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                       人生で一番大切なこと

 

 般若心経は非常に短い経典ですが、仏教全体の結論をそのまま端的に現わしたと言えるようです。

 最も仏教と申しましても、原始仏教と中世の仏教と現代の日本仏教とでは非常に大きな違いがありまして、一口には言えませんが、般若心経の五蘊皆空、色即是空、究竟涅槃という思想は、小乗、大乗仏教全体を通して貫いています仏教の根本精神だと言えるでしょう。

 仏教と言いますと今日の各宗各宗派に分かれている宗教のことですが、仏法と言えば悟りそのものの原則を指すのでありまして、これは現在の仏教とはかなり違ったものになるのです。

 釈尊は生老病死、即ち現世に生まれて、老いて、病気になって死んでいくことが一体何であるかについて大きな疑問を持ったのです。人間はなぜ生きていなければならないのか。なぜ死んでいくのであろうかということを、つきつめて考えたのです。これが仏法の中心命題になっています。

 日本では曹洞宗のご開山である道元禅師が正法眼蔵の中で、「生を諦め死を諦めるは仏家一大事の因縁なり」と言っておられるのです。これは修証義という簡単な経文の中に出ているのですが、生を諦めとは生きているということがどういうことなのかということを明らかにすることです。死を諦めるというのは、死ぬというのはどういうことなのかを明らかにすることなのです。これが人間一大事の因縁であるということを、道元禅師が言っておられるのです。

これが仏教の根本精神になるのです。人生とは何であるかということをしっかり見極めなさいと言っているのです。

 浄土真宗の浄土参りをする、いわゆる死んでから浄土へ行くという考え、極楽へ行くという考えも、結論として死んでから極楽へ行くという言い方をしますけれど、本来の目的は生死とは何であるのかを究明することが、仏法の第一の目的になっているのです。

 大無量寿経、仏説阿弥陀経にもそのように書いているのです。

 人間が現世に生きているということをしっかり見極めるということが、般若心経の結論になるのです。この様に考えて頂いたらいいと思うのです。

 現世に生きていることが一体何であるのか、何のために生きているのか。これを究極的に見極めることが般若心経の目的になるのです。

 般若心経に究竟涅槃という言葉がありますが、涅槃を突き止める、見極めるのです。涅槃というのは現世に生きているという思想、感覚を解脱して、本当の人生を見極めることです。

 般若心経の題目は般若波羅蜜多心経とありますが、般若というのは人間の常識ではない上智のことです。学校で教える知恵ではなくて、生きているということについての悟りを意味する知恵です。これが般若です。

 波羅蜜多というのは向こうの岸へ渡ることです。現在皆様が生きているのはこちらの岸です。これは死んでしまうに決まっている命を指しているのです。死んでしまう命のままで生きていますと、必ず死ななければならないことになるのです。この命を捨ててしまって、死なない命を見つけるのです。これが向こう岸へ渡る、彼岸に行くということになるのです。

 般若心経を写経している人は大変多いのですが、紙に写経するよりも、もう一歩進んで般若心経の心、般若波羅蜜多の心を、そのまま皆様の心に書きしるして頂きたいのです。

 自分の心に般若心経の文字を刻みつけるような書き方をするのです。これが写経の目的になるのです。写経をして千円をつけて寺へ送るということをしている人がいますが、これをして儲かるのは寺です。奈良県のある寺では百万写経と言って百万人から写経をして千円つけて送ってもらいましたから、寺は十億円儲かったのです。

 現在までに六百万人の人が写経をして千円をつけて送っていますから、寺は六十億円も儲かったのですが、送った人には何の利益もないのです。紙に写経をするのではなくて、ハートに写経して頂いたら、その人の益になるのです。

 般若心経は宗教のためにあるのではなくて、皆様ご自身の魂のためにあるのです。お寺のために般若心経があるのではありません。寺を建てるためにあるのではない。皆様の心を建てるためにあるのです。これが宗教ではない般若心経になるのです。

 皆様の心を般若心経の原理に基づいて建てて頂くことです。これをしている日本人はほとんどいないのです。般若心経を読んでいる人は百万人はいるでしょう。写経をしている人も何十万人といるでしょう。

 ところが自分の心に般若心経を書きしるしている人は、めったにありません。また、書きしるすだけでなくて、本当に般若心経の文字、例えば色即是空という文字、不垢不浄、不増不滅という文字をそのまま生活している人はほとんどいないでしょう。

 宗教というものと、本当の般若心経とはそれくらい違うのです。論語読みの論語知らずという言葉がありますが、心経読みの心経知らずというのが今の日本人の精神状態です。

 これは本当に般若波羅蜜多をしていないからです。向こう岸へ渡らないで、こちら岸にいるままの状態で般若心経を読んでいるのです。これでは般若波羅蜜多という題目が分かっていないのです。

 皆様が般若心経を読むのなら、読みがいのある読み方をして頂きたいのです。

 こちら岸にいますと、必ず死んでしまいます。私は向こう岸へ行っていることがよく分かっていますので、はっきり言っているのですが、これはそれほど難しいことではないのです。

 皆様が現在生きているのは、現実に命を持っているからです。命を持っていながら命の本当のあり方が分かっていない。命とは何かと言われると分からないのです。般若波羅蜜多になっていないから分からないのです。

 般若波羅蜜多になれば分かるのです。どうすれば般若波羅蜜多になれるかということは、一口や二口では言えませんが、色即是空という言葉を本当に信じるなら分かるのです。写経をするほど般若心経が好きであるのなら、五蘊皆空、色即是空という言葉を本当に味わってみて下さい。そうしたら分かるのです。

 般若心経は空を教えているのです。般若心経は全体で二百七十六文字あります。その中に空という文字、無という文字が三十五、六字もあるのです。全体の一割以上に空と無が現われているのです。般若心経は空と無を教えているのです。

 それは、現在皆様がこの世に生きていることが空しいものだということを端的に説明しているのです。

 しかし、般若心経は空という悟りはありますけれど、命とは何かという教えが書いていないのです。これが般若心経の足りない点です。だから、般若心経の悟りと聖書における神の命、永遠の命を付け加えて勉強すれば、鬼に金棒ということを申し上げているのです。

 般若心経は仏教の経典ではありません。人生の事実を述べているのです。新約聖書もまた人生の事実であって、キリスト教の経典ではないのです。

 仏教は般若心経を利用して商売をしているのです。キリスト教は新約聖書を利用しているのです。利用して商売をしているのです。般若心経と聖書は本来宗教の書物ではありません。全く宗教ではないのです。人生の真実そのものです。

 般若心経によって空を学ぶ。新約聖書によって命を学ぶ。この二つのことを勉強すれば、本当のことが分かるのです。実は般若心経の空がはっきり分かっていない人は、新約聖書をいくら学んでも、キリスト教になるばかりです。本当の命は分からないのです。

 まず般若心経で空を学ぶこと、それから新約聖書によって命を学ぶこと、この二つのことをお話ししたいのです。般若心経と聖書を二つ並べていますから、宗教ではないことがよくお分かりになると思います。

 般若心経なら般若心経、聖書なら聖書と、宗教ならどちらか一つにしておくでしょう。仏教とキリスト教とを二つ並べたら、宗教にはならないのです。私は宗教にならないようにお話ししているのです。

 人生の真実は宗教ではありません。死んでしまうに決まっている人生から出てしまって、死なない人生に移り変わるのです。般若波羅蜜多になることを皆様に提唱しているのです。

 人間の文明は六千年程続いてきましたが、一体文明は何のためにあるのでしょうか。六千年経っても未だに分からないのです。これが人間の無明です。魂が無明のために死んでいるのです。

 死んでいる文明を六千年間続けてきたのです。

 般若心経のいわゆる観自在菩薩も、新約聖書のイエス・キリストも、いわゆる宗教信者ではなかったのです。人間として本当の真理を極めたお方なのです。

 宗教は人間のためにあるのです。日本語の宗教という言葉は宗とすべき教え、非常に重大な教えという意味の言葉です。教えということは学校で教えるという意味です。例えば語学を教えるとか、数学を教えるということと混同されてしまうのです。

 仏教大学ではもちろん般若心経は教えますけれど、仏教大学を出た人は教学は習ってきます。それが自分の命にはなっていないのです。理屈の説明はしますけれど、その人はやはり普通の人間と変わらないような考えで生きているのです。だから、宗教になってしまうのです。

 宗教は人間のために説かれたものです。般若心経や新約聖書は人間のために説かれたものですけれど、その人間というのは魂を指しているのです。

 聖書には「悔い改めて福音を信ぜよ」という言葉があるのです(マルコによる福音書1・15)。原語では「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」と言っているのです。この汝らとはユダヤ人を指しているのです。

 この言葉の少し前には、「時は満ちた。神の国は近づいた」とあるのです。この一句だけでも本当に説明されるなら、日本はひっくり返る程変ってしまうのです。

 ところが、現在のキリスト教では、「時は満ちた、神の国は近づいた」ということが分からないのです。はっきり説かれていないのです。キリスト教的な説明はしますけれど、本当の意味で、旧約新約全体を貫いて、時は満てりとはどういうことなのか、神の国が近づいたとはどういうことなのか。これを明確に説明できる牧師が一人もいないのです。

 従って悔い改めて福音を信ぜよと言われても、悔い改めとはどういうことなのか分からないのです。キリスト教の人々は、親不孝をお詫びするとか、友だちと約束したことを破ったので謝るとか、人を憎んだことを謝るという意味に解釈しているのです。

 こういうことも悔い改めの一つにはなるかもしれませんが、イエスが言ったのはそういう意味ではないのです。「心を更えて新にする」というのは、これを言っているのです(ローマ人への手紙12・2)。

 心を更えるという言い方で、イエスの言葉をパウロが説明しているのです。これは世間並の人間の考え方を捨ててしまって、新しい心構えになって出直してきなさいという意味です。

 新しい心構えになって出直すというのは、言葉で言えば簡単ですが、実行するのは非常に難しいのです。心を更えて出直すというのは、別人になって出直すという意味で、極めて難しいと言わなければならないのです。

 キリスト教ではこれを実行している人はいません。キリスト教はキリスト教の教義を説いているのです。新約聖書の言葉をそのまま命の言葉として取り扱っていないからです。

 心を更えるというのは、心をそっくり底の方から入れ替えなさいと言っているのです。人間の精神の土台になっているものを、そっくり入れ替えてと言っているのです。そうして、別人になってしまえと言っているのです。

 死ぬべき人間から、死なない人間になるのですから、これは全く別人になるのです。こういうことを説いている人は、今の世界には一人もいないのです。牧師も神父もこれを体験していないからです。

 宗教は全くだめです。仏教もキリスト教もだめです。両方共だめです。宗教商売になっているからです。宗教では、とこしえの命、永遠の命を与えることはできないのです。

 キリスト教の人々は、新に生まれたと信じているのです。死んでから天国へ行けると信じているのです。これは希望的な観測にすぎないのです。こんな信じ方が神の前に通用するはずがないのです。

 キリスト教の信仰は現世にいる間は通用しますが、死んだら一切通用しないのです。第一に死んでから天国へ行くというようなことは聖書には書いていないのです。キリスト教は書いていないことを言っているのです。

 十字架上の犯罪人のところをしきりに引っぱりだしていうのです。十字架上の犯罪人の一人に対して、イエスが「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいるであろう」と言ったのですが(ルカによる福音書23・43)、これを引用して、死んでから天国へ行くとしきりに言うのです。

 この箇所の解釈が全然間違っているのです。イエスはこの時に天国という言葉を使っていません。パラダイスに入るであろうと言っているのです。イエスの説教の中には天国という言葉が沢山使われています。天国とはどういうものかと言いますと、毒麦の譬、真珠の譬とか綱引きの譬が天国だと書いているのです。

 イエスが言っている天国が今のキリスト教では分からないのです。今のキリスト教が言っている天国は聖書には書いていないのです。

 神仏と簡単に言いますが、人間の常識を持ったままでいくら神を進じても、仏に手を合わせても、これは現世における宗教にはなりますが、本当の救いにも、本当の悟りにも関係がありません。

 宗教ではない般若心経と聖書は常識では分かりません。皆様は現世に常識を持ったままで生きているのです。こういう人間は死ぬに決まっているのです。

 常識は肉の思いです。肉の思いは死であると聖書にはっきり書いているのです(ローマ人への手紙8・6)。肉の思いは現世にいて死んだ人、また死ぬに決っている人の考え、思いをいうのです。

 皆様は今のままで生きていたら、必ず死んでしまいます。私たちは現世に生まれてきた以上、人間を乗り越えて、肉の思いである常識を乗り越えて、本当の神を掴まえなければならないのです。

 本当の神とは何であるのか。宗教ではない仏をしっかり掴まえなければ、生まれてきたことが大変な不幸の原因になるのです。生まれて来なかった方が良かったことになるのです。

 「私は何処から来たのか、また、何処へ行くのかを知っている。しかし、あなたがたは、私が何処か来て、何処へ行くのかを知らない」とイエスが警告しました(ヨハネによる福音書8・14)。これが危ないのです。

 人間は生まれてきたという以上、何処からか来たのです。また死んでいくという以上、何処かへ行くのです。現世における人間生活は現世におけるという注釈がつくのであって、目の黒い間だけが人生ではないのです。

 皆様の人生には前編があったのです。現世は中編です。この世を去ったあとには後編があるのです。死んでしまうことを一巻の終りと言います。一巻の終わりには二巻目があるのです。

 ですから、一巻の終わりの前に、現世に生きている間に、人間とは何かということ、命とは何か、神とは何かということを理解しておかなければならないのです。

 聖書には、「人間が何者だから、これを御心に留められるのだろうか。人の子が何者だから、これを顧みられるのだろうか」とあります(ヘブル人への手紙2・6)。

 人間は一体何者だから、神が心に留めているのかと言っています。仏教にはこれがないのです。大乗仏教には魂という言葉がないのです。なぜないのかと言いますと、大乗仏教には神がないからです。

 仏法には人生の根源がはっきり設定されていないのです。従って、神がないのは当然です。仏という言葉自体が悟りを意味するのです。人間が現世に生きている事自体が、無意味なものだと言っているのです。空しいものだということを悟ることです。これが仏法の目的です。

 空しいことを悟るのです。皆様の現世の生き方が空しいことを悟りますと、初めて自分自身の本体が阿弥陀であることが分かるのです。

 阿弥陀というのは、アミダーバー(無量寿)とアミダーユス(無量光)という言葉の両方が一つになったものです。実はこれが人間の本体なのです。無量寿は無限の命です。無量光は無限の知恵です。この両方を備えたのが人間の本体です。

 ところが、阿弥陀如来と言いましても、歴史的実体であるとは言えないのです。これは概念的人格性です。一つの教えとしての人格でありまして、実在した人間ではないのです。

 大乗仏教では概念は分かりますが、永遠の命の実物をしっかり掴まえるということができないのです。だから、イエスの復活を勉強しないと、永遠の命は分からないのです。

 日曜日はイエスの復活記念日です。日曜日は宗教の日ではありません。日曜日に世界中の人が仕事を休んでいる。これは宗教ではないのです。

 日曜日はイエスの復活記念日でありまして、イエスだけが死を破ったのです。これははっきり宗教ではないのです。このことを勉強しなければ、皆様の人生は本物にはならないのです。自分の人生を本物にしようと思ったら、この世に生まれただけでは役目を果たしたことにはならないのです。

 皆様はこの世に生まれてきて、見たり聞いたりしてきました。目で何を見たのか。耳で何を聞いたのか。これが命とはっきりつながるような見聞でなければ、本当の人間とは言えないのです。

 見ていること、聞いていること、手で触っていることがすべて命の言葉であるということを、ヨハネが言っているのです(ヨハネの第一の手紙1・1~3)。これが実感できる人が、本当の人です。

 仏説阿弥陀経に、ただ念仏を口先で言っているだけではだめである。阿弥陀如来の名号のいわれを心に留めて念仏申せと言っているのです。

 ところが、現在の真宗の信者は、阿弥陀如来の名号のいわれを心に留めるということ、アミダーバーとか、アミダーユスとかいうことが、どういうことかをしっかり考えないで、ただ口先だけでナンマイダー、ナンマイダーと言っている。これは全く宗教観念であって、こんなものは無効です。無意味です。

 現在の仏教信者は、経典に書いてあることを実行していないのです。般若心経を読んでいる人は沢山いますが、実行していないのです。だから宗教というばかなものになってしまうのです。

 キリスト教もそのとおりです。聖書に書いてあることをはっきりも知らないし、実行もしていないのです。ただ信じます。信じますと言っているのです。これを宗教観念というのでありまして、こういうものは現世では通用しますけれど、死んでしまったら一切通用しないのです。通用しないものを信じてもしょうがないのです。 

 本当に自分の命とは何であるか、目で見ていることが何かと言いますと、これが命です。耳で聞いていることが命です。皆様の心臓が動いているという事実が神です。これはキリスト教でいう神とは全く違います。

 皆様の心臓が動いていることが生ける神です。生ける神がしっかり分かって、神と同じような生き方ができれば、絶対に死にません。

 これはそんなに難しいことではないのです。自分の妄念さえ捨ててしまえば、神と同じような生き方をすることは、難しくないのです。キリスト教では難しそうに言いますけれど、宗教観念でそう言っているだけなのです。

 真実の勉強をする方が、キリスト教の勉強よりもずっと楽だと言えるかもしれないのです。ただ幼子のように素直になればいいだけのことです。

 本当に正直であって、死ぬのが嫌だ、本当に死にたくないと思う人は、しっかり勉強して頂きたいのです。

 私は宗教の宣伝をしているのではありません。命を真面目に考える人の相談相手をしたいと思っているのです。

 聖書には、「乾いている者はここに来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしにそれを受けるのがよい」とあるのです(ヨハネの黙示録22・17)。私はこれを実行したいと考えているのです。命の水を飲んで頂きたいと思っているだけのことです。聖書にあることをそのまま実行したいと考えているだけのことです。

 現在日本に聖書を教えている人は沢山いますけれど、全く実行されていません。理屈を説いている人は沢山いますが、理屈では救われないのです。

 信仰とは何か。実は現在皆様が生きていることが信仰です。皆様は生きていながら信仰が分からない。分からないから死んでしまうのです。信仰さえ分かれば絶対に死なないのです。

 例えば、皆様の前に赤い花があるとします。赤い花は赤くないから赤く見えるのです。黄色い花は黄色くないから黄色く見えるのです。

 どういう訳かと言いますと、以前にNHKのテレビの視覚の錯覚という番組がありましたが、赤い花は赤い色を拒んでいるのです。赤い色を拒否しているのです。拒まれた色が皆様の目に映っているのです。それで赤く見えるのです。

 赤い色を拒んでいるから赤く見えるのです。皆様は自分が見ていると思っているでしょう。太陽光線の反射によって光線が目の網膜に映っているのです。網膜に物の映像が映っているのです。皆様が見ているのではないのです。映っているのです。それを皆様は見ていると思っているのです。

 皆様は自分の体に重量があると思っているでしょう。五十キロとか六十キロの体重があると思えるでしょう。少し太ったから痩せないといけないと思っているかもしれませんが、六十キロ、五十キロという重量があるのではありません。地球の引力に対する抵抗があるのです。

 だから、地球を離れて無重力の宇宙ステーションに行きますと、人間の体は浮いてしまうのです。五十キロの人も、百キロの人も皆浮いているのです。もし人間に固有の体重があるのなら、空中に浮いてしまうことはないはずです。

 体重があるとか、赤く見えるという感覚が間違っているのです。肉の思いで見ているから間違っているのです。仏教の経典にもありますが、釈尊は弟子に向って、「あなたがたの目は嘘を見ている。あなたがたの耳は嘘を聞いている」と言っているのです。

 イエスも、「あなたがたの目が正しければ、全身が明るいだろう」と言っています。目が正しく働いているなら、人間の魂の全体がはっきり分かるだろうと言っているのです。皆様は生まれる前に何処にいたのか、死んでからどうなるのか。このことがはっきり分かるというのです。全身が明るいだろうというのは、このことを言っているのです。

 全身というのは肉体の全身ではありません。人間の魂全体のことを言っているのです。

 皆様の五官の使い方が間違っているのです。そこで般若心経には無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法と言っているのです。眼耳鼻舌身というのは、人間の五官のことを言っているのですが、これが無いと言っているのです。不生不滅、不垢不浄、不増不減、無色声香味触法、無眼界乃至無意識界と言っている。目で見ている世界も、心で感じている世界も、一切無いと言っているのです。

 ところが、般若心経を読んでいる人が、目で見ているものがあると考えて生きているのです。こういう人は般若心経を読んではいるが、般若心経を全然知らないのです。そういう読み方をしているのです。

 目で見ているとはどういうことなのか。何かを食べて、これはおいしいと感じた。おいしいとはどういうことなのか。なぜおいしいと思うのでしょうか。

 すばらしく美しい景色を見て、ああ素晴しいと感じます。なぜ素晴しいと感じるのでしょうか。

 このことは誰も知らないことですが、それをお話ししておきます。実は、人間は生まれる前に五官の根本になる魂の機能を神に植えられたのです。魂の根源になるものを神に植え付けられて、この世に生まれてきたのです。

 赤ちゃんはこの世に生まれてきて、数時間経つとお腹がすいてくるのです。その時、食べることも飲むことも全然知らない赤ちゃんが、お母さんのおっぱいを飲むのです。

 また、生まれたての赤ちゃんが、すやすや眠りながら、にこにこ笑っているのです。いわゆるベビースマイルですが、何を笑っているのでしょうか。生まれてきてからは何の経験もない赤ちゃんが笑っているのです。何を笑っているのでしょうか。これは神秘の微笑みです。

 神秘の微笑みは、生まれる前に世界があった証拠です。皆様の魂はこの世に出る前に神と共にいたのです。命の本源で生きていたのです。その命を持ったままで現世に来たのです。そこで生まれる前の事を思い出して、にこにこと笑っているのです。

 今の皆様はにたにた笑うのです。それだけ心が汚れているのです。大人の心は大変汚れて歪んでいるのです。大人のことを英語ではアダルト(adult)と言っています。大人の心はアダルタラス(adulterous)になっているのです。これは邪悪です。

 アダルトは大人ですが、アダルタラスは邪悪になっているのです。大人の心は汚れて、ひがみきっているのです。私みたいなものはと考えるのです。私みたいなものが神を信じられるのだろうか、私みたいなものが神の国に入れるのだろうかと考えるのです。ところがなかなか自尊心が強いのです。私の気持ちを分かってもらえないと思うのです。傲慢で卑屈で劣等感を持っているのです。大人はこういう複雑怪奇な心境を持っているのです。

 こういう気持ちを持っていてはだめだと言っているのです。そこで心を更えて新にするのです。五蘊皆空を実行するのです。色即是空を体得するのです。五蘊皆空の世界に入って一切を心得たら、悔い改めることが実行できるのです。

 全く新しい気持ちになって聖書を読めば、イエス・キリストの復活という驚くべき事実が分かるのです。死を越えることができるのです。本当に死という関門を歴史的に破ったのは、イエスただ一人です。だから、イエスの業績を勉強して、イエスの生き方の真似をしたら、死の関門を破ることができるのです。はっきりできるのです。

 これは宗教の話ではありません。本当の事です。イエスの命をそのまま自分の命にしたらいいのです。キリスト教はこういうことを絶対に教えてくれません。他のどんな宗教でも教えてくれないのです。イエス自身に聞くしかしょうがないのです。

 どうか新に生まれるつもりで、自分の人生を土台から考え直すという勇気を持って頂きたいのです。これをすれば皆様は大変得をするのです。

 皆様はこの世に生まれてきたのです。現在、万物の霊長という形で生きているのです。人間が生きている衣食住の形は何でしょうか。経済的に許される範囲内ですが、自分の好みの家に住んで、着たい服を着て、食べたいものを食べているのです。今日の夕食は和食にしようか、洋食にしようか、シーフードにしようかと、自由にできるのです。

 これはどういう事でしょうか。これは神が肉体を持っている状態の生活様式です。神がもし肉体を持っていたら、現在の人間の衣食住と同じ生活の形態になるのです。

 皆様は神の子であって、神を知ることができるだけの能力性があるのです。皆様の本然性、本来性を簡単に言いますと、本能性になるのです。人間の本能性はすばらしい心理機能です。これは神の機能がそのまま人間に植えられているのです。だから、人間は生ける神の子です。

 イエスはこれらを自覚して、私は生ける神の子と言ったのです。

 イエスはすべての人を照らす誠の光であって、イエスを鏡として自分自身を見れば、イエスと自分自身とは同じものだということが分かるのです。

 実は、仏説阿弥陀経にある阿弥陀仏という言葉も、哲学的に申し上げたらイエスと同じことになるのです。これは多分、イエスの孫弟子がインドへ行って福音を伝えたのです。そこで、福音とインドの思想が合わさって三部経が作られたのではないかと思われるのです。

 仏典には天地創造が書かれていないのです。仏教は天地創造を認めていないのです。そこで、神を認めていないところから出発しているのです。

 天地が造られたということ、万物が造られたということが、神の約束ということです。地球にある森羅万象は火星にも金星にもありません。もちろん太陽系宇宙以外には全くないのです。

 太陽系宇宙には固体としての惑星がありますが、太陽系以外の外宇宙は全部ガス体です。月のような、金星のような固体としての惑星さえもないのです。太陽系宇宙は地球を造るための特殊現象です。

 森羅万象が存在するということ、ことに皆様のような五官を持った人間が、自動車に乗ったり、飛行機に乗ったりしていることは、全くの秘密です。宇宙の秘密です。

 大体、宇宙にはこういうことはありえないことです。地球以外に人間がいるということは、SF小説にはありますけれど、そういうことはありえないのです。人間が存在するのは地球だけです。

 一体、地球が存在するというのは何であるのか。人間がこの世に現われたということが何であるのか。これが神です。神の御名(実体)です。神の約束です。神の約束とか神の御名が日本人には全然分かっていないのです。キリスト教でも分からないのです。

 神とは何かがキリスト教では分からないのです。天地の造り主だと言います。造り主とは何か、何処にいるのか分からないのです。分からないから信じなさいというのです。命の実物も分からないのです。キリストの実物も分からないのです。第三の天にキリストがおられると聖書に書いていますが、キリストはそこでどのようになさっているのか分からないのです。

 イエス・キリストと、現在の人間が地球上に生きているのと、どのような繋がりがあるのかという非常に大切なことが、キリスト教では全然分からないのです。これがキリスト教です。

 イエス・キリストはキリスト教のご開山ではありません。イエスは宗教家に殺されたのです。宗教家に殺されたイエスを今の宗教家が拝んでいるのです。おかしなことをしているのです。イエスを殺した宗教家が、イエスを拝んでいるのです。

 今イエスがやってきたらどうなるのかと言いますと、現在のキリスト教を叩き潰すでしょう。釈尊も同様です。釈尊がやってきたら、今の寺を全部焼いてしまうでしょう。宗教はこんなものです。全くいんちきです。

 皆様には本当のこと、命の実物を勉強して頂きたいのです。命の実物は何かと言いますと、皆様の五官です。目、耳、鼻、口、手は何をしているのでしょうか。皆様は手で触っていながら、触るとはどういうことなのか。音とは何か、色とは何か、形とは何かが分かっていないのです。だから、死んでしまうのです。

 今までの皆様の常識が、知識が間違っていることを、まず知って頂きたいのです。今の人間は無明によって死んでいるのです。「罪の価は死である」とパウロが言っています(ローマ人への手紙6・23)。無明とか罪によって人間は死んでしまっているのです。

 死んでいる人間であることを、まず悟って頂きたいのです。そうすると、生き返るのです。自分の魂が死んでいることを悟れば、生き返るのです。

 皆様の魂は、既に死んでいるのですから、命とは何かを勉強したらいいのです。これはどうしてもしなければならないことなのです。これをしなければ来世でひどいめにあうのです。

 皆様は神が分かるだけの能力を持っているのです。その能力を持っていながら、目で何を見ているのか、耳で何を聞いているのか、これを知らないのです。これが死んでいる証拠です。

 私は皆様の悪口を言っているのではありません。本当のことをずばりと言えばこうなるのです。本当のことを正直に言えば、皆様は死んでいるのです。これは嫌なことだと思わないのでしょうか。もう本当に嫌だと思うなら、本当の命を見つけたらいいのです。

 命を見つけることが、人生の一番大きい仕事なのです。働くことが目的ではありません。お金儲けが目的ではありませんし、結婚することが目的ではありません。命を見つけることが人生の目的です。

 結婚や商売は人生の付録です。付録だけに一生懸命にならないで、本職のことを真剣に考えて頂きたいのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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