良くなくてもいいのです。経験がなくてもいい。ただ、自分自身がちり灰であると思えたら、出られるのです。

 聖書の言葉は日本語で書いていますから、日本人なら誰でも分かりますが、問題は御霊の言いたもう所を聞くことができるかどうかということです。ヨハネの黙示録にあるように、耳のある者は、御霊が諸教会にいうことを聞くがよいと言っているのです。ただ文字に書いている所を読んだだけではいけないのです。

 文字を読んでいるのは本人が読んでいるのです。自分で勝手に読んでいるのです。それは御霊のいう所を聞いているのではありません。

 例えば、「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである」と書いてあります(マタイによる福音書5・3)。この言葉は誰でも分かります。分かりますが、御霊がどのように言っているのかということです。

 神の言葉を聞き分ける力なしに、いたずらに神の声に接しようと考えることは、自分自身の魂を非常に危険な所に追いやることになりかねないのです。

 イエスは、「豚に真珠を与えるな、犬に良いものを与えるな」と言っています。犬は異邦人です。良いものは御霊です。異邦人に御霊を与えても、分からないと言っているのです。異邦人が御霊の声を聞こうと思うのが、間違っているのです。

 まず第一に、約束を絶対に信じるかどうかです。神の約束は人間と神との双務協定です。約束という言葉は双務協定で、お互いに義務が発生するのです。約束を受け取った者は、その約束に基づいて約束が命じる所を受け取る資格があるのですが、その代わりに約束に従って生きなければならない義務が生じるのです。これが双務協定です。

 約束に従って、聖書の言葉を学んでこそ意味があるのです。約束に従わないで学んでも、何の価値もない。ただいたずらに自分の頭に呪いの火を積むことになるのです。

 聖書を学ぶというのは、特殊な学びです。聖書を学ぶことは、双務協定に加入することを意味するのです。双務協定に参加することになるのです。この心構えなしに聖書を学んでも、何にもならないのです。何にもならないどころか、却ってマイナスになるのです。神の言葉を汚しているからです。

 私たちはキリスト教の勉強をしているのではありません。キリスト教は神学の勉強をするのですから、双務協定の義務はありません。キリスト教は勝手に神学の勉強をしているのです。

 しかし、本当に聖書を学ぶと、義務が発生するのです。これが恐ろしいのです。これはマルキシズムを学ぶようなこととは違うのです。マルキシズムは人間を束縛する力もないし、権威もないのです。マルクスが勝手に作った概念ですから、信じても信じなくても勝手です。マルクスの概念が人間を束縛する力はないのです。

 ところが、聖書は人間の魂を束縛する権威があるのです。その実力を持っているのです。イエス・キリストの復活の事実が、それを証明しているのです。イエス・キリストの復活の事実は、すべての人間の魂を断固として束縛しているのです。

 人々は日曜日ごとに休みを与えられている。日曜日に休んでいるという事実をどのように考えているのでしょうか。

 神は人間生活の原則を規定しています。イエスの復活記念日ということが、現在の人間のペースを規定しているのです。こういう事実は、神が人間の魂を管理していることを宣言しているのです。

 二〇一七年というのがそれです。イエスを中心にしなければ、人間の暦年の算定ができないのです。これは人間歴史の基本の事がらを、神自身が規定していることを証明しているのです。

 神は万物の主(あるじ)です。人間の魂の主です。だから、神が魂を規定しているのは当たり前です。

 逆に言いますと、神が魂を規定しているというよりも、人間の魂は宇宙の格率に従わざるを得ないのです。自分で勝手に魂のあり方を変更することはできません。

 例えば、人間の理性の働きを、人間は自分自身で変更することができないのです。人間の良心の働き、理性の働きには、一定の方向があるのです。いわゆる、定向作動です。人間の理性と良心は定向作動するのです。この原理を変更することができないのです。

 悔い改めて福音を信じる必要があるのです(マルコによる福音書1・15)。悔い改めたつもりでも、福音を信じていなければ、悔い改めになっていないのです。

 また、福音を信じているつもりでも、悔い改めができていなければ、福音を信じていることにはならないのです。

 悔い改めたつもりでも、神の約束が自分と神との双務協定として、本当に受け取られていなければ、福音を信じたことにはならないのですから、悔い改めたつもりでも、悔い改めていないことになるのです。

 一方、福音を本当に信じているとして、神との双務協定的な気持ちを持っているとしても、悔い改めるという言葉の内容が本当に理解されていないとすれば、やはり福音を信じているのではないのです。

 悔い改めて、福音を信じるというこの二つの言葉は、神の福音を本当に信じるというレベルにおいて、悔い改められなければならないし、また、本当に悔い改めるという深さにおいて、福音が信じられなければならないのです。

 悔い改めて、福音を信じるというのは、一対の語法になっているのであって、どちらかを軽くしてもいけないのです。どちらも同じだけの重さを持って、ずっしりと人間の心に応えていなければならないのです。

 さて、悔い改めて福音を信じるということですが、これは私たちが毎日考えなければならないことです。悔い改めるという言葉の持つ重大さを、玩味してみる必要があるのです。

 一体、悔い改めてという言葉の内容に何が含まれているのか。「時は満ちた」が分かっていないから、悔い改めにはならないのです。「時は満ちた」ということの理解です。英訳では、The time is fulfilledとなっています。これはとても重大なことですが、見落とされているのです。

 人間の時はもうなくなっているのです。ところが、皆様は人間として生きています。これは悔い改めていない証拠です。自分の人格を認めてみたり、自分の立場を承認したり、自分の経験を主張してみたり、自分の意見にこだわったりしている。これは時が満ちたということが分かっていない証拠です。

 肉体人間はもうなくなっているのです。なくなってしまったのです。人間はもう生きていないのです。

 人間が一度だけ死ぬとはどういうことなのか。一度だけ死ぬというのは、二度と死なない、二度とは死ねないという意味です。

 実は今の時代に、人間が死ねるということは大きな恵みです。これは肉的な恵みですが、自分が自分で死ぬことになりますと、大変なことになるのです。

 自分が自分の命を絶つ時には、その時の心理状態が凍結して死ぬのです。息を引き取る時の心理状態が凍結するのです。これが永遠にその人を苛むことになるのです。これは恐ろしいことです。

 人間は自殺する瞬間に、しまったと思うに決まっています。自分の命を絶つということに対する犯罪性です。これを計算していなかった。自分の命を自分で絶つという責任感です。この感覚が自分の息を引き取る時に、自分に突き刺さってくるのです。

 今、息が切れる時に、しまったと思っても、それをどうすることもできないのです。もう心臓が止まっているのですから、どうすることもできない。心臓が止まってもまだ意識があるのですから、その時にしまったと思うのです。

 心臓が動いている時にしまったと思えば、やめるでしょう。しかし、心臓が止まってから、しまったと思うのですから、やめられないのです。脳はしばらく働いています。その間が恐ろしいのです。

 顕在意識と、深層意識は全然違います。顕在意識で人を憎み、人生を儚んだのです。深層心理はそれを知らないのです。深層心理は魂の声です。息を引き取る時に、これにぶち当たるのです。それで、しまったと思うのです。

 人間は一度だけ死ぬことが決まっている。なぜ一度だけ死ぬことが決まっているのか。これを知るためには、人間の魂がこの世に出てきた原理を尋ねなければならないのです。

 一体、なぜ魂がこの世に出てきたのか。魂がこの世に出てくるには、そのような必要性がなければならないのです。

 第一、魂は自分の意志でこの世へ出てきたのではありません。自分の意志で出てきたのではないとすれば、魂がこの世に出てきた原因、原理は何か。それは、宇宙の意志か、神の意志か、それとも第三者的な絶対的な理由があって、この世に出されたに違いないのです。そうして、この世で育って生活しているのです。

 ところで、人間の生活の形態は、何をしているのでしょうか。例えば、料理をして食べます。そのような形で食事をするのは、何を意味するのでしょうか。犬や猫が食べるのとは、全然意味が違うのです。調理をする、料理をするのです。これはどういうことなのか。

 自分の口にあうような、家族の口にあうような、料理をして出すのです。料理をして食べるのは何をしているのか。これをしているのは人間だけです。

 人間が料理をするのは、理性の作用です。口にあうようにとか、盛り付けをする、栄養があるかないかを考えるのは、非常に理性的です。

 人間が理性的に考えて料理をするのは、なぜでしょうか。そうしなければ生きられないからです。犬や猫は料理をしないのに生きている。栄養価がどうかなど、全然考えていない。ましてや、盛り付けがどうか、味覚がどうかを全然考えていない。ただ目の前にあるものを食べているだけです。

 ところが、人間はいちいちそれを問題にするのです。盛り付け、味付けをするのは何をしているのか。実は、食事を通して、魂にアピールしているのです。肉の食物がそのまま霊にアピールしているのです。自分自身の霊魂にアピールする形で食べているのです。

 家族とか、お客さんにアピールする形で、盛り付けている。そういう人たちにアピールする形で、料理をしているのです。これが料理の原則です。

 年齢とか、健康状態、民族、伝統に従って、人の霊魂にアピールしている形で、盛り付け、味付けしている。

 これをするのは、神の所作です。神の所作をしているのです。人間の所作ではない。肉体を持つものの所作ではない。肉体を持たないものの所作です。霊魂にアピールしているからです。肉体にアピールしているのではない。霊魂にアピールしていること自体が、それを証明しているのです。

 食べる人の健康状態とか、気持ちとか、その人の感覚、好き嫌いにアピールしているのです。肉体にアピールしているのではありません。好き嫌いというのは肉体とは違います。心理状態です。これにアピールしているのです。

 それができなければ、料理とは言えないのです。料理せずに食材をそのまま出したのでは、料理とは言えないのです。犬や猫ならそれでいいでしょう。人間はそうはいかないのです。

 例えば、一個のサツマイモを出すとしても、焼くなり、蒸すなり、煮るなりして食べるのです。そのままで食卓に出す訳にはいかないのです。

 出す場合でも、いきなりテーブルの上には置かないのです。皿に載せるとか、紙の上に載せるとかして出すのです。必ず霊魂にアピールする形をとるのです。ケーキを出す時も、必ず皿に載せるとか、紙の器に載せて出すのです。

 そのような食事作法一つを取り上げても、人間の作法は霊なる者の所作です。霊なる者とは神なるものです。そうしなければ、人間は生きていけません。

 人間がしている食事作法だけを取り上げても、まさに神の生活形態です。神がもし肉体を持って地上に現われたら、人間と同じ生活形態を取るでしょう。

 その証拠に、イエス・キリストが肉体を取って地上に現われて、どういう生活形態を取ったのかと言いますと、人間と同じ生活形態を取ったのです。

 「イエスは誠の人にして誠の神であった」と聖書に書いています。「誠の神であって、とこしえの命である」とヨハネが言っているのです。この主イエス・キリストが人間と同じ生活をしていたのです。

 人間生活の原形は、神の生活形態です。例えば、洋服のデザインは神でなければできないのです。色の好み、柄の好み、体つきを考えて、デザインをするのです。

 家のデザイン、車のデザイン、衣食住のすべてにおいて、デザインしているのです。

 あらゆることに作法があるのです。食事をするにも、トイレに行くにも作法があるのです。自転車に乗るにも、電話をかけるにも、手紙を書くにも作法があるのです。

 私たちは宇宙の格率に従って、きちっと作法どおりに生きているのです。人間は知らず知らずのうちに、神を生きているのです。神に生きているのです。神に生きなければならないように、仕向けられているのです。

 宇宙の格率を無視して、勝手に生きられないのです。天地の格率を無視して、道を歩くことさえもできないのです。

 人間は宇宙の格率に従って運転しているのです。宇宙の格率に従わなくては、一切の行動ができないのです。

 人間の五官はきちっと天地の公道に添って働くようにできているのです。従って、五官において、人間は動いたり働いたりしているとすれば、私たちは宇宙の作法どおりに寝たり起きたりしているのです。これが神の所作です。

 神と人間は肉体があるかないかの違いだけです。私たちは神をそのまま生きているのです。

 これを考えてみると、霊魂が何のためにこの世に来たのかということは分かるでしょう。自分自身の生活のあり方を究明すれば、はっきりと神の子の姿が出ているのです。これをよくよく検討してみれば、生きているという形の中に、生ける神の子の姿が出ているのです。これがイエスの本体です。

 自分が生きている姿をよく見れば、イエスとして生きていることが分かるのです。五十年も六十年もイエスとして生きていて、これを全く知らずに死んでしまえば、その責任を追及されるのは当たり前です。

 死んだ後に裁きを受けるのは当然です。「お前は六十年も七十年も、長い人は九十年も百年も生きて、何をしていたのか」と言われます。毎日、毎日、繰り返し繰り返し食事をしていながら、何をしていたのか分からない。とにかく、食べていたのです。それで通るのでしょうか。

 私は難しい聖書の話とか、モーセの掟のことを言っているのではありません。毎日、毎日、生きていることについて、お話ししているのです。これでさえも分からないとすれば、責任を負わされて申し訳ができるのでしょうか。

 そこで、トルストイのようなことを言わなければならないのです。

 彼は、「私は人生で一番大事なことをすることができなかった」と言って、死んでいったのです。文豪トルストイが、そう言って死んだのです。

 一番大事なことをせずに、大事ではないことばかりをしていたのです。「戦争と平和」「アンナ・カレリーナ」を書いたのは、人生の雑事です。ところが、人々は彼に敬服しているのです。

 しかし、彼は一番大事なことをせずに死んでいったのです。彼が書いた「復活」は人間のことであって、神のことではなかったのです。

 トルストイは聖書という本を書いています。聖書の中の気に入った所を抜き出して、自分の聖書を作ったのです。彼は深い悔恨の内に、死んでいったのです。

 トルストイはついに、神が分からなかった。魂が何のためにこの世に出てきたのか、分からなかったのです。魂が何のためにこの世に出てきたのか。それを知ることが、人生で一番大事なことです。彼はそれをせずに死んでいったのです。

 五十歳以後の彼の作品のテーマは、聖書を中心にしていたのですが、イエス・キリストの復活の本当の意味を知らなかったのです。復活どころか、イエス・キリストを全然知らなかったのです。

 衣食住を通して、人間は何をしているのか。このことを全世界の人間が、誰も知らないのです。何ということかと言いたいのです。

 人間は皆生ける神の子の業をしているのです。生ける神の子でなかったら、できないことをしているのです。

 私たちが見たり聞いたりしていること、ラジオを聞いたり、テレビを見たり、人と話をしたり、商売をすることはもちろんのこと、恋愛も、スポーツも、すべて神の子でなければできないことをしているのです。

 野球のルールを猫が分かるのでしょうか。レスリングのルールを犬が分かるのでしょうか。バスケットのルール、ゴルフのルールを牛や馬が分かるのでしょうか。

 人間の生活と被造物全体とを比較してみれば、神の神たること、人の人たること、神性と人性の本質、神の永遠の力と神の御心が、天地万物にも人間生活にも溢れていることが分かるのです。

 私たちが自我意識さえ取り除いてしまえば、神に生きていることがありありと分かるのです。

 そういう生活をしているのは何のためか。魂がこの地上に送り出された目的は、神を生きるためです。自分自身に生きるためではありません。神に生きるためです。そうしなければ生活ができないように、仕向けられているのです。

 人間がこの地上に出てきたのは、人間としての暮らしを送るためです。人間としての暮らしを送るということは、この宇宙の営みを行うためです。

 人間の生活は宇宙の営みの縮図です。万物は宇宙の営みを行っているのです。逆に言いますと、宇宙が万物を通して、宇宙自身を営ませているのです。万物が生きている状態を、私たちは宇宙と称しているのです。私たちが空間とか時間と呼んでいるもの全体の営みが宇宙です。

 人間の生活とは何かと言いますと、宇宙の営みのエッセンスのようなものを凝縮したものです。人間の衣食住の生活態度は、宇宙全体の営みを凝縮したものです。

 人間の生活はそれ自体が、ミニ宇宙です。ミニ宇宙を私たちは営んでいるのです。

 宇宙の営みを凝縮したものが人間の営みですから、これは人間という生きものの営みではないのです。宇宙の営みを個人的にさせられているのであって、そうしなければ生きていけないのです。

 このような絶対的な必然性によって、人間は宇宙の格率を学び、生かされているのであって、人間はどうしても神を知らなければならないのです。

 親が親であることを知っているというのは、神が神であることを知っていることになるのです。ところが、神を知らない。

 兄弟を知りながら、魂のつながりを全然知らない。兄弟という意識はそのまま人間の魂のつながりを意味していますが、それが分からない。自他一体が分からないのです。自分には自分の立場があると考えている。ところが、他人との協同でなければ生きていけないのに、これが分からないのです。

 私たちは対人関係において、また、対物関係において、宇宙の営みを営んでいるのです。ところが、これが分からない。愚かな生き方をしているのです。

 神の分かり方にはいろいろあります。例えば、儒教的な分かり方もありますし、また、本居宣長の分かり方もあります。一体どの分かり方が正しいと言えるのか。スピノザの分かり方が正しいのか、ニーチェの分かり方が正しいのか、オーガスチンの分かり方が正しいのかということです。

 誰の分かり方が正しいのか、一体、正しいことの決め手は何かということです。それぞれ皆、自分が正しいと思っているのです。

 神はこれに対して、義をもって裁く日を決めたのです。これがイエスの復活です。

 イエスが現世に生きていた生活感覚は、最も完全に宇宙意識を生きこなしていたのです。そのために、彼の肉体構造、真理構造が宇宙に一致していた。そこで、復活という現象が起こったのです。

 復活は偶然の現象ではないのです。彼の心理作用と生活行動が、宇宙の格率の本源に一致したのです。そこで、彼は死を破ることに成功したのです。

 イエス・キリストの復活という事実こそ、本当に学の対象にすべきものです。イエス・キリストを学ぶことだけが、本当の学問です。これが分かれば、「ある」ことの唯一の中心ポイントがはっきり分かるのです。

 人間はこれをやり損なっている。それを捉え損なっているのです。ユダヤ人はこれを受け損なったのです。何がニーチェか、何がダーウィンか、何がマルクスかと言いたいのです。皆、やり損なっているのです。

 イエスの気持ちの状態、世界観の規定、価値観の規定、彼の生活行動の原理、思考法則の原則が、宇宙全体構造の中心ポイントにはっきり一致していた。だから、彼は生きているままの状態で、宇宙の営みの真髄が分かっていたのです。このことをイエスは、「我父にあり」と言っています。

 そうして、イエスは彼自身が生きている姿が、そのまま宇宙の営みの凝縮であることを知っていた。だから、水の上を歩いたのです。風や波を叱ったのです。「風よ静まれ、波よ黙れ」と言った。そして、風や波は静まったのです。これは、イエスが宇宙の営みを彼自身が営んでいたことが分かっているからできたのです。

 イエスの生活が、肉体的にも、また、心理的にも、論理的にも、きちっと宇宙の原理にあっていたので、死を破ることができたのです。

 イエスは十字架につけられて一度死んだのですが、宇宙の営みがイエスによって営まれていたために、彼を死んだ状態で置いておくことができなかった。

 なぜなら、イエスを死んだままにしておくと、宇宙が死んでしまうからです。宇宙構造が彼を復活させなければならなかったのです。

 宇宙は永存しなければならないのです。宇宙は絶対に永存しなければならないのです。宇宙の絶対的な構造、営み、本質に一致していたイエスが消えてしまいますと、宇宙の本源が消えるのです。そんなことはできません。そこで、イエスは一度死んだが、生き返らなければならなかったのです。

 イエスは復活すべくして復活したのです。当然、復活すべきものですから、復活したのです。

 復活すべきものが復活して、救われるべきものが救われた。この原理原則をキリストというのです。イエスがキリストになったというのは、このことです。

 キリストというのは、宇宙の完全法則を完全に実行することです。キリストにおける信仰とは、宇宙の営みを濃縮して営むことです。その原理がキリストです。

 魂はこれを発見するために来たのです。これは雄大な目的です。魂はこの目的のために、地上に来たのです。

 そこで、もう一度、皆様が営んでいる生活の形態を考えてみて下さい。何を食べ、何を飲み、何を着ようとしているのか。生活で何をしているのか。私たちはそのまま生ける御子として暮らしているのです。これをどのように自覚しているかです。

 私たちはすでに、キリストを生活させられているのです。キリスト的な生き方を生活させられているのです。ただそれを信じていないだけです。生活の形はイエスと同じことをしているのです。ところが、まだこれが理解されていないから、宇宙の営みを営んでいるという自覚がないのです。自分の個人的な営みを営んでいると思っているのです。

 個人的な営みは何処にあるのでしょうか。皆様の個人的な営みはあるのでしょうか。ありもしないものを、あるように誤解しているのです。これが人間の考え違いです。これは人間の不信仰です。

 聖書は、「すべての人の不信仰を裁く」と言っています。すべての人の不信仰を裁くのは当たり前です。魂はそのように、神を生き、神を経験し、キリスト的法則を生きなければならないように仕向けられているのです。ところが、自我意識があるために、これが分からないのです。

 自我意識というばかばかしい意識があるために、永遠の生命の実体を、現在生きていながら分からないのです。

 自我が敵です。最大の敵です。自我が宇宙に発生したことが、悪魔が発生したことです。

 私たちは今、自我意識という悪魔と戦うために生きているのです。自我意識さえなければ、私たちはありありと神を感じることができるのです。神を見ることができるのです。

 イエスは、「心の清い人はさいわいである。彼らは神を見るであろう」と言っています(マタイによる福音書5・8)。心が清いというのは、自我意識を問題にしないことです。そうすると、神が見えるのです。イエスが神を見たように、私たちにも神が見えるのです。

 魂は現世において経験するために生まれてきたのです。現世での正しい生活経験の仕方とは何か。イエス・キリストの復活を受け入れたら、すべて分かるのです。

 イエス・キリストの生活の仕方、生き方、思考方式が、そのまま神を知る、宇宙を生きることの正確さを持っているのです。そのために、イエスは復活したのです。これだけが正しいのです。

 真理は一つ、神は一つ、信仰は一つです。本当に正しいことは、一つでなければならないのですが、これをイエスが現わしたのです。

 人間の魂はキリストを見つけることが、最高の生き方です。唯一にして無二の最高の生き方です。これを見つけたら死なないのです。宇宙の営みを営んでいるのですから、死なないのです。

 宇宙の営みを営むことが善です。これは議論の余地がありません。

 花が咲いていること、月が輝いていること、地球が回っていることが善です。これとイエスの生き方が、きちっと一致していたのです。

 これを見つけることが、魂がこの世に出てきた目的です。これを見つけ損なったらどうなるのか。人生の目的を果たし損なったらどうなるのか。キリストを見つけない状態でこの世を去っていくことが、死です。

 キリストをはっきり確認しないままの状態で、この世を去っていくことを、死というのです。一度死ぬとはこのことです。これはキリストを見つけ損なった人のすべての運命を断定しているのです。

 キリストを明瞭に、正確に見つけ損なった魂は、必ず一度死ぬのです。死んだ後に、裁きを受けなければならないのです。イエス・キリストと同じ生き方をしていたのに、それを全く認めなかったことに対する裁きが行われるのは、当然のことです。

 魂というのは、神の続き柄、属性です。神に属する性格を持っているのです。神に属するものです。神が永遠であるように、魂も永遠です。霊魂不滅です。

 そこで、神の元から出て、この世に出て来たとはどういうことか。生理機能、心理機能、五官を与えられたのです。これはイエスと全く同じ機能を与えられたということです。

 人が生きている客観的な条件は、イエスと全く同じです。これに気がついて、イエスが主であることを認めることがキリストです。イエスがキリストであることを認識するために、この世に出て来たのです。

 これを正確に認識できた人は、「一度だけ死んで、死んだ後に裁きを受ける」という運命から、逃れることができる。このことをよく考えて頂きたいのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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