アウフヘーベン
アウフヘーベン
人間がこの世に生まれてきたことが業(ごう)です。業であるから真理を掴まえることができるのです。人間存在は革命的な前進がなされなければ、本当の意味でのアウフヘーベンはあり得ないのです。
我々自身がアウフヘーベンされなければ、本物にならないのです。人間だけがアウフヘーベンされるだけでなくて、文明もアウフヘーベンされなければならないのです。
文明はどうしてできたのかと言いますと、死んでしまった人の考えによって文明ができているのです。偉い学者も指導者も皆死んでいるのです。
今いる指導者も学者もやがて死んでしまうのです。既に死んだ人が文明を造ったのです。人間が生活する手段として文明を造ってきたのです。
学問は現世に生きていくための概念にはなりますけれど、永遠の生命、命の本質を弁えるための概念にはならないのです。
そこで私たちの気持ちをアウフヘーベンすることです。これはまさに革命になるでしょう。
死んでしまうに決まっている人間をそのまま鵜呑みにしている概念が間違っているのです。これは白人主義の概念でありまして、日本人は本来、空観を非常に好意的に受け入れてきたのです。
例えば小野小町が、「花の色は 移りにけりな いたずらに わが身よにふる ながめせしまに」と詠んでいます。花の色も私の美しさも、もはや色あせてしまった。私が物思いにふけり外を眺めているうちに、花が春の長雨にうたれて散るようにという意味ですが、この歌は空観をはっきり現わしているのです。
古今集、古今和歌集には、空観を詠んだ歌がたくさんあるのです。
このように日本文化の中には、空観が自ら織り込まれているのです。いろは歌にも空観がはっきり現われているのです。般若心経よりも参考になるくらいです。
日本文化には空観が染み込んでいるのです。このことをもう一度取り上げてみれば、白人文明が考えなかった本当の意味での新しい文明を創造することができるのです。日本からその原理が発揚されるべきなのです。
般若心経に対して好意を持っているのは日本だけです。般若心経をまともに勉強しようという国は日本だけです。
空観がなければ、本当の意味での本然性を掴えることはできません。現在の人間は公義が分からないのです。何が正しいのか、正しくないのかが分からないのです。
実は日本語には公義という字がないのです。日本語辞典には公義という字がありません。日本人が公義という言葉を知らないのです。旧約聖書にはあります。
公義とは何かと言いますと、地球が自転公転している原理です。皆様の目が見える原理です。皆様が生きていらっしゃる命の原理が公義です。
これが分かれば国と国とが喧嘩をする必要がないのです。公義から見れば、共産主義も資本主義も間違っているのです。
本当の人間の命を考えて、今の文明が歪んでいることを認識さえすれば、新しい文明の創建は当然考えられるのです。
日本から新しい文明の指導原理を発揚することは、十分にできると思うのです。これは大きなことを言うようですが、ユダヤ人の思想を真正面から堂々と批判できるのは日本人だけです。
死ぬ人間から死なない人間へ転換するのですから、この考えは革命です。死ぬに決まっているという気持ちから、死なないに決まっているという気持ちに変えてしまうのです。これは可能です。
皆様は現在生きておいでになるのですが、これは命を経験しているということです。これは神を経験していることなのです。だから冷静に、平明に、綿密に皆様の生活を反省して頂ければ、命の実体がはっきり分かるのです。
そのためには空観が必要です。そしてキリスト教ではない神の聖書を勉強するのです。般若心経と聖書の二つを勉強しますと、人間に対する認識ががらっと変わってしまうのです。
イエスが死を破ったという事実があるのですから、皆様も死を破ることができるのです。人間は死なねばならないことはありません。死ななければならないと思わされているだけです。文明の理念によってそのように承知させられているのですが、この考え方をひっくり返すことはできるのです。
皆様は文明に奉仕する必要はありません。皆様の望みどおりの方向へ、文明をひっぱっていけばいいのです。
人間は文明のためにいるのではない。人間のために文明があるのです。学問のために人間があるのではなくて、人間のために学問があるべきです。
生命の本義が分からない考え方は、どんどん放棄していったらいいのです。これが般若心経の本当の精神です。
これは私の思想ではありません。死を破ったイエスの思想を代弁しているのです。宗教ではないキリストの代弁をしているのです。
世界中のキリスト教は、聖書をありのままに、率直に説いていないのです。イエスが復活したということを具体的な事実として取り上げていないのです。ここにキリスト教のまやかしがあるのです。
放っておけば日本人は皆死んでしまうしかないのです。どうぞこの点をはっきり承知して、皆様の人生観の転換をして頂きたいと思います。
五官の本質が人間の情緒ですから、情緒をじっくりご覧になったらいいと思います。宗教ではない般若心経と聖書を勉強することが必要です。
私たちは日常生活の中でなにげなく生命という言葉を使っていますが、その意味が分かっていないのです。そのために皆様は死んでしまうことになるのです。
死ぬということがどうなることかが分かっていないのです。生命が分からないので死ぬということが分からないのです。死んでからどうなるのかさっぱり分からないのです。
現代文明は人間の常識が寄せ集められて形成されているものです。現代文明の思想は皆様の目の黒いうちは通用しますけれど、この世を去ったら全然通用しないのです。
文明は人間の常識の寄せ集めですから、生命ということが全然分からないのです。生命という言葉の実体は文明意識では皆目分からないのです。
人間は生命という言葉の意味が全然分からないままで生きています。これは正しい生き方をしていないことになるのです。だから死んでしまうことになるのです。
般若心経という結構な論理が日本にはありますけれど、これを全く勉強していないのです。読んではいますが、勉強していないのです。
般若心経を写経して千円をつけて送るとご利益があると言っている寺がありますが、こういう考え方を宗教観念というのです。
ユダヤ教の宗教観念が人間文明を造っている
宗教観念は文明の中で最も悪いことの一つです。現代文明は宗教観念から出てきているのです。ユダヤ人が信じているユダヤ教という宗教がありますが、ユダヤ教の宗教観念が現代文明を造っているのです。
専門学はユダヤ教の宗教観念を理論づけたのです。人間の常識を造ったのはユダヤ人です。
日本の常識は西洋文明の常識とは違います。日本人の常識は生命を重んじて生命の根源を捉えようとするのですが、これは日本文化の特性です。
例えば、お花とかお茶という考え、日本料理の考え方は、日本文化の概念から来ているのです。日本文化の概念は生命の原理を探り求めようという意識が働いているのです。
日本の文化の考え方と、現代文明の本質とは全く違っているのです。現代文明の本質はユダヤ教の観念から発展したものです。ユダヤ教そのものではありませんが、科学とか哲学、法律学、経済学、政治学という専門学は、ユダヤ教の宗教観念であるタルムードからできたものです。
人間が肉体的に生きているという考え方、肉体的に生きているのが人間であるという考え方は、ユダヤ教の観念です。日本の文化は、肉体的に生きている人間をそのまま鵜呑みにして、信じようとしないのです。
お茶とかお花、お料理という人間の営みの中心原理によって、人間の生命の原理に触れていこうという気持ちが無意識に働いているのです。
これは王朝文化のあり方とか、徳川時代の日本文化のあり方を見ていきますと、こういう考え方がはっきりしているのです。最も生命の本質を捉えるということは、日本の文化でもできていませんけれど、そういう方向に進んでいきたいという気持ちがあったようです。
お茶とかお花をしっかり勉強しますと、生命の本源が、自らが分かるような仕掛けになっているようです。これが日本文化の特徴です。
白人社会にはこういう文化はありません。白人社会の文化文明の基礎はユダヤ人が造ったものです。現在では白人の文化文明が日本人を引っかき回している状態です。日本人が白人文明に惚れ込んでいるからです。日本人は西欧文明に呑み込まれているのです。
日本文化の特徴が消えているのです。現代文明というのは人間の魂を殺しているのです。ですから、般若波羅蜜多が全く分からなくなっているのです。
現在の仏教は、仏教大学で勉強しなければ寺の住職になれないような仕組みになっているのです。仏教という専門学を勉強してお坊さんになるのです。ユダヤ主義的な考えで勉強してお坊さんになるのです。こういう仕組みになっているのです。
日本には本当に信用ができるような宗教は、一つもありません。天理教でもPL教団でも同様です。現世に生きている人間をそのまま認めているのです。
現世に生きている人間をそのまま認めてしまいますと、生命が分からなくなるのです。現在生きている人間を丸呑みしてしまいますと、生命の勉強ができなくなるのです。生活している人間を認めてしまうからです。
生活している人間を認めてしまいますと、生命が分からなくなるのです。皆様は現代文明にごまかされているのです。今の日本人は現代文明によって洗脳されているのです。
人間は文明によってちょろまかされていると言えるのです。ちょろまかされるというのは上品な言い方ではありませんが、盗まれるという意味です。皆様の魂は現代文明によって盗み取られているのです。完全に盗まれているのではありませんけれど、日本文化の良さがほとんどなくなっているのです。
お茶とかお花という格好はありますけれど、本質が消えているのです。そこで今の日本人は般若波羅蜜多が全然分からない人間になってしまったのです。昔の人は分かっていたのです。
明治時代の親は、「生あるものは必ず死する。形あるものは必ず壊れる」と子供に言ったのです。今の親でこんなことを言う人はいません。
生きているものは必ず死ぬのです。形あるものは必ず滅するのです。形あるものは全部破滅してしまうのです。これが平家物語の精神です。平家物語の冒頭に、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という有名な一節がありますが、こういう考え方は現在の日本ではほとんどなくなっているのです。
しかし、ご年配の皆様の潜在意識には、諸行無常という意識が残っているのです。欧米人はこんなことは考えないでしょう。
現代の文明はユダヤ教の精神から派生した物質文明の思想であって、人間の魂、命の本質を全く考えないことが特徴になっているのです。従って、皆様が般若心経をお読みになってもその意味が全然分からないでしょう。
空とは何のことでしょうか。五蘊皆空の空とはどういうことでしょうか。仏教大学の教授とか、寺の偉いお坊さんが、空が全然分かっていないのです。そういう為体なのです。
生(せい)というのは人間が生きていることの本質、本性です。命(めい)というのは現在この世で生きている人間の形です。人民とか国民とか大衆というのは命(めい)です。肉体的に生きている状態が命です。
生は目が見えること、耳が聞こえること、生まれながらの赤ちゃんが味覚意識を持っていること、五官の本質のあり方が生です。
生が命という格好で現われているのです。これを生命というのです。これがはっきり分かれば、皆様は死なない命を掴むことはできるのです。
(内容は梶原和義先生の著書からの引用)