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                    神は十字架によって新しい人を生んでいる

 

 神が世界を経綸するためには、その土台がなければならないのです。現世においても誰かが会社を経営するとしたら、会社経営の中心を何処に置くかが問題です。

 業務経営の中心と、人間的な経営の中心の二つの中心を決めなければ、会社経営が成り立たないのです。これは何処の会社にでもあるのです。会社を始めた人が、これを決定するのです。業務の中心と人間の中心を決めるのです。これによってその会社が良くなったり悪くなったりするのです。

 神が全世界を経営しているのは、何を目的に、何を中心にしているのかが決まっているのです。これを考えなければいけないのです。これを考えるから、神が後ろ盾になっているのです。私たちのグループは人間の後ろ盾は何もありません。神が後ろ盾になっていますから、問題なく前進していけるのです。

 御霊を崇めることがどのように分かっているのかということです。これさえ分かっていれば問題ではないのです。

 ユダヤ人が目覚めなければ、神の国が実現しないのです。実はユダヤ人はどうでもいいのです。ユダヤ人が目覚めれば、キリストの復活が歴史的に実現するのです。キリストの復活は霊的には実現していますけれど、歴史として実現していないのです。これが良くないのです。

 キリストの復活というものは、歴史として捉えられなければならないのです。個々の人間が、五十人や百人信じていてもいけないのです。歴史的事実として人々が公に捉えられなければいけないのです。神の国が実現するというのはこういうことなのです。

 これを目標にして、聖書が開かれなければならないのです。これを目標にしている教会は、世界中何処にもないのです。

 

 聖書に次のようにあります。

 「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神。神はその豊かな憐れみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それにより、私たちを新に生まれさせて、資産を受け継ぐ者として下さったのである」(ペテロの第一の手紙1・3、4)。

 

 これが世界的に実現することを神の国というのです。五十人や百人の人間だけではなくて、世界的に、または、国家的に、民族的に、歴史的事実として認めることです。これを神の国というのです。私はこれを目当てにしているのです。

 皆様もこれを目的にしたらいいのです。神の目的は人間を救うことではなくて、世界を救うことです。個々の人間を救うことを目的にしていません。神の国を実現することが目的です。

 イエスは、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と言っているのです(マルコによる福音書1・15)。人間が悔い改めることを先に言わなくて、神の国が近づいたことを先に言っているのです。

 神の国は天に蓄えられた国です。天の国です。この世が出来る前の国、前世の国です。前世の国が現世に現われることが神の国の実現です。

 イエス・キリストが現われて述べ伝えた目的は、神の国を示すことです。神の国が世界中に実現することが目的であって、人間がキリストを信じることではないのです。

 人間の霊魂を救うことが目的ではなくて、神の国を実現することが目的です。その土台になるのがイスラエルです。イスラエルが土台にならなければ、神の国は実現しないのです。このことが、世界中のキリスト教に全く分かっていないのです。カトリックもプロテスタントも、全然分かってないのです。

 人間の霊魂が救われるということは、第二、第三の問題であって、第一は神の国が実現することです。こういう方針ですれば、御霊が働いてくれるでしょう。

 この方針を続けていき、イスラエルに伝道という大眼目を恐れないで、ユダヤ人の目を覚ましてあげようという、ごく素朴な感覚で考えて、その理想に一致していれば、このグループは間違いないのです。

 この理想から離れると、必ず分裂するのです。

 

 パウロが言っています。

 「実際、私の兄弟、肉による同族のためなら、私のこの身が呪われて、キリストから離されてもいとわない」(ローマ人への手紙9・3)。

 

 ユダヤ人の救いとはそういうものです。ユダヤ人に福音を伝えるということが、現在のキリスト教には全然分かっていないのです。パウロがユダヤ人に、福音を伝えられるなら、自分自身がキリストから離れて地獄へ行ってもいいと言っているくらいに大切なものがユダヤ人伝道です。これが分からないのです。

 現在のユダヤ人は全く箸にも棒にもかからない、何と言っていいか罵る言葉もないほど悪いのです。ユダヤ人はひどい民族です。

 ユダヤ人の救いのためなら、キリストから離されて地獄へ行っても構わないという固い気持ちがあれば、このグループは大丈夫です。神が必ず導いてくれるに決まっているのです。

 一番分かってもらいたいことは、ユダヤ人問題の根本とは何かということです。ユダヤ人とは一体何かということです。パウロがイスラエルのためなら、キリストから離されて地獄へ行っても構わないということを、ローマ人への手紙に書いておいたのですが、この手紙が聖書に入っているのです。新約聖書の重要部分になっているのです。

 個々の人間の霊魂の救いよりも、ユダヤ人に福音を伝える方が大切だということを新約聖書が言っているのです。だから、私はキリスト教が間違っていると言っているのです。ローマ人への手紙のパウロの思想を私の思想にしているのです。これが私たちのグループの中心思想です。

 旧約聖書にエルサレムを愛するものは栄えるという言葉があります。今のユダヤ人があまりにもひどすぎるのです。だから、イスラエルのために祈るとか、イスラエルを愛するとかいうことを、少しでも考えるだけで、神はその人を捨てておくことはできないのです。

 私たちのグループはイスラエルのために造られているということを、決して忘れてはいけないのです。ユダヤ人のために、神が造ったグループです。

 ユダヤ人のために祈るとか、ユダヤ人に福音を伝えるために伝道しているという人間は、私たち以外には世界にいないのです。ユダヤ人に福音を伝える目的で、聖書の勉強をしているのは私たち以外にはいないのです。

 神はユダヤ人に約束を与えられたけれど、現在のユダヤ人は神の約束を全然問題にしていないのです。彼らが考えている約束は、ユダヤ教のことを言っているのであって、神の約束とは違うのです。

 アブラハムに、「お前とお前の子孫とに、とこしえの契約を与える」と言っているのです(創世記17・4~8)。これが神の国の土台になるのです。ユダヤ人に福音を伝えて、まともな聖書の信仰を与えなければ、神の国が実現しないのです。

 ユダヤ人が本当に目を開かなければ、私たちがどのように聖書が分かっても、それだけでは神の国は実現しないのです。キリストの再臨は実現しないのです。

 ペテロの第一の手紙の第一章にありますように、キリストが復活したことによって、すべての人が新しく生まれたのです。私たちが救われたとは書いてありません。私たちが新に生まれたと書いてあります。この私たちというのはキリストを信じる者を指しているのです。

 ところが、キリストを信じるというのは、制限を加えているのではありません。キリストを信じるすべての人を指しているのです。だから、キリストの復活によって、キリストを信じるという人々に、とこしえの命が与えられているのです。四節にあるように、新しい命が与えられているのです。

 ところが、今のキリスト教は新しい命、自分がこの世に生まれたのではない新しい命が与えられているということが分からないのです。

 この世に生まれた命ではないもう一つの命を経験していなければ、聖書を信じているとは言えないのです。この世に生まれた命はやがて死んでいく命です。やがて、死んでいく命ではない、別のもう一つの命があるのです。これを捉えるのです。

 皆様は死んでいかない命を経験しているのでしょうか。今、皆様は死ぬべき命を経験しているのです。死ぬべき命は経験していますが、死なない命は経験しているのでしょうか。

 死なない命を経験しなければいけないのです。これはペテロの第一の手紙の一章三節、四節にありますように、イエス・キリストの復活によって、新しい命が与えられているのです。

 現世に生まれてきた自分の命ではない新しい命を経験しているとはっきり言えるかどうかです。世間並の教会ではこれが言えないのです。

 この世に生まれてきた命はどうでもいいのです。私たちはキリストの復活による新しい命で生きていることを、まず理論的にしっかり考えてみて下さい。キリストの復活による新しい命は理論的にどういうことになるかということです。また、どのように生きればいいのか。

 この世に生まれた自分の命と、これとは別のもう一つの命があるのです。もう一つの命で生きることになれば、自分の家庭生活をどのようにしたらいいのか。道徳的には山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)です。

 山上の垂訓を社会的に実現しようと思ったらどうなるのか。家庭的に実現しようと思ったら、どうなるのかという問題です。

 皆様はこれを実現しなければならないのです。私はその入口を開いたのですから、皆様がこれを社会的に、世界的に実現して頂きたいのです。

 これはキリスト教の話ではありません。この世に生まれた命ではないもう一つの命のことを言っているのです。分からなければどんどん聞いて頂きたいのです。分からないことが悪いのではなくて、それをはっきり捉えていないことが悪いのです。

 男女の問題は性の問題ではないのです。性の問題だと考えている人は皆地獄へ行くのです。性の問題と考えている人は死ぬべき命に生きているのです。

 セックスという感覚で女を見ている人は、生まれながらの命が分からないのです。男女の問題は格の問題です。男という格、女という格がある、命に格があるのです。

 獣の命と人間の命は格が違うのです。男の命と女の命とは格が違うのです。

 イエスがこの世で示してくれた命は神の格を持った人の命です。神の格を持った人の命を、人の子の命というのです。イエスの命は神の格を持っていたのです。この持ち方を真面目に勉強したらいいのです。

 皆様はこの命を持っているに決まっているのです。それを見つけていないだけのことです。

 皆様は生まれてきた命は持っています。この命ではなくて、死なない命を持っているかどうかです。死なない命はこういうものだと人々にはっきり説明できるのでしょうか。

 死ぬ命と死なない命とは違うのです。これがはっきり説明できなければいけないのです。

 イエスが生きていたのは、死なない命を生きていたのです。神の格を持った人の命です。神の格式を持った人間の命です。これを信仰というのです。神の格式が人間的に現われていたのです。これがイエスの信仰です。

 皆様の生活が肉の思いの生活であってはいけないのです。肉というのは格です。霊というのも格です。人間の魂には格があるのです。格式があるのです。

 皆様は霊魂の格式を考えて、それに相応しい生活ができなければいけないのです。例えば、金銭に関すること、女に関すること、他人とのつきあいに関すること、言葉遣いに関することが、霊魂の格式に相応しいものでなければいけないのです。山上の垂訓はその原理になっているのです。

 命というものは、実践的な経験を会得していなかったら、自分の命になっていないのです。聖書は理解するものではないのです。本当の信仰は自分の魂に格式ができているのです。生活に格式ができるのです。格式を造ろうと思わなくても、思想に格式ができるから、生活の態度が自然に格式を持つようになってくるのです。

 これは掟ではありません。掟ではない格式です。格式が勝手にできるのです。

 

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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