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                             業を果たす

 

 聖書を勉強していて、聖書どおりの信仰が持てる人はめったにいないのです。なぜでしょうか。

 聞いた話を人に伝達することはできても、聞いた話を自分自身が受けとめることが難しいのです。どうしてそういうことになるのかと言いますと、聖書についての考え方が間違っているからです。

 聖書は勉強すべきものではなくて、聖書の中へ入ってしまわなければいけないものです。聖書の中へ入ってしまわなければいけないと何回も言いますが、それがなかなか実現できないのです。

 御霊を受けたということは、聖書の中へ入る断片的な経験をしたということです。これが御霊を受けたということになるのです。

 誰でも御霊を受けた人は、アダムの末である自分はいないということを、色々な角度から悟らされたに決まっているのです。そのように悟らされなければ、絶対に御霊を与えられないのです。

 今生きている人間は自分が考えていたようなものではない。別のものだということが、聖書に書かれているのです。御霊を受けたという人は、聖書の言葉に関連して御霊を受けたに決まっているのです。聖書の言葉が自分自身の実体であることが分かったのです。分かったから御霊を受けたのです。

 御霊を受けたということは、聖書の言葉を受けたということです。その時に、言が肉となったということを経験したはずです。

 聖書は私について証しているとイエスが言っていますが、御霊を受けた人は聖書が自分自身であるということを示されたのです。こういうことがどんどん言える状態に成育していくはずなのです。

 御霊を受けて、二年、三年、五年、長い人で十年も経っている人がいますが、そういう人がいっこうに聖書どおりに成長していないというのは、何処に原因があるのかと言いますと、聖書の中に入っていないからです。

 聖書の中に入っていくということは、聖書全体がそのまま自分自身の生き写しであるという意味になるのです。

 イエスは旧約聖書に対して、旧約聖書は自分のことが書いてあるというように受けとめていたのです。そのような受けとめ方ができなくても、もっと広い意味で聖書は自分のことが書いてあるというように受けとめられたらいいのです。これが最低限度の聖書の証し人になるのです。

 聖書を思想的に理解する、または論理的に理解するというだけではなくて、生活的に実感することが必要です。そうしないと、必ず行き詰まりがあるのです。

 リーダーである人は、ただ聞いたことを伝達するだけでなくて、指導されているメッセージを生活で具体化することが必要です。これがリーダーの第一条件です。

 十字架のことを聞いても、自分自身の生活にそれが浸透しない。十字架の内容が十分に分かっていないということがありましたら、どんどん神に聞いたらいいのです。神に質問したらいいのです。

 御霊を受けている人は、もっともっと御霊を崇めて、御霊に聞いたらいいのです。聞けば必ず答えてもらえるのです。

 神は生きています。リビングということが神ですから、人に教えてもらわなければ分からないという情けないことを言う必要はないのです。

 

 ヨハネは次のように言っています。

 「助け主、すなわち、父が私の名によって遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネによる福音書14・16)。

 「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、来たるべきことをあなたがたに知らせるであろう」(同16・13)。

 

 ヨハネは御霊を受けた者は、人から教えてもらう必要はないとさえも言っているのです。ヨハネは御霊を非常に高くかっていた。庶民的な言い方をすると、御霊を拡大拡張していた。卑近な言い方をしますと、御霊をこき使っていたのです。

 何でも分からないことは御霊に教えてもらうのです。魂の訓練のために、御霊自身に稽古台になってもらうのです。だから、人から教えを受けなくてもいい、御霊に質問をすれば、御霊が答えて下さるとヨハネは言っているのです。

 御霊に質問したらいいのです。受けた御霊に聞けばいいのです。それをしないから信仰が空回りしているのです。

 パウロは「人間は一度だけ死ぬことと、死んだ後裁きを受けることが、人間に定まっている」と言っています(ヘブル人への手紙9・27)。

 人間とは何かということについて、昔から色々と言われてきました。人間とは何かについては、哲学的な、また人文学科学的、社会科学的な定義がなされています。

 

 聖書は人間をどのように位置づけているか、定義づけているかと言いますと、次のように述べています。

 「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1・26、27)。

 

 もし今の人間が神のかたちに造られたものだったら、死ぬはずがない。死んで裁きを受けるはずがないのです。

 神のかたちのように造られた人間が、なぜ死ななければならないのか。ヘブル書の九章二十七節で言っている人間と創世記一章二十六節の人間とは違うことになるのです。

 犬や猫は死にますが、裁きは受けないのです。これはみずからの自我意識を持っていないからです。自分が生きているという意識はありません。犬全体に通用する生命意識みたいなものがあるだけです。

 どこの犬でも共通した生命意識は持っている。しかし、生命認識ということを感じていないのです。とにかく、生命を認識しない生命意識を持っているのです。

 これは植物が持っている生命意識よりもやや高等であって、植物も動物もあまり変わらない意識がありますが、これは人間の語法でいう意識には該当しない意識ですから、これは裁きの対象にならないのです。

 人間は裁きの対象になる意識を持っている。これが業(ごう)なのです。人間が生きているというのではなくて、むしろ業が生きているのです。

 業は人間だけのことです。神の業と言えないこともないのですが、これは神の御心というように聖書では言われていることなのです。

 業という言葉は聖書にはありませんが、聖書では罪という言い方をしているのです。この罪という言い方をもう少し広げるとよく分かるのです。

 人間は死にたくて死ぬのではありません。罪というのは人間の主観的意識に関係があるように扱われているのです。

 パウロも広い意味で捉えているのです。「私は肉につける者であって、罪の下(もと)に売られている」と言っているのです(ローマ人への手紙7・14)。この場合の罪というのは人間の主観的意識には関係がない宇宙に存在するカルマのことを言っているのです。

 人間はカルマの下に置かれたのです。魂がこの世に生まれる前には、神の内にあったのです。I am in the father.という状態であったのです。父の内にあるということが皆様自身だったのです。

 これはカルマとは言わないのです。父の内にある。父と共にあるという状態は、カルマではない。宇宙本来のあり方を示しているのです。宇宙本来の状態から逸脱した状態をカルマというのです。これが業です。

 皆様はこの世に生まれる時に、インザファーザーという条件から離れてしまったのです。だから、人間は例外なく業になったのです。

 一度死ぬことと、死んで裁きを受けることが人間です。死ぬことと、死んで裁きを受けるということが業です。

 皆様がこの世に生まれてきたことが業です。皆様が承知してもしなくても、一度死ぬことと、死んで裁きを受けることが業なのです。

 業というのは固定負債みたいなものです。固定した負債です。これを果たさなければいけないのです。これを果たさなければ、一度死んで、裁きを受けることが決まっているのです。

 このことが執行されるのです。人間は死刑囚みたいなものです。刑を執行された後に、裁きを受けるのです。

 なぜそうなるのかというと、人間は生きているうちに、誰でも自分の業を直感しているのです。直感はしているが冷静に認識してはいないのです。感じてはいるが受けとめていないのです。みすみす感じていながらそれを受けとめていないために、皆、業に引っかかってしまうのです。そして地獄へ行くのです。

 皆様は今まで何十年か生きてきたと思っているでしょう。二十歳の人は二十年生きてきた、三十歳の人は三十年生きてきたと思う。何十年間か生きてきたと思うその記憶が業なのです。

 その記憶が間違っていたのです。これが根本的な誤解です。人間が何十年間か生きてきたという事実はないのです。ただ人間がそう思っているだけなのです。

 人間の体は電気の働きによって成り立っているのです。電気現象です。電気現象というのは瞬間の働きです。

 人間が何十年間か生きてきたという事実はないのです。ただ人間がそう思っているだけです。そういう思いを持っている間は必ず裁かれます。

 現在人間が生きているという事実を正確に認識すれば、人間の業はなくなるのです。自分が生きていないという事実は分かるのです。分かろうと思えば分かるのです。

 今皆様が椅子に座っているとします。それは皆様自身ではないのです。皆様自身となぜ思うのでしょうか。

 自分がいる、自分がいると勝手に思っている。自分がいると考えなければならない理由が何処にあるのでしょうか。

 人権が与えられていると思うことによって、人間はますます苦しくなるのです。苦しくなる前に傲慢になるのです。傲慢になったら泣きたくなる、そしてひがんでいくのです。

 大体、現在の人間は本当に何も分かっていないのです。へり下っていれば苦しんだり悲しんだりする必要はないのです。傲慢だから苦しむのです。

 仏教には人間苦という言葉があります。愛別離苦という言葉がある。人間は傲慢だからそういう苦しみがあるのです。愛する者に別れなければならないと平気で言っているのです。これは仏教という教えがいかに傲慢な教えであるかを証明しているのです。

 人間の苦しみを認めるのは自分自身が傲慢だからです。イエスのようになったら、人間苦はないのです。

 私は柔和謙遜であるとイエスが言っています。柔和にして謙遜である人は、人間苦というものを背負う必要がないのです。

 人間は自分の利害得失をいつも持っているのです。これが男性自身になって現われるのです。皆様はなぜ自分の業を果たそうと思わないのか。なぜもっと気楽に生きようと思わないのでしょうか。人権があると思うことによって何の得があるのか。人権があると思うことによって第一に傲慢になるのです。第二に苦しくなる。何処にいい所があるのかと言いたいのです。

 現象的に生活が苦しいと、おいしいものが食べられませんが、これは本当の苦しみではないのです。こんなことは慣れてしまえば何でもないのです。

 貧乏とか金持ちというのは比較論です。比較論はただの概念です。人間は概念によって勝手に苦しんでいるのです。これは自業自得です。貧乏というのはただの観念です。社会主義というのもただの観念です。ひがんでいる人間の観念です。勝手に苦しみ、勝手に悲愴がっているのです。

 人間は一度死に、死んで裁きを受けることが分らないのです。貧乏よりも死ぬ方がもっと重大です。人間は死ぬことよりも貧乏のことを考えている。これがおかしいのです。

 川上肇が貧乏物語という本を書いていますが、全くあほらしいことを書いているのです。貧乏が日本に存在するようなことを書いているのです。

 カール・マルクスもそうです。世界に階級が存在して、搾取が絶対に存在するように書いていますが、それはただの観念です。観念を勝手に描いて人間は苦しんでいるのです。そのように考えるのが道楽かもしれません。そうでも考えなければ、時間をもてあましたのかもしれないのです。

 そんなことよりも、人間は一度死ぬことと、死んで裁きを受けること、この業を考えなければいけないのです。人間の本質はカルマであって、カルマが人間という格好になって化けているのです。これを自分だと思っているのですが、なぜそれを自分だと思わなければいけないのでしょうか。

 人間はよほど死にたいらしいのです。死んで裁きを受けたいのです。人間がこの世に生まれて今日まで生きてきたその記憶が、全部間違っているのです。すべて間違っているのです。

 人間の考え方の土台は、何十年間かの人生経験です。その経験のしかたが全部間違っているのです。肉の思いで経験していたからです。肉の記憶ばかりを頭に詰め込んでいるのです。そのために、一度死んで、死んでから裁きを受けなければいけないのです。

 何が裁かれるのかと言いますと、皆様の記憶が一つひとつ裁かれるのです。これが神の命の文に記された人間の罪業です。

 人間はいないのです。業が人間の格好をしているだけです。皆様も業のことを自分だと勝手に思っているのです。固有名詞は業です。イエスはそんなものは全然考えていなかったのです。

 ケデロンの谷にいたイエスを捕り手の集団が来た時に、イエスが「誰を捜しているのか」と聞いた。彼らは「ナザレのイエスを」と言った。それに対してイエスは、「私がそれである」と言われたとあるのです(ヨハネによる福音書18・4~8)。

 「私がそれである」というのを英訳では、I am he. となっているのです。その答えがおもしろいのです。I am he. という英語が成り立つのかどうかです。一人称は即ち三人称であると言っているのです。

 聖書は業がない人間のことを書いているのです。業のない人間の言行録が新約聖書ですが、業の塊のような人間が考えると、イエスが何を言っているのかさっぱり分からないのです。

 人間は自分の考えに凝り固まっているから、イエスが全然分からないのです。自分という業に捉われているからです。だから、十字架が必要なのです。

 仏教では愛別離苦怨憎会苦と言いますが、そんな事実は何処にもないのです。さすがに般若心経はそんなことは言っていません。無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故、菩提薩?と言っています。四諦八正道はないと言っているのです。これが般若心経の良い所です。

 生まれてきたということがカルマです。自分が生まれたいと思ったのなら自分の人生ですけれど、人間は自分が生まれたいと思わないのに生まれてきたのだから、業であるに決まっているのです。

 そうしたら、なぜ自分の業があるのかを冷静に考えなければいけないことになるのです。これが聖書を勉強する第一歩になるのです。

 業がある以上はどうしても業を果たさなければならないことになるのです。果たせるに決まっているのです。

 現世に生きているうちに、自分の考え違いを見直すこと、自分の記憶をやり変えなければ大変なことになるのです。もし現世でできなければ、死んでから暗い所へ行って、永遠に独房に放り込まれて、おまえの記憶の何処が間違っていたのか、初めから終りまで、記憶を全部修正しなさいと言われるのです。これが地獄です。できなかったらそれに相応する刑罰を与えられると厳命されるのです。

 結局、皆様は自分が存在していることについて根本的な考え違いをしているから、永遠の裁きの中へ放り込まれるのです。そして、さんざん恥しめられるのです。

 皆様は食物でも、服でも家でも、ある程度好きなように選択することができます。ある程度という限界がなぜあるかです。お金持ちとか、貧しい人によって、着るものや住む所が違ってくる。これがすばらしいのです。

 服でも一度に百着や二百着与えられても困るのです。家でも、お城のような豪邸を百軒も二百軒も与えられたら困るのです。そうすると、人間が住む家でも、着るものでも、衣食住のすべてに限界があるのです。これはどういう訳なのか。これがあるからこそ有難いのです。地獄の裁きにもある程度の限界があるのです。ある程度の裁きで押えられることになるのです。

 とにかく、人間は衣食住において選択の自由が与えられている。選択の自由というのは、神が持っている自由です。神だけが持っている自由を人間は与えられている。

 松の木や菊の花には選択する自由がないのです。選択ということさえ知らないでしょう。菊の花は鉢に植えられても当り前だと思っているでしょう。それを自分自身で価値判断することができないのです。

 ところが、人間は生活において選択の自由、思考の自由、判断の自由を与えられている。これはすばらしい特権です。神の特権が人間に与えられているのです。こういう特権を与えられていながら、自分の業から逃れることができない。何と情けないことかと言わなければならないのです。

 とにかく人間は馬鹿みたいなことをしているのです。人間が生きていることを冷静に見ると、すばらしいものであることが分かるのです。だから、当然カルマを果たすことができるはずです。

 一体カルマを果たすにはどうしたらいいのか。どうしたら業を果たすことができるのか。

 業というのは小乗仏教で言えば善悪の行為、現世の報いということになりますが、大乗仏教ではその範囲がとても広くなります。目が見えることが業ですし、耳が聞こえることが業です。性欲はもちろん業です。肉体を持っていることが業になるのです。

 「私は肉なる者にして、罪の下に売られた」とパウロが言っています。肉体を持っていることが罪の下に売られたことです。これが業です。

 ところが、業がないと救いが分からないのです。神が人間を罪の下に売ったのはなぜか。人間に業を押しつけたのはなぜかと言いますと、人間を救うためです。そのために、神は人間を罪の下に閉じ込めたのです。神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのです(ローマ人への手紙11・32)。

 業を果たすというのはどういうことか。現在、肉体的に生きている人間は一度死ぬことと、死んで裁きを受けることが業です。業を果たすためには肉体的に生きている人間をやめたらいいのです。これをしたらいいのです。

 肉体的に生きている人間が業である。肉体的に生きている人間の感覚、肉体人間が実体であるという思想が偽りです。肉体的なもの、物質的なものが実体的に存在するという感覚が偽りです。そのような偽りの意識、または認識を発明したのは悪魔です。これが肉の思いです。

 物質は何処に存在しているのか。物質が存在すると考えることによって、何の効果と価値を持っているのか。

 自然科学が人間に与える幸福とか自由は、どういうものか。業が生きているだけです。しかし、業から抜け出すことは絶対にできないのです。

 自然科学は人間生活に幸福みたいなものは与えるでしょう。それによって、人間の業が果てるかというと業が果てない。やはり人間は死んでいくのです。死んで裁きを受けなければならない。

 そのような業が人間にまとわりついている以上、人間はいつも苦しんだり、悩んだりしなければならない。不安と不満がいつも人間の心中に渦巻いているのです。

 どんな英雄でもどんなに偉い人でも、結局は死んでいかなければならないし、死んだら裁きを受けるのです。とにかく人間は一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けるということを、真面目に見つめるのです。自分の業を真面目に見つめてみるのです。ヘブル人への手紙の九章二十七節をじっと見つめていくと、業を果たす方法がおのずから分かってくるのです。御霊が教えてくれるからです。

 肉体人間が存在するというその思いが、宇宙における一過性の現象です。地球という惑星が存在することが、宇宙における一過性の現象です。

 水がたっぷりあって、森羅万象が満載している惑星は宇宙の突発現象であって、全くありえないことが起きているのです。

 一体地球というのは何か。人間の思想ではとても分からないものが存在しているのは何か。これは神を信じる以外に分からないのです。Be動詞さえ分かれば、すべてが説明できるのです。

 地球『である』ということが地球『がある』がある状態になっている。これがBe動詞であり、神です。だから、人間が一度死ぬことと、死んで裁きを受けることが、Be動詞である神が分かれば、すべて分かるのです。

 神を教えるために、地球という物理現象を現わしているのです。そのために、地球という物理現象を顕現しているのです。学校の先生が生徒に教材を見せているのと同じです。

 地球が教材です。人間が存在することも教材です。「人間のことは人間の霊でないと分からない」とパウロが言っています(コリント人への第一の手紙2・11)。皆様は自分の霊を持っているでしょう。

 人間の霊とは人間の人生です。皆様の人生は神が皆様に与えた教材です。神は皆様一人ひとりに教材を与えていて、それを見たら業を果たすことができるようにできているのです。

 よく静かに考えてみて下さい。肉体が存在しているという事実は何処にもありません。皆様がそう思っているだけです。実は客観的に見れば、神から見れば、人間の肉体は全く存在していないのです。人間の感覚意識が肉であるために、肉体が存在しているような気がするのです。

 ところが、肉体が存在するような気がするということは、非常に有難いことなのです。非常に良い面と非常に悪い面とがあるのです。

 肉体が有形的に存在するということにこだわっていると、その人を滅することになるのです。肉体が存在することを霊的に理解すると、すぱっと救われるのです。業が果てるのです。カルマが消えてしまうのです。

 だから、人生は自分の見方によって、自分を地獄へ引きずり込むことになりますし、また、神の国に入れる材料にもなるのです。

 とにかく人間は、人間が考えているようなものとは違います。時間は流れています。いつも流れています。時間が流れているということは、肉体も流れているのです。

 肉体は存在しているのではなくて、流れていると考えたらいいのです。一年前も、五年前も同じ自分の肉体があると思えるのです。ところが、一年前の自分も、五年前の自分も存在していないのです。

 時間が流れているように、人間の肉体も地球も流れているのです。ところが、学者は地球ができてから四十五億年も経過していると思う。地球がないのに、なぜ四十五億年も存在していると言えるのかです。

 時間は年中流れています。地球ができた時から流れているのです。その状態がずっと続いているのです。それと同じように、人間の肉体も流れているのです。昨日の自分になぜ執着しなければならないのかと言いたいのです。

 人間は自分がいると思い込んでいるのです。神の教材を真正面から見たら、自分がいないということくらいは分かるはずです。

 今の人間の考えそのものが、業(ごう)にひっかかっているのです。業に押え込まれているのです。業と一緒に考えているのです。だから、自分がいると思い込んでいるのです。考え方が間違っている。考え方をすぱっと切り替えたら、自分はなくなるのです。

 大体、皆様は自分で考える力はないでしょう。空気や水を自分の力で造っているのではない。太陽も風も、塩も砂糖も自分で造っているのではないのに、いつもそれを使っている。

 これはどういうことかと言いますと、神に生かされているからです。なぜ神が生かしているかと言いますと、神が親だから子である皆様を生かしているのです。

 親は子を養わなければならない。親が子を産んだ以上、養わなければならないのです。

 英語にはボーン(born)という言葉と、ビーゴットン(begotton)という言葉があるのです。女親が子供を産むのはボーンですが、男親が子供を産むのはビーゴットンです。

 男女の交わりによって子供が生まれますが、生理現象の結果子供が生まれるのです。生理現象は神ですから、神から人は生まれるのです。

 現世的には母親の胎内から生まれるのですけれど、生理的、根本原理的には神から生まれるのです。だから、本当の親は神です。神が父です。ただこれを自覚したらいいだけのことです。

 自分は神の子であるとはっきり自覚したら死ぬこともないし、死んで裁かれることもないのです。人間は救われるに決まっているのに、自分の心構えが悪いから、勝手に救われない迷路に入り込んでしまうのです。

 近代の学校教育は、人間の魂を全くの泥沼に引きずり込んでしまったのです。これがユダヤ人の政策です。イエスをキリストと信じたくないために、こういう政策を取ってきたのです。

 学校教育という非常に悪いやり方のために、世界中の人間が毒されているのです。皆様は学校教育の悪さをひっくり返すためにどうしたらいいかと言いますと、「清い心と正しい良心と偽りのない信仰」を持つことです(テモテへの第一の手紙1・3)。

 清い心とはピュアーハート(pure heart)です。これが一番大切で、これを持たなければいけないのです。ピュアーハートとは何か。例えば、恋をするとそれだけで非常に純真になるのです。初恋の時は特にそう言えるのです。

 人間には必ず初恋の経験があります。その状態がピュアーハートです。そういう純真な感覚で神に恋をすると分かるのです。

 皆様は神が親であって、皆様は神の子です。これは絶対的な事実です。皆様が信じても信じなくても皆様が神の子であることは、現在皆様が生かされているという事実によって証明できるのです。

 今生かされているということが神の子である証拠です。ここにしっかり立って貧乏揺りもしないようになって頂きたいのです。これがイエスの御名の大原則です。生きているということ、生かされているということは、皆様自身が神の子であることを客観的に証明しているのです。これを信じたらいいのです。

 人間が生きているというのは主観的に生きているのではなくて、客観的に生きているのですから、これを認識することが一番自然です。

 この一番自然のことをしたらいいだけのことです。そうしたら、一度死んで、死んでから裁きを受けることがなくなってしまうのです。

 この簡単明瞭なことを世界中の誰も知らないのです。十字架を負うとはどうしたらよいのか。自分の気持ちを捨てたらいいのです。

 十字架が分からないという人がいますが、自分がそう思っているのです。その気持ちを捨てたらいいのです。どうも神が良く分からない。どうも信じ方が分からないということを、誰が思うのか。自分の気持ちでただそう思っているだけです。

 この気持ちを捨てたらいいのです。イエスは自分の気持ちを全然問題にしていませんでした。イエスは十字架にかかる前に「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の思いのままにではなく、御心のままになさって下さい」と言っているのです(マタイによる福音書26・39)。

 イエスの気持ちはこれです。神に係る大問題でさえも神の方が大変なことになると思うから、この杯は飲めませんと言ったのです。これは自分の気持ちを通そうとしたのではなく、神に対する親孝行のためにそう思ったのですが、それさえもあなたの御心のままにして下さいと言ったのです。

 皆様方はどうでしょうか。もう一つ聖書が分からないとか、信仰が徹底しないと言われるのです。そういうことを一体誰が思うのでしょうか。自分の気持ちにこだわっているから、神が信じられないのです。無条件で十字架が信じられないのです。原因はすべて自分の気持ちです。

 

 イザヤは言っています。

 「牛はその飼主を知り、

 ロバはその主人のまぐさおけを知る。

 しかし、イスラエルは知らず、

 わが民は悟らない」(イザヤ書1・3)。

 

 ロバでも牛でも、皆動物は飼主を知っているのに、人間は飼主を知らないのです。皆様を養っているのは神に決まっています。

 人間を飼っているのは神に決まっています。ところが、人間はそれを全く知らない。自分が自分の力で生きていると思っているのです。天然自然の法則、自然法がなかったら、どうして生きられるのでしょうか。

 自然法を誰が経営しているのか。宇宙を経綸するのは誰なのか。少し冷静に考えたら誰でも分かるはずなのに、分からないという。日本人は本当に馬鹿な国民です。

 純真な気持ちになりさえすれば、神が分かるのです。そのためには清き心と良き良心がいるのです。清き心がまず必要です。

 皆様は神の子ですから、救われるのが当り前です。これは清い心を持てばすぐに分かるのです。純真な感覚で聖書と自己存在を見れば、すぐ分かるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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