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                                 神の安息

 

 本当に神の預言についていく事を決心することは、なかなかできることではないのです。人間についていくのではない。人を通して神が預言していることについていくのです。これができないのです。

 理屈は分かるでしょう。しかし本当に心から自分の態度、生活そのもので示すことができないのです。態度で示さなかったらいけないのです。生きているというそのことが、神の預言についていくことにならなければいけないのです。そうならなければいけないという理屈は分かりますが、なかなか態度で示すことができないのです。

 異邦人である皆様は、本当の神の福音が分かりにくいのです。異邦人はこの世に生きるために生まれてきた人間です。この世というのは神の経綸の全体から言いますと、仮の世です。

 なぜかと言いますと、この世は始まった時があるのです。始まった時があるというのは、終る時があるということです。これは仮ということです。

 現世は仮に存在することを最も端的に説明しているのです。もし神の国でしたら、初めがないのです。神自体が初めですから、地球の初めというようなものが神にはないのです。

 「我はアルパであり、オメガである」と神は言っています(ヨハネの黙示録22・13)。神自身が初めであり、終りです。これには世の初めというものはありません。

 この世には初めがあり、終りがあります。創世記の一番最初はこの世の初めです。黙示録の終りはこの世の終りです。

 この世は旧約・新約聖書一冊です。これは仮という意味です。仮ということがいくら分かっても、いくら生きても、仮の世に生きているのは仮に生きているのです。こんなことは分かりきったことです。

 皆様はこの世に生きているのではないと思っているらしいです。しかし、生き方がどうしてもこの世の人なのです。自分を否定するということがどうも納得できないようです。これが異邦人です。

 この世で生きていてもしょうがないのです。人間の人生は仮の人生です。仮の世に、仮の人間が、仮の姿で生きているのです。三つの仮があるのですが、これが分からないのです。

 本当の世というのは神の国です。本当の人というのは、神と共に住み、神の宮に住んでいるのです。

 「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいます」とあります(ヨハネの黙示録21・3)。

 人は皆神の家に住んでいる。神が人と共に住んでいると書いています。これが本当の人です。

 皆様がこの世に生まれる前は、神の家に住み、神と共に住んでいたのです。この世に生まれる前にはこういうことを経験していたのです。

 ところが、現世に生まれた時に、生まれる前のことを全く忘れてしまったのです。神は公平ですから、日本人だけが例外ではなかったのです。

 皆様は生まれる前は誠の人だったのです。神の家で神と共に住んでいたのです。その証拠がいくつもあります。その証拠に皆様は五官を与えられているのです。理性を与えられているのです。

 皆様に与えられている五官、理性をよくご覧下さい。これはこの世のものとは違います。ところが人間はこの世に生きていると考えている。なぜそう考えるのでしょうか。

 皆様の理性、良心、五官をよく見て下さい。神の形のように、神にかたどって造られたということが分かるはずです。

 生まれる前はそうでした。これが誠の人です。仮の人ではない、本当の人です。

 肉体人間は仮の姿です。肉体人間の男、肉体人間の女は、両方共仮の姿です。本当に信仰が板についてきますと、イエス・キリストにあれば、男もなし、女もなし、自由人もなし、奴隷もなし、金持ちもなし、貧乏人もなし、資本家も労働者もないとなるのです(ガラテヤ人への手紙3・28)。

 男がある。女がある。肉体を持っている自分があるというのは、仮の姿の人間を見ているのです。現世にいてイエス・キリストを本当に信じれば、男もなし、女もなし、日本人もユダヤ人もない。約束の民になることができるのです。現世にいてもそうなるのです。

 ましてや、新天新地へ行きますと、今皆様が感じている不自由さ、自分の思いに捉われたり、病気になったり、風邪を引いたり、死んでしまうという不自由さは全くなくなるのです。

 そういうことに一切関係がない、完全な自由になるのです。全き自由になるのです。本当の幸せをしみじみと経験することができるのです。

 本当の幸せというのは、仕合わせることです。神に仕合わせるのです。これをすれば、現世で幸せになれるのです。神の御心に合わせていけばいいのです。

 仮の世に、仮の人間が仮の姿で生きている。これに気がつかなければいけないのです。ところが、この三つがなかなか分からないのです。

 今、人々が持っている顔は嘘の顔です。人間の顔であって、魂の顔ではありません。せめて自分は人間ではない。魂であるということぐらいは最低限度自覚して頂きたいのです。

 人間文明が始まってから地球が人間の住み処になっています。この状態をどう考えたらいいのでしょうか。人間が中心になって文明を営んでいる。この世代のことを七日目と言っています。このことが今の世界の人間に全然分かっていないのです。

 この世は神が安息しているのです。人間の歴史が始まってから、イエス・キリストの王国が実現するまでの間を、七日目というのです。

 七日目というのは妙な時代であって、大艱難時代がくる前に、一度夕暮になるのです。

 人間の歴史が始まってから、もう六千年たちました。イスラエルが回復すると、イスラエルが中心になって七千年目が始まるのです。

 千年は一日の如しというのが、神の歴史換算の原理です。また、一日は千年の如しとも言えるのです。人間歴史が始まってから千年王国の終りまでの全体が七日目です。

 

 聖書に次のようにあります。

 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日です。

 こうして、天と地とその万象が完成した。神は第七日目にその作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである(創世記1・31~2・3)。

 

 神がこの日にそのすべての創造の業を終って休まれた。つまり、人間の歴史が始まった時には、神は休んでいたのです。神が休んでいたから人間の歴史が始まりだしたのです。

 もし神が休んでいなかったら、アダムが陥罪するはずがないのです。鼻から命の息を吹き入れて、やれやれと言ってエデンの園に住まわせたのです。この時、神はまだ働いていたのです。そうして、まだ安心できないと考えて、創世記二章の記事になっているのです。そうして、アダムに園の中央にある善意を知る木の実を食べたらいけないと言ったのです。

 この時、神はまだ表面に現われていたのです。まだ休んでいなかったのです。

 人一人なるは良からずと言って、アダムのあばら骨の一本を抜き取って、女を造ったのです。その時はまだ、創造の業が続いていたのです。

 アダムとエバは二人共裸であったが、恥ざりきという状態でした。これ以上、神は手を出したらいけないのです。これ以上手を出すと、現象世界を造った目的がなくなるからです。

 現象世界は相撲でいう土俵であって、悪魔と人間のどちらが勝つかを、神が見ているのです。勝った方が来たらんとする新しい世界を治める王者になるのです。

 現象世界という土俵ができたのです。土俵の登場人物が全部揃ったのです。そこで、創世記第二章が終った時に、神が安息したのです。創世記第三章の段階では、もう神は安息しているのです。

 そこで、神の安息とはどういうことなのか。人間は安息の時にどのように生きればいいかということです。

 安息日における人間の地位はすばらしいものがあるのです。人間のハート、精神構造は、実に驚くべき力を持っているのです。これを証明したのがイエスです。人の子は安息日の主であると言っています。もし安息日の主であるという自覚が持てたら、自分の大きさにびっくりするでしょう。

 人間歴史が始まってから千年王国の終りまで、全部安息日です。ところが、ユダヤ人がこれに気づいていない。ユダヤ人がこれに気づいて、安息日の主役である責任を自覚すると、千年王国が実現するのです。

 千年王国が実現したら、あらゆる病気、あらゆる犯罪はなくなります。病院も刑務所も消滅するでしょう。人間の生活それ自体が、神の安息に即応する生活になるのです。

 人間は世界の平和を求めていますが、本当の世界の平和が実現するのは、病気の驚異、犯罪の驚異、災害の驚異が一切なくなった時です。人間が心から自由という言葉、幸福という言葉を味わうことができるのが千年王国です。

 神が人間に地球上で暮らすことを許した年数が、七千年です。神はできたらこれを五千年にしようと思ったのです。その時にキリストが現われたのです。

 五というのは恵みの数であって、地球が完成されてもよかったのです。そうなるべき可能性は十分にあったのです。ところがユダヤ人の不信仰によって妨害されたので、やむを得ずに二千年延長された。現在は延長戦を行っているのです。

 現在はユダヤ人の不信仰によって、全く意味がなく歴史がだらだらと続いている。私たちはこの歴史にどうしても終止符を打たなければならないのです。

 人間が地球上で生活できるのは七千年間というのが予め定められているのです。これは太陽系宇宙の自転公転の速度、遊星宇宙と銀河系宇宙の位置を神は計算していて、このように考えている訳です。

 七千年以上、人間は地球上に住んでいてはいけないのです。後ごくわずかですが、イスラエルの不信仰によってこの期間は伸ばされることになるかもしれません。イスラエルが悔い改めなければ、千年王国が来ないからです。

 イスラエルが悔い改めさえすれば、世界の歴史は一度に変ってしまうでしょう。神の約束が人間歴史の表面に現われるからです。これが千年王国です。

 アダムの罪によって土が呪われた。地球が呪われたのです。ところがキリストの贖いによって地球が救われた。この事実が現われるのです。アダムの罪によって土が呪われて、キリストの贖いによって土が救われるのです。

 土が救われるようになりますと、現在地球にある砂漠、ツンドラは全部解消します。気候、天候の状態が一変してしまうのです。

 現在成層圏には核実験による死の灰、放射性物質がびっしり蓄積しています。人間の罪の固まりが放射性物質という形で、地球全体を囲んでいるのです。人間の罪が地球全体を囲んでいるのです。これがどうして処分されるのかということです。

 太平洋も大西洋もインド洋も、七つの海に放射性物質が降り注いでいます。全部汚れているのです。この海がどのようにして癒されるかです。成層圏にある放射性物質が癒される。聖書には、これが驚くべき方法で癒えることをはっきり書いています。その結果、地球がどのようになるかが説明できるのです。

 その結果、砂漠がなくなるのです。砂漠がなくなれば、アラビア半島だけでも五億人は住めるでしょう。地球は二〇一七年現在で、七十四億人ぐらいですが、それでも食糧不足の国があるのです。十億人くらいが飢え死に寸前の状態だと言われています。

 神は、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と言っていますが(創世記1・28)、一体どのくらいの人口になるのか。恐らく世界の人口は三百億人くらいになるでしょう。寿命も現在の十倍位になるでしょう。百歳で死んだら若死にと言われるし、八百歳、九百歳が当り前になるでしょう。千年王国が始まってから生まれて、千年王国が終るまで生きている人がいるかもしれないのです。

 人間には幸福があるはずだと考えている人間の願いの何十倍かの幸福が実現するのです。人間の願いがあまりに小さすぎて、恥ずかしいと思うでしょう。

 神がキリスト王国を本当に地球上に現わしますと、人間は何と幸福を知らなさすぎたと思うでしょう。呆れるほどの幸福が地球上に押し寄せてくるのです。

 米でも麦でも、年に七回も八回も、取りたいだけ取れるのです。聖書に「種を蒔く人のあとから収穫する人がついてくる」とあるのです。

 とにかく、空気の条件、気候の条件、水の条件、土の条件、太陽の条件が変ってしまいます。現在の太陽の条件、気候の条件、土の条件は、人間の罪によって汚染されているのです。

 人間の罪によって地球が呪われているのです(創世記3・17)。呪われた現在の地球でも、季節ごとに色々な花が咲き、おいしい果物が実り、海の幸、山の幸によって私たちを喜ばせてくれているのです。

 千年王国の神の栄光はこんなものではありません。南極大陸の氷が溶けて、そこにすばらしい都ができるでしょう。

 とにかく、気候も天候もすべて変ってしまいます。猛獣も毒蛇も人間に危害を与えないのです。人間が万物の長であることがはっきり確立されるからです。そうして、人間の願いの何十倍か、何百倍かの幸せが地球上に訪れるのです。

 神の栄光が全地に満ちるのですから、犯罪行為は一切なくなります。罪悪的な思想が消えてしまうのです。

 私たちは千年王国実現のために、イスラエルの回復を祈っているのです。イスラエルさえ現在が神の安息日であることに気がつけば、世界全体が根本からひっくりかえるのです。私たちはそういう事実を来らせるために学んでいるのです。

 

 聖書に次のようにあります。

「それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているのにかかわらず、万一にも、入り損なう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。

 というのは、彼らと同じく、私たちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。

 ところが、私たち信じている者は、安息に入ることができる。それは、

 『私が怒って、彼らを私の安息に入らせることはしないと誓ったように』

と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、『神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた』と言われており、またここで、『彼らを私の安息に、入らせることはしない』と言われている。

 そこで、その安息に入る機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、入ることをしなかったのである。

 神はあらためて、ある日を『きょう』として定め、長く時が経ってから、先に引用したとおり、

 『きょう、御声を聞いたなら、

 あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』

とダビデをとおして言われたのである。

 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、他の日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。

 なぜなら、神の安息に入った者は、神がみわざをやめて生まれたように、自分もわざを休んだからである。従って、私たちはこの安息に入るように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル人への手紙4・1~11)。

 

 安息日の休みが神の民のためにまだ残されている、従って、安息に入ったもの、安息日の休みに入ったものだけが、本当の民であるということになるのです。

 アダムが陥罪を犯してから今日までの間が、安息日です。安息は神が休んでいる日です。神が休んでいるから、神なんかあるもんかと言い、ロシアが日本の領土である北方四島を占領して平気でいられるのです。

 現在の世界情勢と神の安息とどういう関係があるのか、政治、経済、社会の動きと、安息とがどういう関係にあるのか、こういうことが現在の世界のリーダーに全然分かっていないのです。

 人間文明が始まってから七千年間は、神の安息日です。神が創造の業を終って、七日目を祝福した。創造の業が終った時に七日目の夜が明けたのです。七日目の夜は明けたが、まだ七日目の夕べは来ていないのです。

 人間がこの地球上に住むことを許されているのは、創造の第七日目の一日だけです。神の計算でいきますと、一日は千年の如しです。しかも、この千年が神の完全数の千年ですから、七千年になるのです。神の完全数の年の七倍になるのです。

 安息というのは神の完全を意味するのですから、この一日は神の完全数の一日になるのです。そうすると、一日が七日間になるのです。一日が七日間で計算すると、ちょうど七千年になるのです。

 この後に地球が終ってしまいます。地球が消えるのです。人間歴史が消えるだけでなくて、地球が大混乱を起こして、消滅してしまいます。

 

 聖書に次のようにあります。

「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けて崩れ、地とその上に造り出されたものは、みな焼きつくされるであろう」(ペニーロの第二の手紙3・10)。

 

 「原質がことごとく焼けとける」とあるのです。地球を構成している物理的原理が原質です。これがことごとく焼けてしまうのです。

 以前に洪水で人間が滅ぼされたのですが、今度は地球が火で呑み尽くされるのです。これは多分、太陽が大爆発を起こして、太陽系宇宙の大崩壊を意味すると思われるのです。

 神は七千年の間、人間を自由勝手に生かしているのです。神なんかあるもんかと言いたければ、勝手に言わしているのです。神は知らん顔をしているのです。

 七千年の一番中心になるべき主、七千年全体を統括すべき人格はどういう人格かと言いますと、これが人の子です。

 人の子は安息日の主です。もし人の子であるキリストを信じるなら、皆様自身も安息日の主になるべきです。安息日の主であるべき性格と神に対する責任を持っているはずです。

 従って、現世における利害得失とか善悪に一喜一憂しているようでは問題になりません。あまりにもスケールが小さいのです。

 私、私と二言目にはすぐ私と言い出しますが、私という悪い癖をやめたらいいのです。私ということを一切言わなかったらいいだけのことです。

 人間は、地球上に人間が住んでいるという全体のことがらの主です。イエスが主であるように、イエスを信じる皆様も、イエス・キリストと共に千年の間王となるのです。そして、世界を治めることになるのです。これをよく自覚して頂きたいのです。

 安息日ということで注意しなければならないことがあります。ヘブル人への手紙四章三節には、「彼らを私の安息に入らせることをしない」と言っています。また、五節にも、「彼らを私の安息に入らせることをしない」と言っています。私の安息という言葉があるのです。

 私の安息とはどういうことかと言いますと、四節にあるのです。神は、七日目にすべての業をやめて休まれたとあります。これが私の安息と言われているものなのです。

 七日目というのは、現在私たちが生きているこの世界が七日目の世界であって、今私たちは神の安息を見ているのです。神の安息を経験しているのです。これが分からない人は安息に入ることが許されていない人です。その人は地獄へ行くことになるのです。

 アダムが陥罪する前に、神が安息したとはどういう訳なのか。神は人間にいうべきことを言い、すべきことをした。善悪を知る木の実を絶対に食べてはいけないと教えておいた。多分すばらしい美人であったと思えるエバを与えて、神は安息したのです。その途端にアダムは陥罪したのです。

 もし神が安息していなかったらこの事件は起きなかったでしょう。善悪の木の実を食べようとした時に神が休まずに横でじっと見ていたら、食べられなかったのです。

 神が安息して、何処に行ったか分らないから、食べたのです。それ以後、ずっと今日まで、旧約時代、新約時代を貫いて、神の安息は続いているのです。

 その間に、神の安息の本当の意味を知った人は、イエスの時代には少数の人々だけでした。その他にたった一人神の安息を知っていたと思える人は、フランシスです。この人の考え方はキリスト教徒ではなかったのです。乞食になって、この世を捨てていたのです。オーガスチンはだめです。理屈ばかり言っていたのですから。とにかく、私たちは安息しなければいけないのです。

 アダム以来、六千年の人間の時代が終りになります。正確には、終りかけるといった方がいいでしょう。日が暮れかかるのです。

 ところが、ゼカリヤ書に妙な事が書いてあります。「昼でもない。夜でもない。夕暮れの頃に明るくなる」とあるのです。(14・7)。

 異邦人にキリストの福音が伝えられる時が、夕暮れです。一度日が暮れかかるのですが、その時に、日出ずる所から、生ける神の印を持つ天使が現われる。そうして、地の四隅に立っていて、地にも海にも、木にも風を吹かせないようにしている御使いに向って、「待った」と大声で叫ぶのです(ヨハネの黙示録7・1~4)。

 これが私たちの役目です。異邦人の中から救われるべき人々が全部出たら、教会時代の終りになるのです。

 風を引きとめるとは、御霊の働きをストップすることです。それをする天使が出てくるのです。そこで私たちが立ち上がるのです。風を引きとめる天使に向って大声で叫ぶのです。「ちょっと待て、風を止めてはいけない。私たちの神の僕らの額に神の御名の印を押すまでは、地と海とすべての木をそこなってはならない」と叫ぶのです。

 艱難時代を早く来らせてはいけないと言うのです。風を引き止めてしまうと、艱難時代がやってくるからです。

 地の四隅に立っている四人の御使いに対して、大声で叫ぶのです。全世界に向って発言するのです。父の御心を行っている者のみが歴史の回転を止めることができるのです。

 六日目の夕暮れで、日を暗くしてはいけない。ちょっと待った。ユダヤ伝道を私たちがするまでは、全世界に混乱を来たらせてはいけないというのです。神に代って大喝一声するのです。

 神は全世界と万物を人の手に委ねようとしているのです。だから、霊を渡さなければならないのです。こうなったら幼児が勝つのです。無邪気で素朴な人は勝つのです。理屈を言っている者は負けるでしょう。

 「しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた」とあります(ヘブル人への手紙4・3)。神の安息というのは、創世記の二章一節、二節、三節にはっきり書かれているのです。

 皆様は夕暮れに召し集められた働き人です。ぶどう園で雇われた一番最後の働き人です。この人が一番最初に賃金をもらうのです。夕方五時近くに雇われて一番短い時間しか働かないのに、一番先に日当をもらうのです(マタイによる福音書20・1~16)。

 キリストの再臨の時に私たちが一番先に携挙されるでしょう。そういう超特別の恵みによるのですから、よく考えなければいけないのです。

 創世記の二章三節に、「神はその第七日を祝福して、これを聖別された」とあります。これはどういうことか。

 私たちは第七日に生きているのですから、神が第七日を祝福したという事実をこの目で見ているのです。御霊を受けている人間に神の処置が見えないはずがないのです。従って、神の祝福とは何か。神の聖別とは何かを勉強しなければいけないのです。

 御業は世の初めにでき上がっていたとあります。七日目に神の安息は成就しているのです。アブラハムの約束もなく、十字架もないのに安息ができ上がっていたとはどういうことなのか。

 そして、「彼らを私の安息に入らせることはしない」とあります(ヘブル人への手紙4・5)。これはどういうことか。今必要なのは、神が安息に入っているのと同じ安息が必要なことです。これがイエスの軛(くびき)です(マタイによる福音書11・29、30)。

 イエスの軛が安息と同じ意味なのです。この安息に入れば初めて、この世に生まれてきた意味がはっきり分かるのです。神の安息を経験するために生まれてきたのです。

 昨日まで生きていた自分は、安息に入っていなかった自分です。神の安息を十分知らなかったために、昨日までの自分が生きていたような気がしたのです。しかし、今日御声を聞いたのです。どのような御声かと言うと、神の安息に入らずに、自分の心で生きていたのは自分ではなかったということです。

 それは肉の自分であって、まともな自分ではなかった。霊魂としての自分は、今日御声を聞いた自分です。今日、御声を聞いて、神の安息に入らなければならないということをはっきり自覚した。これが新しい命の自分です。

 古い自分はもはやいない。新しい自分が今ここにいるのです。今日御声を聞いたら心をかたくなにするなとあります。

 今までの自分の個人的な感情とか、個人的な自分の気持ちは古い自分であって、御霊を受けた自分ではない。肉なる自分を脱ぎ捨てて、神の安息に入るべき霊なる自分として、今日新しく生まれたと思うのです。今生まれた嬰児のように、福音に向かって無邪気に、素朴に進んでいけば、神は必ず神の一族として完成してくださるに決まっているのです。

 現在、この世に生まれてきた皆様は、古き人でも驚くべき恵みの内に置かれていたのです。天使創造の昔から今日に到るまでのあらゆる生物、あらゆる有機物、無機物の一切の遺伝子が、人の中に集約されているのです。天地万物のあらゆる要素、有形的な、また無形的な、神ご自身でさえも皆様の中に集約されて表現されているのです。

 人間存在というものは、神の最終の創造であって、神は神自身にかたどって、人を造ったのです。天地万物のすべてが皆様の中に集約されているのです。おまけに神の御霊も与えられた。これはめったに与えられないものです。

 私たちのグループは神の御名が崇められているのです。神の御名をグループの旗印に掲げているのです。イエス・キリストの御名が先頭に立って、私たちを導いてくださるのです。

 皆様の中には天地万物の遺伝子が全部集約されていますが、その上に、約束の実体である御霊が与えられているのです。万物の指導者として、キリストと共に千年の間イスラエルを治める王となる素質を与えられているのです。

 そして、千年が終ってからは、新天新地の指導者として世々限りなく王となるすばらしい運命の霊魂になるのです。神の御霊によって、その手付が与えられたのです。

 御霊を崇めて下さい。皆様は神の安息に入るだけの十分の資格があるのです。ただへり下って霊を渡せばいいのです。自分の人生を神に渡してしまえば、完全に神の家族になれるに決っているのです。

 皆様はこういう幸いなグループの中にいるのです。神は皆様にすべきことはすでにしておいでになるのです。神の恵みは世の初めからすでにでき上がっていたのです。皆様を神の安息に入らしめようとしておいでになるのです。

 皆様はただ自我意識を捨てさえすればいいのです。自分自身の気持ちさえ捨ててしまえば、皆様は立派に、イエス・キリストの花嫁として、天のエルサレムに召されるだけの資格は十分にあるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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