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                              魂の古里

 

 皆様の気持ちで、自我意識によって死んでいるという状態で言ったり行ったりしますと、他人から見ると、キリストの命が現われていることが分かるのです。

 「私には死が分かるが、お前たちには命が分かる」とパウロが言っているのです。人間は死ぬことが生きることです。

 自分自身が死んでいるということがはっきり分かると、他人から見ると、その人が生きていることが分かるのです。イエスの死を自分の身に負えば、それによってイエスの甦りを他人に証することができるようになるのです。だからまず、現在生きている自分が、実は死んでいるという確認が必要になるのです。

 聖書を勉強するということは、二段構えになるのであって、人間存在について、まず、哲学的な思考がないとだめです。そのためには、般若心経の勉強が必要です。

 哲学的な思索を踏まえて、福音を受け入れるのでなかったら、本当の福音が分からないのです。

 ローマ人への手紙には、こういう面が現われているのです。一章は総論です。二章と三章で旧約の人間の在り方を説いています。四章から七章までは、一般哲学を説いているのです。八章では福音が人間に現われた状態を説いているのです。

 ローマ人への手紙では、哲学理論と神の約束論とが両方揃っているのです。パウロの他の書簡でも大体そのようになっていますが、ローマ人への手紙程、闡明になっていないのです。

 ローマ人への手紙には哲学的思索を踏まえて福音の全体を説いているのです。皆様も哲学的にはっきり人間存在を見るということができていないと、神の約束を正当に受け入れることは難しいのです。

 キリスト教の悪い所は、哲学的な受け止め方をしないということです。初めから、約束にとりすがって信じます信じますと言っているのです。これではだめです。信じる前に、人間とは何かという命題について、十分に理解しないといけないのです。ローマ人への手紙の一章から五章に書かれている人間存在を十分に理解しないと、八章、九章が分からないのです。

 何かを御霊から示されても、哲学論的なものか、約束論的なものかを見分ける必要があるのです。哲学論と約束論とでは次元が違うのです。この二つを使い分けして理解しないといけないのです。

 一般の人に話す場合には、約束論で話す場合はほとんどありません。キリスト教の信者でも、まず約束論は分からないでしょう。哲学論で、死ぬとは何か生きるとは何かという問題だけでいいのです。

 神の約束は膨大なスケールのものですから、これに取り組む前に、十分に哲学論を学んでいく必要があるのです。キリスト教ではこれをしないからいけないのです。

 哲学論をしっかり勉強すると、宗教観念になりにくいのです。特に、ローマ人への手紙の一章の総論をしっかり学ぶといいのです。

 一章の十六節、十七節、二十節、二十一節をしっかり勉強して頂きたいのです。これをしないから、観念の空回りになってしまうのです。

 特に、二十一節が大切です。人間は神を知りながら、神として崇めていない。また、感謝もしない。だから、センスレスハートがいよいよだめになっているとあります。これを知ることが大切です。

 現在の人間がセンスレスハートであることが、致命的な欠陥です。神を知りながら神として崇めていないとありますが、神を知りながらとはどういうことか。「すべての人間は神を知っている」とパウロが言っていますが、日本人はどのように神を知っているのだろうか。

 これをしっかり理解していないと、パウロ神学の基底の理論が分からないのです。人間とは何かというパウロの見方が分からないのです。だから、ローマ人への手紙の一章十八節、十九節、二十節、二十一節は非常に重要なポイントになるのです。

 へブル人への手紙の十一章十六節に、「しかし、実際彼らが望んでいたものは、もっと良い、天にあるふるさとであった」とあります。

 英訳では、次のようになっています。But now they desire a better country, that is a heavenly.

 a better とthat isをどう結びつけるのか。天にあるふるさとa better countryと言っていますが、パウロやアブラハムが望んでいたものは、ふるさとでした。a better countryがthat isでした。これはよほど素朴な純情な感覚でないと分からないのです。

 人間の記憶は実はふるさとです。昨日何処かへ行った。何かをしたということが、もうa better countryになっているのです。人間が毎日暮らしているのは、実はふるさとを見ているのです。

 例えば、今日何処かへ行った、ああいうことがあった。こういうことがあったということが、実はふるさとです。

 こういうことが分かってくると、初めて生きていることの有難さが分かるのです。生きていることを肉において受け止めると、つまらないものでしかないのですが、霊において受け止めると、a better countryなisがheavenlyになるのです。a better countryとheavenlyが一つのことになるのです。

 実は、毎日毎日生きていることが、天のふるさとを経験しているのです。これが分かると、初めて人間が生きていることのすばらしさが分かってくるのです。どういう気持ちで、どのように生きればいいかが分かるのです。イエスの生きがいはこれだったのです。

 アブラハムは確かな確実な手ごたえがあるような形で、ふるさとを掴まえたいという気持ちを持っていたのです。パウロはアブラハムの信仰をパウロの角度から、このように見ていたのです。

 パウロはアブラハムの信仰を勝手に想像していたのではありません。信仰は一つであって、アブラハムが経験していた心境はそのままパウロにも分かっていたのです。ダビデの心境もパウロに分かっていたのです。

 ダビデはイエスよりも千年も前にいたのですが、イエスの心境を持っていたのです。そのように、信仰は一つ、神は一つ、バプテスマは一つでありまして、本当に神が分かってくると、旧約のことも、新約のことも、皆分かってくるのです。

 人間の存在は、天地に広がっているのです。地球存在の有形無形のあらゆる因子が、人間に集約されているのです。これは天地の創造の段階を見ても分かるのです。聖書は一番最後に人が造られたことを書いています。創世記は人が造られたことにもなりますし、人が造られるということの予告にもなるのです。

 神の形のように人を造るということを、今しているのです。これが聖霊を受けるということになるのです。また、天のエルサレムの完成になるのです。

 天のエルサレムが完成されて初めて、教会時代の終わりになるのです。その時に、神にかたどりて神の形のように人が造られることが実現するのです。

 これが地球における最終段階の創造です。初めから終わりまで、あらゆる遺伝子が物理的にも生理的にも心理的にも、あらゆる因子が天のエルサレムに凝縮されるのです。それが一人の人になっているのです。

 一人の中に天地万物のすべてが収納されている。だから、人は天地万物のことが分かるのです。科学の本を読んでも、生物の本を読んでも分かりますし、歴史の本を読んでも、宇宙の本を読んでも分かるのです。時間空間についてのあらゆることが、理解できるのです。理解できるというのは、自分の中にそれがあるからです。

 神が天地万物を造ったということは、人間の魂の中にそのすべてをインプットしたということです。百四十億の脳細胞の中に、それをインプットしたのです。

 これを静かに考えてみると、人間は全部天のふるさとを経験していたのです。固有名詞の人間が生きていたのではないのです。

 人の子というあり方で、地球の小型が造られたのです。人間は創世の昔が全部分かるようにできているのです。

 地球という客体的存在が、人間自身の主体であって、客体が主体において総合されるのです。このことに本当に目覚めて、自覚することが出来る人は、地球を治めることができるのです。

 そうするために、神は悪魔を廃嫡(はいちゃく)して、天のエルサレムという新しい人格を造ろうとしているのです。これが天地創造の目的です。皆様は天地に広がっているし、天地も皆様に集約されているのです。

 だから、固有名詞の人間は初めからいないのです。せいぜい厚かましく自分を見た方がいいのです。人間をどれだけ大きく見ても、見過ぎるということはありません。

 まだ見方が小さすぎるのです。神が見ているのは、神と同じように見ているのです。だから、人間を叱るのです。神が人間を虫けらみたいに見ているのでしたら、神が人間の不信心に対して、腹を立てるはずがないのです。自分と同じように見ているから腹が立つのです。

 御霊をせいぜい買い被るのです。崇めるというのは買い被ることです。崇めるというのは拡大することです。マグニファイ(magnify)するのです。御霊の偉さを押し広げるのです。そうすると、マグニファイになるのです。

 神が人間を生かしているのは、神の目的のためです。従って、皆様自身が悲しいとか、苦しいとかを考える必要はないのです。

 どんな経験でも、人間の経験というのは、すべてイズ(is)になってしまうのです。イズというのは、天のふるさとのニュアンスを称えているものです。

 できるだけ自分の思いを空しくして、素朴な感覚、素直な感覚で生きるのです。悪かったら謝ったらいいのです。

 すべてのことは神から与えられているのですから、それは自分自身を完成するためのものに決まっています。

 すべてのことを自分自身の立場から見ないで、神の立場から見るのです。そうしたら、魂に益があるに決まっています。肉には益がないが、霊には益があるのです。少々の行き詰まりとか、分からないことがあっても、どんどん前進したらいいのです。分からないことは神が教えてくれるでしょう。

 人間の機能はソウル(魂)としてのリビングです。リビングは五官に現われるに決まっています。五官として現われないものは、リビングとは言わないのです。

 リビングという言い方は抽象的ですが、五官というのは具体的なものになるのです。ですから、リビングと言っても五官と言っても同じことです。

 リビングは人間の場から言えば、ソウル(魂)です。ソウルは何かというと、五官の働きです。五官の機能の根源は神のロゴスです。ロゴスが肉体を持つことによって、五官の感覚が具体的に発生するのです。リビングソールというのは、神の言が肉となったものです。

 私たちが毎日食べている食物は何か。これがリビングゴッドです。生ける神が食物に化けているのです。生ける神が野菜に化けたり、お米に化けたり、牛肉や魚に化けているのです。それを人間は食べているのです。

 人間の機能は受動的な機能であって、外に広がっている世界に反応しているのです。青空、山、川、海、林、田畑、道路、空気、水は全部神の権化になるのです。

 果物も神の権化です。神の権現にあるリンゴを食べている。リビングゴッドをリビングソールが経験しているのです。これがリンゴを食べていることです。

 リビングという神と人との共通の働き、存在がイズ(is)です。イズが人のふるさとです。リンゴを食べた思い出が、天のふるさとです。そこに、古里を見ているのです。

 人間が経験しているのは、全部天のふるさとです。人間の機能は生まれる前に神に植えられたものですから、ふるさとを捉えるのです。ふるさとを捉える機能に決まっているのです。毎日、毎日、ふるさとを経験しているのです。私たちはこういう世界に生きているのです。

 そこで、一番必要なことは、自分を徹底的に滅却することです。自分が消えるのです。そうして、互いに相愛するのです。お互いが一つになるのです。思う所を一つにして、キリストの喜びを満たすのです。キリストという人格において人間は一人なのです。

 現在の日本の治安は世界一良いようです。犯罪者の検挙率も非常に高いのです。どうして日本の警察力が充実しているのか。日本の社会がこんなに平和なのはなぜか。

 文明社会において、こんなに平和なのはなぜか。中国や北朝鮮といった全体主義国家でも、政治犯が非常に多いのです。これだけ日本の治安が良いというのは、御霊という神の力が働いているからです。従って、世界のユダヤ人が日本社会の不思議なあり方に目を向けなければならないように仕向けているのです。

 その原因が何処にあるのかと言いますと、日本の幕藩体制にあるのです。徳川幕府がしたことは、極端な統制社会を造ったことです。士農工商という厳然たる階級社会を造り、人々を徹底的に抑えたのです。

 その結果、儒教と仏教をちゃんぽんにしたような国ができたのです。修身斉家治国平天下といった思想が人々に染み込んでいるのです。

 江戸幕府が滅びて百五十年位になりますが、徳川三百年で培われた封建思想は容易になくならないのです。だから、世間の人目をはばかるとか、義理と人情を重んじるという精神は未だに存続しているのです。幕藩体制によって矛盾を呑まされて、言い知れない苦労をさせられたということが、今日の日本の肥やしになっているのです。

 そういう体制があったから、日本人は政治や法律に対して、無条件で従うことができるのです。法律は守らなければならないもの、税金は納めなければならないものという気持ちがあるのです。

 近頃は、だいぶ官僚の権威がなくなってきましたけれども、それでも税金は納めなければならないものという風潮があるのです。こういう日本社会でなかったら、本当の福音は安心して説かれないのです。

 イエスは、「自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」と言っています(マタイによる福音書6・6)。

 これが信仰の大原則になるのです。これがぴたっと板についていないと、結局、観念の遊戯になるのです。宗教になってしまうのです。

 現世に生きているということが、祈るという形を取らなくても、仕事をしている時でも、家事をしている時でも、自分の部屋に入って戸を閉じるということは、誰でもできることなのです。

 お風呂に入っている時でも、食事をしている時でも、歩いている時でも、自分が部屋に入るという気持ちを持つのです。

 祈ったことが信仰の具体的なプラスになるのです。これは十分に期待できることなのです。

 ヨハネは祈ったことがそのまま得たものだと言っています。こういう感覚がいわゆる無邪気な感覚です。これがピュアーハートです。

 自分を疑うような気持ち、祈ったけれどその効果を期待しないような気持ちは、最も警戒すべきものなのです。

 キリスト教の祈りは祈るけれども、期待を持っていないのです。ことにキリスト教の教役者の祈りは、人に聞かせる祈りであって、全然神に願っていないのです。

 その最も典型的なものはカトリックの祈祷書です。祈祷書をただ読むだけです。儀式の時にはやむを得ないかもしれませんが、本当は祈祷書の文章を読むよりも、心で思ったことを祈ったほうがいいのです。

 本当に御霊を崇める人たちばかりの集会であればやりやすいのですが、御霊を崇めることができない人が多い場合には、祈祷文を読むこともやむを得ないかもしれないのです。

 現在、人が生かされていることが父なる神ですから、隠れた所にいます汝の父はいつでも私たちと共にいるのですから、この共にいます父を祈る前に信じるのです。そういう気持ちで祈るのです。

 信じるという気持ちと祈るという気持ちが一つになることです。信じるという気持ちがすでに祈りになっているのです。祈るということが、また、信じるということになるのですから、生活の中へできるだけこれを持ち込むのです。そうすると、いつでも祈ることができるのです。

​(内容は梶原和義先生の著書からの引用です)
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