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永遠の生命を得るためにどうしたらよいか


聖書は、神という存在と、人間の本質である魂の二つをつないでいるのです。これが分からないために、命ということ、神ということ、存在ということが全く分からないのです。  地球が存在するということはどういうことなのか、これが分かっていないのです。天文学者が分かっていないのです。地球という存在は、特殊な惑星です。植物や動物が地球にはつまっている。生命現象が地球に満載している。この不思議な惑星が、太陽系にだけ存在している。こういう存在をどう説明するのか。現在の天文学者は全然分かっていないのです。  地球は、普通の惑星ではないのです。森羅万象、万物という不思議な生物が繁茂している。私たちはこの地球があるために、生まれてきたのです。人間という不思議な生物が、地球にだけ発生している。  ユダヤ人のSFでは、地球以外にも人間が存在する惑星があるだろうと言っていますが、それはユダヤ人の御伽話なのです。ユダヤ人はこういう言い方で、地球をまじめに見ようとしないのです。地球をまじめに勉強させようとしないのです。そういうトリックがあるのです。  現代人は、大なり小なりユダヤ主義に感化されているのです。高校や大学で習ったことの基本原理は、ほとんどユダヤ主義です。そういうトリックにかかってしまっているのです。  日本人は聖書を読もうとしません。これは非常に不幸な状態です。だから天皇制ということが分からないのです。聖書をまじめに読もうとしないものに、天皇制が分かるはずがないのです。それは日本の右翼が考えているようなものではありません。天皇御自身が天皇制を理解していないのです。これは何を意味するのか。こういう日本の根底についての問題が、全然理解されていないのです。  聖書は、世界の文化の元です。世界的な文化の根底なのです。人間存在の根底が聖書です。神と人間の霊魂の関係が、人間の生命現象の基本です。日本人は生命現象の基本について、はっきり受けとめていないのですから、生きていることの説明が全くできないのです。  神と言っても、仏と言っても、根底から間違っている。キリスト教は、イエス・キリストの贖いによって救われるということは言います。それは、キリスト教の宗教概念なのです。宗教概念は聖書の人口です。中まで入っていないのです。入口まで行った人が、もう中へ入りこんだと思いこんでいる。そういう思いあがりが間違っているのです。  新約聖書ローマ人への手紙三章二十三節に、人間は皆罪を犯したので、神の栄光を受けることができないと書いてあります。これは、神が人間に永遠の命を与えているけれど、それを受けとるだけの精神的な機能性を持っていない。人間はすべて罪を犯しているので、神が人間に与えている永遠の命の本質を、受けとめることができないような精神状態になってしまったと言っているのです。  人間は、聖書を読み、キリスト教の説教を聞いたぐらいでは、神の永遠の命の実物を受けとることはできないのです。なぜかといいますと、自分自身が生きているということが、間違っているからです。そこでイエス・キリストの十字架を受け取ることが絶対に必要になってくるのです。  十字架というのは、人間が死んでしまうことなのです。神の目から見ると、肉体的に生きている人間は、イエスの十字架によって、すでに死んでしまっているのです。神は、肉体的に生きている人間を、認めていません。神が認めているのは、復活したイエスだけです。復活のイエスの命を受けとらなければ、命はないのです。神が認めているのは、イエスという人だけなのです。イエス以外の人間を、神は一切認めていないのです。この原理はなかなか難しいので、狭き門とイエスが言っています。  要するに、人間はすでに救われてしまっているのです。しかし、神が与えている復活の命を、受けとることができなくなっているのです。常識でごまかされているからです。学問で、頭がユダヤ主義になりきっているからです。  常識、学問は、霊魂を盲目にしてしまうものです。人間は知らず知らずのうちに、文明思想によって、魂が盲目になっているのです。だから、文明思想で物を考えているとイエス・キリストの復活は全然分かりません。人間は皆罪を犯したから、神の栄光を受けとることができなくなっている。この言葉ではっきり証明できるのです。  本当に永遠の命を得たいと思われるのなら、真剣に勉強してください。イエスは、新しく生まれなければ、神の国を見ることができないと言っています(新約聖書ヨハネによる福音書3・3~3・6)。又、水と霊によって、新しく生まれて、神の国へ入れとイエスは命令しているのです。これをキリスト教では実行していないのです。水から生まれるとはどうするのか、分からないのです。キリスト教は宗教だからだめです。  現在の人間は、生きているのではありません。生きているかっこうがあるだけです。今の人間の命は、死んでしまうにきまっている命なのです。そういう命をもっていながら、生きているつもりなのです。これは根本から間違っているのです。その証拠に、70年、80年生きても、命について何も分からないのです。この世の商売のしかたとか、人間のつきあい方とかということは、ご存じです。しかし命については、80年、90年生きても、全然分からないのです。  そんな人間が救われて一体どうなるのでしょうか。仮にそんな人間が神の国へ行っても、座る席はどこにもないのです。神の国は、神の言葉どおりに、自分自身の命を切りかえたものだけが入れるのです。値段は高いのです。救われるというのは、簡単なことではないのです。そのかわり、救いというのは明白な事実です。  キリスト教ではだめです。キリスト教ではない聖書、本当の神の言葉をつかまえることです。自分の思いを問題にしているようでは、とても神を信じているとは言えないのです。神を信じるというのは、自分の気持ちを一切問題にしないことです。  心を騒がすな、神を信じ、また私を信じなさいとイエスは言っています。心を騒がすなとは、色々と考えるなということです。この世に生きている人間、肉体的に生きている人間が、肉の思いで良いと思っても、悪いと思っても、そんなことは霊魂の本当の声ではありません。霊魂の本当の声は、死にたくないという声です。死にたくないということを、熱心に考えることです。素朴に考えるのです。そうすると、死ななくてもよい方法が得られます。  イエスが誕生した時に、紀元元年が始まっています。西暦紀元というのは、人間が死ななくなったという、歴史的記録なのです。人間が死ななくてもよいようになってから、2000年もたっているのです。  それなのに、まだ人間は死なねばならないと思っている。これは全知全能の神の処置に反抗しているのです。死んでからでは遅いから、生きているうちに目を開くのです。神はすべての人に、死ななくてもよい命をすでに与えているのです。死ななくてもよい命の実物を、すでに与えているのです。復活という水遠の命の実物を、与えているのです。  聖書は、父なる神は、イエス・キリストを死人のうちから甦えらせたことによって、すべての人を再び生んだと書いてあるのです。この言葉をキリスト教の人々は見のがしているのです。  自分がキリストを信じてもだめです。自分というものは、もういないのです。そして、今生きている命が、キリストの命になっているのです。もう人間は死ぬ必要はないのです。  ところが、いまだに、世界中の人間が死なねばならないと思っている。これは文明のせいです。文明を形づくつているユダヤ人のせいです。世界の政治のせいです。政治が悪いのです。教育が悪いのです。経済、文明が悪いのです。ユダヤ人が絢欄豪華な文明をつくりあげて、人類の目からイエス・キリストを隠しているのです。神は新しい命を、提供しているのです。人間はそれを受けとっていないだけなのです。聖書がキリスト教だと思っているからです。  世界の歴史は新しくなっているのです。西暦紀元というのは、神が人間に死なない命を提供してから、2006年になったということなのです。この神の処置を黙って受けとればよいのです。これが死なない命を得る唯一無二の方法です。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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