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「アブラハムの信仰」


 聖書に馴染みがない人には、少々難しいかもしれませんが、ユダヤ人の祖先のアブラハムについて、述べてみなす。  ヨハネの黙示録に、万物の賛美が書いてあります。  「さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた。  『ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい』。  また、私は、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にある、すべてのものの言う声を聞いた。『御座にいます方と小羊とに、賛美と、誉れと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』」(5・11~13)。  万物は罪を犯していません。神に造られたままです。これが地獄へ行くはずがないのです。ところが、万物の上に立っている人間が地獄へ行く状態であるために、人間を押し退けて、生物だけが天に帰る訳にはいかない。そこで、造られたすべてのものは、神の子たちが、現われるものを待っているのです。  動植物が、滅びるのはいやだと言っている。そこで皆様が一人前の信仰になることを、万物が願っているのです。皆様がそうなれば、万物に対する正しい解釈が施されます。そうすると、万物が救われるのです。すべての人間がそうならなくても、人間の中のごくわずかな人々が、人間と万物との関係が分かった人が現われると、万物が救われるのです。  皆様はこの新約の時代において、万物に神の霊が注がれている時代において、万物をどのように見たらいいのか、どうしたら万物が救われるかを考えて頂きたいのです。  これが新天新地(現在の地球が無くなった後にできる永遠無窮の天地)の信仰です。これは本来、イスラエルがしなければならない仕事です。彼らがしないから、私たちがしなければならないのです。これをした人だけが、万物を治めることができるようになるのです。万物を治めることができるようになった人間だけが、世々限りなく王となるのです。  神はアブラムが九十九才の時、現われて言った。

「私は全能の神である。         あなたは私の前に歩み、全き者であれ。         私はあなたと契約を結び、         大いにあなたの子孫を増やすであろう」。         アブラムはひれ伏した (創世記17・1~3)。  アブラムに対して、神はこういう言い方をした所を見れば、アブラムは分かると神は知っていたのです。アブラムは言われるまでは分からなかったが、言われてみるとすぐに分かったのです。皆様も十分に分かるはずです。  神の前とは何か。これは使徒行伝時代のリーダーシップを取っていた人は分かっていたでしょうが、その時に神の前が分かっていた人は、数えるほどしかいなかったでしょう。  アブラムは神に、わが前に歩みて仝かれと言われて、それがアブラムにストレートに理解できたのです。神の御心どおりに理解できたのです。そこでアブラムは、ああ分かりましたと言ったのではない。賛成しますと言った訳でもない。ただ黙って平伏したのです。  このアブラムの態度です。この時のアブラムの心理状態はどんなであっただろうか。わが前という神の言葉が、アブラムにはほとんど完全に理解できたのです。そこで平伏したのです。  アブラムに対して神は、わが前に歩みて全かれと言っています。モーセに対しては、わが顔の前に何者をも神とするなと言っています。歩みて全かれとは言っていないのです。歩みて全かれと言ったのは、アブラムに対してだけです。  神の前と神の顔の前とどう違うのか。歩みて全かれというのと、何者をも神とするなとどう違うのか。  アブラムを理解する皆様は、当然モーセをも理解しなければならないのです。アブラムを理解できる人は、モーセは理解できるに決まっているのです。モーセの十戒についての正確な理解なしに、イスラエルに伝道することはできません。  現在の文明は、すべてユダヤ人のトリックです。私たちはこの文明と、対決しなければならないのです。神の計画を私たちが実行できると、神が期待を寄せているのです。神が期待をしていることは、間違いがないのです。  神はできないことを期待しません。アブラムは分かると神が期待してアブラムに言った。果たしてアブラムは分かったのです。それと同じように、私たち日本人に、イスラエル伝道ができると神が期待しているのです。日出る所の天使は、必ずリビング・ゴッドの印が持てるはずです。  現在、世界の人類は、悪霊という死神に取りつかれています。この悪霊を人類から追い出さなければならないのです。私たちはエホバの名において、エホバはわが旗であるとして進まなければならないのです。  エホバが旗であるとはどういうことなのか。神の前に歩むとはどういうことか。神の顔の前に何者をも神とするなとは、どういうことなのか。基本的な神からのメッセージを、私たちがまずはっきり理解して、それに伴う生き方ができなければいけないのです。  皆様の生活のマナーがすっかり神の御心どおりにならなければならない。なるに決まっているのです。  多くの国民に福音を述べ伝えるために、まずアブラハムの信仰に立たなければいけない。そうでなければモーセは分かりません。  アブラハムの信仰が理解できたら、今度はイスラエルと対決しなければならないのです。聖書の預言によれば、ユダヤ人のそうそうたる指導者を、私たちの足元に平伏させるとあるのです(ヨハネの黙示録3・9)。神がそうするのです。ですから私たちはそれにふさわしい者になるべきです。アブラハムの原点に帰って、アブラハムの信仰と同じ信仰によって、神の前に立つべきです。  アブラハムの懐が、私たちに解放されようとしているのです。アブラハムの懐はパラダイスです。生きているうちにアブラハムの懐が分かった者は、この世で息が絶えると、すぐアブラハムの所へ行きます。このような大きな恵みが、開封されようとしているのです。  カトリックの大聖人と言われるオーガスチンの懺悔録を読んでみても、アブラハムの信仰が全然分かっていないことが分かるのです。私たちに示されている信仰の高さ、広さは、驚くべきものがあるのです。初めに神が天地を造ったということが、全然説明されていないのです。  今までの自分のことを自分だと思っているから、皆様自身がどれほど高い所へ引き上げられているか分からないのです。御霊がどれほど高い所へ連れていっているか、分からないのです。アブラハムの懐は信仰の最高峰です。これを教えられようとしているのです。  アブラムは神を信じた。神がそれを御覧になって、おまえをアブラハムと呼ぶ、おまえとおまえの子孫とに、契約を与えると言っている。  アブラムに与えた契約があり、アブラハムに与えた契約があるのです。ユダヤ人はアブラハムに与えられた契約を知らない。アブラムに与えられた契約のみを知っているのです。  神はアブラムに言っています。  「私は全能の神である。あなたは私の前に歩み、全き者であれ。私はあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう」。    アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた。「私はあなたと契約を結び、あなたは多くの国民の父となるべきであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。私はあなたを多くの国民の父とするからである」(創世記17・1-5)。  あなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すというのが、ユダヤ人に対する契約になるのです。ユダヤ人はこれを信じているのです。これがアブラムの信仰です。  多くの国民の父となるというのは、アブラハムの信仰です。ここにユダヤ人の旧約的な信仰と、教会の新約的な信仰との違いがあるのです。  ユダヤ人がアブラハムのことをあまり言いたくないのは、多くの国民の父とあるからです。多くの国民の父と言われると抵抗があるのです。アブラハムはユダヤ人の祖先の代表ではなくて、多くの国民の父なのだということをイスラエルが承知する時に、初めて本当のイスラエルになるのです。  なぜかと言いますと、アブラハムが多くの国民の父であるとすれば、アブラハムが世界の王者になるのです。そこでアブラハムの子孫であるイスラエルは、世界の長子になるのです。その時、初めて、約束の本当の意味が分かるのです。ですから、アブラハムが多くの国民の父となるのはどういうことかを、私たちが正確に理解して、それをユダヤ人に教えてあげなければならないのです。  ユダヤ人はアブラムの子孫ではあるが、アブラハムの子孫になっていない。一番大きな問題は、汝わが前に歩んで全かれということです。アブラムがアブラハムになった秘訣が、ここにあるのです。  どうしてアブラムがアブラハムになったのか。アブラムがアブラハムになって、多くの国民の父とされたのはどういう理由なのか。これをパウロは正確に示すことを考えて、ローマ人への手紙で、「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」(4・17)と解説しているのです。  この箇所は英訳では次のようになっています。「he believed ,even God, who giveth life to the dead, and callth the things that are not, as though they were. 」  最も注意しなければならないのは、現象(森羅万象)があることを、アー・ノット(are not)をワー(were)と呼んでいるといっていることです。全く存在していないものを、あったかのように呼んでいる。これがはっきり分かれば、わが前に歩みて全かれという神の言葉の意味が分かるのです。アー・ノットをワーのように呼んでいる。この説明ができないと、わが前に歩みて全かれという意味が分からないのです。  アー・ノットをワーのように呼んでいるとは、どういうことか。皆様は今までの雑念が邪魔をしているために、これが正確に認識できないのです。アー・ノットをワーのように呼んでいると、さすがにパウロはよく見破っているのです。アブラハムの信仰がはっきり分かっていたのです。  神がアー・ノットをワーのように呼んでいる。これは一体何かというテーマを取り上げたグループは、今まで世界にないのです。今私たちは、これをテーマに取り上げて研究している。これだけでも大したことなのです。  イスラエルの人々を説得するために、私たちはどうしても旧約聖書と新約聖書の真髄を、彼らに示さなければならないのです。イエス・キリストが第一であり、タルソのパウロがキリストの使徒であることが第二です。この二人をどうしてもイスラエルに受入れさせなければならないのです。  ユダヤ人はイエスに反対していますが、パウロにはもっと反対しているのです。私たちはイエスを証すると共に、パウロをも証しなければならないのです。そこでアブラハムの信仰と、ローマ人への手紙四節十七節とがどういう関係になるのか。この説明が必要になるのです。  アブラハムは多くの国民の父です。イエス・キリストはエルサレムの頭です。新しいエルサレムの頭です。イエス・キリストの信仰は、天にある新しい都エルサレムの頭としての信仰です。アブラハムは多くの国民の頭としての信仰です。神の経綸的な次元が違うのです。  アブラハムは多くの国民の父ですが、多くの国民全部がアブラハムと同じ信仰を持たなければならないのではないのです。父は父であって、子供たちが父と同じでなければならないことはない。多くの国民の父というのは、王国の頭を意味するのです。千年王国の頭で、キリストの再臨と関係があるのです。  アブラハムはもちろん、天の都エルサレムに馳せ参じています。もし皆様が天のエルサレムに馳せ参じるなら、アブラハムと同じでなければいけないのです。アブラハムの子ではいけない。アブラハムの子は、千年王国の国民です。皆様は千年の間、キリストと共に、イスラエルを治めなければならないのです。そういうグループがいるのです。  アブラハムの子は、千年王国に入るだけです。王国に入るだけでも幸せです。アブラハムを信じない者、アブラハムを父として崇めようとしない者は、一切キリスト王国(千年王国)に入れません。  神の前とは何か。あれこれと考えたらだめです。イエスは幼児のようにならなければ天国へ入れないと言っています。幼児のようにならなければ天国を見ることができないと言っているのです。幼児のようになれば分かるのです。  アブラハムは分かりましたとは言わなかった。黙って平伏したのです。ここに感慨無量のものがあるのです。アブラハムは神を信じた。神はそれを義としたとあります。神を信じることができればいいのです。  神はアイ・アム・オール・マイティ・ゴッド(I am all mighty God.)と言っています。すべての働き、あり方が、神です。目が見えること、耳が聞こえること、手が動くこと、足が動くこと、家庭の事情も、職場の事情も、自然環境も、すべて神です。神以外にはありませんから、黙って平伏したらいい。自分が消えたらいいのです。そうしたら、アブラハムと同じになるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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