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大乗起信論


 大乗起信論によりますと、妄念が妄念を受け継いで、無限の無明に沈み込んでいるとはっきり書いているのです。こういう人間が果たして悟ることができるかどうかです。また、悟ったとしても本物であるかどうか疑わしいのです。こういう疑問が起きてくるのです。

 私たちが現在生きていることは何なのかということです。人間は何のために生きているのかということです。こういう問題をはっきり究明するために、まず般若心経の空観に徹することが必要です。人間が現世に生きているのは、全くばかみたいなものだということをまず悟ることです。

 その次に今生きているというのは何か。この事実をはっきり掴まえようとするのです。そのために、空観の結晶である般若心経と、永遠の生命の結晶としての聖書を勉強しなければならないと考えるのです。

 これは宗教ではありません。宗教の宣伝をするなら般若心経を宣伝するか、聖書を宣伝するかどちらか一つにするに決まっています。般若心経と聖書の両方を一つにして取り扱うと、宗教にはならないのです。日本社会における宗教という概念から外れてしまうのです。

 私たちは命とは何か。何のために生きているのか。死とは何であるのか。生とは何かということを端的に究明したいと考えるのです。

 仏法は本来悟ることを本則としているのです。ところが、人間が悟るということは可能なのか。例えば、人間の理知性が仏性であるとしても、仏性の本質が何であるのかということです。一体どうして人間に仏性があるのかということです。

 仏性において悟ったということになりますと、人間が悟ったのではなくて、仏性が悟ったことになるのです。般若心経で言いますと、観自在菩薩が悟ったと言っているのです。観自在菩薩が深波羅蜜多を行じた時に、五蘊皆空と照見したと言っているのです。これは人間が悟ったのではなくて、観自在が悟ったのだということになるのです。そうすると、これは人間の悟りにはならないのです。

 人間にある仏性というものは何であろうか。なぜ人間に仏性があるのであろうかということです。悟りということが良いのか悪いのか。また本当の悟りはどういうものでなければならないのかということについても、仏教の教理についてではなくて、私たちが生きているという実体に即して考えなければならないのです。

 聖書について申し上げますと、聖書に悟りという言葉はありますが、あまり強調していないのです。イエスがおまえたちはまだ悟らないのかという言い方をしていますが、悟るというのは仏典で言っている悟りとは違うのです。

 仏典でいう悟りは空観に徹することをいうのです。イエスが言っている悟りというのは、宗教の誤謬性、または架空性について未だ悟らぬかと言っているのです。宗教の間違いを未だ悟らぬかと言っているのです。

 人間の命は教義ではありません。実際に私たちは生きているのです。皆様の心臓は現在動いているのでありまして、これは理屈ではないのです。ある場合には理屈も必要ですけれど、人間が生きているという事実は実体です。

 聖書では信仰と言っています。信仰とは何であるのかと言いますと、人間が神を信じることとは違うのです。キリスト教ではそう考えているのです。ところが、聖書の信仰はイエス・キリストの信仰と言っているのです。または神の信仰と言っています。

 イエスは「神において信じよ」と言っています。ヨハネによる福音書十四章一節に、believe in Godとあります。これは神において信じよとなりますが、日本語の聖書では神を信じよと訳しているのです。こう訳すと人間が神を信じることになるのです。しかし、イエスが言いたいところは、妄念を持った人間、無明煩悩の人間がそのままの気持ちで神を信じても、まともな信仰にはならないと言っているのです。

 無明の塊の人間がそのままの気持ちで神を信じたところで、まともな信仰にならないのです。神において信じよと言っているのです。例えば、皆様が月をご覧になる時には、月の光で月をご覧になっているのです。このやり方をするのです。

 月の光で月を見るのです。神の知恵で神を見るのです。神の心で神を信じるのです。これは仏性において悟るのとよく似ているのです。

 ところで、聖書の信仰は信じると言いますけれど、他力本願の信仰とは違うのです。三部経で言っている信仰とは違うのです。どこが違うかと言いますと、信仰というのは神において神を信じることなのです。これは絶対他力という仏教的な言い方とよく似ています。

 しかし信じるという心境について言いますと、少し違うのです。聖書でいう信仰の心境はどういうものかと言いますと、神による啓示をいうのです。神による啓示というのはは聖書独特の思想です。仏教にはこの類例がありません。この点において仏典と聖書ははっきり分かれてくるのです。

 仏教学者は啓示が分からないと言います。仏教学者に啓示が分かるはずがありません。これは開かれることです。啓開されることです。人間の常識、知識では命の本質はどうしても分からないのです。命を完全に客観視して考えないとその本質は分かりません。

 自分が生きている状態を十分に客観視するのです。口で言いますと完全な説明にはなりませんけれど、神の御霊(みたま)によって見ないと分からないのです。

 御霊というのは聖書独特の言い方ですが、宗教観念ではないのです。例えば現在地球が回っています。これは御霊の働きです。花が咲くこと、稲が実ること、豚が太ること、魚が成長していくことを御霊の働きと言っているのです。

 宇宙の大霊が人間の魂の指導霊となって、現世に下っている。これを聖霊の降臨と言っているのですが、この助けによらなければ人間の命の本質は究明できないのです。御霊によって天的な知恵が啓開されることが信仰です。これが本当の信仰です。これはキリスト教でいう信仰とは違うのです。

 キリスト教では普通の人間が神を信じることを信仰だと考えているのですが、聖書の信仰の本質は啓示です。仏典の本質は悟りです。釈尊の中心はどこまでも悟りであって啓示ではないのです。

 大体、仏典では人間が何のために生きているのか分からないのです。人間は何のために生まれてきたのか。地球が何のために存在するのかということです。これが仏典では分からないのです。

 私が本当にお話ししたいことは、宗教観念による人生の結論ではなくて、現在人間が生きているという実体について考えたいということです。

 人間が現在生きているのは、日本の国民として生きていますけれど、日本という国は二○一五年の現在、世界の一員として歴史的な実在の中にあるのです。また、私たちの命も世界の一員としての責任を持って生きているのです。世界の歴史の流れと共に生きているのです。

 世界の歴史の流れは事実です。私たちが生きているということは、世界歴史の中で生きていることです。

 釈尊は色々なことを言いましたが、如来という思想は釈尊の中にはないのです。大乗仏教ができてからアショーカ王以後に如来という思想ができたのです

 釈尊は空を説いたのです。涅槃に徹した思想が釈尊独特の思想です。また、釈尊の最も釈尊らしさは空観の徹底にあるのです。涅槃寂静の境にあるのです。寂滅為楽の境にあるのです。涅槃経第十三の偈に諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽とあります。また、三法印ははっきり釈尊の思想の中心を貫くものであると考えているのです。

 空という考えだけでは人間の俗念がおさまらないので、後から大日如来とか阿弥陀如来、三部経、無量寿経を造ったのです。釈尊の空観だけでは満足できない人間の俗念を満足させるために、他力的な概念を後から加えたと言えるのです。

 私たちが現在生きているこの命は、世界歴史の中で生きているのですから、世界歴史がどこへ流れていくのか、世界歴史がどのようにして今日まで展開してきたのかということの中心テーマがはっきり究明できないようでは、現在生きているということの意味がよく分からないのです。

 そのためには、天地創造という思想、歴史の流れという思想を捉えていかなければならないのです。そうしなければ、命ということが分からないし、死も分からないのです。

 死んでから如来さんの所へ行くというのは仏教の概念であって、私たちが生きているというのは概念ではありません。事実です。この事実を究明するためには、事実に基づいてしなければならないのです。

 生まれてきたという言葉があります。この言葉をごく自然に使っています。また、死んでいくと言います。生まれてきたというのはどこかから生まれてきたのです。死んでいくというのはどこかへ行くのです。

 人間の命が生まれる前にどこにあったのか。このことについてはっきり究明するのです。また、死ぬとはどうなるのか、死んだ後にどこへ行くのかをはっきり究明するのです。

 現在の人間は何のために生きているかを知らずに生きているのです。命とは何かも知らないのです。ところが、現在皆様は目が見えるのです。耳が聞こえるのです。これは現在、皆様は命の本質に直面しているということです。

 現在皆様は命を経験しているのです。生きているのです。ところが、命とは何かが分かっていない。神とか仏とか言いますけれど、自分の命の本質がよく分からないようでは、宗教概念の空回りになるだけです。

 生きていながら命が分からないというのは、正しく生きていないということになるのであって、こんな状態でもし皆様が死んでしまいますと、大変なことになるのです。

 人間が現世に生きているのは責任があるのです。ノルマがあるのです。現在、人権ということがしきりに言われています。人権とは人間の基本的な権利です。基本的な権利が言いたければ、基本的な責任を自覚する必要があるのです。

 責任を感じない状態で人権と言われていますが、こういう文明は全く間違っているのです。文明の本質が人間の本質から外れてしまっているのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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