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あとがき
般若心経でいう色蘊というのは、目に見えるものが存在しているという考え方なのです。
儒教でいう仁義という考え方、道徳とか親子の関係という問題が、全部五蘊に基づいて成立しているのです。目に見えるものがあると考えるから、道徳とか法律が考えられるのです。
目に見えるものがあるかないかということが、大きな問題なのです。般若心経はないと言っているのです。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色ということは、目に見えるものがあるのではない。目に見えないものが、見えるようになっているというのです。
空即是色というのは、空が色になっているということです。これは、目に見えないものが、見えるようになっているという思想です。
しかし、目に見えるように物が存在しているというのは、造られたものです。最初はなかったのです。最初はなかったものが、目に見えるようになったというのです。
造られたものはやがてなくなります。形あるものは必ず滅するのです。今見ている地球の万物は、全部消えてなくなってしまうのです。しかし、人間の魂はなくならないのです。だから、困るのです。万物がなくなった時に、人間の魂もなくなれば良いのですが、そうはならないのです。
万物がなくなっても、魂はなくならない理由があるのです。どうしてかと簡単に言いますと、今、人は物を見ています。目の働きは何処から来ているのかと言いますと、人格から来ているのです。人格の働きは、肉体機能として働く部分と、心理機能として働く部分と両方あるのです。
肉体機能として働く部分、目で見て美しいとか、物を食べておいしいとかというのは、人格が肉体的に働いているのです。これが五官です。もう一つは、理性や良心となって、精神的に働いているものです。精神的なものと肉体的なものと、両方に人格が働いているのです。
ところが、一体、人格とは何であるかということです。善悪利害得失を考える人格です。自尊心とか、プライドとか、プライバシーとか言います。道徳とか、自尊心とかを考えるのは何処から来ているのかということです。
これは、宇宙の命の本質である絶対人格と大きな関係があるのです。例えば、花が咲いているのは、宇宙人格の現われなのです。宇宙人格の現われが、地球のエネルギーになり、それが花になって現われている。花の美しさは、宇宙人格の美しさなのです。マグロの味とか、サバの味は、天然自然がつけたのです。天然自然とは一体何かということです。これが、神の本物なのです。宇宙の命の本物なのです。
宇宙の命には、神という人格があるのです。太陽の輝き、空の青さ、海の青さ、花の美しさは、宇宙人格の現われなのです。空が青いということは、神の人格が空に現われているのです。稲妻のひらめきは、そのまま神の人格の表現形式なのです。
そのように、人間は生まれながらにして、天然自然という形で、宇宙人格を知っているのです。
つまり、人の人格というのは、神の人格がそのまま植えられているのです。だから、人格の源を探求しないと、命が分からないのです。自分の人格が何処から来ているのかを考えなければならないのです。
人格は自分で造ったものではないのです。生まれた時に、おのずから与えられたのです。「おのずから」とは一体何でしょうか。これが神なのです。
人の人格は神と同じものです。だから、この世を去っても、肉体がなくなっても、人格はなくならないのです。そこで、地獄があるのです。
もう一度言いますと、人間は太陽の光を認識することができます。空の色を知ることができます。花の美しさを知ることができる。雪景色を見ることができる。こういう大自然の景色を見ることができるというのは、大自然を造ったものと同じ人格を持っているからです。
人の人格は、宇宙構造の根本原理である神の人格がそのまま与えられているのです。だから、心臓が止まってこの世を去っても、人格は消えるわけにはいかないのです。消えないのが人格なのです。
人格の本性は神です。全知全能の神なのです。神の人格が、人の人格として植えられているのです。だから、死んでしまえばそれまでというわけにはならないのです。
宗教はだめです。人格の源、命の中心をしっかり掴まえなかったらだめです。信じたら良いとか悪いの問題とは違います。信じても、信じなくても、人格は宇宙人格から来ています。だから、この世を去っても人格は消えません。そこに、霊魂の重大性があるのです。霊魂不滅と昔から言いますが、これを具体的にはっきり説明できる人がいないのです。
自分の人格が何処から来ているのか、この世を去ると人格は何処へ行くのか。これが分かれば、生きている命と宇宙の関係が分かるのです。
人間は現世で七十年、八十年生きるために生まれてきたのではありません。永遠の生命を見つけるために生まれてきたのです。人間完成のためです。
人格の本質が人格通りに完成されることを、霊魂の救いというのです。こういう考え方が日本にはないのです。
般若心経と聖書を二つ並べて一つにする。つまり、東洋の原理と西洋の原理を一つにする。そうして、はっきりそれを説明することができないのです。弘法大師も、日蓮も、親鸞も、道元もできなかったのです。
人格とはどういうものかが分かっていないからです。目に見えるような物質は、命の世界から消えてしまいます。逆に言いますと、肉体が消えることは、目に見える現象世界がなくなるだけのことです。
色薀はやがてなくなります。人間の感覚に頼っているからいけないのです。人間の感覚は数十年間のものです。しかし、宇宙は永遠です。人の人格は永遠の宇宙に参画するために、宇宙の大構造に人格が役立たなければならないのです。
この世で仕事をする位はどうでもいいのです。少し儲ければそれでいいのです。私たちが本当にしなければならないことは、この世を去ってからの仕事です。
この世の命はやがて消えるに決まっています。ところが、霊魂の本質価値は永遠のものであって、神と同じ仕事をすることができるのです。死んでから天国へ行くというばかなことを考えないで、もっと真面目に考えなければいけないのです。
人間が物を見ているということは、大変なことをしているのです。耳で物を聞いているということは、永遠の命に係わりがある重大な経験なのです。五官の働きの本当の重大さを考えて、人格完成をしなければならないのです。
神の人格と人の人格は同じ人格ですから、神の完全さを、そのまま人の人格において受け止めなければいけないのです。
これをイエスはしてみせたのです。これが、彼の復活です。復活の命を経験するのです。復活の命は今の人間が生きている命とは違います。死なない命なのです。これを受け取ればいいのです
(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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