top of page

                            生ける神の印

 

 人間は死なねばならないことは分かっているのです。死なねばならないことが分かっていながら、なぜ死なねばならないのかということを考えないのです。

 死なねばならないことは仕方がないこととして、それに対して、何か手を打たなければならないはずだということが考えられなければならないのですが、考えようとしないのです。

 これを考えようとしたら、普通の人間の考えではだめです。ただ聖書の勉強をしているだけではだめです。

 本当に死を乗り越えるということは、頭で聖書の勉強をするくらいのことではだめです。皆様の聖書の勉強はやや本格的になりつつあるのですけれど、まだ霊魂の底に届く所まで行っていないようです。皆様の質問の内容がそうなっているのです。

 皆様は自分自身の命のどん底を見つめていないようです。うわついた考えで勉強しているのです。もっともっと真面目に考えて頂きたいのです。死ぬということをもっと真剣に考えて頂きたいのです。

 死ぬということを真面目に考えたら、上調子ではいられないのです。

 神は皆様の現在の状態を非常に重視しているのです。ですから、何とか皆様をもう少しひき上げて、本物にしてやろうという神の御心があることはよく分かるのです。しかし、皆様の現在の状態ではまだだめです。

 まだ皆様は本気になっていません。世間並の人間から見れば、格段の相違です。世間並の人間が悪すぎるのです。

 天皇制の問題について、日本人は真面目に考えようとしないのです。天の皇(すめら)とはどういうものなのか。日本の天皇制は日本だけで言っているのであって、白人社会にも通用するのであろうかと考える人がいますけれど、白人社会にも通用するのです。

 エンペラー(emperor)という言葉が英語にありますから、これは白人社会に通用するに決まっているのです。

 日本の国柄は大変なものです。皆様はもっと真面目に考えれば、分かるのです。

 

 聖書に次のようにあります。

「ちょうど、稲妻が車から西にひらめき渡るように、人の子も現われるであろう。

その時、人の子のしるしが天に現われるであろう。またその時、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗ってくるのを、人々は見るであろう。

 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことが分かる」(マタイによる福音書24・27、30、31)。

 

 いちじくの木というのはユダヤ人のことです。いちじくは花が咲かずに実を結ぶのです。花が咲かずに実を結ぶのは、もう一つ蓮があります。蓮といちじくは普通の植物ではないのです。

 蓮の方は仏法が取り上げている。いちじくは聖書が取り上げているのです。

 聖書ではいちじくはユダヤ人の代名詞になっているのです。いちじくの枝が柔らかくなって、葉が出るようになると、夏が近いと言っているのです。

 これは現代文明が潰れてしまって、地球が完成することを示しているのです。地球の本当の文明が現われるのです。従って、現代文明が潰れてしまうことを予告しているのです。

 現代の文明は跡形もなく潰れてしまいます。現代文明は一種のファウンデーションです。現代文明は本当の文明のファウンデーションです。

 地球にはまだ本当の文明が現われたことがないのです。機関銃や大砲で国を守らなければならないような文明、駆け引きしながら外交をしなければならないような文明、領土問題で争わなければならない政治、核兵器廃絶ができないような文明は、本当の文明ではないのです。建前と本音を使い分けしなければ商売ができないというのは、本当の文明とは言えないのです。

 お互いに偽りの外交をしているのです。現在の文明では人間の真心が通用しないのです。正直が通用しないのです。こういう文明を造っているのがユダヤ人ですが、ユダヤ人が真人間ではないからこういう文明になっているのです。

 ユダヤ人は地球全体の指導民族です。全世界の中心民族です。指導民族がていたらくであるために、こういう文明を造ったのです。

 ユダヤ民族はモーセの十戒を信じています。神をまともに信じない、命をまともに見ようとしないのです。

 神は「私は有りて在るもの」(I am that I am.)と言っています。これがユダヤ人には分からないのです。白人も分からないのです。神はI am that I am.ということを言っているのです。これが日本の天皇制の大前提になっているのです。

 いちじくの枝とはどういうことなのか。皆様は人間の正体を全くご存じないのです。

 死ぬに決まっている人間の正体は、でたらめであるに決まっているのです。全世界七十四億の人間は、徹底的にでたらめなのです。本気になって生きていないのです。

 皆様は死ぬことが分かっていながら、死ぬことに対して本気になって処置をしようと考えているのでしょうか。

 天皇は日本国の象徴であると憲法で謳っています。また、国民統合の象徴であると言っています。国民統合の象徴とはどういうことなのか。国の象徴というのは、何とか観念論で誤魔化せます。国民統合の象徴とはどういう意味なのか。これが分からないのです。

 国民というのはお互いに、私たち一人ひとりを指しています。私たち一人ひとりが統合するというのです。これはどういうことでしょうか。

 私たち一人ひとりが統合するということは、ありうることでしょうか。国民統合の象徴であるという意味が、日本人に分かっていないのです。昭和天皇が崩御された時、日本国民が落ち込んだのです。これはどういうことでしょうか。

 国民統合の象徴とはどういうことでしょうか。これは聖書が分からない人には、絶対に分からないことです。聖書が分かると言いましても、キリスト教的な分かり方をしている人には、絶対に分かりません。

 キリスト教は聖書が本当に分かっているのではありません。率直に言いますと、皆様はこういう極めて重大な問題について、全くご存じないのです。

 こういうことに対しては、今の学問は何の役にも立ちません。大学で教えている学理、学説は、何の役にも立たないのです。全く役に立たないのです。

 人間社会の基本問題、憲法の基本問題について、全く役に立たないのです。ノーベル賞くらいのものでは、天皇制については全く分からないのです。

 現在の文明は非常にレベルが低いのです。低すぎるのです。国民統合の象徴というのは、聖書の原点と同じ意味なのです。

 人間の人格は統合することを目的としなければ、人間が人格を持つという意味の説明ができないのです。

 例えば、七十四億の人間が七十四億の人格を持っていたのでは、全部死んでしまうだけです。こういうことは白人の哲学では説明ができないのです。ドイツ観念論でも説明ができないのです。

 カントの哲学では、国民統合ということが分かりません。キリスト教の神学でもだめです。こういうものはレベルが低すぎるのです。

 現代文明は人間のファンデーションみたいなものです。女性が化粧をする場合には、ファンデーションという下地を塗るのです。化粧だけでなくて、下着もファンデーションを考えるのです。

 人間の社会構造、文明構造にも、ファンデーションがなければならないのです。化粧にも、下着にも、ファンデーションがいるのです。下着にファンデーションがないと本当のプロポーションを出すことができないのです。

 きちっとした服装をするためには、ファンデーションがなければならないのです。

 人間の文明が完成するためには、ファウンデーションがいるのです。国際連合、WTO、ILO、WHO等はただのファンデーションです。ノーベル賞もファンデーションの一部にすぎないのです。

 学問、学理学説と言いますけれど、単なるファンデーションです。人間の本当の学というのは命を勉強することです。社会構造とか、政治構造というのは、学というほどの価値はないのです。

 こういうスケールで聖書を勉強しないと、本当のことは分かりません。

 国民が統合しなくてばらばらにいる状態は、下地ができていない段階です。天皇制というもの自体がファンデーションであって、これが理解できなければ日本の国は完成しないのです。

 日本の国が完成しますと、いちじくの枝が柔らかになるのです。枝というのはやまと(大和)という言葉の語源になるのです。皆様は目を開いて、自分自身の命の根底を深く大きく見て頂きたいのです。

 いちじくの譬を学べということは、いちじくの枝が柔らかくなって、葉が出だしてくると、世界の文明が終りになるということです。それまでの文明はファンデーションであって、やがて本当の文明が現われると言うのです。

 ユダヤ人が本気になって聖書を見るようになると、本当の文明が現われて、文明の実を結ぶようになるのです。命の本物が全世界に現われることになるのです。これを王国時代というのです。キリスト王国が現われるのです。

 聖書はこういう大きいことを書いているのです。皆様も本当の聖書を学ぶのでしたら、これくらいのスケールで見て頂きたい。世界歴史全体を鳥瞰するような感覚で見て頂きたいのです。

 自分が分かったとか分からないという小さなことを言わないで、もっと大きく考えて頂きたいのです。

 国民統合ということは成り立つのか、成り立たないのか。日本の憲法は果して具体化するのか、しないのか。これと私たちの人生観とどういう関係があるのか。聖書と日本の憲法とが、どういう係りがあるのかということです。

 皆様は死ぬということについて、真面目に考えて頂きたいのです。死ぬということについて、もっと真剣に考えて頂きたいのです。これを真剣に考えると、世界の歴史に対して新しい芽が開くであろうと言えるのです。

 世界歴史の秘密ということ、日本歴史の秘密ということ、ユダヤ歴史と日本の歴史の相関関係、天皇の本性が世界の歴史にどのような作用をしているのかという問題です。こういうことを深く考えて頂きたいのです。

 天皇制について色々な人が考えてきましたが、天皇制をこじつけて、御伽話みたいなものにしてしまったのです。これは皆様の霊魂のためには良くないのです。

 だから、皆様の魂の問題と、日本の国柄の問題と全世界の問題とを一つにするような感覚でしっかりと捉えて頂きたいのです。

 そのためには、人間が死なねばならないという問題をもっとはっきり、真剣にお考え頂きたいのです。

 死ぬということはどういうことなのか。これを真面目に考えて頂きたいのです。

 聖書に「一度だけ死ぬことと、死んだ後裁きを受けることが、人間に定まっている」とあります(ヘブル人への手紙9・27)。死ぬということは、肉体が不完全ですから、死ななければならないとしても、死んだ後に必ず裁きを受けると言っているのです。なぜ裁きを受けるのか。

 裁きを受けるというのは、霊魂の審判を受けるという意味であって、魂の審判というのは人間の歴史が終った後のことなのです。地球上における人間の歴史が終った後に、神による人間の霊魂の裁きが行われるのです。

 それまでは人間の霊魂に裁きが行われないのです。死んだ人間は黄泉(よみ)という待合所に入れられるのです。黄泉において待たされるのです。

 人間の歴史が全部終って、人間として生きるべき人が終ってしまいますと、神がすべての人間を全部甦らせて裁きを実行するのです。

 すべての人を甦らせた結果、死なない人間になるのです。死なない人間にしておいて、霊魂の審判を行うのです。このことがヨハネの黙示録の二十章十一節から十五節に書いているのです。これが神による霊魂の審判です。

 霊魂の審判というのは、人間が死なねばならないことが分かっていながら、死に対して真面目に考えなかったということが、神が人間の霊魂の審判を徹底的にするという一番大きな原因になるのです。

 皆様は死ぬことが分かっているのです。分かっているどころか、死ぬために生きているようなものです。

 人間は死ぬべく生きているのです。現在の人間の命というのは、死ぬべく生きている。死ぬという一点に向って歩んでいるのです。これが生きているということです。

 人間は死に向って歩んでいることが生きているということなのです。このような生き方を、人間は強制されているのです。死ぬべく強制されているのです。ところが、死ぬべく強制されることに対して、恐れもせず、わななきもせず、死なねばならないということを真正面から取り組まずに逃げている。死に対して知らん顔をしているのです。

 これが神をばかにしている人間の面構えです。神に逆らっている人間の態度です。神が人間を徹底的に裁かなければならない原因は、神が人間に死を与えているにも係らず、それに対して何の反応もしていないということです。これは神をばかにしているのです。神を虚仮(こけ)にしているのです。

 神を虚仮にしている状態が、人間の霊魂を、嫌でも裁きに渡すことになるのです。

 死を慎重に、真面目に考えようとしないことが、人間の霊魂の最も悪い癖です。

 国民が統合するとはどういうことなのか。統合することによって、死を免れることができるからです。国民の一人ひとりが人格的に統合することによって、一人ひとりの死が消えるのです。

 ここに国民統合ということに非常に大きい意味がある。これを日本の憲法第一条に謳っているのです。統合という言葉の意味が分からないのに、国民統合の象徴は天皇であると言っているのです。これは誠に不思議千万な言葉です。

 こういう憲法が日本で政治的に通用しているのです。国民統合という言葉をもう一歩進めて言いますと、人格の統合になるのです。人格が統合すること、人格が統一されることによって、人間は死ななくなるのです。これが死を免れる唯一の方法です。

 人格が統一することを、聖書はイエスが主であると言っているのです。イエスが主であると言い現わすことは、人間の人格が統一されることを意味するのです。

 こういうことを、日本の憲法では政治的に現わされているのです。聖書は霊魂の真理として言われているのです。こういう関係があることを、よく承知して頂きたいのです。

 日本人はこれを信じる責任があるのです。また、これを世界に発信する責任があるのです。

 ジーザス・アズ・ロードということは、イエスが主であるということです。人格が一つになることです。何処で人格が一つになるのか。これが新約聖書の原理です。

 大体、七十四億の人間がばらばらに生きていることが無意味です。日本人は一億二千五百万人いると言われていますが、これが無意味なのです。個々の人間、固有名詞の人間は全部死んでしまうに決まっているのです。

 死んでしまうに決まっている人間が死んでしまわないようになるためには、ジーザス・アズ・ロード以外にありません。私はこれを人格の統合という言い方をしているのです。

 ばらばらに分かれている固有名詞の人間は、必ず死ぬのです。死ぬのが嫌なら、地獄へ行くのが嫌なら、火の地へ投げ込まれることが恐ろしいのなら、ジーザス・アズ・ロードに賛成しなければならないのです。これが嫌なら地獄へ行くしかないのです。

 死ということを真面目に考えられない、死が実感できないという人がいますが、これは現在の人間が生きていると思っているからです。

 現在、皆様は固有名詞の人間として、神から離れているのです。これを生きていると思っているのです。これは生きているのではなくて、死んでいるのです。既に死んでいるのです。

 既に死んでいるにも係らず、生きていると思っているのです。だから、死が分からないのです。

 死とは何か。命を持っている者が神から離れてしまっていることが死です。命の主は神です。命の主が神であるにも係らず、神の前から離れてしまっている。

 「汝、我が前に歩みて全かれ」と神がアブラハムに言いました(創世記17・1)。ところが人間は神の前に歩むということをしないのです。神の後ろに立っているのです。そうして、神と別々に生きているのです。

 人間は「神なんかあるもんか」、「地獄なんかあるもんか」と思って生きているのです。「仏ほっとけ、神かもうな」と言っている人もいるのです。これは死んでいる感覚を意味しているのです。

 死んでしまっている人間には神は分からないのです。皆様は固有名詞の人間として生きているのです。自尊心と自我意識、基本的人権という思想によって生きているのです。

 皆様は自分の命があると思っているのです。これが死んでいる証拠です。死んでしまっているから死が分からないのです。

 皆様は神を真面目に考えていないのです。真面目に考えていないというよりも、基本的に皆様の魂は神を信じていないのです。実体的に言いますと、皆様の霊魂は神の前に出ていないのです。

 あまりにありのままのことを言いますと、皆様はやる気がなくなってしまいますから、私はあまりきついことを言わないようにして、皆様を神の前へ連れていこうと思っているのです。皆様を甘やかしながら、神の前へ連れていこうとしているのです。これでもしないよりましですから、そうしているのです。

 皆様は自分自身が固有名詞で生きている以上、皆様の霊魂は神を知らないのです。固有名詞で生きていることをやめなければ、神は分かりません。固有名詞で生きることをやめると、神の前にいることがはっきり分かってくるのです。

 固有名詞で生きることをやめると、アズ・ロードになるのです。人格が統合するのです。固有名詞で生きている間は人格はばらばらです。七十四億の人格に分裂しているのです。

 現在一人の人格が七十四億の人格に分裂しているのです。皆様は七十四億の人間の中の一人として生きていて、自分自身の利害得失を考えているのです。これが現代文明の根本的な間違いです。現代文明は個々の人間の人格を認めているのです。人権を認めているのです。これが間違っているのです。

 信仰とは何か。生きていることがそのままイエスであるという実感が持てることをいうのです。イエスの名において自分が見れるような状態を指すのです。

 この経験がないのは神から離れてしまっているのです。だから、死が恐ろしくないのです。死に対して純粋な、霊魂が震えるという素朴さ、純真さがないのです。これがないことが現代のキリスト教の最も悪い点です。

 自分が神様を信じて自分が天国へ行こうと考えている。これはけしからんことなのです。自分が生きていると思っている。こういう人間は、全部死んでしまうのです。

 固有名詞の自分を自分だと思っている人間は、死を恐れるという純真な気持ちを神が与えないのです。そういう素朴な気持ちを神が与えてくれないのです。

 本当に地獄へ行くのが恐ろしいと言える人は、素朴な気持ちがある人です。地獄へ行くことだけは本当にご免蒙りたいと心から思う人は、神に近い人だと言えるのです。

 現代では、そういう人は非常に少ないでしょう。皆様にはそういう人になって頂きたいのです。

 皆様は神から離れています。固有名詞の人間で生きています。これが間違っているのです。だから、死が恐ろしくないのです。既に死んでしまっているから死が恐ろしくないのです。

 死に対する恐れを持つということが、聖書を本当に勉強したいという気持ちを持つことになるのです。水と霊によって新に生まれて神の国へ入りたいと思うのなら、今の自分から出てしまいたいという願いがなければだめです。

 まず、固有名詞の自分から出ることです。そうして、神に生きるのです。皆様の心臓が動いていることが神です。目が見えることが神です。この神に従うのです。

 皆様は心臓が動いていることに従って生きていません。自分の常識、知識に従って生きているのです。これをやめて頂きたいのです。

 肉対人間としての自分が生きていると思っているでしょう。これを肉の思いというのです。肉の思いを持っていることが死んでいることです。パウロは「肉の思いは死である」と言っているのです。

 肉体的に生きている自分を自分だと思っている人は、既に死んでいるのです。これが聖書の見解です。こういう正しいレベルで聖書を見なければ、聖書を勉強する値打ちがないのです。

 現在、皆様は見たり聞いたりしています。これを感じているのが魂です。これが分からないのです。皆様は目で見ているのですが、これは固有名詞の人間が見ているのではないのです。霊魂の働きが見ているのです。

 五官は前世からのつながりです。霊魂は前世からの命の機能性です。五官の働きが見ているのです。これは固有名詞の人間には関係がないのです。この世に生まれてこなくても、皆様に見る力はあったのです。

 この世に生まれてきたので、この世で見ているのです。これは固有名詞とは何の関係もないのです。その証拠に、私が見ても、皆様が見ても、赤いものは赤く見えるのです。

 もし自分が見ているのでしたら、加藤さんなら加藤さん独特の見方ができるはずです。私の見方とは違った、別の見方が出来るはずです。もし本当に個人がいるのなら、個人個人が人とは全く違う見方をしているはずです。

 五官の機能は皆様の機能ではないのです。砂糖をなめて甘いと思うのは、自分の舌とは違うのです。前世からの本能性が甘いと思っているのです。

 五官の働きは前世からの本能的な機能性です。これを霊魂というのです。霊魂には固有名詞はありません。固有名詞に関係はありません。これを人の子というのです。

 人の子というのは客観的な機能性を指すのです。霊魂の働きをいうのです。

 人の子は名前がありません。五官の働きとか、人間の視覚、聴覚はすべて人の子です。この人の子と天皇制は大関係があるのです。

 天皇は固有名詞に関係がないのです。国民総合のシンボルとはこのことを言っているのです。統合というのは固有名詞が統合するのではないのです。国民の人格が統合するのです。

 人格は固有名詞と何の関係もないのです。山田さんでも田中さんでも関係がないのです。人の子になってしまうのです。

 「いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現われるであろう」とあります。これが天皇です。

 人の子の印が東に現われる。これが西へ行くのです。これがキリストの印です。

 皆様はイエスが主であることを信じたかったら、自分の五官を信じたらいいのです。固有名詞をやめるのです。山田であるとか、加藤であるとかいうのはどうでもいいのです。

 自分の名前は親が勝手につけたものです。そんなものにこだわらないで、皆様の五官の働きを信じて頂きたい。

 皆様のリビングは五官の働きの機能性を指しているのです。リビングは神の延長線上にあるのです。だから、自分自身のリビングをじっと見つめれば、神の元へ帰ることができるのです。

 人間はリビングを見ようとしないで、自分の固有名詞を見ようとするのです。自分の利害得失だけを考えようとするのです。皆様にはこういう悪い癖があるのです。

 自分の利害得失を考えたらだめです。自分の利害得失はないのです。

 本当に死にたくないと思ったら、本当に死から脱出しようと思ったら、自分の利害得失を全部捨てたらいいのです。

 皆様の五官の働きは、生まれる前の天から自然性です。天からの自然性がこの世に現われているのです。これが霊魂です。

 固有名詞の人間は目的を持っていないのです。この世では目的がありますけれど、固有名詞の人間は、やがて死んでしまいます。この世はやがて潰れるに決まっているのです。この世で貯金をしても、家を建てても、この世の権利はやがてだめになるのです。

 この世では固有名詞の人間が価値あるように思えるのですけれど、神の前には一切通用しないのです。神の前には存在価値は一切ありません。神の前に通用するのは五官の働きだけです。人の子の方だけです。

 人の子は固有名詞に関係がないのです。千人いても万人いても、固有名詞の人間はこの世だけしか通用しないのです。

 固有名詞の人間は一切目的を持っていません。これをよく考えて頂きたいのです。

 皆様は固有名詞の人間が何か利害を得なければならないように考えているのです。固有名詞の自分が救われなければならないと思っています。これは現世における人間の妄念です。本当の自分の願いではないのです。

 皆様の霊魂は自分が救われたいとは思っていません。霊魂の本質は本当のことを知りたいと思っているだけです。今、ここで、本当のことを知りたいと思っているだけです。なぜなら、今ここに、神がいるからです。

 今ここに、神がいるのです。死んでから神に出会うのではないのです。この神を掴まえて頂きたいのです。私は、今ここに神がいると言っているのです。この神には抵抗できないのです。私が神に生きているという事実をお話ししているからです。これが世間の宗教家には絶対できないのです。

 今、ここにいる神を掴まえなければ死んでしまうのです。信仰とは、今ここで神を掴まえることです。今、ここで神を掴まえることが信仰です。明日、明後日に掴まえるのではないのです。今ここで神が掴まえられなかったら、それは宗教観念です。

 なぜ神が掴まえられないのかと言いますと、固有名詞の自分を信じているからです。魂だと思わずに、山田太郎だと思っているからです。

 人間の魂の原形と、固有名詞の人間とが、どんな関係になっているのかということです。エデンにおけるアダムと、現世における七十四億の人間との関係が、どのようになっているかです。なぜ一人の人が七十四億に増えたのか。

 一人ひとりが、固有名詞を捨てて、人の子に帰ることができるような人柄になって頂きたいのです。名なしの権兵衛の集まりになって頂きたいのです。

 現世では固有名詞はいりますが、これは人間の本体ではないのです。人間存在という点からだけ考えますと、人間は存在していないのです。

 肉の人間は神の前には一切存在していません。イエスは「肉は益なし」と言っているのです(ヨハネによる福音書6・63)。益なしとは利益がないという意味ではなくて、何の役にも立たないということです。

 役に立たないということは、何の目的もないし、有害とか無害とかを一切言えるものではない。空々寂々と同じ意味です。全く空である。

 現在の人間社会の状態は、神の前には全く益がないのです。人間の歴史は全然目的を持っていないのです。国際連合に何の目的があるのでしょうか。今のアメリカに何の目的があるのでしょうか。今の日本に何の目的があるのでしょうか。

 国は滅びるに決まっているのです。現在の人間の歴史は名誉を語っているだけです。内容は何もないのです。肉は益なしです。

 皆様が生きているのは、肉体人間として生きているのですが、肉体を持って生きているということは、五官が肉体的に生きているということです。目で見たり、耳で聞いたりする機能が生きているのです。

 この機能が神の言葉を見ているのです。皆様の目や耳の働きは、地球のファウンデーションを見ているのです。

 地球のファウンデーションが地球になっているのです。地球のファウンデーションがなかったら地球ができるはずがないのです。ファウンデーションが甘い味や、色々な味になったり、香りになったり、形になったりして現われているのです。

 それを皆様の目が見ているのです。地球ができる前の原形が前世にあったのです。その前世の時に、皆様は自我意識はなかったのですが、アダムが罪を犯して善悪を考えるようになった結果、個我が発生したのです。

 善悪利害を考えることは、神から離れることになるのです。そこで神の国から追い出されたのです。そして、この世に来たのです。

 神の国から追い出されたものがこの世にきたのです。この世に生まれた人間は、死んでいるのです。生まれた時に死んでいたのです。誕生日は命日なのです。誕生日にお祝をすることがおかしいのです。

 この世に生まれた自分が死なない命を掴まえるためにはどうするかを考えて頂きたい。それは前世に、罪を犯す前にいた自分を引っぱり出したらいいのです。

 前世にいた自分というのは、五官の働きです。五官の働きを引っぱり出したらいいのです。これがリビングです。これを受け取ることがリビングのシール(seal)を受け取ることです。

 これが生ける神の印(the seal of the living God)です(ヨハネの黙示録7・2)。

 赤いものを見て赤いと感じることが、生きている証拠です。神の実物を掴まえるのです。これが神です。

 人間が生きていることは、神と一緒にいることです。神はこれにいつ気がつくかをじっと見ているのです。神は皆様と共にいるのです。これがインマヌエルです。この神にいつ気がつくかを見ているのです。

 生きているということが神そのものです。神の実物が皆様と一緒にいるのです。五官の働きはそのまま神の実物になるのです。これを掴えたらいいのです

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
bottom of page