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人間の責任
人間が生きていれば、当然責任がついて回ることになるのです。人間の霊魂は宇宙人格の反映でありまして、神の機能の分派したものです。
人間は理性と良心という霊長機能、霊長能力を与えられて、現世に生まれてきたのです。生まれさせられたのです。私たちはこの霊長機能を用いて、万物の霊長という資格において、生きているのです。しかし、万物の霊長という実質を持っているかと言いますと、持っていないのです。
例えば、ライオンが一匹大阪の町へ逃げこんだとしますと、町中が大騒ぎになるでしょう。沢山の警察官や機動隊員が動員されて、掴まえることになるのです。
これは人間が機能的には万物の霊長であっても、存在的には万物よりはだいぶ劣ることになるのです。犬や猫は嘘を言いません。インチキをしたり人を騙すようなことはしないのです。ただ本能によって魚をくわえて逃げるくらいのことです。
人間は人を騙したり裏切ったりします。これは人間が動物以下の存在であることの証明になるのです。ところが、人間が人間づらをして生きているということは、万物の霊長としての機能を乱用していることになるのです。霊長機能を持っていながら、霊長責任を担当していないのです。霊長としての自覚を持っていないのです。
基本的人権ということを言いますが、人権ということを言いたければ、人責を考えるべきです。人間の責任を考えるべきなのです。基本的人責を考えるべきです。これが霊長責任なのです。
霊長的な権利を主張したいのなら、霊長的な責任を自覚すべきです。これは当り前のことです。ところが、人間はこの当り前のことを一向に実行しようとしないのです。
権利がある所には義務が生じるに決まっているのです。これは民主主義の原理です。民主主義の原理を政治的には理解していても、人生観的には全く理解していない。だから、死んでしまうことになるのです。
死んでしまうということは、容易なことではないのです。現在、人間は神に生かされているのです。神に生かされているのではない、自分が勝手に生きていると考えたいのですが、そうは問屋がおろさないのです。
人間は自分で空気を造っているでもないし、自分で水を造っているのでもない。ところが、人間は空気や水を無限に供給されているのです。私たちはそれを供給される権利があるのかということです。
人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではありません。だから、人生は自分自身の所有物ではないのです。従って、自分自身で勝手に生きていたらいいという理屈は成り立たないのです。
自然主義的な自由思想は本質的に嘘です。個人主義も嘘です。純粋の個人はどこにも存在しません。何処かの国に属するか、何処かの社会に属するか、何処かの家庭に属するか、何かの団体に属するかです。そういうものに全く関係がない純粋の個人は、何処にもいません。
地球にも属していない。天地に属していない人間はいないのです。ところが、個人主義という主義だけがあるのです。これはばかばかしいことですが、こういう間違いを人間は平気でしているのです。そうして、基本的人権と言っているのです。
こういう間違いを現代文明はしているのです。何のために人間は生きているのか。一億二千万の日本人は何をしているのでしょうか。大都会の人々は何のために生きているのだろうか。
商売をしている。会社勤めをしている。生活しているということは分かります。商売をすること、会社勤めをすること、生活することが何を意味するのかということです。何のために生きているのか。目的なしに生きているとしたら、死ぬために生きていることになるのです。現在の人間の人生観、世界観、価値観というものは、根本的に間違っているのです。
今の人間があると思っているものは、実はないのです。生きていると思っていることは、死んでいるということです。物だと思っていることは事です。このように大変な考え違いをしているのです。
なぜこういうことになったのかと言いますと、仏教的に言いますと、人間は無明から出たものだからです。大乗起信論によりますと、無明が無明を受け継いで、無限の無明に落ち込んでいるのです。
妄念が妄念を受け継いで、無限の妄念に落ち込んでいるのです。これが大乗起信論の考えですが、人間の考えは本質的に妄念です。または妄想です。妄念、妄想の人間が妄念、妄想の人間を生んで、六千年も地球で生きていた。その結果、現代の人間は無限の無明に落ち込んでいるのです。
人間の考え方は全く間違っているのです。だから、死ぬということが分からないのです。人間は間違いなく死ぬのですが、死ぬことが分からないままの状態で生きているのです。
死ぬということをまともに考えるのは縁起が悪いと考えて、臭いものに蓋をするようにごまかしごまかしている。来年は、来年はと言って死んでいくのです。
徳川時代の蜀山人の狂歌に、「死ぬことは人のことだと思うたに、俺が死ぬとはこれはたまらん」というのがあります。
八十五歳や九十歳の老人が死んだのなら、爺さんは死んだのかでしまいですが、いよいよ自分に死が迫ってくると、困るのです。
ある禅宗のお坊さんがいました。この人が癌になったのです。本人が癌だということを知らないのです。どうも体の調子が良くないので、大学病院へ診てもらいに行った所、手遅れの癌だったのです。あちこちに転移していたので、あと三ヵ月の余命でしたが、医者は本人に言えないのです。
医者は「少し悪い様ですが、好きなものを食べてもよろしい」と言ったのです。
医者から好きなものを食べてもよろしいと言われたら危ないのです。お坊さんはそう言われて、さすがにぴんときたのです。「私は癌ですか」と聞いたら、「そうではありません。少し悪い所があるが、胃潰瘍みたいなものですから、大丈夫です」と医者が言うのです。
お坊さんはどうも納得できないので、「私は六十五歳になっても、長年禅の修行をつんできたのです。死ぬと言われましても一向に驚かない。大悟徹底しているから本当のことを話してほしい」と言ったのです。「寺の始末もしなければいけないので、正直な所を話してほしい」としきりにお坊さんが言うので、医者は、お坊さんを信用して、「実は、末期癌で、あと三ヵ月しか余命がない」と言ったのです。
和尚はそれを聞いた途端に顔色は蒼白に変わり、がたがた震えだしたのです。医者はしまったと思って寺へ電話をして、早速迎えに来てもらったのです。
キリスト教の牧師にも同じような話がありました。とにかく、人間は死ぬと言われると、震え上がるのです。この気持ちは理解できますが、感心はできないのです。
そのお坊さんは死を知らないのです。解脱はしたかも知れないのですが、死を諦めてはいないのです。諦めるというのは、明らかにするということです。
無明は明らかではないことです。人間は無明から生まれてきたのです。人間は親の性欲によって生まれてきた。つまり、無明から生まれてきたのです。
このような妄念で考えているのです。妄念から生まれてきて無明で考えますから、人生観も価値観も、世界観も、皆間違っているのです。
宗教と言っても、哲学と言っても、全部無明から出てきているのです。
ところが、釈尊やイエスは宗教家ではなかったのです。この人たちは、無明の外で考えていたのです。釈尊の解脱は無明から抜け出した状態です。般若心経はこれを言っているのです。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空というのは、これを言っているのです。人間のいろいろな考え方は皆空である。空っぽである。全部間違っていると言っているのです。
般若心経は人間のあるがままの状態を率直に指摘しているのです。これは宗教ではありません。悟りです。現在の仏教の悟りは、ほとんど禅宗的な悟りになっているのです。これは宗教です。観自在菩薩の悟りは、人間本来の悟りであって、これは宗教ではありません。人間が生きているという事実をそのままに取扱っているのです。
もし現在の仏教が本当に悟っているとしたら、現在の仏教界のような堕落は、ほとんどなかったのです。
キリスト教も同じことが言えるのです。イエスは大工の青年でした。宗教家ではなかったのです。おまけにこのイエスは宗教が一番嫌いでした。宗教をひどく攻撃したのです。そのために、宗教家に殺されたのです。
イエスを十字架につけたのはパリサイ派という宗教家です。イエスは宗教家を攻撃したために、宗教家に殺されたのです。そのイエスが現在キリスト様として宗教家に拝まれているのです。おかしいことをしているのです。
釈尊も同様です。釈尊も宗教を断固として否定したのです。修業していたバラモンから離れて、菩薩樹の下で座っていた。自分の独自の直感力によって仏性に基づいて大悟解脱した。そして、当時の宗教とは全然違ったことを言い出したのです。
これが観自在菩薩の悟りとして、般若心経に書かれているのです。釈尊はあとからバラモンの人たちにずいぶんいじめられているのです。この点もイエスとよく似ているのです。
釈尊は殺されはしなかったのですが、時の宗教家にずいぶんいじめられたのです。
般若心経と聖書が宗教家の手に押えられていることが大変悪いのです。皆様には般若心経と聖書がどうして同じように論じられるのか。どういうセンスにおいて一つになれるのか。こういう疑問があると思います。
般若心経が仏教の経典であると思われていることが宗教観念です。実は般若心経と聖書は同じ方向のことを言っているのです。ただ目標が違うだけなのです。
般若心経は悟ることを目標にしているのです。しかし、救いがないのです。聖書は救うことを目的にしているのです。イエスも悟りという言葉を使っていますが、救うということが聖書本来の目的です。
般若心経は悟りを主張し、聖書は救いを主張する。この点が違うだけです。同じことを言っているのです。
般若心経がいう五蘊皆空、色即是空がはっきり分からないままの状態で聖書を信じていますと、イエスの十字架の本当の意味が分からないのです。
イエス・キリストの名によって洗礼を受けることは、彼と共に葬られることだとパウロが言っています。洗礼を受けることは、葬式されることになるのです。
キリスト教ではこれと同じことを言っていますが、キリスト教で洗礼を受けても、葬式されたという実感がないのです。言葉はあっても実感がないのです。宗教観念が空回りしているからです。
仏教も同様です。色即是空と言いながら、やはり寺の坊さんは寺の経営のことを心配しているのです。伽藍仏教は釈尊の思想には関係がないのです。
私たちは仏教やキリスト教の指導者に押えられている般若心経と聖書を、すべて素人の私たちに移すべきだと考えているのです。
宗教になりますと、般若心経と聖書が歪められてしまうからです。
私たちは現世を楽しむために生まれてきたのではありません。人間とは何であるのか、魂とは何であるのかを知るために生まれてきたのです。これが人生のノルマです。霊長責任です。
神に出会うこと、神を捉えるために生まれてきたのです。現在皆様が生かされているという事実があります。目が見える、耳が聞こえる、生理機能が働いているという事実があります。この事実を神というのです。
現在皆様は神によって生かされているのですから、この神を掴まえなければならない責任があるのです。これは当然のことです。皆様が神を掴まえることに成功すれば、皆様の中から死が消えてしまうのです。
死とは何かと言いますと、神との関係が切り離されることです。イエスはこのことを、「外の暗い所へ追い出される」と言っているのです(マタイによる福音書25・30)。神との関係が断絶してしまうのです。
今皆様は生かされているという形において、神との関係がつながっているのです。神との関係がつながっている間に、神を掴まえるのです。人間は目の黒いうちに神を掴まえなければならない責任があるのです。そうしたら、神から切り離されることがなくなるのです。神との関係が断絶しないのです。死がなくなるのです。死ななくなるのです。このことを永遠の生命を与えられるというのです。
イエスは「私を信じる者は決して死なない」と言っているのです(ヨハネによる福音書11・25)。これは奇妙な言葉のようですけれど、本当です。現在皆様は神に生かされているのですから、神に生かされているということをチャンスにして、自分自身を生かしている神を掴まえることができたなら、皆様は神から切り離されることはなくなるのです。
肉体は消耗品です。やがて使えなくなります。現世を去るのは他界することです。他界するということは、現世ではない別の世界に行くことです。
別の世界のことを皆様がご存じないとしたら、そこへは行けないのです。このままでは死ねないという気持ちが皆様にはあるでしょう。今のままで死んだらひどいめにあうのです。生まれながらの知識や常識を持ったままで死んだら、ひどいめにあうのです。
人間の常識や知識は五蘊です。これは皆空です。これを持ったままで死んだらひどいことになるのです。まず黄泉(よみ)へ行きます。それから地獄へ行くのです。
これは宗教ではありません。人生の事実です。人間は現在生きているという状態で、神と面会しているのです。面会していながら神が分からないでしょう。この状態を業(ごう)というのです。罪と言います。無明というのです。
神と面会していながら神が分からない。この状態を無明煩悩というのです。
こういうことをよくお分かり頂くためには、天地が造られたことの原因からお話ししなければならないのです。現象世界と非現象の世界の違いがどういうものかということからお話ししなければならないのですから、一度にはお話しできませんので、時間をかけて、何回かに分けてご説明しなければならないのです。
端的に言いますと、目に見えない世界、非現象の世界、ことがらの世界があるのです。この世界から皆様は生まれてきたのです。
非現象の世界とは何かと言いますと、例えば、ミカンを食べるとしますと、味、香、栄養を味わいます。味、香、栄養を非現象の世界、事がらの世界というのです。
非現象と現象は接触している面はありますけれど、本質的には違うのです。
実は私たちは現世で他界した後の世界を経験しているのです。皆様は現象意識だけで生きているのです。または、顕在意識という常識、知識だけで生きているために、非現象の世界、事がらの世界が分からないのです。
人間が生きている状態の中に、死後の世界を経験しつつあるのです。ところが、それが分からないのです。五蘊皆空ということがよく分かって、自分の常識や知識にこだわらなくなりますと、死後の世界が見えてくるのです。
皆様が自分の常識にこだわっている間は、死後の世界は分からないのです。お話ししてもお分かりにならないでしょう。
人間の常識が、間違っているということに気づけば、自ら分かってくるのです。
現在人間は生きつつある状態において、死につつあるのです。例えば、皆様がこの世に生まれた瞬間から、死に向かって歩いているのです。従って、人間は生きつつあるという状態において、死につつあることになるのです。ですから、私たちが生きている間に死んだ後の世界が分かって当り前です。
皆様の常識が邪魔をしているのです。だから、皆様は常識の間違いに気づくことから始めて頂ければいいのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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