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「神の安息」


聖書に馴染みのない方には、神の安息はとても難しいテーマですが、一応述べてみます。  人間は欲に従って求めているので、どうしても正しく理解することができないのです。  ヤコブが言っています。「ただ、疑わないで、信仰をもつて願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かを頂けるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない」(ヤコブの手紙1・6~8)。  自分の肉(現世)の生活のことを気にかけて、色々考えている。自分の肉の生活があると考えている人は、全く泥炭みたいな人になるのです。  聖書が頭で分かったという人は、宗教観念です。自分が歩いていること、自分の心臓が動いていることが、神だということを知っていながら、それを信じていない。これが宗教観念です。  頭で知っていながら、心で信じていない。悔い改めて福音を信じていないのです。悔い改めずに、自分の頭で聖書を勉強している。だから、ピュアーハート(pure heart)ではないのです。悔い改めたら、清き心が与えられるに決まっています。清き心とよき良心と偽りのない信仰が、神に対する礼儀です。皆様はその礼儀を守っていない。悔い改めていないからです。  悔い改めて福音を信じるというのは、最高クラスの人に言っているのです。それ以下の人に言っても分からないからです。さすがに福音のレベルが高いのです。  本当の救いというのは、生きているままで永遠の命を生活することです。生きているままで神の国に入ることになるのです。これが新に生まれるというのであって、目が見えることが神だということを、いくら言ってもだめです。  汝の心を我に与えよと神は言っているのです。財産やお金を捧げるよりも、心を神に与えなければいけないのです。悔い改めるとはこれです。自分の精神をどのように用いれば、福音を正しく受け止めることができるのか。精神の用い方次第によって、ハートが清くなるかどうかの別れ道になるのです。  皆様は精神の用い方がよくないのです。ハートが神に所属していない。ハートを神に捧げていないのです。人間どおしの恋愛でも、ハートを捧げていない恋愛はだめです。人間は本当に困ったもので、神のハートを横取りしようと考えているのです。自分のハートは与えないで、人のものは自分のもの、自分のものは自分のものと考えるのです。悔い改めて福音を信じることができて、ようやく聖書を本当に勉強することができるのです。これから本当の神の国とは何か、第三天におけるキリストの体はどういうものか、聖霊降臨とは何かについて、本格的に学ぶことができるのです。  パウロは述べています。「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのである。私たちの命なるキリストが現われる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現われるであろう」(コロサイ人への手紙3・1~4)。  これが福音です。この世における家庭は嘘です。これはただの譬です。本当の家庭ではありません。この世の親子も、本当の親子とは違います。この世の兄弟でも、この世の夫婦でも、本物とは違います。譬の夫婦です。親子も兄弟も、すべてこの世のことは譬ばかりです。  イエスは自分の母に向かって、女よと言っています。九人兄弟であったのに、兄弟はいないと言っているのです。ところが人間は、この世の夫婦を本当の夫婦と思っている。そんなことで本当の福音が分かるはずがないのです。人もしキリストにあるなら、男もなし、女もなしです。自由人も奴隷もなしです。キリストの花嫁になる者は、天のエルサレムの住民であることを、はっきり確認していなければならないのです。  新約の時代は、神の国が実現している時代です。聖霊はすでに降臨している。すべてのものに神の御霊が注がれている。だから悔い改めて、福音を信じなければならないのです。  皆様の体には神の御霊が注がれているのです。太陽にも太陽光線にも神の御霊が注がれている。これが分からないのは、悔い改めていないからです。神の国に生きていないからです。  この世のことは、皆、譬です。商売も、健康も、人間関係でも、夫婦も親子も、皆本物ではないのです。  悔い改めて福音を信じれば、その実体が分かるのです。皆様はせっかくこの世に生まれてきたのですから、本当の命を経験して頂きたいのです。  聖書に、この言に命がある。この命は人の光である。光は暗きに照っているが、暗きはこれを悟らなかったとあります(ヨハネによる福音書1・4、5)。  命が皆様自身の光になって輝いているのに、人間はそれを全然悟っていない。皆様自身が、神の誠の光に目を開いて頂きたいのです。これは皆様が経験していた世界と違って、もっと次元の高い世界です。しかし、本当にやる気になればできるのです。そうしたら、第三の天におけるキリストの命がわかりますし、自分がいないことがはっきり分かるのです。  人間が色々考えていることは、皆間違っています。パウロはあなたがたは死んだものであって、その命はキリストと共に、神の内に隠れていると言っています。キリストが分からない以上、何を考えてもだめです。どんなに正しいと思う考えでも、皆様自身が死んでいるのですから、この世に生まれたことは、死んだことになるのです。ですから、生まれた日は誕生日ではなくて、命日になるのです。  人間はこの世に生まれた時に死んだのです。この世に生きていただけ、死んでいたのです。神から見ると、こうなるのです。これが分からないといけないのです。光は闇の中に輝いている。闇とは、人間が生きている世界です。人間の思いが、そのまま闇です。  人間がこの世で生きている思いは、闇です。肉の思いは死であると言っています。肉体人間が、この世に生きていると考えることは、死そのものです。この世で、三十年、五十年生きていたと思うことが、死んでいたことなのです。  自我意識によって、この世で長生きしていることは、マイナスになるばかりです。長生きしていればいるほど、神の前に罰が多くなるのです。思春期までに死ねばよかったのです。思春期が過ぎてからでは、もうだめです。ましてや、結婚してからではだめです。  現世でああした、こうしたと思っていることが、全部闇です。自分が生きてきたと  思っていることが闇です。その闇の中には、肉の思いがいっぱい詰まっているのです。その中に、ぴかっと光っているものがある。それがあなたの目、あなたの耳、あなたの触感、あなたの鼻、あなたの舌です。イエスは、あなたの目が正しければ、全身が明るいだろうと言っています(マタイによる福音書6・22)。全身とはホールボディ(whole body)であって、生まれてくる前の世界(前世)と、現在の世界(現世)、死んだ後の世界(来世) のことです。目が正しければとは、目で見ていることの意味が正確に分かれば、前世も現世も来世も、すべて明らかになるというのです。  ヨハネは言っています。  「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち、命の言について-この命が現われたので、この永遠の命を私たちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに知らせるのである。この永遠の命は、父と共にいました が、今や私たちに現われたのである」(ヨハネの第一の手紙l・l、6)。  よく見て手で触ったものが、初めからあった命の言です。初めからあった命の言とは、地球ができる前のことです。神がこの世を創造する前です。その時にあった命の言に、私たちは毎日触っているのです。  永遠の命の言を、今、目で見て、手で触っているのです。初めからあった命の言が、地球に満ちているのです。それに触っていながら、それが分からないのです。それどころか、人間は地球を食い荒らし、自分勝手な生活をしているのに、神は全然文句を言いません。なぜでしょうか。それは神が安息しているからです。これは恐ろしいことなのです。これについてパウロは次のように述べています。  「それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているのにもかかわらず、万一にも、入りそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、私たちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、私たち信じている者は、安息に入ることができる。それは、『私が、怒って、彼らは私の安息に、入らせることはしないと、誓ったように』と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、出来上がっていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、『神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた』と言われており、またここで、『彼らを私の安息に、入らせることはしない』と言われている。そこで、その安息に入る機会が、人々になお残されているのであり、しかも初めに福音も伝えられた人々は、不従順のゆえに、入ることをしなかったのであるから、神は、改めて、ある日を『きょう』として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、   『きょう、御声を聞いたなら、    あなたがたの心を、    かたくなにしてはいけない』    とダビデをとおして言われたのである。  もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。  こういう訳で、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息に入った者は、神が御わざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって私たちは、この安息に入るように努力しょうではないか。そうでなかったら、同じような不従順の悪例にならって、落ちていく者が出るかもしれない」 (ヘブル人への手紙4・l~13)。  これは直接的にはイスラエルに対して言われていることですから、異邦人には関係がないことです。しかし、異邦人でも御霊を受けた人は、神の約束の民になっているのです。御霊を受けた者は、約束を受けたのですから、ヘブル人への手紙の四章の一節から十一節までが、そのまま適用されることになるのです。  神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているのです。万一にも入りそこなう者がないように、注意しなければならないのです。  現在人間は、神に逆らったり、神に反抗したりしていますが、神は一向に咎めようとしません。神があるのかないのか、全く分からない状態にあるのです。文明が始まってから今日まで、人間は六千年位生きてきましたが、何をしていたのかと言いますと、罪ばかり犯していたのです。自分の気持ちで生きていたからです。その他は何もしていなかったのです。  皆様は今まで何十年間、この世に生きていました。一体何をしていたのでしょうか。自分の思いで生きていたでしょう。自分が幸せになりたいという思いで生きていたでしょう。それでも神は黙っていました。自分勝手な生き方をしていました。特に異邦人は神をばかにして生きてきたのです。神なんかあるもんかと、平気で言って生活していたのですが、神は黙っていました。なぜでしょうか。神が安息しているからです。  異邦人はこの世に生きるために生まれてきたのです。日本民族は本当にレベルの低い民族です。文化意識が低く、シャーマニズムばかりを尊んできました。愚かな民族です。そういう日本人的な愚かさが、皆様の性根に染み込んでいるのです。  パウロは恐れおののいて、おのが救いを全うせよと言っています。なぜ恐れおののかなければいけないのかと言いますと、神が安息しているからです。人間が言いたい放題、やりたい放題のことをしても、神は黙っています。全く干渉しません。これが怖いのです。  神が自分の業を休んだように、私たちも又、業を休むべきです。十節に、神の安息に入った者は、神が御業を休んだように、自分たちも業を休むべきであるとあります。  自分の業を休むとはどうすることか。自分の業を休もうと思ったら、自分の思いを捨てたらいいのです。毎日、事ごとに、どんな事がらについても、自分の考えをいつでも捨てるという癖をつけたら、勝手に安息できるのです。自分の思いを捨てるだけでいいのです。  神は皆様を、すでに安息に入らせているのです。世界中の人間も、全部安息に入れているのです。ところが、人間が自分の思いを捨てないから、安息できないのです。  人の子は安息日の主です。人間として生きないで、魂で生きている状態を、人の子と言います。魂として生きているのは、安息日の主であって、安息そのものを、自分の命として用いることが許されているのです。自分の思いを捨てて、神の御心に一致する。悔い改めて福音を信じることです。  悔い改めるというのは、自分の精神の霊を新にすることです。物の考え方を全く変えてしまうことです。心の霊を新しくするのです。古き人を脱ぎ捨てるのです。良かれ悪しかれ、今までの自分を問題にしないのです。  自分の思いを捨ててしまいますと、自分がどうなってもいいということが、はっきり分かります。そうすると初めて、本当に楽になります。  皆様は自分がどうにかならなければいけないもののように思っています。勝手に自分自身を担いでいるのです。実は、皆様は、あれこれしなくてもいい。もう救われているのです。生かされているということだけで、完全に救われているのです。それ以上どうかならなくてもいいのです。  パウロは言っています。  「あなたがたは、すでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠れているのである」(コロサイ人への手紙3・3)。  キリストは現在復活して第三の天にいます。そのキリストの中に私たちの命がある。第三の天にあるのですから、それ以上の恵みを求める必要はないのです。第三天に行っているのに、まだどうかならなければいけないと思う。その思いを捨てたらいいのです。そうして感謝したらいいのです。聖書が十分に分からなくても、感謝したらいいのです。聖書が分からなければいけないという、欲に引っ張られているのです。この思いを捨てるのです。聖書がとことん分かるということは、ないからです。  生きていることが救われていることですから、安心したらいいのです。この世に生きていたという自分を、全部捨ててしまうのです。自分の運命を、全く捨ててしまうのです。これが自分の業を休むことです。  神を見て下さい。どこにいるか全く分からないのです。全然分からない。神は見事に安息しているのです。六千年の間、じっと安息しているのです。だから人間は平気で神なんかあるもんかというのです。神も仏もあるもんかと言わなければならない程、神は安息しているのです。神は沈黙しているのです。遠藤周作は神の沈黙の意味が分からなかったのです。アウシュビッツでなぜ七百万人のユダヤ人が殺されたのか。神が安息していたからです。  自分の業をする必要がない。すべて神に任せたらいいのです。異邦人は何を着ようか何を食べようかと思い煩うとあります。思い煩うということは、安息していない証拠です。異邦人はこの世で生きていると思っていますし、自分の命があると思っているのです。この思いが根本から間違っているのです。そういう病原菌が、腹の中にあるのです。この世で生きている人は、安息していない証拠です。そこで何を食べ何を着ようかと思い煩うのです。  悔い改めて福音を信じれば、間違いなく救われます。すでにあなたがたが生きているということが、救われていることなのです。皆様の目がどのように働いているか、耳がどのように働いているか、舌がどのように働いているかを、じつと見て下さい。それが救われている証拠なのです。  五官は直接的に神を崇めています。これが魂の働きです。五官の働きが魂の本性ですが、それがダイレクトに神を崇めているのです。ところが皆様の思いは、いつでも神に反抗しているのです。  安息日の休みが、神の民のためにまだ残されています。これは直接的にはイスラエルをさしていますが、間接的には御霊を受けている異邦人をさすのです。本当は、アブラハムの末であるよりも、神の御霊を受けている方が、直接的に契約の民と言えるのです。  神の御霊を受けている人のために、神の安息日はあるのです。神が黙って安息しているのはなぜか。神に背こうと、神に反抗しょうと、黙って見ているのはなぜか。現象世界は全部七日目に属する世界であって、神があるかないか全く分からない状態になっている。なぜこうなっているかです。本当の福音は一つしかありません。本当の真理は一つしかないのです。これを知るためには、どうしたらいいかと言いますと、安息するしかないのです。  安息するとは、自分の業(わざ)を一切休むことです。自分の業を休むとは、自分の思いを捨てることです。思いを捨てなければ、業は休めません。この世に生きていたという思い出を、全部捨ててしまうのです。毎日、毎日、新しい命で生きているのですから、捨てなければいけないのですが、人間は古い命を信じているのです。昨日の悩みを今日も持っている。昨日の悲しみ苦しみを、今日も持ち続けている。なぜそんなことをするのでしょうか。  日本では、何を言おうが、何を書こうが、誰も文句を言いません。こんな自由な国は他にはありません。古き人を捨てても、誰も文句を言いません。誰に遠慮をする必要もないのです。  先程も言いましたように、私たちは今、第三の天のキリストのボディとして生きているのです。ですから、私たちの利害はないのです。第三の天の生活が、この地球上に延長されているのです。  この世に生きているのはただの幻です。人間は影のようにさまよっていると、ダビデは言っていますが、肉体は影です。肉体は物理的に構造された影です。実体とは違います。ですから、何を食べようか、何を飲もうかと思い煩うなと言っているのです。イエスは空の鳥を見よと言っています。空の鳥は安息しているからです。空の鳥や野のユリのように安息したらいいのですが、人間は勝手に業を担いでいるのです。  この世の両親から生まれ、この世の家庭で育ったと思っている。ですから、いつまでたっても、神が信じられないのです。イエスは、この世の父を、父と言ってはいけないと言っています。父はただ一人、神しかいないからです。この世の父がいると思っている頭では、とても聖書を信じることはできないからです。  悔い改めて福音を信じるというのは、自分の業を捨てることです。安息に入ることです。自分の思いを捨てることです。良くても悪くても、自分の思いを捨てるのです。これができない人は、悔い改めていない人です。  イエスは「心を騒がせないがよい。神を信じ、また私を信じなさい」と言っています(ヨハネによる福音書14・1)。心を騒がすのは、安息していないからです。  神は空気を造り、水を造り、雨を降らし、太陽光線を与えて、知らん顔をして安息している。命と息とすべてのものを与えている神が、何も言わずにじっとしている。この神の御心が分かったら救われるのです。  神の安息の中に入ると、今まで考えられなかった光が与えられるのです。そうして、生活が、今までよりもっと都合よくなるのです。安息はしてみなければ、この味は分からないのです。  料理を食べてもなぜおいしいと思うのでしょうか。おいしいと思うことが救われている証拠です。神が皆様の魂を喜ばせているのです。味、形、色、香りで、喜ばしているのです。  人間は生きていることが、何となく嬉しいのです。それは神が魂を愛しているからです。それをしみじみと感じなければ、いけないのです。生きていることの有難さ、死ぬことの辛さを感じるのです。  人間はなぜ死ぬのがいやなのか。神と別れるのがいやなのです。何十年も生きていた人は、何十年も神の愛を経験していたのです。毎日、毎日、何十年も神の愛を経験していながら、まだ神の愛が分からないのかと言いたいのです。  皆様の目や耳は、命の光として皆様を照らしているのです。光は暗きに照っている。  自分という肉の思いに対して、味という光が照っているのです。ところが暗きはこれを悟らざりきとあります。自分が食べていると思うから、自我意識が皆、味を横取りしてしまうのです。自我意識というサナダ虫が、神の愛を全部食ってしまうのです。  リンゴにリンゴの味がするのは、当たり前と考える。マグロにマグロの味がするのは当たり前と考えている。神の愛が味となって、人の霊魂に接触していると考えない。神に栄光を帰さないで、勝手に生きている。これはけしからんことです。人間は全部罪の下に売られたが、イエスが十字架にかかったことによって、人類を全部買い取ったのです。人間だけでなく、地球全体を神が買い取ったのです。  その結果、すでに地球に神の国が来ているのです。聖霊は降臨しているのです。ユダヤ人さえこの事実を受け入れれば、地球に驚くべき平和が実現するのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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