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彼岸(神の国)


 現実に生きているということが神の国です。この結構な神の国を現実に見ていながら分からない。お茶を飲んだり、お菓子を食べたりしていることが神の国です。

 これを現実に経験していながら分からない。自分が生きていると思うから分からないのです。常識で生活しているから神の国が分からないのです。常識をやめて霊の思いで生きているなら、生きていることがそのまま神の国であることが分かるのです。

 生きている時には、おいしいとか、美しいとか、すばらしいとかを経験しているに決まっているのです。五官を通して何かを経験しているのです。つまり神の国を経験しているのです。

 生きていたらそこに神の国があるに決まっているのです。それを経験していながら、神の国が分からないのです。

 本を読んでいることが神の国を経験していることなのです。人と話をしていることが神の国を経験していることです。食べていることが神の国です。

 神のかたちのように造られた人間が、生きているということがそのまま神の国を経験しているのです。

 神の国を経験しているということは、新に生まれると分かるのです。分かったら神の国に入ってしまったらいいのです。

 神の国に入り続けるのです。毎日入り続けていたら、現世を去っても神の国にいるのです。

 生きていることが神の国の経験なのです。楽しいとか、気持ちがいいとか、嬉しいとかいう経験をしていることが神の国ですから、入ったらいいのです。

 現実を目の前において神を喜ぶという経験を積んでいなければ、この世を去ってもなお神を喜び続けることはできないのです。

 だからこの世に生きているうちに、何をしても神の国の経験なのだということを認識するのです。

 お風呂に入って、ああいい湯だなあとリラックスする気持ち、饅頭を食べてああおいしいなあという気持ち、新米の炊きたてご飯を食べてああおいしいという気持ちは神の国ですから、神の国は朝から晩まであるのです。

 それを神の国として掴まえていけば、瞬間、瞬間が神の国なのです。こういう掴まえ方をしていれば、霊魂が神の光の内を歩んでいるのです。

 イエスは言っています。

 「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ全身も暗いだろう。もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さはどんなであろう」(マタイによる福音書6・22、23)。

 現実の生きている場において、瞬間、瞬間、神の国を歩んでいれば、霊魂が神の光の内を歩んでいるから、この世を去っても光の内に歩むことができるのです。

 こういう生き方をしていると、般若心経でいう五蘊が神の国になってしまうのです。肉で見ていると五蘊になるのですが、霊で見ると見ているものが神の国になるのです。常識で見るのと、霊識見るのとでは世界が全く違ってしまうのです。

 肉の思いは死です。霊の思いは命です。死と命の違いがあるのです。同じ生きていても、肉の思いで生きていたら死んでいるのです。霊の思いで生きていたら命になっているのです。

 霊の思いで生きていたらいいのです。もし分からなかったら、とことん分かるまで御霊に質問したらいいのです。

 生きているというのは不思議なことを経験しているのです。客観的に言えば、生かされているということです。生かされていることは神を経験しているのです。

 味とか、形とか、色とか香り、栄養というのは、すべて神の言葉によってできているのです。「もろもろの世界は神の言葉によってできている」とありますが(ヘブル人への手紙11・3)、聖書の勉強をしなくても、見たり、聞いたりしていることが、神の言葉の世界を経験しているのです。

 色の世界とか味の世界とかいうものは、神の言葉の世界です。味とは何かと言うと、神の言葉が働いて味を造っているのです。色もまた、神の言葉が働いて色になっているのです。

 味とか色とか香りとかいう不思議な霊なることを経験しているのですから、信仰が当然持てるはずです。砂糖をなめて甘いということを実感することが信仰です。

 砂糖は人間が造ったものとは違います。天然のものです。天然の味を、人間が舌でなめて甘いと思うのはどういうことなのか。宇宙の法則を人間の舌が味わい分けているのです。これが霊なることです。これが信仰です。

 砂糖をなめて甘いと感じることが信仰です。霊の世界のことを経験しなければ生活はできません。霊のことは私たちが生まれる前に経験してきているのです。生まれる前に経験しているから、甘いとか辛いとかいう先天的な認識があるのです。

 赤ん坊は生まれた時から味を知っているのです。皆様は生まれる前の世界を経験しているのです。それを現世でもう一度肉体的に経験しているのです。

 生まれる前に霊で経験したことを、現世では肉で経験しているのです。そこで肉を脱ぎ捨てて本当の霊に帰るのです。霊に帰りさえすれば救われるのです。

 信仰は霊なることというのは当たり前のことです。砂糖は甘いということは、前世での経験を現世で実演しているのです。

 現世でそのことが分かるということは、前世で経験しているから分かるのです。そこで現世で肉の思いを脱ぎ捨てて、霊の思いに帰るのです。そうすると死なない世界に入れるのです。人間が生活しているのは神の国を経験しているのです。飲んだり食べたりしていることは、神の国を経験しているのです。

 人間の五官の働きはすべて神の国の経験です。本当に選ばれた人は、前世の経験がはっきりしているのです。前世の経験のことを言われるとすぐに分かるのです。

 選ばれていない人は、前世のことを言われても全然分かりません。選ばれているかいないかはここで見分けができるのです。選ばれている人は前世のことを聞くとすぐ分かるのです。選ばれていない人は前世のことを聞いても全然分からないのです。

 前世がはっきり分からない人は、来世がはっきり見えないのです。人間の命は前世と現世と来世の三つを総合して生涯と言うのです。現世に生きているだけが一生と違うのです。

 前世がなかったら、おいしいとかおいしくないとかいう判断ができないのです。男と女のことを勉強しなくても誰でも知っているのです。前世で習ったから知っているのです。

 前世で一度経験したことを現世で復習しているのです。前世で間違えたことを、現世で直すのです。間違わないようにして来世に移るのです。現世で間違ったことを間違ったままにしている人間は地獄へ行くのです。

 本来地獄はありませんけれど、自分で勝手に地獄を造るのです。神の国へ入らないで、真っ暗な世界を自分で勝手に造っているのです。ばかなことをしているのです。

 人間は生きているということを通して、霊魂と神とが交わっているのですから、そこに神の国があるに決まっているのです。

 人間は一人の人格の形で前世を経験したのです。それを多くの人の形で現世をおくっているのです。これが分からないのです。

 一人の形で前世をおくった。これがアダムです。その時に五官のあり方を習得していたのです。前世のあり方は一人であって、これがとこしえの命であったので、長い間神を経験していたのです。しかもそばで神を経験していたのです。

 人間の五官の働きは万人共通の感覚です。万人共通ということは、一人の人格として経験していたという証明になるのです。この意味で、アダムとエバの記録は正しいのです。

 これを信じない人は信じなくてもいいのです。人間は神のそばで神と一緒に生きていたのに、善悪を知る木の実を取って食べたのです。

 神と一緒に生きていた者は自分で考えてはいけないのです。神と一緒にいるという条件で考えなければいけないのです。

 ところがアダムは神と一緒にいると考えないで、自分で勝手に考えようとしたのです。これが善悪を知る木の実を食べたということです。これはしてはいけないことです。

 生きているということが神ですから、神のそばで神と一緒にいたので、人間の五官は神を真っ向から知っているのです。これが五官の感覚です。非常に正確な感覚です。

 それを神を裏切って自分で考えたのです。神と一緒にいた時の感覚が、人間の脳細胞として植えられている神の言葉です。百四十億と言われる脳細胞の中に植えられているのです。

 人間は個我がないのに勝手に個我を造ったのです。個我を造ったために、人間の感覚が分裂したのです。これが2014年現在で七十一億人もになっているのですが、本来一人です。だから五官の感覚は人類全部同じです。

 これを聖書は、「一人の人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせた」と書いているのです(使徒行伝17・26)。

 一つの血しかないのです。一人の人からすべての人を造ったのです。

 今の人間は神の尊さ、神の有り難さが全く分かっていないのです。今の人間は命を求めることをしません。全くしないから神が与えないのです。だから神の国に入ることができないのです。

 かつて人間は一人の人格において神のそばにいたのです。そのために驚くべき理性を与えられたのです。驚くべき神の言葉がそのまま人間に植えられたのです。

 だから人間は色々な味が分かるし、色々な色が分かるのです。味とか色というのは神の言葉の世界です。これが分かるのです。

 人間としての色々な感情を持っているのですが、その不思議さが全く分かっていないのです。

 人間は神の国の実体を掴まえなければいけないのです。

 現在人間が生きていることが不思議なことだと思わないのでしょうか。不思議だから、生きていたい、死にたくないと思うのです。生きていたい、死にたくないということは誰でも思っていますが、その思い方が問題です。

 人間の霊魂と神の御霊が現実に触れ合っているのです。これが生きていることです。こんな有り難いことを経験していながら、なぜ気が付かないのかと言いたいのです。

 天地の造り主なる神の御霊というお方が、人間と触れ合っているのです。天地を造ったのは父なる神ですが、造られた状態が保たれつつあるのは神の御霊によるのです。保たれつつある状態と私たちとは触れ合っているのです。これを生きているというのです。

 生きているということは、おごそかなこと、すばらしいこと、有り難いことを経験していることです。人生には私たちが生きているという事がらが広がっているのですが、これが神の国です。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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