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「命の本源」


 端的に申しますと、皆様が生きていることが神です。神があるかないかと言われますが、実は心臓が動いていることが神です。これは宗教を信じるとか信じないということとは違うのです。

 私たちは生まれたいと思って生まれたのではありません。そうしますと、私たちが生まれてきたということ自体が神です。地球が自転公転しているということが神です。空気や水が無尽蔵に供給されているということが神です。命の本源を神と言わなければしょうがないのです。

 人間に命があるということは、命の本源があるということです。命の源がなければ命があるはずがないのです。命の源を掴まえることが人間のしあわせです。しあわせというのは幸せというのではなくて仕合わせることです。AとBとが仕合いをするのです。これがしあわせです。

 皆様が地球上に生まれてきたということが、生まれるべく仕向けられたのです。これが今の命です。今生きているということは仕向けられた命です。

 生まれてきたということは苦労が多いことです。楽しいこともあると思いますけれど、それを正しく認識しなければひどい目に会うのです。人間が生きているということは、業(ごう)です。この世に生きていることが業です。

 人間は生まれるべく神に仕向けられたのです。これに対して人間が仕合わせているかどうかが問題です。仕合わせるということをしますと、本当の幸せが分かるのです。

 皆様の中にある良心は、神に仕合わせるための心です。良心は人間の道徳くらいでは満足しません。良心は徹頭徹尾本当に良いことを願っているのです。これは何を願っているのか。良心は一体何を眺めているのか。どうしたら良心を満足させることができるのか。これは宗教では説明ができないのです。神を知らないからです。

 今の宗教家は本当に良心を満足させる生き方をしていないのです。これは男性よりも女性の方がよく分かるのです。女性はハート的な面を多く持っているのです。男性は頭で考えるのです。

 男性は現世的にできているのです。例えば、政治理論とか経済理論を考えるのは男です。ハートの方はそうではない。ハートが求めているのは愛です。本当の愛を求めているのです。本当の愛が最高の善です。これ以上の善はありません。これが神です。

 例えばお米の味、太陽光線の味、日向ぼっこの味、果物の味、マグロの味、鯛の味、牛肉のステーキの味が最高の善です。

 ところが、日本人は本当の命を知らないので、マグロの刺身が本当の神の愛を示しているということが分からないのです。芭蕉はこれが少し分かったようです。分かったので、「名月や 池を巡りて 夜もすがら」という句を詠んでいるのです。名月を見ていて夜通し回っていたのです。これは芭蕉の魂が神の愛を直感していたからです。芭蕉の良心が神の愛を直感していたのです。

 芭蕉の俳句には良心の感銘が非常にはっきりしているのです。良心は最高の善を求めているのです。人間の善ではなくて神の善を求めているのです。

 空気の味、水の味、太陽光線の味、食物の味が何かが分かれば、生きている味がだんだん分かってくるのです。生きていることの楽しさが分かるのです。生きている有難さが分かるのです。これは無限の有難さです。これが心に染み込んでくるのです。これが人生の目的です。

 まず自分の命は自分のものではないと考えることです。天から与えられたものです。天とは何かと言いますと、神です。神と言っても、天と言っても、命と言っても皆同じことです。

 人間は天から命を預けられているのです。神からの預かりものが皆様の命ですから、このことを認識することが最高の喜びです。そうすると、そこはかとなく喜びが湧いてくるのです。

 私たちは今自分の命ではない命を生きている。神の命を今経験しているのです。このことが分かりますと、今まで味わったことがない喜びを経験することができるのです。こういうことを良心が求めているのです。

 人間はこの世で生活するために生まれたのではありません。この世でまず魂を見つけるのです。そうして魂の本質が何を求めているのかを知るのです。魂の本性とは理性の本性、良心の本性ですが、理性は無限の真理を求めているのです。

 例えば科学とか、哲学、数学は何を求めているのか。つまり理性は無限の真理を追求しているのです。良心は最高の善を求めているのです。

 無限の真理と最高の善を求めることが魂の目的です。これを求めますと、命の本質が理解できますので、死なない命があることが分かるのです。

 ところが、学問は無限の真理を教えてくれないのです。最高の善も教えてくれません。現在の学問にはそれぞれの主義主張がありますけれど、最高のものが何であるかがまだ分からないのです。

 例えば、科学の目的は何であるのか、何のために科学が存在しているのかがはっきり分からないのです。哲学もそのとおりです。何のために哲学があるのか。概念としては霊魂の安定とか、政治の安定という概念はありますが、本当の意味での目的がないのです。人間とは何であるかということの定義ができないからです。

 学問では人間の本質が捉えられていないのです。だから道徳も宗教もそれが良いのか悪いのかという決定的な答が、学問では引き出されてはいないのです。

 学問は皆中途半端なものです。はっきりした目的論的なものがありません。これはユダヤ人の考えに従っているからそうなるのです。つまり現在の文明が学問に頼りすぎているのです。学問が完全無欠なものであればいいのですが、学問は欠点だらけです。教育も欠点だらけです。

 科学者は科学のことは分かりますが、政治や経済のことは分かりません。だから科学者のコンプレックスがあるのです。哲学者には哲学者のコンプレックスがあるのです。自分の専門以外のことは私には分からないと堂々と言っているのです。これは学者のコンプレックスです。

 こういうコンプレックスの持ち主が、大学教授で通っているのです。現在の学問にはそれぞれの専門学はありますけれど、全体の学を統一、総括するような思想原理が、今の学問にはないのです。従って、科学で勝手な研究をしているのです。政治学は政治学で勝手なことを言っているのです。経済学は経済学で勝手なことを言っているのです。だから、核兵器を発明し、それが世界に拡散しつつあるのです。誰もそれを止められないのです。

 学問全体を統一する指導原理が、今の学問にはありません。世界全体が混乱するばかりです。とにかく、本当に信用できる学問がないのです。今の文明構造が人間の霊魂について責任が持てるような高いものではないのです。だから、皆様はご自身で本当に聖書を勉強するしかないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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