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                              悔い改める

 

 聖書の勉強というのは普通の勉強とは違うのです。聖書の言葉は理解できますが、その人の今までの常識の範囲内で理解できたということでありまして、その人の精神構造の根底にまで届いていないのです。

 精神構造の根底には霊魂という人間の本質、本性がありますが、そこまでは届いていないのです。

 聖書は神の言葉ですが、日本人には神の言葉という意味が分からないのです。キリスト教でも聖書は神の言葉であると言いますが、神の言葉という意味が間違っているのです。

 人間の頭で考える人間の論理、人間の常識的な考えによる人間の俗念と、聖書にある神の言葉とは本質が違うのです。

 人間は常識で生きていますが、常識は聖書で言いますと肉の思いであって、死んでいる人間の思いです。

 常識という概論的意識、常識が持っているセンスが死んでいるのです。肉の思いは死であると聖書は言っています。今の人間は全部死んでいるのです。

 近世文明から現代文明にかけての人間の考え方は、ある種の考え方、つまり肉の思いによって統制されているのです。これが教育制度です。十六世紀から十七世紀にかけての啓蒙主義は人間の考え方を常識的に造り直したのです。肉の思いで何でも割り切るようにしてしまうことが文明思想です。そういう感覚で人間の思想を統制してしまったのです。

 現在の皆様の精神のあり方は、文明構造の方式によってほとんど完全に押さえ込まれてしまっているのです。皆様は学校教育の制度によって考えること、新聞を読んだり、雑誌を読んだり、テレビ、インターネットによって物事を理解すること、ジャーナリズムの考え方によって理解することが普通の状態になっています。だから、聖書を読むことができなくなっている。不可能になっているのです。

 本当の神の言葉である聖書を読むということは、現代人には不可能なことです。私が言うことが分からないのが当り前です。分かったと思っている人はどうかしているのです。

 私は皆様に分からせよう思っているのではありません。日本に神がこのような不思議な聖書の読み方、信じ方が始まっていることを、世界の人々に知らせることが目的です。

 私は日本人にキリストを信じさせようとか、聖書を理解させようとは考えていません。理解できないのが普通です。日本人の中に、本当の聖書が分かる人たちが若干はいるに違いない。極めて少ないかもしれませんが、そういう人々は理解できるでしょう。

 現代文明から抜け出して、文明の外に出てしまうことができるような人間、魂の思いに従って生きる人、本当の般若波羅蜜多ができる人間、彼岸に渡ることができる人が日本にいるはずです。皆様方がそれに該当できる人であれば幸いです。私は喜んで一緒に聖書の勉強をさせて頂きたいと思います。

 現代文明の思想は人間の肉性を助長すること、肉性をしっかり固めてしまうことが目的です。人間の魂を悪魔的な方向に追い込んでしまうこと、本当の聖書が信じられない人間にしてしまうこと、宗教観念で人間を丸めこんでしまうことが目的です。

 般若心経の般若波羅蜜多という題目が般若心経の精神を示しているのです。この世に生きることを目的にしていないのです。彼岸に渡ることが目的です。

 現世に生きていて、般若波羅蜜多をいくら唱えても何もならないのです。現世に生きている人間が現世から出てしまうこと、現世を出て彼岸へ渡ってしまうこと、こちらの岸から向こうの岸へ渡ってしまうことが、般若心経の目的です。聖書も同じことを言っているのです。

 イエスは、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言っています(マルコによる福音書1・15)。英訳にはお前たちという言葉があるのですが、日本語訳の聖書はこれを訳していません。お前たちというのはユダヤ人を指しています。現代で言えばキリスト教徒を指しているのです。

 キリスト教徒に悔い改めよと言っています。聖書を信じている人間、または聖書を信じたと思っている人間に、悔い改めて福音を信ぜよと言っているのです。

 今まで聖書を信じていたというその態度が間違っているのです。だから、悔い改めて福音を信じよと言っているのです。何故かというと、時は満ちた、神の国が近づいたからです。

 時は満ちたとありますが、何の時が満ちたのかということです。これは太陽系宇宙の構造を言っているのです。太陽系宇宙の構造が変質すべき時が来たと言っているのです。太陽系宇宙が物理的にも心理的にも、その存在自体が変質してしまう時が来たと言っているのです。

 現在の人間には太陽系宇宙が変質するということは何のことか全く分からないでしょう。地球が変質するということも分からないでしょう。皆様の頭はそれほど常識に固まってしまっているのです。地球はこういうものだ。太陽と地球の関係はこういうものだというように考えこんでしまっている。皆様の頭は強く固まってしまっている。それほど間違っているのです。

 太陽系宇宙が実在している状態を、変革すべき時が来たのです。イエスは神の国が近づいたと妙なことを言っているのです。

 これは創世記の第一章の基本的なことが分かりますと、時が満ちているということが分かってくるのです。創世記の第一章は、第二章、第三章と全く異なる成立過程になっているのです。第二章以下が編算された時には、第一章はなかったのです。創世記の一章は後から書かれたのです。

 創世記の一章は普通の人間が読んでも分かるものではありません。創世記が分からないように、時が満ちたという言葉も分からないのです。

 時は満ちた、神の国は近づいた。「汝ら悔い改めて福音を信ぜよ」ということが正確に、また正当に理解されて初めて、聖書を信じるという言葉が使えるのです。

 キリスト教ではこれができていません。だから、現代文明の感覚で教会経営ができるように曲げてしまったのです。これがカルビン・ルターによる宗教改革です。宗教改革というのは、人間の文明に合うように教義を造ったということです。

 カトリックという宗教が間違っていた。プロテスタントになってさらに間違ったのです。

 神の国と現代文明とどういう関係にあるのか。神の国の実質とはどういうものか。神の国になれば人間はどのようになるのか。地球はどのように変革されるのかが、キリスト教に全然分かっていないのです。

 皆様は今のままで生きていれば、死ぬに決まっているということを、真剣に考えて頂きたいのです。人間文明は潰れるに決まっているのです。めちゃくちゃになるでしょう。

 人間の文明に目的がありません。政治も経済も目的がないのです。教育も宗教も一切間違っているのです。聖書を正しく信じる者だけが救われるのです。救われると言いましても、今のキリスト教が考えているものとは全然違います。精神的にも肉体的にも、現在の人間の外に出てしまうのです。

 皆様は人間社会で生きていながら、聖書を勉強しているのです。聖書を本当に正しく読んでいくと分かるのですが、イエスは「私は天から来たけれども、おまえたちは地から来た」と言っています。

 天から来た人間と地から出た人間がいる。天と地の違いがあるのです。地から出た人間が天から来たイエスを信じることができるはずがないのです。それを、キリスト教はイエス・キリストを信じなさいとしきりに言うのです。そんなことはできるはずがないのです。

 そこで、悔い改めて福音を信じよと言っているのです。それでは悔い改めるとはどうすることか。簡単に言いますと、人間の考えの外へ出てしまうことです。イエスは「人間の外へ出て、私の言うことを信じなさい」と言っているのです。

 私は人間社会では生きていますけれど、私の精神状態は人間社会の外へ出てしまっているのです。

 イエスは天から下ってきてなお天にいたとありますが(ヨハネによる福音書3・13)、皆様が本当にイエスを信じることができますと、精神的に人間社会から出てしまうことができるのです。人間社会の外に立って聖書を読むことはできるのです。

 人間社会の外に立つことが神の国に入ることです。神の国に入って人間社会の利害得失に関係なく生きるのです。自分の命にさえも関係ない生き方ができるのです。日本社会に生きているという感覚を持たなくてもいいのです。そうすると、福音を信じよということが実行できるのです。

 悔い改めるということは、生活意識を全く変えてしまうということです。これは一朝一夕にはできませんが、まず般若心経の五蘊皆空から始めなければできません。般若心経の五蘊皆空、色即是空を、忠実に実行していただくのです。

 皆様は死ぬに決まっている人間としてこの世に生まれたのです。その自分を見切ってしまうのです。イエスが主であるということに切り替えるのです。自分自身の命の本質を変えてしまうのです。

 そのためには、まず自分自身の精神構造を変えなければならないのですが、精神構造を変えるといっても、早速しましょうという訳にはいかないでしょう。まず本当にそのような気持ちになれるかどうかを考えて頂きたいのです。

 人間には主観的存在と客観的存在がありまして、主観的存在は死ぬべき肉なる人です。客観的存在は死なない霊の人です。主観的存在の人間を捨てて、客観的存在の人を掴まえて頂いたらいいのです。

 キリスト教の神学は、聖書の教条を述べています。教条はいくら勉強しても信仰にはなりません。この点から言いますと、内村鑑三氏は根本的に間違っているのです。

 彼は聖書の教条を説明しました。これは料理の本みたいなものです。料理の本をいくら読んでも、味も栄養もありません。料理の本は嘘ではありませんが、本当の料理ではありません。キリスト教の教条は料理の本みたいなものです。

 私がお話ししているのは料理そのものです。本当の信仰と宗教の教条とはそれだけ違うのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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