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基本的人権


 基本的人権という言葉は日本の憲法にありますし、国連憲章にもあるのです。ドイツの基本法、ギリシャ憲法にもあります。一体どういうところから人権という概念が出てきたのか。これは自我意識から出てきているのです。デカルトの、「我思う、ゆえに我あり」というところからきているのです。

 しかし、般若心経の思想で言いますと、現在人間が持っている常識と知識が、本質的に空であるとはっきり言っているのです。これは釈尊の概念ではありません。釈尊は実体を見て言っているのです。

 現在の人間は生きていても、ただ死んでいくだけです。人間の尊厳性とか、基本的人権と言いますけれど、結局は死んでいくだけなのです。死んだらどうなるか分からない。命の本質が分からないのですから、死んだ後のことが分かるはずがないのです。

 こういう問題について、宗論の展開ではなくて、はっきり現在生きているという命について勉強をしたいと思うのです。

 私たちの心臓は宇宙の大生命によって動いているのです。これは自明の理です。ところが、人間の考え方は、宇宙の生命に従って考えているのではない。自分自身の利害得失について考えているのです。

 宇宙の命で生きていながら、自分の都合で考えているという間違った状態にあるのです。生かされているという状態と、生きているという気持ちとが矛盾しているのです。ここに人間の死があるのです。

 こういうことを究明していけば、死という問題が解明されるのです。無明煩悩の中に沈み込んでいるから、また、肉の思いにしがみついているから人間は死ぬのです。

 肉の思いは死です。死は妄念です。妄念を頭に詰め込んでいるために、人間は死ぬことになるのです。妄念を吐き出してしまえば、死を追放することができるのです。

 イエスが復活したのは死を破ったのです。死を乗り越えたのです。これは歴史的事実です。これは宗教観念ではないのです。

 イエスははっきり復活したのです。日曜日はイエスの復活記念日です。皆様はイエスの復活記念日である日曜日を守っているのです。世界中の人が守っているのです。このような歴史的な必然性があるのです。

 現在白人が世界の指導をしています。なぜこういう世界歴史になっているのかということです。仏法ではただ因縁所生と片付けていますけれど、果たして因縁という原理がどうしてあるのかということです。

 どうして白人が現在の世界を指導しているのか。地球がどうして造られたのか。人間はどうして生きているのかという実体的なことについて、謙虚な気持ちで究明していかなければならないのです。今の歴史と自分が生きているという状態とを、よくよく見比べてみれば、世界歴史の流れがどういうものかが分かってくるのです。

 世界歴史の中心をなす者がユダヤ人です。近代文明の展開はユダヤ人学者による功績が基礎になっているのです。こういう事実がどうして発生したのかということです。

 これは仏典ではどうしても説明ができません。だからどうしても聖書に行かなければならないのです。

 私たちが仏教で十分に考えなければならないことは、空という思想です。人間が現在生きている生き方が空です。このことをはっきり承知する必要があるのです。

 そうすると、初めて心が貧しくなって神を見るということができるのです。現在の常識を持ったままで、いくら神を信じようとしてもだめです。だから死んでしまうのです。人間が肉の思いを持ったままでは、人間は死ぬに決まっているのです。死ぬしかないのです。

 死ぬしかないというばかばかしい運命から逃れたいと思いませんか。私はこれを言いたいのです。死ぬしかないという状態から逃れたいと思いませんか。逃れたいと思われるのなら、いくらでも相談相手になりたいと思うのです。

 私も教えて頂くことがあるでしょう。お互いに教え合って、助け合って、死を乗り越えていこうというのが私たちの主張です。

 人間には誰でも死にたくないという気持ちがあります。死にたくないという気持ちがあることは、何とかしたら死ななくてもよい方法があるに違いないと思うから、死にたくないという気持ちが持たされているのです。

 人間は死ぬに決まったものではありません。死ななくてもよいのです。「肉の思いは死である。霊の思いが命である」とパウロが言っているように、肉の思いを捨てて霊の思いに立てば、人間は死ななくなるのです。この事実を究明するのが私たちの目的です。

 般若心経は人間が生きている実体について述べているのです。人間から見れば、人間が生きていることが実体に見えるのですが、人間が生きているのは、肉体感覚を鵜呑みにして生きているのです。

 目で物が見えると考えている。ところが、目で物が見えるのではないのです。目に物が映っているのです。光線の反射によって、目に光線が当たっているのです。網膜に物象が映っている。これを見えると言っているのです。

 人間の目は鏡と同じであって、物が映っているのです。鏡の中から映像が出てくるのではないのです。目の前に何かが現われなければ映らないのです。

 人間の目はそのような働きしかできないのです。ところが、人間は自分が見ていると思っているのです。これは自分が生きていると考えていることと同じです。

 人間は生きているのではなくて、命を経験させられている。これを論理的に、また、理論的に検討するというやり方が、哲学という思考方式になっているのです。

 ところが、現在の哲学は、人間が生きていることをまともに思考しないで、理屈で考えようとしているのです。例えば、弁証法とはどういうものかとか、政治と経済の関係はどういうものかということ、政治と生活の関係はどういうものになっているかということについて、論理的に分解しようと考えているのです。これが哲学の堕落です。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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