彼岸へ渡ることが人生の唯一の目的
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仏教というのは大乗の理論、小乗の理論と、八万四千の法門を展開しているのですが、これが宗教です。宗教をいくら勉強しても、人間の命には関係がないのです。
私たちに必要なことは、本質の究明です。宇宙の大霊というのは命の本源そのものです。宇宙の大霊の助けによって、命の本源を知るのです。
釈尊の生き方は悟ることです。これが釈尊の生き方の中心命題です。しかし、悟るということは、仏性的によほど恵まれた人でなければできないことなのです。
本質的に言いまして、悟るとは一体何なのかということです。何を悟ることなのか。涅槃寂静と言いますが、涅槃というのは、冷えて消えてなくなってしまうことです。
般若心経に究竟涅槃という言葉がありますが、結局涅槃を究竟するということが悟りです。人間が悟りを開くということが、果たして妥当なのかどうか、こういうことを考えてみますと、難しい問題が出てくるのです。
人間は生まれたいと思って生まれてきたのではありません。命の本質に係わっていくためには、私たちの命の本源を究明しなければならないことになるのです。
人間は自分で生まれたいと思って生まれたのではない。これは明々白々な問題です。生まれたいと思って生まれたのではないとしますと、皆様は自分ではないことになるのです。自分の意志によって生まれたのなら、自分に決まっているのです。自分に違いないのです。自分の意志で生まれたのではないとしますと、自分はいないのです。自分ではないのです。
悟りと言いましても、何のために生まれてきたのか分からない人間が悟ったところで、果たして本当の悟りになるのかという疑問が生じるのです。
私は釈尊の悟りを批判するつもりは全くありませんが、現在では何が釈尊の本当の思想であるかが、分からなくなっているのです。八万四千の法門と言いますが、釈尊の弟子たちが勝手に作っていったのです。その結果、一万七千六百巻という膨大な経本になったのです。
阿含経とか、華厳経、大日如来経、大般若経、法華経の基本になる思想が空です。これが般若心経に説かれているのです。
般若心経は日本人に最も愛好されている経典になっているのです。これは空観を中心にしているのです。もちろん般若心経だけが仏典ではありません。
般若心経は四諦八正道、十二因縁を無であると喝破しているのです。小乗を喝破して、大乗涅槃を顕揚しているのが仏教であると思われるのです。
釈尊はインドの釈迦族の皇太子でした。宗教の素人です。だから素人的な考えで、一切の理屈を抜きにして、率直に人間が生きているという実体を捉えて話し合うことがいいのではないかと思ったのです。
私が話していることが宗教ではないと言いますのは、宗教教義を述べているのではないということです。キリスト教がいう贖罪論とか再臨論、終末論というのは宗教の教義でありまして、教義に基づいて教えを説くものが宗教です。
私たちが考えているのは、命そのものの当体を捉えて、何のために生きているのかということを、究明することを目的としているのです。
いくら仏を信じた、キリストを信じたと言っても、死んでしまったら何にもならないのです。イエスは、「私を信じる者はいつまでも死なない」(ヨハネによる福音書11・26)と厳命しているのです。
イエスがいつまでも死なないと厳命した根拠は何だったのか。イエスはなぜ復活したのか。復活したという事実は何であるのか。どういうことなのか。我々も復活に与れるものか、そうではないのかということです。
今の人間はぼやっと生きているから、皆死んでしまうのです。これがいわゆる釈尊の空ですが、現在の人間の理屈は悟ったと言おうが、信じたと言おうが、考え方の根本が空なのです。
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(内容は梶原和義先生の著書からの引用)