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                             悪魔に勝つ

 

 皆様は現在、生きていることを経験しています。目が見えることが生きていることです。耳が聞こえることが生きていることです。生きているということは何かです。

 人間は生きていることを実際に経験しているのです。だから、お腹がすくのです。商売ができるのです。仕事ができるのです。ところが、生きているということを経験していながら、生きていることがどういうことかが分からない。だから、死んでしまうのです。

 生きているということがどういうことかが分かれば、死なないのです。生きているとはどういうことかが分かれば、死ななくなるのです。

 毎日、寝たり起きたり、食べたり飲んだりしていることが、死なない命を勉強しているのです。肉体は死にます。肉体が死ぬという問題と、霊魂が死ぬということは別のことです。

 肉体は実存しているのではありません。仮存しているのです。仮に存在しているのです。仮に存在している肉体は脱ぎ捨てなければならないに決まっています。肉体を脱ぎ捨てることは当然あるべきことです。

 心臓が止まることが死ではありません。人間はそれが死だと思っているのですが、間違いです。人間が肉体的に生きていることだけを命だと思っているから、そういう間違いをしているのです。

 人間は本当の命を知りません。命に対して誤解をしているのです。心臓が止まることが死だと、医学で勝手に考えているのです。これは間違っているのです。こういう間違った概念を捨ててしまえば、死なない命は誰でも分かるのです。

 なぜ聖書を信じないのでしょうか。聖書と医学のどちらを信じるのでしょうか。日本人は万人が万人共、医学を信じるというでしょう。

 霊魂の観点から言いますと、皆様は命が分かっていないのです。生活のことを命だと思っているのです。現世に生きていることは命ではありません。これは生活です。生きているということは、神の国に生きることをいうのです。

 イエスは「神の国に入れ」と言っています。「水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入れ」と言っています(ヨハネによる福音書3・5)。これが命です。生きていることです。

 水と霊とによって新しく生まれて神の国に入っている人は、生きていると言えるのです。このことを経験している人はほとんどいないのです。

 日本人はキリスト教を信じていますが、聖書を信じていません。宗教ではない聖書があるとは思っていません。キリスト教の聖書も、宗教ではない聖書も、ほとんど同じものと考えているのです。

 復活したイエスは、現世に生きている人間とは違った命を生きていました。人間とは別の命を生きていたのです。

 イエスは神の国に入っていました。皆様は現世で日本に生きています。ここが違うのです。

 皆様に改めて言います。神の国に入って頂きたい。水と霊とによって新しく生まれて神の国に入ってください。聖書はこれを強く提唱しているのです。現世から出てしまうのです。

 まず水と霊とによって新しく生まれるのです。洗礼を受けることによって、この世から消えてしまうのです。そして御霊を受けるのです。御霊を受けることによって、考え方がすべて御霊の考えに変わってしまうのです。

 本当の洗礼は日本にはありませんし、本当に御霊を受ける、聖霊を受けることも日本にはありません。幸いにして私はこの二つを正しく経験させられたので、お話ししているのです。

 死ぬということは大変なことです。皆様はどうしても避けることができない問題です。この問題を御霊によって考えていかなければならないのです。

 人間は見ることができるのです。これは信じることができるということです。believe in Godという言葉が聖書にあります。これは神において見る、神において信じるということです。これは霊的に見るとほとんど同じ意味になるのです。

 現象的に見るという機能が、心理的に作用することを信じるというのです。そういう機能が人間の中にあるのです。

 人間の心理機能の働き、五官の働きは、生まれる前に神に植えられたものであって、神のロゴスが植えられていたのです。受動性のロゴスが植えられていたのです。

 神の創造は能動性のロゴスです。これを受け止めるロゴスは、受動性のロゴスです。これはちょうど愛するという働きの男性的なロゴスと、愛されるという女性的なロゴスと同じです。こういう能動性のロゴスと、受動性のロゴスがあると考えたらいいのです。

 人間にも、物を造るとか、考えるという意味での能動的なロゴスがないわけではありません。しかし、神に対しては、見る、聞くという形で、ほとんど受動性のロゴスになっているのです。

 ところが、これが制限されているのです。空中の権を取っている司によって、五官として人間に植えられているロゴスの働きが制限されているのです。五官は本来、霊的に働くべき性能を持っているのですが、神から与えられている感覚性のすばらしい面を、現象的な面だけに押さえられているのです。霊的に働きことができないように、仕向けられているのです。

 人間自身が自分の心理作用の働きの自由を持っていない。そこで、現象的には感受できるけれども、霊的には感受できないという状態になっているのです。

 舌で味わうことができますが、魂で味わう味が全く分かっていないのです。舌で味わう味の中には、おのずから魂で味わう味が含まれているはずですが、それが分かっていないのです。

 一つの存在には、天の面と地の面があるということを、聖書に書いています。そのように、両面がありながら、地の面は理解できるけれど、天の面が全く理解できないという情けない状態になっているのです。これが原罪による罪人の無明煩悩ということです。

 人間は無明によって縛られている。ここに原罪動物としての悲しさがあるのです。現象的には見ることができるが、非現象的、霊的には全く捉えることが出来ないのです。

 少し考えてみれば誰にでも分かりそうなことですが、現象世界のすばらしい状態は、現象的にのみ存在すると考えるのはおかしいのです。

 一軒の家を建てるとしますと、まずどういう家を建てたらいいのか考えるでしょう。日本風にするのか、西洋風にするのか。外観の形、色、間取りなど、様々なことを考えるでしょう。

 大体の考えがまとまったら、その考えをまず図面に書いていきます。図面を書いては消し、また、書いては消していって、自分の理想どおりの図面を仕上げるのです。そういう原図、原型ができなければ、家は建てられないのです。

 小さな小屋を建てるなら図面がなくても、いきなり組み立てることもできますが、何十年も、何人もの人が住もうという住宅を建てるためには、それだけの準備をしなければいけないのです。

 五十階や六十階という超高層ビルを建てようとしたら、膨大な量の図面と、計算書類がいるでしょう。ましてや、森羅万象が存在する地球を創造しようと思えば、創造者の考えの中に、まず天地万物についての大構想が練られたに決まっているのです。その大構想に基づいて、計画が造られたに違いないのです。

 地球の場合には原図はありませんが、全知全能の神が神の全能において計画されたのです。

 大体、人間の思考能力とか製造能力は、神の形のように神にかたどりて造られているものですから、人間のやり方を霊的に広げて考えてみると、神の性格、能力が想像できるのです。

 家を建てる時の人間のやり方を言いましたが、神の天地創造の場合も、当てはまるに決まっているのです。まず、神の思考、構想があった。それから、試行錯誤を経て、天地が創造された。これが創世記の第一章に記載されているのです。

 そうすると、地球が造られる原案、原図は何であったのか。思考能力が健康な人なら、大体の想像ができるはずです。

 霊の流れを見ても、神の御心が何であるかということが、大体分かるはずです。夕焼けの空を見ても分かるはずです。

 「雲が西から来るのを見れば、お前たちは雨が降ることを感じるであろう。また、南風が強い時は、暑くなると思うだろう。そのように、お前たちは天候や気候の状態を見ることができる。それなのに、時のしるしが分からないのか、偽善者め」とイエスがパリサイ人を叱っているのです(マタイによる福音書16・1~3)。

 実際、人間は天候を見ることができる。気候を感じることができる。それほどの叡智があれば、時のしるしくらいのことは分かるはずです。

 イエスの時代、新約の時代とは何であるのか。西暦紀元の新約の時代とは何であるのか。これがユダヤ人に分からないはずがないのです。ところが、ユダヤ人は新約の時代が分からない。イエス紀元の時代が分からないのです。分からないと言って頑張っているユダヤ人の頑迷さはひどいものです。

 ところで、異邦人の皆様はいかがでしょうか。イエス紀元とは何のことでしょうか。なぜイエス・キリストの誕生によって紀元元年ができたのでしょうか。こういうことは、現世における歴史的段階をよくよく考えれば、目に見えない神の御心が何であるのかということくらいは分かるはずです。

 山の姿を見る。リンゴの形を見る。牛の姿をじっと見れば、牛を牛とする原形は分かるはずです。

 牛の原形とは何か。犬が走っていますが、犬の原形とは何か。なぜ神が犬を造ったのか。それくらいのことは分かるはずです。

 皆様は食べたら味が分かります。食べて味が分かる人は、味の原形が分かるはずです。それが分からない人は食べる資格がないのです。

 神はそれを知る能力を皆様に与えているのです。もう少し自分の理性に従って五官を考えたら、生まれる前に植えられた神のロゴスが自分の魂の本源であることが分かるはずです。

 五官を持っているということは、神のロゴスを持っているということです。これをはっきり認識すればいいのです。

 ヤコブの言い方をすれば、植えられている御言葉を受けるのです。それを受け止めさえすれば、自分の魂の本性の性能が何であるかが分かります。分かりさえすれば、霊の目を開くことができるのです。

 ところが、それができない。なぜできないのか、肉の思いによって押さえ込まれているからです。自分自身の肉の思いで、自分の心が束縛されているのです。

 人間全体の肉の思いが積もり積もって、空中の権ができているのです。恐ろしい人間社会の権威を造っているのです。人間社会のオーソリティーを造っているのです。これが学問の権威です。常識の権威です。知識の権威です。人間自身の経験の積み重ねという恐るべき権威です。これが空中の権となって、人間の心を縛り上げているのです。

 そういう縛られたままの心で見ているから、御霊が分からないのです。

 人間は現実において、霊的に見るだけの本性を与えられているのです。霊的に見る本性を与えられていながら、その本性を活用していない。そうして、肉性ばかりで生きているのです。これは人間の本性がへびであることを示しているのです。

 元々、へびの本源はルシファーと呼ばれる天使長です。天使の長であった輝けるものルシファーが、創世記の第三章ではサーペントという文字で現わされているのです。

 天使長は神に対して、自分自身の存在を主張した。自我意識を創作したのです。神を離れて自我が存在しうるという新しい概念を自分で造ったのです。これが虚偽の創造の第一原理になっているのです。

 自我の確立が近代文明の第一原理になっているように、自我意識の創作が宇宙の罪の第一原理になっているのです。へびはこれをしたのです。神から離れて自分が存在するという意識を創作したのです。

 その結果、天使長の位を取り上げられて、天から追い落とされた。ところが、本人は自我意識が悪いとは思っていないのです。

 現在の人間も、自我意識が悪いとは思っていません。デカルトに至っては、「我思う故に、我あり」と、自我意識は当たり前だと堂々と言っているのです。これははっきりへびの意識です。そういう意識によって、西洋文明が造られている。また、今日の学校教育ができているのです。

 民主主義の基本概念は自我意識を持った人間の概念ですが、この根本原理を造ったのは天使長である悪魔です。へびです。へびの思いが、「我思う故に、我あり」という原理を造ったのです。

 私は思っている。思っているから神から離れて独立することができると考えたのです。デカルトの考えは、そのまま天使長ルシファーの考えだったのです。

 天使長は天から追い落とされたけれど、彼には「我あり」という意識は少しも衰えていません。

 宇宙に自尊心という妙なものが発生したのは、自我意識から来ているのです。自我意識がなければ、自尊心というばかなものはあるはずがない。従って、不平不満とか、欲求不満というものがあるはずがないのです。

 強迫観念、被害妄想、取り越し苦労、恨み、苦しみ、悩み、悲しみは自我意識があるから発生するのです。犬や猫にはそういう気持ちは一切ありません。自我意識がないからです。人間は自我意識があるために、勝手に苦しんでいるのです。これははっきりへびの意識です。へびの意識が人間の中にあって、とぐろを巻いているのです。

 へびにはそのような威張って踏ん反り返る面がありますが、もう一方で、おどおどして、私はだめだ、私はだめだ、自分みたいなものはだめだという意識があるのです。

 私はだめだというのは、天から追い落とされたへびは、天には帰れない。だから、私はだめだと思っているのです。

 ところが、もう一方では、自尊心を振りかざして威張っているのです。他方では、私はだめだと思い続けなければならないような、哀れな運命にあるのです。

 へびは死そのものです。神に呪われたのですから、いくら謝っても神は許してくれません。また、謝ろうという気持ちが起きないのです。絶対に反省しないのがへびの気持ちです。

 皆様は私はだめだと思いながら、本当に砕かれようという気持ちにならないでしょう。だめだと思いながら、自分の気持ちを投げ出すことができないでしょう。これが皆様の気持ちがへびの気持ちであることの証明になるのです。

 へびは天から追い落とされて、死んでしまった。死んでしまっているが、現在の状態はまだ活動しているのです。この世がある間は、人間がへびを崇めているために、人間を自分の手先にしているのです。

 人間がへびの根性を自分自身の根性だと錯覚している間は、人間の上に乗って生きているのです。人間を自由に使っているのです。

 へびは本当は死んでいるのです。本当は死んでいるのに、人間がそれを甘やかしている。人間がへびを信じている。へびを尊敬しているために、へびは生きて、世界の政治、経済、宗教、文化を支配しているのです。人類全体を支配し続けているのです。

 自尊心はへびを尊敬する気持ちです。そういう気持ちが人間にあるから、へびはのうのうと生きていられるのです。これが空中の権になっているのです。

 へびに権威を与えているのは人間です。皆様は自我意識を認めています。自我意識を認めていることは、へびを認めているのです。皆様は自我意識を認めているどころか、自我意識を尊重しています。自我意識を尊重していることは、へびを崇めていることになるのです。

 ところが、もう一方において、自分は死ななければならないと思っている。死ぬに決まっていると思っているのです。私はだめだ、私みたいなものは死ぬしかないと思っている。これはへびの思いがそのまま皆様の思いに移っている証拠です。

 私はだめだ、本当にだめに違いないと思っている。へびの気持ちが皆様に移っているから、だめだと思っているのです。そして、地面(現世)を這いずり回っているのです。

 「一生、地に腹ばいて、ちりを食う」とありますが(創世記3・14)、それを人間はしているのです。この宣告は元来へびに与えたものですが、人間がそれを実行している。人間がへびの子になったからです。

 現在、皆様の頭の中にあることは、地上のことばかりです。あの人が良い、あの人が悪い、あの人は得をした、自分は損をしたとそういうことばかりを考えている。ちょっと損をすると、自分が大損をしたような気持ちになって、落ち込んでしまうのです。地に腹ばいて、地のことでうろうろしているのです。

 

 そこで、パウロの忠告を聞いて頂きたいのです。

 「このようにあなたがたはキリストと共に甦らされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのである。

 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」(コロサイ人への手紙3・1、2)。

 

 上にあるものを思うべきの「思うべき」というのは、英訳ではセット・ユアー・マインド(set your mind)になっています。お前たちの精神を上に置いておきなさいと言っているのです。

 上という言葉は非常におもしろい言葉です。上を英訳ではアバブ(above)となっています。アバブは上下の上という意味に使います。頭の上という意味もあります。

 本来、アバブは頭の上という意味から来た言葉のようです。人間は頭の上が見えないのです。顔を上に向けると大空が見えますが、頭の上は見えていないのです。

 結局、目に見えないことをアバブというのです。頭蓋骨の上のことです。目に見えない所へマインドを置けというのです。そうすれば、へびに勝てるのです。

 現実的に生きている自分は、死ぬに決まっている自分です。死ぬに決まっている自分を自分だと思い込んでいる人は、絶対にへびには勝てません。勝てるはずがないのです。死んでいくに決まっている自分を自分だと思うことは、へびを自分だと思っていることですから、へびに勝てるはずがないのです。死に勝つことができない。神を信じることができないのです。

 キリスト教の人々で、神を信じたいと思っている人はいるでしょう。しかし、神を信じている人は一人もいません。

 聖書の勉強をしている人はたくさんいますが、聖書を勉強していても、神を信じていることにはならないのです。

 聖書の勉強をしている人は、その瞬間だけ神を信じているつもりになっていますが、勉強をやめると、神を信じた気持ちから離れてしまうのです。

 聖書を勉強している人で、御霊を受けていない人は、背伸びをして聖書の中を覗いているだけです。普通に勉強している人は、神の国が見えていないのです。ところが、見えていると思っている。これが宗教観念です。

 こういうことを何年しても、何十年しても、神を信じることはできません。聖霊を信じていないからです。聖霊により頼んでいないからです。

 聖霊により頼まなければ、聖書の本当の奥義は教えてもらえません。ユダヤ人が現在もなお、旧約の掟の中に首を突っ込んでいる。ユダヤ人は聖霊降臨という大事実を知らないのです。全く知らないのです。

 ヨーロッパの人々は聖霊降臨祭、ペンテコステを祝っていますが、ユダヤ人はそれに反対して、臍を曲げているのです。

 ペンテコステは元々ユダヤ人の祭りです。ユダヤ人の祭りにユダヤ人が臍を曲げている。ペンテコステはユダヤ人が臍を曲げる記念日になっているのです。こういうおかしなことをしているのです。

 ユダヤ人はペンテコステの本当の意味が分からないのです。それは地面を這いずり回って、上のものを見ていないからです。

 ユダヤ人は下にあるものばかり見ているのです。地の上のこと、地上のことばかりを見ているのです。地の上のことを思うなとパウロが言っています。

 今のキリスト教の人々でも、自分の魂の救いのことばかりを考えている。皆様にもその傾向がないとは言えないのです。

 自分の魂の救いを考えるというのは、ニコデモの考えと同じです。ニコデモがイエスと話した時に、人間が新しく生まれるということが問題になったのです。

 イエスが人間は新しく生まれなければならないと言った時に、びっくりしてニコデモは、「もう一度、母の胎内に入って生まれるのですか」と聞いたのです(ヨハネによる福音書3・4)。「地のことを私が言っているのに信じない。天のことを言ったらどうして信じられるのか」とイエスが言ったのです(同3・12)。

 地のことというのは、人間が新に生まれるということです。人間が新に生まれることでさえも、地のことであるとイエスが言っています。皆様が考えていることは、ほとんど地のことです。自分が聖霊を受けたいと考えている。自分の信仰が増し加えられるようにと考えている。

 自分の商売のことはもちろんですが、聖書を学んでいることさえも地のことに結び付けているのです。自分の中にいるへびをどうしようかと考えている。これは地のことです。そのへびを退治したかったら、上のことを思えばいいのです。

 へびは地面を這いまわっています。地のことを考えている。地上に生きている自分のことを考えているのは、それが霊的なことのように思われても、実は本当に霊的なことではないのです。地のことです。天のことではありません。

 それでは、天のこととは何か。そこでは、キリストが神の右に座しておられるのであるとあります。これが上(天)のことです。これだけではありませんが、これは上(天)のことの根本です。

 上のことの土台は、キリストを思うことです。地のことの土台は、自分のことを思うことです。たとえそれが信仰的なことであっても、自分のことを中心に考えている人は、やはり地のことを思っているのです。

 キリストのことを考えている人は、幼稚な考えであっても、上にあるものを思っているのです。これをして頂きたい。自分のことを考えないで、キリストを考える癖をつけるのです。そうすると、へびに勝てるのです。地の思いに勝てるのです。世につける思いに勝てるのです。

 人間の歩みというのは、本質的には肉の自分が生活しているのでなくて、生活させられているのです。ことに商売をしている場合は、一人ひとりの客を自分が引っ張ってくるのではない。すべて、与えられた条件によって商売をしているのです。与えられた条件によって商売をしているということは、神の導きによって商売をしているということです。

 ところが、自分が商売をしていると思っている。そして、年中あくせくしているのです。いつも焦っているのです。こういう愚かなことを考えないで、神の右にキリストが座しておいでになることだけを考えて下さい。

 皆様はキリストを信じているつもりでしょう。皆様が信じているキリストは、神の右に座しているのです。

 神の右とは何か。全知全能の神が宇宙で一番偉いのですが、そのお方の右というのは、神よりももう一つ位が上です。キリストが神の右に座しておられることを考えて、皆様がもし本当にキリストを信じているとすれば、皆様の願いはそのまま宇宙のあらゆる事がらより優先することになるのです。イスラエルを救いたまえという私たちの願いは、宇宙のあらゆる事がらよりも優先されるのです。

 地球が自転、公転しているということよりも、私たちの祈りの方が神の前には大きい力を持っているのです。

 イエスは風が吹いているということよりも、自分の信仰の方が大きいことを知っていた。だから、風に向かって「静まれ」と言ったのです。そして、風が静まったのです。

 本当にキリストを信じて頂きたい。本当にキリストを信じたいと心に願っていることは、宇宙のあらゆる事がらに優先するのです。

 モーセはイスラエルの民に祈ったから、自然現象よりもモーセの祈りが優先したのです。紅海の水が裂けたり、岩から水が噴き出したりしたのです。

 イエスはイスラエルの人たちにパンを与えるために神に祈った。パンがない所からパンが湧いてきたのです。

 奇跡というのは、自然法的な宇宙の法則より優先することをいうのです。大自然の法則より優先するのです。だから、水が葡萄酒になったのです。水の上を歩き、死んだ人を甦らせたのです。

 キリストに対する祈りは、大自然の法則よりも勝っているのです。地球が回転していることより、太陽が輝いていることよりも、さらに強力なものです。これがキリストが神の右に座したもうという事実です。

 だから、モーセが祈ると、大自然の動きが止まったのです。地球の回転よりも大きいこと、銀河系の流れよりも大きいことは、キリストが神の右に座したもうという驚くべき大事実です。この事実を信じる人だけを、キリストを信じるというのです。

 人間は誰でも、自分が信じて何とかしなければならないと思っています。十字架でも、自分が信じなければならないと思っている。その自分がへびです。だから、いくら信じてもだめです。

 自分が十字架を信じなければならないと考えている。そう考えている自分がへびです。へびがそう思っているのです。

 へびは妙なことをするのです。へびは元々天にいたのですから、神をよく知っているのです。ヤコブの手紙にもありますが、神が神であることは悪魔でも信じているのです。悪魔でも神を怖がっていると書いています。

 ヨブ記を見ますと、サタンが堂々と神の前に出てきて、神と問答をしているのです。だから、へびはなかなか偉いのです。皆様の中にいるへびは大した向こう気を持っているのです。福音でも十字架でも理屈は知っています。聖書の言葉をよく知っているのです。宗教観念というのは、すべてへびが聖書を学んでいる気持ちをいうのです。

 悪魔はもし神が許してくれるなら、その方が得だという計算ができるのです。しかし、また、自分は絶対に許してもらえないという気持ちがあるのです。それが人間の宗教心になって現われているのです。

 人間が考えていることは、良いことを考えても、悪いことを考えても、全部へびの考えです。親孝行を考えると、それがへびの考えです。親孝行よりも、神信仰を考えなければいけないのです。親孝行よりも神に孝行することが本当です。

 自分の肉体を養うことよりも、魂を養うことの方が大切です。この世の商売よりも、聖書の信仰の方が大切です。ところが、そんなことをしていたら、ご飯が食べられなくなるとか、生活ができなくなると考えるのです。そういう考え方はへびが信仰しようと思っているから起きるのです。

 へびが信仰しようと思っていると、商売をしなければ信仰ができない、生活の安定があっての信仰だと考えるのです。こういう考え方が根本から間違っているのです。

 商売があっての自分と考えるのは、自分で自分の商売を握っているのです。自分の人生は自分のものだと考えているのです。

 キリストが神の右に座しておられるのです。現在のイエス紀元の時代においては、地球が回っているということが、そのまま神の国になっているのです。

 今、ここに私がいるということが、そのまま神の国にいることになるのです。ところが、神の国だと考えずに、現世だと思っている。だから、考え方が全部、地につける思いになるのです。これは愚かな考えです。

 地球全体がイエス・キリストの十字架によって贖われている。ユダヤ人を初めとして、人間全体はこれを知らないのです。

 十字架というのは、自我を否定するという辛い面もありますが、結構な面がはるかに多いのです。人間の自我意識で考えると、辛い面が多いのです。自分を捨てよとか、自分の命を憎めという面があるのです。

 これはイエスが十字架にかかるまでのことですから、そういう言い方を強調したのですが、今やパウロが言うように、私たちは皆キリストと共に甦らせられたのです。

 従って、十字架以前の人間は一人もいないのです。現在、すでに神の国が来てしまっているのです。聖霊が降臨したというのは、そのことを言っているのです。

 ところが、皆様はまだこの世がある、十字架によって自分は死ななければならないと考えている。皆様はもう死んでいるのです。三節に、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に栄光のうちに現わされるであろう」とあるのです。

 死んでいるあなたがたが救われなければならないとか、行いを正しくしなければならないとかを、なぜ考えるのでしょうか。なぜこの世の常識に従わなければならないのでしょうか。

 皆様は死んでいるのです。死んだ人間が常識に従えるのでしょうか。

 皆様はすでにお墓になっているのです。ところが、皆様はちょっと悪口を言われると、かっとなって怒るのです。自分の気持ちを理解してもらえないと、なぜ心配しなければならないのでしょうか。

 自我意識、自分の思いである肉性は、死んでお墓になっているのです。肉体人間はすべてお墓です。ところが、自分はお墓ではないような気がするのです。食べ物があれば食べたらいいし、なければ食べなくてもいい。この世に生きていられたら生きていたらいいし、生きていられなかったら、この世を去ったらいいのです。どんなことがあっても、いちいち気にしなくてもいいのです。

 私たちの運命は、良くても悪くても、すべて神の手に握られているのです。私たちはいないのです。もっと太っ腹に、大胆に、自我を投げ出してしまうのです。投げ捨ててしまわなくても、すでに死んでいるのです。

 コロサイ人への手紙の三章三節を元訳聖書で見ますと、「それ、汝らは死にし者にして、その命はキリストと共に神の内に隠れあるなり」とあります。

 それ汝らは死にし者にしてというのは、こんなことが分からないのかという強い言い方です。

 夏のとても暑い日でしたら、「それ汝らは死にし者にして」と言ったらいいのです。そうすると、涼しくなるでしょう。死んだ者が取り越し苦労をしたり、思い煩ったり、不平不満を持ったり、自尊心を持つのはおかしいのです。

 自分のことを一切問題にしないというのが、十字架を受け取ることです。自分で十字架を受け取ろうと思えば、すでに自分のことを問題にしているのです。これがへびの考えです。

 十字架をもっと知りたいと思うのは、自分がそう思っているのです。これはへびに担がれているのです。それ汝らは死にたる者であって、自分がどう思うかに関係なく、上にあることを思うのです。

 例えば、今日は頭が重い感じがして、聖書を読んでもさっぱり分からない。それ汝らは死にし者にしてと考えても、一向に分からない。一向に実感がないのです。実感がないから、今日の私の霊的状態は駄目だと思う。自分の霊的状態を自分で見ているからいけないのです。

 自分の頭が重かろうが暗かろうが、そんなことを問題にしない。自分の頭が重いというのは地のことです。地上にあることです。だから、地のことを思わずに、天のことを思ったらいいのです。頭が重かろうが、気分が悪かろうが、信仰的に考えられなくても、そういうことに一喜一憂する必要はないのです。

 神を信じるというのは、どんな場合でも、自分の思いを信じないのです。自分の思いを信じないことを、神を信じるというのです。

 コロサイ人への手紙の三章で、へびに勝つ方法をお話ししました。そこで、エペソ人への手紙二章に帰りますが、二節には、「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである」とあります。

 不従順の子とは何かと言いますと、自分が生きていると思っている人です。従順とは何かと言いますと、自分が生きていないと考えることです。

 十字架は神の処置ですから、神の処置に対して従順である人は、自分は生きていないと思うはずです。ところが、自分が生きていると思っている人は、神の処置に反抗しているのです。十字架の処置に反抗しているのです。そして、自分が生きていると思っているのです。

 そういう不従順の人間の腹の中には、空中の権を取る君、悪魔という王様の力が働いているのです。悪魔は十字架によって頭が砕かれているのです。十字架によって、へびの権威がなくなっているのです。頭が砕かれたということは、権威がなくなったということです。だから、へびにいくら逆らっても、へびが今の人間に仇することができないのです。

 例えば、日本のある田舎で、ムカデは神さんの使いだという迷信がありました。ムカデが出てきたら、殺さずに逃してやればいい。殺すといくらでも出てくるというのです。ムカデが人間に仇すると考えられていたのです。 

 悪魔が十字架につけられるまでは、それくらいの力を持っていたかもしれない。十字架以後の悪魔は、私たちに仇をすることができないのです。肉体を殺すことができても、魂を殺すことができない者を恐れるなとイエスが言っているのです。

 今や、悪魔は私たちの魂をどうすることもできません。例え、毒へぴが噛んだとしても、本当にキリストが天において神の右に座したもうと実感している人間には、毒が回らないかもしれない。害虫に噛まれても毒がないということが、聖書に書いてあるのです。

 パウロの手にマムシが噛みついたのですが、そのマムシを火の中へ振り落したのです。パウロに全然毒が回らないので、人々が驚いて、この人は神さんだと言ってびっくりしたという記事が新約聖書にあります。

 キリストが第三の天において、神の右に座したもうというのは、その位の威力があるのです。災いが皆様の身体に及ぶことができないのです。

 キリストが第三の天において、神の右に座したもうことを本当に信じて下さい。これは大自然の法則よりも大きいのです。

 空中の権を取るものと言えども、神の御座の右に座したもうお方には敵わない。ましてや、十字架によってへびの頭が砕かれているのです。頭を砕かれているというのは、へびの思想が粉砕されてしまって無力になっているのです。

 現に私は皆様の中にいるへびの悪口をどんどん言っていますが、私の口を封じることはできないのです。自尊心はへびの産物だ、不平不満はへびの考えだと言っても、皆様はそうではないということができないのです。私の考えに反対することができないのです。

 本当の人間なら、自尊心とか不平不満という妙な感覚が人間の中にわいてくるはずがないのです。正常な人間なら、ご飯が食べられる、お天とうさんがあれば、ありがたいと思うはずです。

 ところが、ご飯とお天とうさんだけでは満足できない。もっとお金がほしい、もっと財産がほしい、人よりも得をしたいという気持ちがわいてくる。これはへびの思いに決まっているのです。犬や猫ならご飯とお天とうさんがあれば、喜んで転がって寝ているのです。

 人間は生かされているだけでは満足できません。この考えはへびの考えに決まっています。へびの根性に違いないのです。

 生かされていたら、それで結構なことです。自分が考えるのをやめるのです。キリストが第三の天においでになることを、いつでも頭に置いておくのです。そうすると、自分に代わって、キリストが考えて下さるのです。自分の人生のことをキリストに考えもらうのです。自分の魂のことを、キリストに考えてもらうのです。

 そうすると、悪魔に必ず勝ちます。時には負けそうな気がするかもしれませんが、これは試みというものです。試みに勝って、自分の運命をキリストに任せるのです。

 キリストに考えてもらうのです。そうすると、必ず勝ちます。これをして頂きたいのです。

 自分で考えてはいけない。良い行いをしようとか、もっと信仰を増やしてほしいと考えてはいけないのです。

 へびの分際でありながら、神を信じようとする。それでうまくいかないのです。どうも聖書が分からない。はっきりしないと考える。はっきりしないのは当たり前です。へびがキリストを信じようと思っているからです。このトリックに引っかかったらだめです。

 皆様は自分で信じたらいけないのです。信仰は自分が信じないことです。神を信じるのは人間が信じないことであって、ただ神を見るのです。命を見るのです。信じることは見ることです。

 第三の天に置いて、キリストが神の右に座したもうことを見るのです。これを信じるのです。見ることをしないで信じようとする。だから、宗教観念になってしまうのです。

 ことに現在、空中の権を取る者は、人権という非常に悪質な権利を持っているのです。ただ自分がいるだけではない。自我意識がだんだん発展して、今では基本的人権という考えに成長しているのです。へびが龍になっているのです。へびが赤い龍になっているのです(ヨハネの黙示録12・3~18)。

 自我意識は単なるへびです。ところが、人権主義というのは龍です。王さんです。空中の王さんです。空中の王さんが天と地の真ん中でがんばっているのです。そうして、私たちの心が神に通じないようにしているのです。空中で妨害しているのです。これが人権思想です。これを捨ててしまえば、へびは小さくなるのです。

 人権という思想を持っていると、いつまでも自分が苦しまなければならないのです。人をばかにしやがってと思うからです。

 徳川時代には人権という考えはなかったのです。百姓や町人がばかにされるのは当たり前でした。下に下にと言われたら、地面に座って平伏していたのです。

 人権という愚かな妄念が、世界中に広がっているのです。基本的人権を無視して、政治ができないのです。これが赤い龍です。赤い龍が現代文明において、はっきり空中の権を取っています。神よりキリストよりも、赤き龍の方が偉いのです。

 やがて、赤い龍がキリスト再臨の前に地上に下りてきて、赤き龍自らが政治を行うことになるでしょう。これが偽キリスト王国です。これはやがて来ます。もう目の前に迫っています。これが艱難時代です。

 赤き龍はやがて地に追い落とされます。キリスト再臨の時期が近づくと追い落とされます。私たちがイスラエルの回復のために祈っているからです。

 イスラエル回復の祈りというのは、赤き龍を地上へ追い落とす祈りです。この祈りは恐ろしい祈りです。

 信仰によって、どんどん祈って下さい。第三の天にキリストがおられます。キリストが宇宙の絶対的な権威をもっておられることを信じて、キリストの御名によって祈るのです。

 そうすると、イスラエルに対する神の処置がどんどん早められます。

 偽キリスト王国がやがて地上に現われるのです。アメリカの大統領が人権、人権と盛んに言っているのは、その前兆です。

 皆様はもっと大きな考えをもって、現在の自分の気持ちを無視して、上にあるものを求めて頂きたい。これによって、空中の権を取る者に勝つことができるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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