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                               父の懐

 

 ヨハネは次のように言っています。

 「私たちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられた。律法はモーセを通して与えられ、恵みと誠とは、イエス・キリストを通して来たのである。

 神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる神だけが神を現わしたのである」(ヨハネによる福音書1・16~18)。

 

 イエスが主であるということはどういうことか。私たちの生涯を通して、これだけを学ぶのが目的です。

 十六節に、「私たちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、恵みに恵みを加えられた」とあります。これは英訳でみますと、イエスに満ちているそれから、すべてのものを私たちは受けたのだとなっています。つまり、イエスに満ちているものから私たちは受けているのです。

 イエスにどういうものが満ちているのか。また、なぜイエスだけに満ちているのか。また、私たちがイエスに満ちているものから受けて、私たちが恵まれるとはどういうことか。

 イエスが恵みに満ちている。満ち満ちていると言っていますが、イエスに満ちているというより、イエス自身がフルネス(fullness)であるのです。イエスがフルネスであるというそのことから、私たちは受けるのです。イエスが満ち満ちている。恵みに満ちているというそのことの意味が、まず分からなければいけないのです。

 イエスはどうして満ちているのか。キリスト教的に言えば、イエスは神の一人子だから、恵みに満ちているのだという考え方になるのです。これが根本的に間違っている訳ではありませんが、そういう考え方をしていますと、イエスに満ちているその恵みを私たち自身のものとすることが、なかなか難しくなるのです。

 イエスと私たちは、本来同じものです。どのように同じなのかと言いますと、まずイエスは神の言(ことば)です。御子です。神の光そのものです。

 神の光そのものである御子が、一人子として生まれたのですが、世の基を置かないずっと前に生まれたのです。「すべての造られたものに先立って生まれた方である」と、パウロは言っています(コロサイ人への手紙1・15)。すべてのものに先立ってということは、天使長ルシファーが造られる前という意味です。

 まず神がありたもうた。神がありたもうたとほとんど同時に御子が生まれたのです。御子はルシファーより先に生まれていたのです。光が生まれていたのです。

 天使長ルシファーが天使長として立てられた時に、神の光であり、神の言でいますところの御子が、ルシファーと共におられたのです。だからこそ、天使長は天使長としての力を持つことができるようになったのです。

 御子というお方は、神の栄光そのものです。へブル人への手紙をみますと、「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である」と書いてあります(1・1)。

 神の本質の輝き、響き、力そのものを代表するお方が御子、一人子です。いや先に生まれた一人子はそういうお方です。

 ルシファーを天使長として神が用いることになれば、それだけの力を与えなければ仕事ができません。神の代理者として、宇宙を治めるだけの力を彼は持たねばならない。与えられなければならないのです。

 そこで、御子たる者が天使長に遣わされたのです。御子というお方はそういうお方であって、神の懐だけにおられたのとは違うのです。天使長の所にもおられたのです。非常に苦労しておられるお方です。

 御子はルシファーの元に遣わされた。それによってルシファーが天使長になれたのです。

 これは口で言えば簡単ですが、その内容はとても私たちの頭で想像できるようなことではありません。御子が父の元を離れて、ルシファーの所へ遣わされて、そうしてルシファーの意志に従って御子が働かなければならないことになったのです。

 御子としては最初は良かったかもしれませんが、ルシファーがだんだん逆性的になっていった。その時点において、非常に苦労されたに決まっているのです。

 神の一人子であるお方が、ルシファーの所へ遣わされた。そのルシファーの中に逆性の兆しが出始めたのです。そうして、ルシファーが父に逆らうようなことを考え始めた。そういうことを通して、御子は非常に苦労されたに違いないのです。

 御子が苦しまれた。父の一人子がルシファーの中に芽生え始めた逆性によって、ある場合には、父の御心ではない方向に御子が働かなければならなくなったからです。

 父が御子をルシファーの内に遣わされたのですから、ルシファーと共に働くということが、その時点において、御子が勝手にやめる訳にはいかないのです。

 父の御心は絶対ですから、御子自身の本性に合わないような働きであっても、無理やりそうさせられて悪魔に服従させられるというような、ひどいめに合わざるを得なかったに違いないのです。

 そうでなければ、ルシファーの中に逆性が発生する理由がなかったのです。もし御子がルシファーの中におられなかったら、ルシファー自身の中に逆性が発生するはずがなかったのです。

 分かりやすく言いますと、皆様の中に言(ことば)がなかったら、つまり理性がなかったら、皆様は腹を立てたり、人を恨んだり、悲しんだり、悩んだり、または、喜んだり、楽しんだりできるはずがないのです。

 皆様の中に御子がおいでになればこそ、喜怒哀楽の感情が働くのです。それを、皆様は自分が喜んでいる。自分が悲しんでいると考えているでしょう。しかし、それは御子の業であるということです。これがルシファーの中に逆性が発生した当時の状態です。それを今、皆様が経験しているのです。そうして、自分の肉性によって自分の内にいます御子を苛めているのです。

 例えば、人を恨む、焼きもちをやく、つまらないことに悲しんだり、ちょっと病気になったら暗くなったりして、御子を苛めているのです。

 思い悩むこと、つまらないことに暗くなったり、喜んだり、恨んだりする能力の根源は何かと言いますと、人間に与えられている神の栄光です。

 

 聖書に次のように書いています。

 「人間は何者だから、

 これを御心に留められるのだろうか。

 人の子が何者だから、これを顧みられるのだろうか。

 あなたは、しばらくの間、

 彼を御使いたちよりも低い者となし、

 栄光と誉れとを冠として彼に与え、

 万物をその足の下に服従させて下さった」(へブル人への手紙2・6~8)。

 

 人間を御使いたちよりも低く造って、これに栄光と誉れとを冠らせたと書いています。栄光と誉れとは御子のことです。御子が神の栄光です。神の栄光が人間に与えられている。それと同じように、ルシファーにも与えられていたのです。

 そして、ルシファーが淵の表にあった。ルシファーが淵という現象に、しがみついたのです。ルシファーはそういうことをしたのです。

 その時、御子は非常に苦しんだのです。ルシファーの中にあって、ルシファーに苦しめられたのですが、御子が自分からルシファーから出ていく訳にはいかなかったのです。父の御心だから、しょうがない。じっと我慢しておられたのです。

 その時点において、御子はさんざん苦しんで、訓練をお受けになったに決まっています。この間だけでも、何億年、何十億年という長い時間を、苦しみ続けておられたのです。

 今皆様の中にいたもう御子も、そのように苦しんでおられるのです。皆様の中にある、いと小さきキリストの兄弟が御子です。御子がいなければ、考えたり、計算したり、記憶したり、推理判断したりできないのです。できないのに、御子を肉の思いで、さんざんこき使っているのです。それと同じように、御子はルシファーの中で、さんざん苦しんでおられたのです。

 やがて、ルシファーの思いがだんだん明白になって、宇宙の表面に現われてきた。淵の表に定着し始めたので、これではいけないと父がお考えになったのです。

 父なる神が計画を変更なさるということは、よくよくのことです。父は滅多に変更されないのです。神が神であるから、変更されないのです。

 ところが、天使長の逆性がいよいよ明らかになって、それが宇宙の表面を支配するようになってきたので、父なる神はやむを得ず、「光あれ」言わなければならなくなったのです。そして、「闇の中から光よいでよ」と言われたのです(創世記1・3、4)。

 いでよということは、ルシファーの中にある御子に向かって、お前は出てきなさいという命令です。それを言われたのです。神は「光あれ」と言われた。すると、光があったというのは、そのことです。

 光が出ていったのですが、暗きはこれを悟らなかったのです。なぜ悟らなかったのかということです。これが意味深長です。皆様もこのことに注意しなければいけないのです。

 皆様は考え、推理、判断、記憶し、仕事をしていますが、それを自分がしていると思っています。これは神の言が、私たちの内に働いているからできるのです。

 そこで、もし皆様の中から、御子が出ていったとします。人間の場合、そういうことは滅多ありませんが、ないとは言えないのです。

 例えば、つまらないことに臍を曲げておかしくなったり、暗くなったりしますと、御子が皆様から出ていくことになるのです。出ていかなければならないことになるのです。

 今、私たちのグループは御霊に導かれています。私たちのグループから出ていくことは、御霊の導きに逆らうことになるのです。

 御子が皆様の中から出て行っても、今まで習った聖書のことを記憶しています。これは消えないのです。自分の魂が経験しています。それが自分の持ち物になっていますから、消えないのです。

 だから、一人でも信仰ができると思うのです。今まで教えられたことは頭に残っています。しかし、それ以上は伸びません。霊的に成長しないのです。

 今まで聞いた記憶を言っているだけです。少しも成長しないのです。自分で御言葉が開かれませんから、少しも伸びないのです。

 御名の福音を聞いて、それを理解した。それはすばらしいと思って、一時は感心した。しかし、臍を曲げて神に逆らった。臍を曲げた途端に、恵みに恵みを加えられることがなくなった。しかし、それまでの記憶が消えた訳ではない。これが、現在の悪魔の状態です。

 暗きはこれを悟らなかったというのは、自分の記憶が消えた訳ではない。御子が悪魔と共にいて、闇の内に御子がおられて、ルシファーがいろいろと経験した。そのすばらしい経験を自分の力で経験したと思っています。だから、自分の中から光が出ていっても、それで自分がだめになったとは思っていないのです。暗きはこれを悟らなかったというのはこういう状態です。

 ところが、実はこれを悟るべき顕著な状態があるのです。なぜあるのかと言いますと、光が闇から出ていった。光と闇とを分けられたと書いているのです。光と闇が分けられた時に、闇はもはや天使長ではなくなったのです。天使長の位を天から追放されて、地に落とされたのです。

 天から追い落とされたとはどういうことかと言いますと、ルシファー自身の観念が固定して、それ以上進歩しなくなったということです。これが地に追い落とされたということです。

 例えば、私たちのグループからに出て行った人の観念は固定してしまいます。それ以上、伸びません。本人はそれに気がついていません。これが暗きは悟らざりきということです。

 自分の能力が一向に減っていないと思っているのです。人間の力は減っていないというだけではだめです。毎日、増えていかなかったらだめです。増えていかないということは、減っているということです。

 「手習いは坂に車を押すごとし、油断をすれば後に戻る」というのです。皆様の霊調が、毎日毎日、前進していないということは、減っているということになるのです。

 御霊を受けたことは受けた。しかし、御霊を崇めないで、疎かにしている、世間並みにしている。腹を立て、人を恨む。そうすると、御霊を受けた状態からずるずると落ちているのです。前進していないのです。

 前進していないということは、落ちることです。ところが、本人は御霊を受けたと思っているのです。受けたことは受けたが、落ちているのです。それに気がつかない。これが暗きはそれを悟らざりきということです。

 悪魔は天から追い落とされて、肉の思いで固まってしまったのです。固まってしまったということが、神から捨てられたということです。しかし、彼は自分の記憶があるために、かつて御子が自分と共におられ、その時に彼は神と交わることができたということを覚えているのです。

 その時の記憶に基づいて、今でも神と交わりはするのです。神の前にどんどん出ていって、神に訴えるのです。訴えるのですが、御子が共におられた時のように自由闊達に神の御心を知ることが全くできなくなっているのです。

 注意して頂きたい。皆様もこうなる危険性があるのです。自分の力でしていると思ったら大間違いです。

 自分の力で聖書が分かっている、自分が御霊を受けたと思っているのは大間違いです。グループに留まりたもう御霊のおかげです。グループから離れた途端に、御霊の働きはぴしゃりと止まります。

 御子はルシファーの中におられた時に、苦労をしておられたのです。そこで、恵みが満ちたのです。ルシファーの中でさんざん苦労をされたので、神は御子に満ち満ちた恵みを与えたもうたのです。

 とりあえず与えられたのではありません。御子だから、ただで恵みを与えられたのではないのです。神はそんな依怙贔屓(えこひいき)はなさらないのです。御子でさえも理由がなければ、神は恵みを与えたまわないのです。

 私たちもこの世に遣わされて、肉の中に住まわされて苦労している。そのおかげで、現世において恵みを与えられるのです。そのように、御子もまた、ルシファーの中で苦労をしておられたのです。

 そこで、神は「光よ現われよ。光よいでよ」と仰せになったのです。その時、御子が闇の中から引き出されて、御子に恵みが与えられたのです。これが十六節に出ているのです。

 御子が神の恵みに満ち満ちているのは、かつてルシファーの中におられて、さんざん苦労されたからです。そういう意味で、御子は悪魔のことをよく知っておられるのです。悪魔の腹の中におられたからです。悪魔のやり口をよく知っておられるのです。

 現在、皆様はそれをしているのです。肉の思いがどんなものであるかをよく御存じです。知っているどころか、肉の思いの大将になって、思い煩って、臍を曲げて、暗くなる名人です。悪魔も顔負けするくらいの名人です。

 それに私たちは勝つのです。御子は悪魔と共におられたが、光が闇に負けたことはないのです。闇の中に闇と共におられても、光はいつでも絶えず光は光であったのです。

 そこで、光あれと言いたもう時に、御子に恵みが加えられたのです。やがて、皆様も光あれと言われるでしょう。これが携挙(けいきょ)です。この世を去る時です。この世を去る時には、「現世での仕事はすんだ、だから、私の所へ帰れ」と神が言われるのです。

 その時、皆様はこの世を去る時に、天へ凱旋するのです。神の元へ帰って再び苦労しなくてもいいように、御子と同じように、第三の天に座することを許されるのです。

 私たちは現世にいる間、喜んで苦労したらいいのです。パウロが「すべての艱難を喜びとする」と言ったように、どのようなことも恐れる心配はないのです。いつでも心は明るくあればいいのであって、やがて皆様は御子に恵みが満ちあふれたように、皆様もそうなるに決まっているのです。この世を出たらそうなるに決まっているのです。

 私たちの魂は本来、御子です。私たちの魂がこの世にいるということは、御子が闇の中に住まわせられたように、御子が私たちよりも一歩先に闇に住まわせられていたのです。

 そういう経験を持っておられた御子が、もう一度人間としてこの世に下られたのです。今度は肉体を持って下られたのです。

 前の時には肉体がなくて、霊として闇の内におられたのですが、今度は肉となって、この地上に下られたのです。これが言が肉となって、私たちの内に宿ったということです。それをヨハネが見たと言っているのです。

 御子は一回は霊において暗きを経験し、もう一回は肉において暗きを経験されたのです。そういうお方が私たちの救い主です。そうすると、皆様を完全に救えるのです。

 霊的な意味での暗きに勝った。肉的な暗きにも勝った。完全な勝利です。御子はそういうお方です。恵みに満ち満ちているということはそういうことです。

 

 パウロは次のように述べています。

 「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして、僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも、十字架の死に至るまで従順であられた。

 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。

 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が『イエスは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ人への手紙2・6~11)。

 

 現世に罪人の形をとって地上に下ることを父から命じられた時に、神と共にあることを捨てがたきこととは思わずに、それを固く保とうとはしないで、父の仰せのとおりに罪人の形をとって、地上に下りたもうた。これは本当に御子でなかったらできないことです。

 そういうお方が皆様の夫です。ちょっと上等すぎるのです。皆様もそれに適うものだと思って頂きたいのです。

 今の自分のことを考えると、とても釣り合わないのですから、自分自身の本性は御子と同質のものであると思って頂きたいのです。

 私たちは神から来たのです。現在、神によって生かされています。やがて、神に帰るのです。ローマ人への手紙の第十一章三十六節でパウロが言っているとおりです。

 人は神にかたどって、神の形のように造られている。これが神の栄光そのものです。神の栄光とは、神の言葉のことです。御子のことです。私たちは御子でした。御子である神の栄光が、地上に遣わされたのです。

 そのことがらをよく心得て、自分の思いではなくて、神の御心で生きるのです。「父の御心を行う者は天国へ入る」とイエスが言われたように、自分の思いでなくて、神の御心で生きるのです。

 自分の思いで生きないで、父が今訓練しておられるのだということを弁えた人は、神の元に帰することが考えられるのです。

 十七節になりますと、「掟はモーセを通して与えられ、恵みと誠はイエス・キリストを通して来た」とあります。掟は与えられたのであり、恵みと誠は向こうからやってきたのです。

 イスラエルは掟が分かっていません。掟は与えられたものです。何に与えられたのかと言いますと、肉体的に存在する人間に神が与えたものです。

 与えられたというのは、求めたから与えられたのです。やってきたというのは、求めないのにやってきたのです。

 恵みと誠を人間は求めていないのです。求めなかったのです。

 ところが、掟の方は求めたのです。なぜそんなことをしたのかと言いますと、ユダヤ人は神自身が治めるか、掟を守ることによって神に仕えるか、どちらがよいかと言われた。神自身に睨まれたら煙たいので、掟を守る方にして下さいと言った。こういう愚かなことを言ったのです。それで掟が与えられたのです。掟を守る方が気楽だと思ったのです。

 ところが、反対です。神の御顔の前にいる方が楽です。アブラハムは「汝わが前に歩みて全かれ」と言われた。アブラハムは神の御顔の前にいたのです。

 イスラエルは神の御顔を見ようとしなかった。掟を行おうとしたのです。掟は神の影です。御顔を仰ごうとしないで、神の影で自分の肉性が生かされる余裕があると考えた。これは大変な考え違いです。

 掟は一体何かと言いますと、肉体的に存在する人間は、すべて女性であり、掟は夫です。モーセの掟は肉体を持っている人間に対する夫の役割を演じているのです。

 神自身に治められたいと願うなら、神自らが夫になってくださるはずでしたが、それをお断りして、掟を夫にしたいという注文を出したのです。これは旧約聖書の出エジプト記、申命記に書いてあります。ユダヤ人が注文したと書いているのです。

 皆様が今仕えている夫も、皆様自身が注文したのです。結婚したいと思った。そう思って、結婚したのです。人によって事情が違いますが、ある男性と一緒になることを承知したから、一緒になったのです。それが皆様に対して掟になったのです。

 肉体を持つイスラエルがモーセの掟に従わなければならなかったように、肉体を持つ女性は、夫に従わなければならない義務があるのです。絶対的な責任があるのです。どんなに従いたくない夫でも、夫が肉体的に存在する女性に対して掟になっているのです。夫はお前を治めるであろうと言っているのです。

 夫に治められるのが女性の運命です。どんなに厄介な夫でも、それに従うのが皆様の運命です。女であることの運命です。夫であることがキリストであるということです。

 良くても悪くても、夫の考えに従わなかったら、それに同意できなかったら、その人は女性として自らを完成することができないのです。

 女性はそれができると、一変に楽になるのです。夫に従うという度胸をはっきりすえると、女性の霊魂の責任は男性に移ってしまうのです。そうすると、女性は楽になるのです。

 皆様は完全に夫に従おうとしないから、いろいろな形で重荷を背負うことになるのです。暗くなる原因も心が動揺する原因も、よく考えてみますと、皆様が夫に従っていないからです。必ずそうなっています。

 そんなことはないと言っても、自分が自分を弁護しているだけです。神から見れば、そうなっているのです。

 そうすると、女性は夫には従わなければならないし、聖書を信じなければならないから、二重の損だと思うでしょう。そうではないのです。夫そのものがキリストですから、それに従う決心さえすれば。皆様の霊調はどんどん伸びるのです。

 女性の魂の責任は夫が持たなければならないのです。これは宇宙の鉄則です。

 これを不合理だと考えるのは、女性の中にいる悪魔がそう考えるのです。ユダヤ人は掟が守りにくい。本当に守りにくいと考えた。これはユダヤ人の中にある悪魔がそう思っているのです。

 現在の全世界の人間に対しては、イエス紀元が夫になっているのです。キリスト紀元が夫です。日曜日に仕事を休むことが夫です。

 ユダヤ人問題が全世界の夫です。ユダヤ人が大将でなければ、人間文明が展開しないということが、人類全体の夫です。

 私たち異邦人は、夫のために祈っているのです。イスラエルは皆様の夫です。私たちの夫です。

 私たちは人間的にイスラエルに反抗しているのではない。ユダヤ人を迫害しているばかな国民がいますが、そんな人は夫に抵抗している妻みたいなものです。

 白人はそれをしているのです。だから、白人は絶対に千年王国の中心にはなれません。

 幸いにして私たち日本人はユダヤ人を迫害しなかったのです。むしろ、ユダヤ人を助けたのです。これは幸いです。本当に幸いです。だから、むちゃくちゃな夫を愛することができる。むちゃくちゃなユダヤ人を愛することができるのです。

 皆様は目に見える夫を愛して頂きたい。尊敬して下さい。そうしなければ、皆様の霊魂は本当に目を開くことはできません。霊魂の目が開かなければ、心は幸せになれないのです。

 なぜ自分を捨てて十字架を信じることができないのでしょうか。夫に惚れていないからです。夫を尊敬していないからです。完全に夫に仕えていないからです。夫を裁いている、あるいは、見下している。心の中で不満に思っているからです。掟に反抗しているからだめです。

 肉体を持つ人間に掟が必要であるように、肉体の女には男が必要です。男性の性器は命のシンボルです。女性は男性の性器を持っていないからです。これは当たり前です。だから、皆様は命を慕うという意味において、どうしても男性が必要です。

 男性なしに直接キリストに結びつく人もありますが、それはその人の業の深さによるのです。業の深さによって、夫なしにキリストを直接信じることができる人もいますが、その人は人間的には大変不幸です。霊的には幸せですが、人間的には大変不幸な状態になっているのです。

 皆様が誰かの妻であるというのは、それだけ世間で威張っていられるのです。そのかわりに、霊的には難しいのです。独身でいる人は、世間では威張れません。そのかわりに、霊的には楽です。神は公平です。誰も威張る必要もないし、臍を曲げることもないのです。これが掟と恵みの関係です。

 掟はモーセによって与えられた。恵みと誠はイエス・キリストによって来ました。このことをよく考えて頂きたい。

 人間の肉体にはどうしても掟が必要です。女の肉体には掟がいるのです。

 恵みと誠は魂に対する神の処置です。これは神が責任を持って、神の方から恵みと誠を下さったのです。これは人間の霊魂に対しては、キリストご自身が夫でありたもうからです。

 人間がそれを知っても知らなくても、人間がそれを信じても信じなくても、人間の魂はすべて神の妻です。キリストの妻です。そこで、キリストの方から恵みと誠を人間が求めないのに、与えて下さるのです。これがキリスト紀元です。イエス紀元の新約時代です。神の方から人間の方へやってきた。これは霊魂に対する神の処置です。

 掟はモーセによって与えられ、恵みと誠はイエス・キリストによって来たという言い方は、本当にすばらしいことです。こういう人間存在をよくよく考えたらいいのです。

 しかもなお、皆様が女であるということは、皆様自身が決めたことではないのです。神が決めたことですから、夫に従わなければならないと考えなくてもいい。ただ心を明け渡したらいいのです。そうすると、女であることの方が、男であることよりも、ずっと楽であることが分かるのです。ただ従いさえすれば楽なのです。

 イスラエルが掟を守るとどうなるのか。掟を守るということはどういうことなのか。例えば、モーセの掟を守るということは、人を殺してはいけない。嘘を言ってはいけないということです。これは何を言っているのか。それを守るとどんな効能があるのかです。それはすばらしい秘密があるのです。非常に深い秘密ですが、これが人間には分からないのです。

 人が掟を守る。また、夫を心から敬愛して仕えますと、なぜそうしなければならないかが分かるのです。行なってみれば分かるのです。行なわないから分からないのです。

 現世で誰もが夫に反抗しているのではありません。中には夫を敬愛し、惚れている人もいます。そういう人の顔は明るいのです。暗い顔をしている時には、夫に背いているに決まっているのです。

 夫に従っている時は、いつも幸せそうです。女性は正直です。夫に従っている時は、いつも心が平和です。だから、従っていない時は、必ず波風が立っています。自分で自分のことを考えたらすぐ分かります。

 人間が掟に従っている時は、心がいつでも平和です。なぜ平和になるかです。モーセの十戒を行なうとなぜ心が平和になるのか。これは神の御心を行なうからですが、それがそのまま魂の願いでもあるのです。

 イスラエルは掟を行なっているように見せかけて、反抗しているのです。ユダヤ人はそうしているのです。掟の精神を知らないからです。

 掟の講釈ばかりをしているのです。何のために神が掟を与えたのか。ユダヤ人は分からないのです。掟の説明ばかりしているのです。それは掟を守っているような顔をして、守らずにいようという気持ちがユダヤ人の中にあるからです。掟を本当に守る気持ちがないから、掟の説明ばかりしているのです。

 恵みと誠は向こうからやってきました。これは心を聞いて受け取りさえすれば、すぐに分かるのです。この意味では掟よりは簡単です。

 ところが、心を開くということができないのです。神の恵みを素直に受け取ればいいのですが、なかなか難しく思うのです。なぜ難しく思うのかと言いますと、掟を行なうのは、肉体的に生きている人間が行なえばいいのです。

 女性は肉体的に生きている自分が夫に惚れたらいいのです。簡単です。ところが、恵みと誠は違います。今肉体的に生きている男性が、恵みと誠を受け取ってもだめです。ここが難しいのです。

 恵みと誠は受け取ったらいいという意味では簡単ですが、肉体を持っている人間が受け取ってもだめです。霊において受け取らなければいけないのです。十字架を通して一度死んでしまわなければ、恵みと誠は受け取れないのです。

 それを肉体を持っている自分が恵みと誠を受け取ろうと考える。これが間違っているのです。

 そうすると、どちらが難しいのでしょうか。肉体を持っている人間が守れる掟がいいのか。肉体的に生きている人間が否定されなければ、受け取れない恵みと誠の方がいいのでしょうか。掟と恵みのどちらがいいのでしょうか。なかなか分からないのです。

 肉体的に生きている自分が恵みと誠をもらおうと考える。そうは問屋が卸さないのです。肉体的に生きている人間は、神に対して掟を守らなければならないのです。肉体的に生きていないとはっきり言える人間は、掟に関係がない。直接恵みに関係があるのです。どちらがいいのでしょうか。

 妻から見ると、夫はいいものです。しかし、また、悪いものです。これほど悪いものはないのです。夫に惚れて慕うことになれば、自分の命よりも尊いお方です。ところが、気持ちがずれてしまうと、親の仇よりも憎いのです。不倶戴天の仇のように思えるのです。

 本当に自分の命よりも尊い人になるか、自分の仇よりも憎いものになるのか、どちらかです。これが夫です。

 女は本当に幸せになりたいと思ったら、ただ夫を慕うだけでいいのです。そうすることが、女にとっての十字架です。十字架を真正面から受け止めなければならないのは、男の方です。

 女にとって十字架は、夫を慕うことです。ただ服従するだけではだめです。心から夫を慕うのです。心から惚れるのです。恋慕うのです。難しいですが、服従しているだけではだめです。喜びがありません。

 十八節には、「神を見た者はまだ一人もいない。ただ父の懐にいる一人子なる彼だけが、神を現わした」とあります。

 父の懐にいる彼だけが、神を現わしたとはどういうことか。イエス・キリストというお方は、かつて闇の懐にいたのです。今は父の懐にいるのです。闇と光の両面が完全に分かっているお方です。

 父なる神というお方は、父なる神であって、この方は闇のことはもちろん十分にご承知ですが、闇の懐におられたのではないのです。父なる神が悪魔の懐にいるはずがないのです。

 父なる神は何処までも造り主です。完全無欠のお方が神であって、完全無欠というのは、一つの条件があるのです。影があるというのが条件です。

 「ある」というもの、「存在」には影がなければならないのです。現在、皆様がご存知のものの中で、影がないものが一つでもあるのでしょうか。

 実は空気でも影があるのです。風でさえも影があるのです。人間の目で見えるような影ではありませんが、風でも空気の在り方においての影があるのです。

 太陽光線には影がないように見えますが、やはり影があるのです。太陽光線をプリズムで分けますと、七色に分かれます。これは影がある証拠です。

 そのように、「ありてある」お方の影が現われているのです。「ありてある」というお方、「存在」そのもののお方にも、また、影があるのです。

 影があるから完全です。影がなければ神とは言えないのです。

 人間がどんなに金持ちでも、死の影がつきまとっているのです。

 「この夜をば わが世とぞ思う望月の かけたることもなしと思えば」という藤原道長の有名な歌があります。宇治の平等院を造った道長です。

 望月というのは満月です。自分の生活も地位も、満月のように丸い。欠けたる所がないという程、藤原道長は自分の人生に満足していたのです。

 しかし、やはり死が恐ろしかった。そこで、宇治の平等院を造って、極楽の模様を平等院の天井に書いたのです。極楽浄土をそのまま自分の住まいにしたかったのです。やはり、自分の心に影があったのです。

 全知全能の神ご自身にも影がある。影がなければ、神ご自身の全知全能を全能として現わすことができないのです。影がいわゆる闇です。

 神はご自身の一人子をご自分の影の方へ、ちょっと遣わされたのです。闇に遣わしたのです。今は闇は神に背いています。しかし、闇がなければ、神の約束は成就しないのです。

 神の全知全能は約束の完成において、完全に成就するのですが、これは闇がとことん神に反抗しているから成就するのです。

 これは八百長ではありません。宇宙の真理です。存在そのものがそういうものです。これについて、理屈を言わずに存在の状態を黙って受け取って頂きたい。皆様の頭ではいくら考えても分からないでしょう。

 影と光との関係、表と裏の関係は一体ではあるが、別です。全く別です。別ではあるが一体です。しかし、何処までも裏は裏、表は表です。

 「汝わが前に歩みて全かれ」と神はアブラハムに言われた。神は前から拝むべきものです。後ろから拝んでも仕方がないのです。

 神を見たものは一人もいない。一人子の神だけがこれを現わした。一人子の神は父の懐におられたから、これが分かったのです。父の懐にいれば、父が悪魔に対してどういう気持ちを持っておられたかが、十分に分かっているのです。

 なぜ父が遠慮しておられるように見えるのか。そのことをイエスは十分に知っていたのです。

 父が遠慮しておられるのではない。悪魔が悪魔でなければ、神が神ではないことを、イエスは知っておられたのです。父の懐におられたからです。

 イエスになられた神の御子は、かつて悪魔の懐におられたのです。今は昇天されて、父の懐におられるのです。第三の天において、父の懐におられるのです。

 その前に、彼が地上におられた時にも、肉体的に生きているという状態で、父の懐を知っておられたのです。

 神は肉体を持っていないと言いますが、これは正確ではないのです。なるほど、父なる神は肉体を持っておられない。しかし、子なる神として肉体を持っておられるのです。

 父の懐にいるお方が、肉体的にはっきり人間生活を経験しておられた。このことは、肉体的に生きているとはどういうことかを、神ご自身が御子を通して経験されたということになるのです。

 一人子の神が、人としてこの世に現われた。これは神ご自身が肉体的な意味での経験をするためであった。父自らが人となりたもうことはできない。また、そうする必要もないのです。

 生みたまえる一人というのは、父ご自身とは寸分違わないお方です。ただ位が違うだけです。父なるお方と子なるお方という位があるだけであって、本質は同じです。従って、子なるお方が肉体をとって現われたということは、そのまま父なる神の経験になるのです。

 そういう形で、父なる神も自ら御子を通して、肉体を経験されたということが言えるのです。

 これは、父と御子と御霊が一つになって、父ご自身の影を変えて、新しいものにされた。つまり、影が働いたことによって、神の約束が具体的に発動したのです。

 もし逆性が宇宙に発生しなかったら、神は約束を立てる必要はなかったのです。逆性が働き出すことによって、約束が立てられた。これが発動するチャンスとなったのです。

 結局、影が作用したために、新しい天と地が生み出される原因になったのです。

 私たちも罪人としてこの世に送られたから、すべてを治める力を与えられる可能性ができたのです。

 もし私たちが罪人でなかったら、万物を治める程の知恵と力を自分自身のものにすることはできなかったでしょう。ここに、罪のある所に恵みの光も差し込んでいるという原理があるのです。

 だから、業が深かろうが、自分がつまらない者に見えようが、そういうことを思えば思えるほど、与えられた恵みの深さ高さを、大いに期待すべきです。

 地面がくぼんでいる場合、くぼみが大きければ大きい程、たまる水も多いに決まっています。そのように、悪いことが大きければ大きいほど、恵みも大きいと受け取ったらいいのです。災いを幸いに変えたらいいのです。

 そのよう考えると、非常にのびのびと生きることができるのです。この世においてつまらない自分が生きていると思っていても、つまらないことが多ければ多いほど、増々神の恵みも多く理解できることになるのですから、つまらない自分であることに感謝したらいいのです。

 イエスは悲しみの人としてこの世に出てきた。誰が父親であるか、普通の人には分からないような状態で、この世に出てきたのです。

 これは最も業が深い状態です。皆様とは比較にならないほど、業が深かったのです。父親が誰であるか分からない状態でこの世に生まれてきたのですから、本当に業が深いのです。

 その業の深さを耐えて耐えきって、ついに一番すばらしい恵みを神から勝ち取ることができたのです。

 ですから、私みたいな者はと、決して思ってはいけないのです。そういう人間だからこそ、神からすばらしい恵みを与えてもらえるという可能性の方に目をつけたらいいのです。

 現在の自分より、よりすばらしいものを与えられるという可能性を見つけることは、恵みという言葉になるのです。

 「信仰と望みと愛の三つは一つである」とパウロが言っていますが、望みというのは可能性のことです。可能性は自分自身の現在の状態が悪ければ悪いほど、可能性がすばらしいものであることになるのです。

 イエスが肉体をとって現われた。このことは、神が人として人間存在を経験されたということです。これを反対に言いますと、人間存在が神を経験することができるという道が開かれたということになるのです。

 神が人となったということは、人が神になれる可能性が開かれたということです。これは絶対的な可能性です。これが一人子が地上に来られたということです。

 今、地上にいる私たちは一人子が地上におられたことを鏡にして見るなら、自分自身の望み、可能性がどういうものであるかが、簡単に分かるようにできているのです。

 ナザレのイエスが神の生みたまえる一人子であって、肉体をとられたお方であったということが分かれば、私たち自身が神の御子として待遇される可能性があることは、簡単に分かるのです。この簡単なことを信じるのです。自分の思いを信じてはいけないのです。

 人間は自分の思いにすぐに取りつかれるのです。そうして、何か自分がいじめられているような、ひがみ根性を持つようになるのです。

 「自分の思いを信じるな」とイエスはいつも言われたのです。イエスが現世に出てきて、いつでも悪魔と戦って勝った秘訣はこれです。ただ自分の思いを信じなかった、これだけなのです。

 もしイエスのような運命の人が、自分の思いを信じたら、とても悪魔に勝つことはできなかったでしょう。ナザレの村に生まれて、ああいう運命の元に生まれてきたことを、世間から何と言われたのか。自分が生まれたことによって、母親が何と言われたのか。また、父親が何と言われたのか。それを、イエスは耳で何回も聞いていたはずです。

 自分が生まれたことが、両親にまで甚大な迷惑をかけていることを、イエスは直感できたに違いないのです。自分が生まれたことによって、父親や母親がどれだけ迷惑をこうむっていたかということです。

 イエスの両親は悪い人ではなかったのに、そのように取り扱われていたのです。聖書にはそのように書いていません。マリアは非常に恵まれた人だと書いています。神から見ればそうなりますが、人から見れば、正反対です。マリアは最も軽蔑されるべき人であったとなるのです。

 人間が見ている自分と、神が見ている自分とでは、全く逆になるのです。

 ですから、自分の気持ちですぐ暗くなりやすいということでも、決してひがむ必要はない。ひがまなければならない理由があっても、それは恵みに変えてもらえる資格だと思えばいいのです。ひがみ根性が強い人間ほど、恵まれる可能性が大きいと思えばいいのです。

 イエスが父の懐にいたとは、どんな状態だったのでしょうか。昔は赤ん坊を背中におんぶしないで、胸のところ、つまり、懐に入れていた人がたくさんいたのです。平安朝の時代にはそうでした。

 働く女性は背中におんぶをしたのですが、あまり働かない上流家庭の人は、懐に入れたのです。牛若丸が常磐御前の懐に抱かれている絵が描かれていますが、その時代の風俗としては当たり前のことでした。

 「ヨハネがイエスの胸にもたれかかった」と聖書にありますが、日本のように儒教的な礼儀作法をやかましく言う民族では考えられないことですが、イスラエルでは決しておかしくない風習でしょう。

 ヨハネがイエスの胸にもたれかかっていたという状態が、父の懐にいると言えるのです。皆様もそれをしたらいいのです。

 一切の警戒心を持たない。自分を守ろうという思い、ひがみ根性を持たないのです。イエスは父の懐にいて、この世で生きておられたのです。だから、父を信じることができたのです。皆様も父の懐にいるような気持ちで信仰できなかったら、とてもイエスを信じることはできません。

 自分は物を知らないとか、人より劣っていると思えたら、却って、父が恵みを与えて下さる原因であると思ったらいいのです。そういう厚かましい考え方をするのです。

 ひがむよりもずうずうしく考えたほうが、その人を神が愛するのです。

 心を尽くして神を愛することが一番必要です。心も尽くして神を愛するというのは、神に対して絶対に警戒心を持たないのです。自分の運命を呪ったり、生まれ性を悔やんだりしないのです。

 信仰を妨げるという意味では、ひがみ根性が一番悪いのです。何よりも悪いのです。

 ひがむというのは、神を警戒することです。神に近寄ろうとしないのです。だから、一番神に敵することになるのです。

 生まれ性が悪い癖になっているのです。これが業(ごう)です。この業を果たすのです。つまり、現世に生まれてきた自分が死んでしまうのです。そうしなければ、救われないのです。理屈に合おうが合わなかろうが、結局、救われなかったら負けです。どんなに自分が立派で正しいと思っても、キリストを信じなかったら、結局負けです。

 死ぬのが嫌なら、地獄へ行くのが嫌なら、ひがむのをやめなければしょうがないのです。

 イエスの生き方、やり方が、父なる神をそのまま現わしているのです。神を現わしたのは、一人子であると言っています。神ご自身の本当の姿、本当の御心を現わしたのは、一人子だけである。だから、イエスがこの世で生きていたその生き方を、そのまま自分がなぞっていくのです。イエスの生き方を下敷きにして、その上に自分の生き方を載せていくようにするのです。

 現世で損をしようが得をしようが、どうでもいいのです。損をすればするほど儲かるのですから、人からも自分自身も損をしたと思えば儲かるのです。ところが、損をしないでおこうと考える。その結果、自分を滅びに追いやってしまうことになるのです。イエスのように父の懐に入ろうとしないからです。

 どんなに悪い人間でも、父の懐に入ったらいいのです。父の懐に飛び込んだらいいのです。横着と、本当に神に頼るということは、非常に似たところがあるのです。

 イエスは決して横着ではなかった。どこまでも父の懐にいたのです。自分の悪いことも、つまらないことも、疑われたり、悪口を言われていることも、全部承知の上で、父の懐に転がり込んだのです。父の懐にいるから、叱りようがないのです。

 「窮鳥懐に入れば、猟師もこれを撃たず」と言います。鳥を追いかけている猟師が、その鳥を見つけて殺そうとしたら、その鳥が怪我をしながら、漁師の懐に飛び込んでしまった。そうしたら、その鳥はもう殺せないのです。

 「窮鳥懐に入れば、猟師もこれを殺さず」です。ましてや、愛なる父です。父なる神の懐に飛び込んだら、もう勝ちです。

 惚れるというのはそういうことです。キリストに惚れるというのは、キリストの胸に転がり込むのです。それをしないで、じっと眺めているからいけないのです。

 自分がいいとか、悪いとかということではありません。懐に入ることがいいのであって、自分が良くても悪くても関係はないのです。懐に入らなかった負けです。いくら悪くても懐に入ったら勝ちです。

 イエスは父の懐に飛び込んでいたので、神が万物を生かしている意味が良く分かったのです。何のために牛や馬がいるのか。何のために犬や猫がいるのかが分かったのです。

 他人がどういう気持ちを持っているのか。ユダヤ人はこれからどうなるのか。そういうことについて、父の御心がイエスには手に取るように分かったのです。この病気は治るのか治らないのかということまで分かったのです。

 皆様がどうしても聖書が分からない。神が分からないというのは、父の懐に入っていないからです。簡単です。心が暗くなったり、心が淋しくなったりするのは、父の懐に入っていないからです。

 もし心淋しい気持ちになったら、父の懐に入って下さい。何か今日はもう一つ神と自分が接近していない。神と自分との間に厚い壁があるような気持ちがすると思うのでしたら、その気持ちを信じるのをやめたらいいのです。

 私がどう思おうが、私の心臓が動いていることが父です。これが分かれば、父の懐にいるのです。

 目が見えることが、神の御霊の働きです。そうすると、私と父はインマヌエルです。インマヌエルになら、私の気持ちが暗かろうが、悲しかろうが、淋しかろうが、関係がないのです。私の気持ちを捨てたらいいのです。

 イエスの真似をして、私は父と一緒にいると思ったらいいのです。そう決めたらいいのです。

 自分の気持ちを捨てる。これだけでいいのです。生かされていることが神です。父です。生かされているという事実があったら、その中へ転がり込んだらいいのです。これが父の懐です。

 十八節に、「父の懐にいる一人子なる神だけが、神を現わした」とあります。父の懐にいたということが、一人子なる神ということです。神と一人子が別々にあったのではない。懐にいたということが神です。父と自分とを分け隔てをしていない。父と自分を一つとして見ていたのです。

 肉体を持っている人間が肉体を持っている人間を見たら、訳が分からない欠点があるように見えるのです。

 パリサイ人やサドカイ人がイエスを見た時、イエスが全く箸にも棒にもかからない、むちゃくちゃな人間に見えたでしょう。だから、イエスを殺したのです。殺そうと思うのは、よくよくのことです。生かしておけないくらいに悪い奴だと思ったから、殺したのです。少々悪い人間なら十字架につけようとは言わなかったのです。

 皆様の目から見たら、私もそのように見えるかもしれません。私に近い人間ほど、私が信用できない人間に見えるかもしれません。そういうことになりやすいのです。私に近い人間ほど、私が自分勝手で、理屈ばかり並べている人間に見えるのです。

 イエスの兄弟がそう思っていたのです。小ヤコブと言われた人がイエスの弟ですが、イエスが生きている間はイエスの話を全然聞かなかったのです。イエスが昇天してから、ペテロやヨハネに言われて、「兄貴は偉い人だったのか」と思えてきたのです。

 小ヤコブはイエスが復活昇天してから、祀り上げられて、エルサレムの教会の監督になっているのです。そんなものです。

 イエスに近い人間ほど、イエスのしていることが訳が分からなかったのです。これはやむを得ない人間の運命です。肉体を持っている人間はそうなるのです。

 イエスをまともに見ようと思ったら、肉体を持っているという条件を考えたらいけないのです。これを考えるから分からないのです。

 自分が肉体を持っている。イエスが肉体を持っている。これを考えるとイエスが分からなくなるのです。

 言(ことば)は肉となったのです(ヨハネによる福音書1・14)。言が肉となったのであって、言が肉ではないのです。肉という仮の姿をとったのです。

 この世に生まれた人間は、罪人という仮の姿をとって生きているのです。皆様は肉体を持つことによって、罪人という仮の姿を取らされているのです。肉体が本当の自分ではないのです。

 肉体を持つという仮の姿を取らされている状態で、イエスをどのように信じるのかを試験されているのです。それだけのことです。自分の思いを捨てるか捨てないか。肉体的に生きている自分を信じるか信じないかを試されているのです。

 肉体的に生きている自分を信じると、自分が良くて他人が悪いと考えるのです。あの人は嫌いだ、この人は好きだと考える。あの人は善人だ。この人は悪人だと考える。

 善悪利害得失を考えるのは、すべて現象を実体だと考えるからです。

 イエスがこの世に遣わされたのは、人間は実は肉体的に存在するものではない。人間の本性は霊なるものであって、肉なるものではないということを証明するためだったのです。

 そこで、イエスを信じると言いながら、なお肉体的に生きている自分を信じるとすれば、その人はイエスを信じていないのです。

 イエスは肉体的に生きていたが、霊に従って歩んでいた。父の懐にいたということが、霊に従って歩んでいたということです。

 イエスは肉体的に生きていたが、それを自分自身の気持ちに置いていなかった。色即是空をそのまま実行していたのです。イエスは本当に色即是空を実行していたのです。十八節にはそのことが書かれているのです。

 父の懐にいます神の一人子という言い方は、イエスは肉体的に生きていなかったということを意味するのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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