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                                                              死からの脱出

 

 どうしたら死から脱出できるのか。死ということについて、世界中の人々が考え違いをしているのです。

 死というのは、生理的な問題であると思っています。肉体的に生きている人間の立場から言えば、そういうことになるかもしれませんが、死が肉体的な問題だと考えていることが、思想的にはすでに死んでいることになるのです。

 死の正体が分からないままでこの世を去っていくことを、死だと思い込んでいる。この世を去るのは死ではないのです。ナザレのイエスはこの世を去ったのです。しかし、死んではいないのです。

 イエスが復活したというのは、六千年の人間の歴史の中で最も大きい、また一番確実なテーマなのです。従って、これは学問の対象として取り上げなければならないテーマなのですが、現在の文明はそれを学問の対象としていない。キリスト教という宗教に任せきりで、まともに触れようとしないのです。

 この態度が非常に不真面目なのです。宗教家でなければ死の問題を考えなくてもいいと思っている。これが現代文化の根本的な間違いです。

 文化、文明がどれほど立派なものでも、結局死んでしまうことになれば、何にもならないのです。どんな立派な学問でも、どんな立派な業績でも、死んでしまえば無になってしまうのです。

 死を肯定することは、死に負けていることです。論理の展開が正しくても正しくなくても、とにかく死を考えるという勇気が、今の文化にはどうしても必要なのです。それをしようとしていない。これは文化という概念についての考え方が貧弱で、スケールが小さい。本当の意味での文化と言えるようなものではないことを、白状していることになるのです。

 現在の文化、文明は、名前は文化、文明ですけれど、内容的に文化、文明と言えるものは一つもないのです。

 文化、文明の大欠点が何処にあるのかと言いますと、死を認めていることです。死に降参している。白旗を出しているのです。負けても勝ってもいいから、死に戦いを挑むという勇敢な気持ちがないのです。

 芸術に対して真面目さはあるでしょう。政治とか法律に対する真面目さはあるでしょう。しかし、人間が死ぬに決まっていることを前提にしての政治、法律に、根本的な勝ち目があるかどうかです。

 死ぬに決まっている人間が造った文明は、やがて消えるに決まっているのです。どんな芸術も、どんな政治や法律も、あらゆる学理学説も、人間文明の消滅と同時に、塵灰になってしまいます。消えてしまうのです。

 消えてしまうものに、なぜノーベル賞を出すのでしょうか。長年、核兵器の廃絶を訴えたスウェーデンの女性にノーベル賞を授与したことがありましたが、これは全く当たり前のことなのです。核兵器廃絶を説かないよりも説いた方がいいでしょう。しかし、核兵器を廃絶してその後にどうするかというと、もう分からないのです。核兵器を廃絶して終わりなのです。

 核兵器廃絶を長年説いてきたのでノーベル賞を与えられた。これが現代文明の感覚です。ユダヤ人の感覚なのです。

 私はユダヤ人の霊魂について、徹底的に彼らの反省を促すだけの材料があるのです。はっきり言いますと、私はユダヤ人を叱りつけるだけの確信があるのです。彼らは与えられている約束を知らないのです。神の実体を認識しようとしないのです。そこに、ユダヤ人の根本的な考え違いがあるのです。

 ユダヤ人はアブラハムの子孫でありながら、アブラハムの思想が全然分かっていないのです。彼らはモーセの十戒を遵奉すると言いながら、モーセが何をしたかを知らないのです。そうして、やたらと世界的な文明の政治的、経済的なリーダーシップをとっているのです。

 現在の文明は、ユダヤ人にリードされている文明です。現在の学理学説は、ことごとくユダヤ人に脱帽敬礼しているのです。ノーベル賞をもらって喜んでいるのは、その最も顕著な例なのです。ユダヤ人に褒美をもらって、なぜうれしいのでしょうか。これが人間文明が間違っている根本的な原因なのです。

 ユダヤ人の文明の本質は何かと言いますと、イエス・キリストの復活を信じたくないというだけです。ところが、イエス・キリストの復活を信じたくないと言いながら、今年が二〇一七年であるということは、ユダヤ人も認めざるを得ないのです。

 人間は死を破ることができるのだということを、イエスは歴史的に実証しているのです。その事実によって、人間の歴史が新しくなった。暦年算定の基準が、イエスが死を破ったことによって新しくされた。これは当然、学の対象にならなければならない。人文科学の基本的なテーマであるはずなのです。

 自然科学と言っても、現在の人間が肉体的に生きているという感性に基づく自然科学なのです。復活する可能性のある人間を踏まえた自然科学ではないのです。

 そういうものが、人間の霊魂に関するリーダーシップをとるだけの価値があるのでしょうか。端的な言い方をしますと、現在の文化、文明は、底ぬけバケツみたいなものなのです。目当ても何もないのです。人間の文化、文明は、具体的、実体的な意味での目標を全く持っていないのです。

 現在の学問や政治が人間の理想どおりに進んだとしても、どうなるのでしょうか。やはり人間は死んでいきますし、テロや戦争をするでしょう。恨んだり、憎んだり、焼きもちをやいたり、泥棒をしたり、嘘を言うでしょう。

 一体人間は何をしているのでしょうか。要するに、人間は命が分からないのです。生きていながら命が分からないのです。なぜ命が分からないかと言えば、死が分からないからです。死とは何か、その正体が分からないのです。

 死は恐れるには及ばないという言い方もあるでしょう。また、恐れなければならないという言い方もあるでしょう。どちらにしても、死を問題にするのは真面目で結構ですが、現在の文化、文明は、死の問題を真面目に取り上げようとしていません。

 死を真面目に取り上げるということは、ユダヤ人にとっては鬼門金神でしょう。死の問題を真正面から取りあげると、どうしてもイエス・キリストの復活を文化論的に考えなければならないことになるのですから、ユダヤ人はまともに取り上げたくないのです。

 イエスの復活以外に、人間の六千年の歴史の中で、本当に信用ができるものはないのです。科学も信用できません。哲学も法律も信用できません。

 例えば、法律が信用できないという一例を申し上げますと、人間を何人も殺せば死刑になるという説明がもうできないのです。よく「人間一人の命は地球よりも重い」と言われます。ところが、戦争では人を何人殺しても罪にはならない。むしろ多く殺せば英雄になるのです。

 広島では、たった一発の原爆で十四万人の人が一瞬のうちに惨殺されました。その後、後遺症で多くの人が死んでいきました。これでも人間一人の命は地球より重いと言えるでしょうか。広島に原爆を投下して、一瞬のうちに十四万人を殺しても、罪にならないのです。なぜでしょうか。味方も敵も人間です。同じ人間の命でありながら、戦争では何人殺してもいいというのはどういうことなのでしょうか。理論的に、哲学的に、明確な返答ができるのでしょうか。今の文明ではできないのです。ことに日本の法律家はだめです。欧米社会では、法律の専門家になろうとしますと、まず律法の原理を勉強させられるのです。律法の原理はモーセの掟ですから、これをしっかり勉強しなければ、法律の専門家にはなれないのです。

 日本ではモーセの掟を全然勉強しません。モーセの掟を知らなくても、法律の専門家で通るのです。それほど日本の社会はいいかげんなのです。

 死からの脱出というのは、冗談ではできないのです。皆様が本当に死から脱出したいと願っているかどうかです。本当に真剣にそう願っているのなら、生き方が違ってくるはずなのです。

 一体地球はなぜできたのか。森羅万象が満載された命の宝庫である地球が、なぜできたのでしょうか。それは宇宙に、死の法則、マイナスのエネルギーが発生したからです。それがどうして発生したのかという根本原理が分かっていない。分かろうとしていないことが悪いのです。

 宇宙に発生したマイナスのエネルギーは、理屈や力で圧倒できるものではないのです。どんな理屈を振り回してもだめです。原子爆弾や水素爆弾を何万発持っていっても、マイナスのエネルギーはびくともしません。ますます繁盛するでしょう。

 マイナスのエネルギーを宇宙から撃滅するにはどうしたらいいのか。これが聖書の大眼目なのです。神はどういう方法をとったかと言いますと、天地万物を創造することによって、マイナスのエネルギーを自滅させようと考えたのです。この神の大計画をキリストというのです。

 日本人は聖書が全く分からない国民です。セミホワイトと言われているくらいですから、聖書を勉強したいという、欧米人の真似をして頂きたいのです。

 地球が存在することについて一番重大な問題は、神の約束ということです。神の約束が天地万物が造られた根本的なテーマです。どうして天が天でありうるのか。地が地でありうるのか。人間がどうして人間でありうるのか。皆様は自分が人間であることについて、当たり前と思っています。これでいいのでしょうか。自分が人間であることについて、もう少し慎重に考えて頂きたいのです。

 大体、日本で聖書が本当に説かれたことが一度もないのです。学問的にも宗教的にも、神の聖書、神の約束が、正しく説明されたことが一度もないのです。日本人は全く盲目です。命に関する限り、日本人は盲目です。ただ、般若心経に般若波羅蜜多という思想があることが、唯一の救いです。

 般若波羅蜜多というのは、この世を捨てて彼岸へ渡るということですが、これが日本人に与えられたたった一つの貴重な概念です。ただこれは実体ではなくて概念です。

 般若波羅蜜多という概念はありますが、本当に向こう岸へ渡った人は、日本には一人もいないのです。一休も、親鸞も、道元も、日蓮も、弘法大師も最澄も、向こう岸へ渡っていないのです。今まで日本人で死なない命を見つけた人は一人もいないのです。私は幸運にも、それを神から教えられつつあるのです。

 皆様は命の尊さを全くご存じありません。人間がこの世に生まれて来たことは、驚くべき事実なのです。本当のプラスのエネルギーの原理が発見されますと、皆様の理性と良心は永遠無限に発展することができるのです。このことを、イエスがはっきり証明したのです。

 私はキリスト教の宣伝をしているのではありません。世界中で何が悪いと言っても、原水爆よりもっと悪いのは、キリスト教とユダヤ教です。核兵器より悪いのは、ユダヤ教とキリスト教です。その次に悪いのは、核兵器です。仏教の悪さとか、日本神道の悪さは、ごく小さなものです。キリスト教はキリストの名によって、キリスト計画に反抗しているのです。その意味で、キリスト教は最も悪いのです。これが世界を引っかき回しているのです。

 文明を引っかき回して人間の霊魂を混乱させるということは、泥棒や放火、殺人よりも悪いのです。一番悪いのは、人間の霊魂を揉潤することです。人間の霊魂を誤魔化して、殺してしまうことが最も悪いのです。ですから、世界中で一番悪いのは、ユダヤ教とキリスト教だと言わざるをえないのです。

 私はキリスト教会へ行っている人々の霊魂を愛します。ユダヤ教徒の人々の魂を愛しますから、露骨にユダヤ教とキリスト教を非難するのです。

 人の魂を奪って地獄へ引きずり込むことは、最も悪いことです。イエスは宗教家を罵りました。その結果、宗教家に殺されたのです。殺人、放火、ヤクザより悪いのが、キリスト教です。政治家が五億円の賄賂をもらって起訴されていますが、人の魂を盗むのは、五億円や十億円の話とは違います。もっと悪いのです。

 日本人は本当の悪が分からないのです。命が分からないからです。神の名によって神に反抗すること、キリストの名によって人の魂を騙すことは、一番悪いのです。

 阿弥陀如来の名によって人の魂を騙した所で、初めから誰も本気にしていないのです。本気になって阿弥陀如来を信じている人は、今の世界に一人もいないからです。ただ宗教観念として、阿弥陀仏を拝んでいる人はいます。しかし、それで死から脱出できると思っている人は、一人もいないでしょう。

 キリストの名によってキリストに反抗することが、最も悪いのです。だから、私はキリスト教の宣伝をしているのでは絶対にないのです。私はキリスト教の教義が悪いと言っているのです。私はキリスト教信者の魂をこよなく愛していますから、偽りの教義から引き出してあげたいと思っているのです。世界二十数億のキリスト教信者は、皆間違っているのです。ローマ法王はその元凶なのです。

 皆様が本当に死からの脱出を願っているかどうかです。イエスは見事に死を破ったのです。イエスができたということは、皆様もできるということです。

 これにはただ一つの条件があります。世間並の常識を踏み越えて頂く必要があるのです。これは般若心経の五蘊皆空を実行して頂ければいいのです。五蘊皆空、色即是空を実行して頂ければいいのです。遠離一切?倒夢想 究竟涅槃を実行すればいいのです。

 皆様はこの世に生まれて、今まで生きてきた固有名詞の自分を本当の自分だと考えているようですが、これが間違っているのです。

 人間は自分の力によって自立自尊することはできません。皆様が生きているのは、他動的な力、他律的な原理に基づいているのです。従って、皆様の命は皆様自身のものではないのです。

 人間はこういう根本的な考え違いをしているのです。こういう考え違いについて、老子は半分だけ説明しているのです。人間の命は無の働きによってできている。これだけ説いていますが、無の働きという説明は、半分だけの説明になるのです。全体の説明ではないのです。無とは何かについて、老子は全く説明していません。そのように、皆様の命は他律的なものですから、みずからの分としての自分の命はありません。人間は命について本質的な誤解があるのです。これが死につながっていくのです。

 皆様が自分の命について正しく認識していないことが、すでに死んでいることになるのです。それが死を決定的に招きよせる原因になっているのです。こういうことをまず認識して頂きたいのです。

 皆様がこの世に生まれた人生を、この先何十年続けていても、本当の命は分かりません。人間の歴史は、これから何千年、何万年続いても、何の良いものも出てきません。結局、人間文明は消滅するに決まっているのです。消えてしまうに決まっています。般若心経はこれをはっきり言っているのです。五蘊皆空、色即是空です。

 私が申し上げたいのは、神霊と真理です。これをもう少し分かりやすく言いますと、霊と誠ということです。霊と誠が分かれば、命が分かるのです。本当の命が分かれば、死はその人の中から消えてしまうのです。死が逃げていくのです。肉の思いは死です。霊と誠が分かれば、肉の思いは自滅するのです。

 霊と誠を弁えるためには、約束を勉強するしかないのです。約束という言葉は、未来を保証する意味での最も端的な語法です。人間の約束でも重大なことです。約束手形となるとなかなか重大なことです。一つの会社が生きるか死ぬかの問題になるのです。人間が発行した約束手形でも、会社がつぶれるのです。

 皆様は絶対という言葉はご存知ですけれど、今の日本人には絶対という言葉の意味が分かりません。絶対というこの簡単な言葉が分からないです。

 日本には絶対ということの正しい概念がないのです。人間にとって自分の考えは絶対です。しかし、絶対の正体を掴まえない絶対なのです。私がいう絶対は、絶対の正体を掴まえている絶対なのです。

 皆様が今まで生きて来た気持ちをこれからも続けていけば、非常に危ないのです。放っておけば皆様方は死ぬしかないのです。だから、般若心経と聖書のいうことに、耳を傾けて頂きたいのです。

 本気になって勉強するのなら、死なない命を得ることができるでしょう。そのためには、皆様の今までの考え方を、撤回して頂きたいのです。

 皆様がこの世に生きてきたということが、根本的に間違っていたのです。皆様が五十年、六十年、長い人は九十年、百年とこの世に生きていて、本当のことが分かったのでしょうか。本当のことを教えてくれる人がいたのでしょうか。

 もし教えてくれる人がいなかったのなら、騙されたと思って本気になって、般若心経と聖書を勉強して頂きたいのです。本気にならなければ、本当に騙されないのです。逃げ腰で聞いていたのでは、騙されないでしょう。騙されてもいいという大胆な気持ちを持って頂きたい。そうすると、分かるのです。イエスは神に騙された人なのです。神に騙されたおかげで、死ぬべき命を持っていたけれど、死なない命に鞍替えしてしまったのです。イエスの復活はそれを証明しているのです。

 端的に言いますと、一切の理屈はなくてもいいのです。イエスが死を破ったという歴史的事実を、信じるか信じないかということです。もし信じると言われるのなら、細かく説明します。もし信じないと言われるなら、般若心経や聖書の勉強をする必要はないのです。

 イエスが復活したことの他に、死なない命は地球上に現われたことがないのです。従って、それを受け取ることが嫌であるなら、皆様は本当に死から脱出することを考えているとは言えないのです。

 皆様は現在、電灯の光によって、目の前にあるものを見ています。しかし、電気の本体が分かっていないでしょう。これさえ分かれば、皆様は死なない命が分かるのです。

 例えば、太陽光線があります。太陽光線を見ていて、その意味が本当に分かったら、永遠の生命の実体が分かるのです。永遠の生命を、簡単に結論的に言えば、そういうことなのです。

 皆様の心臓が動いていることが神です。これは私が繰り返し何回も言っていることです。皆様の心臓が動いていることが神ですから、心臓が動いていることの意味が本当に分かったら、皆様は死なないことが分かるのです。

 皆様は現在までの常識をしっかり持ったままで、私の話を聞いています。これではだめです。例えば、目の前にコップがあるとしますと、そのコップに水を一杯入れて、その上に水を注いでも、こぼれるだけです。古い水を全部捨ててしまえば、新しい水を注ぐことができるのです。

 まず皆様は、般若波羅蜜多という言葉に本当に同意できるかどうかを考えて頂きたいのです。

 死というのは?倒夢想です。自分が生きていると思っていることが夢想です。そうではなくて、生かされているのです。生きているということと、生かされているということは、根本から違います。生かされているという言い方をしますと、皆様はある程度賛成して頂きやすいでしょう。

 人間は空気を造ったり、水や太陽光線を造ることはできません。ところが、空気や水や太陽光線を、毎日ふんだんに与えられています。天からただで供給されているのです。もし空気を供給されなかったら生きていけないのです。

 ところが、人間は空気を自分で造っているような顔をしています。人間は生きている資格があると思い込んでいるのです。これが?倒夢想です。なぜそう思うのでしょうか。

 基本的人権、民主主義と言いますが、これはフランス革命やアメリカの独立の時にユダヤ人が宣言した人間の理想なのです。ユダヤ人がそういう芝居をして新しい思想を世界中に流したのです。それに人間は皆おだてあげられているのです。実は、現在の文化、文明は大芝居です。いわゆるユダヤ革命思想のお陰で、皆様はおだてられているのです。

 現在の学問で信じられるものはあるのでしょうか。皆様の生命観は、人間を肉体的にしか考えていません。肉体的にだけ生きているという常識主義の考えでいきますと、大学で教えている学問は値打ちがあるのです。

 それは現世における価値判断であって、この世を去ってしまいますと、大学の学問は三文の価値もありません。宗教も哲学も、この世を去ってしまえば、何の価値もないのです。全く無価値になることが分かっていながら、そういう学問になぜ絶対的な信頼を持っているのでしょうか。

 もっと自由に考えられないのでしょうか。本当に信用できるものを信用したらいいのであって、今生きている場合でも、また死んでからも、永遠に通用することをなぜ信用しないのでしょうか。

 もう少し命を真面目に考えて頂きたい。皆様は自分の命の尊さを知らないので、実に我儘勝手なことを言っているのです。命についてもっと苦労してもらいたいのです。本気になって頂きたいのです。

 今の男性は女性が分からないのです。女性のどういうことが分からないのかと言いますと、女であることが分からないのです。「であること」が分からない。人間であることが、人間がいることになって現われている。これを人間というのです。

 日本にはこういう根本的な哲学思想が全然ないのです。「である」ということが、神霊です。誠の霊です。これは神霊科学の霊ではありません。神霊科学は程度の低いものです。これは人間の正体が全然分からない霊です。

 イエスの復活を本当に勉強しますと、今日までの学問が全部間違っていることが分かるのです。皆様に解脱して頂きたいのです。般若波羅蜜多をして頂きたいのです。五蘊皆空して頂きたいのです。

 人間の学問はただの五蘊です。皆様の六十年、七十年の生活経験は、ただの五蘊です。それ以外の何かがあったのでしょうか。

 「である」ことが神の名、ザ・ネーム・オブ・ゴッド(the name of God)です。花が花であることが、神の実体です。人間が人間であることが、神の実体です。女性が女性であることが、神の実体です。

 本当の神が分からなければ、本当の女性は分かりません。女性が分からないということは、男も分からない。人間も分からないのです。皆様に申し上げたいことは、本当に女性を知ることなのです。これが本当の命を知ることなのです。

 例えば、電気があります。地球にだけしか、このような強力な電気はありません。これに対して旧約聖書の詩篇は驚くべきことを書いているのです。

 キリスト教の人々は宗教観念で聖書を読んでいるために、神の広大無辺の尊さが分からないのです。知らないのです。

 人間が生きているというのは、本当に尊いものです。だから、死んではいけないのです。死ぬのはただこの世を去るだけではない。死んだ後に、霊魂の裁きという厳格な審判が待っているのです。

 これは皆様が自分の命ではないものを、自分の命だと思い込んでおられたその罰金を取られることです。自分の命ではないものを自分の命だと思い込んでいたということは、神の命を皆様が盗んでいたということになるのです。お金を盗んだら罪になりますが、命を盗むというのは、生易しいことではないのです。

 皆様が今生きている命は、そのまま神そのものです。神そのものと皆様は、毎日対話しているのです。生きていることは、神と対話していることです。

 皆様は自分の命が何処から来たのか、人間であるとはどういうことなのか、自分を生かしているものの正体は何であるのか、誰に生かされているのかということを考えなければならないのです。自分を生かしているものの正体が分かれば、死ななくなるのです。

 生かされている命について、正当な認識があればいいのです。ただそれだけのことです。これを知るためには、地球がどうしてできたのかを、知らなければならないのです。宗教ではない旧約聖書を勉強する以外に、地球が創造されたことの原理を掴まえることはできません。気に入っても気にいらなくても聖書を勉強するしかないのです。

 そのためには、どうしてもユダヤ人の歴史を学ぶしかないのです。今の文明は悪い意味でのユダヤ文明です。だから良い意味においてのユダヤ人を学べばいいのです。アブラハムというユダヤ人の祖先はどういう人だったのか。この人が分かれば、世界歴史の流れは、一目瞭然になるのです。世界の歴史がそのまま人間の運命を説いているのです。

 歴史はヒストリー(history)と言いますが、これはヒズ・ストーリー(his story)のことであって、神の物語なのです。歴史は人間が勝手に造ったものではありません。白人にヨーロッパ、アメリカを与え、黒人にアフリカを与え、一番広いところをアジア人に与えた。なぜアジア人に一番広い所を与えたのか。これは歴史を勉強しなければ分からないのです。

 人間が人間であることは、歴史が歴史であることです。本当の歴史は聖書を学ぶしかないのです。これはキリスト教の勉強をするのではありません。神の聖書、キリスト教ではない聖書を学ぶのです。

 皆様が本当に永遠の生命の実物を得ようと思ったら、イエスが死を破ったことを勉強して頂くしかありません。キリスト教では、復活の命を皆様に与えることは、絶対にできません。

 歴史と聖書を冷静に綿密に勉強して頂ければ分かることですが、今の皆様の命は、実は復活したキリストの命なのです。死なない命になっているのです。この事実を知らないから、人間は勝手に死んでいくのです。

 人間文明は、これをひた隠しにしているのです。隠し続けているのです。人間歴史は、ユダヤ人の大芝居です。UFOとか宇宙人を考え出したのもユダヤ人です。こういうことを持ち出して、復活の命を無意味にしようとしているのです。彼らは、日本人のような低いレベルの感覚ではとても分からない巧妙な業を仕掛けているのです。

 もう一つご注意頂きたいことは、理学と科学が違うということです。物理科学だけが科学ではありません。空理科学も有り得ますし、霊理科学も有り得るのです。もっと大きな科学があるのです。それを今の大学は全く知りませんし、知ろうともしないのです。現在の日本人は、大学で教えている学問の範囲で縛られているのです。拘束されているのです。

 皆様の命は端的に言いますと、明日をも知れぬ命なのです。これは危険なことなのです。とにかく、イエスがどうして死を破ったのかというこの歴史的事実を、どうしても掴まえなければならない責任があるのです。神がわざわざイエスが復活したという事実を、世界歴史に提供しているからです。

 これは神の偉大な提唱なのです。この神の提唱に耳を貸すことは、人間の責任なのです。そうしたくない人は、しなくてもいいでしょう。しかし、命は自分のものではないのです。皆様の命を正確に支配しているのは、「である」ということです。神が皆様と一緒にいるのです。皆様の命は神です。これに気がつきさえすればいいのです。

 生きているということが神と共にいることです。神の内にいることなのです。しかも、イエスが復活した後の神なのです。イエスが復活する前の神と、復活した後の神とは、神のあり方が全然違っているのです。ユダヤ人が考えている神と、今の神とは違うのです。

 同じ絶対という言葉を使うとしても、イエスが十字架にかかる以前の絶対と、十字架以後の絶対とは違うのです。イエスが十字架にかかったことによって、皆様の古い命は自動的に消滅しているのです。だから、わざわざ自分の命を否定しなければならない必要はないのです。

 死んでしまうに決まっている命を神が否定しているのです。死ぬべき自分が消えているのです。このことを皆様にお話ししたいのです。死ぬべき自分はもういないのです。このことは、イエスの復活を勉強して頂くと分かるのです。

 肉の思いで生きている人間は、もう存在していないのです。しかし自分が生きていると思っている人もいるのです。自分が生きているのではない。命は自分のものではないという簡単なことに気がつきさえすれば、皆様はわざわざ自分の命を捨てに行く必要はないのです。

 イエス・キリストが十字架につけられたということが、キリスト教では分からないのです。だから人間の罪悪が何処でどうして消えるのか、判断できないのです。これがキリスト教の重大な欠点です。宗教ではない聖書を正しく勉強すれば、死ぬべき自分がなくなっていることが、はっきりお分かり頂けるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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