top of page

                             悪魔の反逆

 

 聖書の一番難しい点は、第一創造(現在の天地創造)の本質が分からないことです。天使長の反逆によって、宇宙に矛盾が発生した。これが具体的にどういうことを意味するのかという問題が、現在の人間に一番分からない点です。

 魂が現世に出てきました。そして、理性と良心を持った人間という奇妙な生き物がいる。黙示録第四章に記されている四つの生物が内包されている人格、性能、心理機能が、肉体をとってこの地上に現われている。これは全く奇妙な現象です。

 人間は現世に生きている状態が、当り前だと思っている。現世に生きている人間から考えると、人間が現世にいることが当り前だと思えるのです。

 例えば、商売人が商売をしていることが当り前だと思っている。これは今日という時点で商売をしているだけであって、一ヶ月先、一年先に、何かの事情で商売をやめなければいけない事情があるかもしれないのです。

 三年先も五年先も商売人であるとすれば、自分が商売人であることが当り前と言えるかもしれません。商売人が自分だと思っているでしょう。ところが、商売人であることがその人自身であるのではなくて、その時、その時点において、そのような事情境遇におかれているだけなのです。

 天使の長が反逆したのです。これは大変なことです。現世に生きている人間をそのまま承認している状態では、天使長の反逆がどういうことか、さっぱり分からないのです。

 肉体的に生きているのが自分だと思っている。従って、人間が生きていることの不思議さが、全く分からないのです。そういう無知蒙昧の状態で生きている。神を知りながら神として崇めていない。また、感謝もしていない。だから、心が暗くなっているとパウロが言っているのです。

 神を知りながら神として崇めていないとはどういうことか。神は宇宙存在の本源そのものであり、すべてのものの上にいますお方で、すべてのものを貫いて、すべてのものの内にいますのが神です。

 現在、色々な形において存在と言えるもの、Be動詞的に存在と言えるものが神です。Be動詞というのは、私たちが現世に生きていることの最も平凡で、最もありふれた一般的なことです。

 このありふれた一般的、普遍的な、当り前のことが神だというのですから、分からないのが当然だと言えるでしょう。

 人間の概念から言えば、神という言葉それ自体が、非常に特別の特定の別格の存在に思えるのです。つまり、衣冠束帯の神という考え方、ある超人格、絶対的なものということになるのです。従って、そこらにころがっているようなものだとは思えないのです。

 当り前のこと、普遍的なこと、最も平凡なことが神だという着想は、人間自身としてはとてもありえないことになるのです。

 私たちは何となくこの世に生きています。太陽があるのは当り前、地球と太陽の微妙な関係が保たれているのは当り前と考えている。

 自分が生きているのは当り前だと考えている。そういうことを当り前だと考えている感覚では、その当り前と思える事実が神だとは思えないのです。

 人間は神というのは超特別な存在でなければならないと見ているのです。神というものの持ち味から言えば、すべてのものの上にあり、すべてのものの内にあるとなるのですが、これは特別のものと言えるのです。

 また、同時に、神においてでなければ、万物が存在しえないということにもなるのです。

 神においてでなければ万物が存在しないということは、万物存在がそのまま神であると言えるのです。これは概念としては分かるとしても、実感的に、意識的に了得することが、大変難しいのです。そこで、人間は神を知りながら、神として崇めないという心理状態になってしまうのです。

 人間はあまりにも神の真ん中にいすぎて、あまりにも目の前にいすぎるために、それが神だとは思えないのです。神の内にいすぎるために、神が分からないのです。

 そういう感覚で見ていますから、すべてのものが存在するのが当り前だと思っている。当たり前だと思っている俗念、常識で考えますと、天使長が反逆したことが分からない。なぜ聖書にそう書いてあるのか、分からないのです。

 エゼキエル書などの預言を見ますと、悪魔の正体は天使の長であったと記されています。現世の異邦人として神の約束に係りのない、全く先祖代々神の御霊、神の約束による導きを受けていなかった民族の子孫として考えてみますと、天使の長が反逆したことが何のことか全然分からないのです。

 ここの所を深く理解しなければ、神の福音の大原則がなかなか理解できないのです。

 この点を簡単に言いますと、現在このような現象世界が現われているということが、天使長の反逆を証拠だてる唯一無二の絶対的な証明になるのです。

 神は霊なるものです。霊なるものが肉なる形で現われるはずがないのです。現象的な形で現われるはずがないのです。

 現象的な形で現われている原理を言いますと、物理が働いて現象体ができています。物理的な原理が働いてそうなっているということは、そうしなければならない理由があったからです。神がそのように仕向けなければならない理由があったからです。理由があったからそうなっているのです。

 神はすべてのものの上にある。上にあるというのは霊なることをさしているのです。または、天なることをさしているのです。これは人間が考える物証的な意味での上とか下とは違います。霊であり天であるのが上です。

 神は霊なるものでありまして、天そのものです。これが肉として、地として現われなければならないはずがないのです。肉は地です。物は肉であり、地です。神は天ですから、地として現われることはないのです。

 天使はいわゆる神の使いです。風となり、炎となすとありますように、風は動くことでもあり、力でもある。また、絶対性を意味することでもあるのです。神の絶対性、動的な形が風として現われているのです。

 炎としての天使は、暖かさとか、光として現われています。

 風的な面と、炎的な面の働きが天使です。天使は元来そういうものであって、これが物理として現われなければならないものではないのです。風は風です。炎は炎です。物ではありません。物理的に現われれば物になりますけれど、本来天使は霊なるものです。

 ところが天使長は反逆によって、固定した感覚によって誇示しようと考えた。有形の世界が現われるべきだし、現われなければならないと考えだした。天使長がそういう思想を持ち出したのです。これがいわゆる天使の反逆の内容です。

 神はそれを、あえて止めようとはしなかった。そうするならそうしてみなさいと考えた。果してそれが正当なのかどうかを見ることにしたのです。

 天使というのは、本来神の御心によらなければ働けないのです。天使が天使自身の心によって働くということは、違法行為です。

 ルシファーという輝ける天使長が、違法行為を始めた。そこで、宇宙に矛盾が発生したのです。物理という霊なることが、肉なることとして現われる機縁が発生した。そのようなチャンスが到来したのです。これが天地創造の原理です。

 霊なる天使長が肉なる思いを持った。そこで、物理が物体となって現われる起縁となったのです。

 神はあえてそれに反対しようとはなさらなかった。なぜなら、物理が物体となること自体が、間違っているからです。

 物理は霊なるものですから、どこまでも霊であるべきなのですが、それが肉として現われることになった。もちろん神は全知全能ですから、それを押えようと考えたら、押えられたに決まっているのですが、神は押えようとはしなかった。

 天使のなすがままに任せておいて、神は神自らの御心に従って、「光あれ」と言われたのです(創世記1・3)。「光あれ」というのは、物理が物体となることはよろしい。ところが、物理が物体となることの原理が、光でなければならないのです。言がなければならない。

 光は言(ことば)です。命です。命である言が、物体として現われているのならよろしい。しかし、言という法則によらなければならないと神が言われた。これには天使長も反抗できなかったのです。

 天使の働きは、法則によらなければ活動できないのです。闇の力、悪魔の力は、言の働きを用いなければ悪魔が悪魔たりえないのです。物理が物になりえないのです。

 物理が物になるためには言のルールに従って働かなければならない。このことを悪魔は見落としていたのです。

 闇はそれを悟らなかったとあります。英訳では、the darkness apprehended it not となっています(ヨハネによる福音書1・5)。闇はそれを理解できなかった、予知できなかった、意味を捉えることができなかったのです。

 言が神であることを悪魔は悟ることができなかった。物理は物であればいいと、簡単に考えたのです。

 ところが、物理が物であることの根源が何処にあるかと言いますと、言、命、光が働いて物理が物になるのです。神がこのような条件をつけられたことは当然です。

 宇宙には宇宙自体の大鉄則があります。霊なる大鉄則は神ご自身であって、これを破ることは絶対できないのです。神は絶対ですから、絶対を破ることは、天使長でもできないのです。

 天使長は物理が物体となったことで、満足していたのです。「わが事はなれり」と考えたのです。ところが、ここから天使長の滅びが、始まっていたのです。

 物理が物となるということ自体が、神の言の働きを持たなければ、実現しないのです。ところが、神の言は霊なるものですから、物理が物体となる必要はなかったのです。物質的現象が生じなければならないことはなかったのですが、神の御心によって、悪魔の反逆を一時許して、一時的にそれを容認する形をおとりになった。それは、悪魔の考え方が根本から間違っていることを指摘するためだったのです。

 一時的に霊なるものが肉なるものとして現われることをお許しになったのですが、現われる道程の絶対原則として、言によらなければならないと設定されたのです。これがヘブル人への手紙二章二節の「御使たちを通して語られた御言」ということです。

 神の言の働きによって、物理が物体となった。これを聖書的な言い方をしますと、御使いたちを通して語られたということになるのです。

 実は神が語っている御言が、現象世界になって現われているのです。しかし、現象体という事がらの持つ意味が肉なのです。

 現象体が生成発展していく原理は、霊です。霊なる原理に基づいて、肉なる状態が生じているのです。

 このことを考えますと、御使いたちを通して語られた第一創造というものは、本来的に神の御心によるものではなくて、天使長の反逆によるものです。それを、現在の人間はそのまま鵜呑みにして、あたかも神の御心によって現象世界が存在するものであるかのように思い込んでいるのです。

 神の御心によって、神の言が働いていますけれど、霊なるものが肉なるものとして現われる根源的な原因は、天使長の反逆によるのです。

 神がこのような有形的な現象世界を喜んでお造りになったのではないのです。神は万物を通して神の神たること、神性と永遠の力を万物を通して現わしておいでになるのです。

 神の言によって万物が造られたのですから、神ご自身の力が、万物を通して現われるのは当然ですが、万物をお造りになられたこと自体が、神の喜びの御心から出たものではないのです。天使長の反逆によって、一時的にそのような状態をお許しになったのです。

 これが人間には全く分かっていない。だから、現象世界に生きているということが、あたかも上等のもののような気持ちになっているのです。これがすばらしい神の大創造の内にいるように思っているのです。

 確かに現存する万物は、神の創造に決まっています。神が許したまわなければ、こんなものができるはずがないのです。しかし、有形的な現象は脆弱な諸行無常と言えるような形でなければ存在しえないものなのです。

 天使の反逆という矛盾が宇宙に発生したことによって物体が発生したのですから、物体が今存在している原理は、いわゆる弁証法的に存在しているのです。弁証法でなければ存在しえないのです。

 宇宙に矛盾が発生して物ができた。従って、物があること自体が矛盾しているのです。矛盾においてでなければ物は存在しないのです。

 弁証法という矛盾性を基礎にしなければ、物が存在しない。矛盾を土台にしなければ、物は発生し、存在しえないのです。

 物質が創造され、保存され、やがて完成されていくという方式は、そのまま弁証法ですが、弁証法の原理は哲学的に言えば矛盾そのものです。

 弁証法は矛盾そのものだということを考えても、現存する万物が天使長の反逆によってできたことが分かるのです。

 天使長の反逆という矛盾が発生しなければ、物が存在するはずがない。これがなかなか現在の人間に了得できないのです。

 人間が何のためにこの世界に遣わされたのかと言いますと、物質が存在することは悪魔の反逆によるものだということを見極めるためです。

 神は霊であって肉ではないということを確認して、肉的現象世界にありながら、霊に従って歩むものとなるために、人間の魂が肉体をとってこの地上に遣わされたのです。

 肉体をとってこの地上に現われたということは、現象的な矛盾というコンディションをそのまま魂が持たされて、この矛盾を克服して矛盾ではないもの、いわゆる神の当体にたどりつくということが、魂に与えられた重大な使命なのです。

 「肉の思いは死である。霊の思いは命と平安である」とパウロは言っています(ローマ人への手紙8・6)。私たちは現世において、霊の思いに追いつかなければならないのです。肉の思いを脱却して、これを脱皮して霊の思いに到りつくのです。それで自分自身を完成することができるのです。これ以外のどの方法を用いても。魂の完成は不可能です。

 私たちは神から出てきました。この世を去ってまた神に帰るのです。父から出てきた魂が、この世を去ってまた父の元に帰るのです。父の元に帰るには父がどのようなお方であるかを正しく弁えなければならないのです。

 神が善であって、喜ぶべくよきものであることを弁えるために、心を更えて新にせよとパウロが言っているのですが、このことを実行して頂きたいのです。

 現世における肉体生活の矛盾をつきとめて、神に帰るのです。現世において霊的に弁えることです。これをしなければ、父の元に帰ることはできません。父の元に帰ることができなければ、永遠に迷うしかないのです。

 父の外に放り出されることが、外の暗きに放り出されることになるのです。人間の魂は父の元に帰らなければ暗きに行くしかないのです。

 宇宙の大法則は、神の言による大法則、約束に基づく大法則ですが、それを弁えて神の約束、神の言の中にいるのでなかったら、神の言の外に放り出されてしまうのです。神の言の外に放り出されたら、必然的に裁きにつながっていくのです。神から出てきたものが神を弁えない状態であるために、神に辱められることになるのです。

 人間は父ご自身の機能を与えられている。父に帰らないで自分自身の中を彷徨っていれば、当然神の外に追い出されることになる。これが外の暗きです。外の暗きに放り出されて、悲しみ歯がみして悔しがることになるのです。

 人間は本来、神の子であるという十分な恵みを受けていながら、神の子であるという身分を正しく弁えないで、天使長によって生じた現象世界をそのまま鵜呑みにしていますと、天使長の反逆に同意した者と見なされる。そうして、神から誅伐(ちゅうばつ)を受けることになるのです。辱めを受けることになる。これが霊魂の裁きです。

 これから逃れようと思えば、好んでも好まなくても、第一創造における矛盾性を自覚して、第二創造への神の処置をそのまま受け取ることをしなければならない。これがキリストの復活を信じるということになるのです。

 第一創造は御使いを通して語られた言によってできています。これでさえも、神の法則、時間、空間の法則を曲げることはできません。

 天使たちを通して語られた神の言でさえも、あらゆる罪とか不従順に対して、正当な報いが加えられるのですから、ましてや、イエス・キリストを通して神が語った福音に対して、聞き従わない者に対しては、その刑罰は大きいのです。

 神は人間の魂をなぜこの世に遣わしたのか。人間という奇妙な生物がなぜこの地上に存在するのかということについて、神が直接示されたのです。

 天地万物は御使いを通して神が語られたのです。これは物質的現象を通して、神が語ったという意味です。

 ところが、福音はそうではない。福音は神の御子なる一人子が、神の一人子自らがこの世に肉体を取って来たりたもうて、ご自身の口によって語られたのです。

 

 「この救いは、初め主によって語られたものであって、聞いた人から私たちに証されたものである」とあるとおりです(へブル人への手紙2・3)。

 

 神は天地創造の原理を、アブラハム、モーセに示された。エノクやアベルにも黙示されたのです。そして、預言者たちを通して語られたのです。

 イエスは神の預言に従って、この地上においでになったのです。肉体を持っている神として、一人子の栄光を現わしになったのです。

 恵みと誠がイエスによって現わされた。恵みと誠が神の福音の実体ですから、これが万物を通して、物によって語られたようなものではないのです。

 物によって語られるのは、人間が肉体を持ってこの地上にいるということについてです。ところが、主イエス・キリストによって語られたことは、人間がこの地上に住んでいることについて語られたことではないのです。人間の魂の本源、本来あるべき状態、神の国、または、神の計画に従って、新天新地が現われるべきこと、神の国の奥義が語られたのです。

 御使いたちを通して語られたことは、現世の生活における基本を語られたのです。ところが、イエス・キリストを通して語られたことは、神ご自身の永遠の経綸、永遠の計画に従って、神の約束の大精神を語られたのです。

 現象世界はやがて消えてしまう。そうして、霊なる神の国が現われる。これをイエス・キリストがお示しになったのです。

 人間の魂が現世において、神の福音、神の約束に着眼して、イエス・キリストによりて語られた事実を人間の魂が了得する時に、人間の魂自身が神の計画を受け入れることができるのです。

 イエス・キリストは自らそれを信じておられたし、また、イエス・キリストの信仰が神によりて承認されたのです。そのしるしが復活です。

 イエス・キリストの復活によって、神の勝利が完成されたのです。神が完成されたという事実を聖書によって知り、現実の人間歴史の底を流れている神の約束の成就によって、これを悟ることができるのです。

 今や、神の約束は成就しています。これが二〇一七年という年号によって現われていますし、日曜聖日を守るというあり方によって、現われているのです。

 このような事がらが福音という大原則であって、復活という観点から考えますと、現象世界は一つの物語に過ぎないのです。現象世界は実体ではないのです。現象は真実ではないのです。

 現象世界はどうしてできたのか。天使長の反逆によって、神はこのような世界を現わさなければならなかったのです。一時的にこのような世界が現われていますが、神の言の働きよって現わされているだけであって、物体が実体的に存在するのではないのです。

 私たちは幻の世界に、幻の命を与えられているのです。幻の世界において、神の永遠性、神の神たることが、御子キリストによりて語られたのです。

 主イエス・キリストこそ、救い主であり、命であり、誠であって、イエスは血と水と御霊とによって来たのです。血は万物の命の代表であり、水は地球の代表という意味です。毎日、毎日、生かされていることが御霊の働きですし、聖書を勉強して少しずつ理解できるということも、御霊によるのです。

 私たちも血と水と御霊によって生かされているのです。イエス・キリストと同じ過程を生かされているのであって、神の御子の証がそのまま私たち自身の証として与えられるのです。

 現世はどこまでも幻の世界であることを確認しなければならないのです。このことを確認する時に、初めて神の御心に従って、父を見ることができる。従って、父の元に帰ることができるのです。これがイエス・キリストによって示されたのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
bottom of page