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彼岸へ渡る


 彼岸へ渡るということが般若心経の目的です。皆様が冷静な気持ちで彼岸へ渡るという言葉を、一日に三、四回称えることを日課としたら、皆様の考えは非常に違ってくるのではないかと思います。

 皆様は今現世に生きておいでになります。現世はこちらの岸であって、此岸です。此岸に生きている者が彼岸へ渡ることを考えるのです。これは分かりやすく言いますと、今生きている命の他にもう一つの命があるという意味です。

 今皆様が生きている命は死ぬに決まっている命です。この命を自分の命だと思い込んでいますと、必ず死ななければならないことになるのです。

 死ぬということはただ現世を去るということだけではないのです。現世を去るということだけのことなら、何でもないことです。大したことではないのです。

 いわゆるご永眠するだけのことです。眠るだけのことですから、昼寝の長いものだとお考えになったらいいのです。

 ところが死んだ後には復活があるのです。復活ということは甦るということです。復活には正しい意味での復活と、間違った意味での復活、いわゆる邪な意味での復活があるのです。正当な復活と邪道な復活とがあるのです。

 正当な復活は聖書に従えば第一の復活と言っています。邪道の復活は第二の復活になるのです。第二の復活という言葉は聖書にはありませんが、そういうことになるのです。

 第二の復活は、復活することが永遠の死を意味するのです。永遠の死というものはただの死ではないのです。

 第一の死はご永眠するだけのことです。第二の死は言語に絶するような恐ろしい苦難の状態になるのです。

 現在皆様は生命意識を持っていらっしゃいます。生命意識を持っていらっしゃるということは、生きているということを知っているということです。ところが生きているということはどうしていることか分からないのです。

 人間は現在食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、着たいものを着ています。したいことをしているのです。欲望生活を実行しているのです。これには甚大な責任がついて回っているのです。したいことをしてもいいでしょう。ところがその責任を果たしているかどうかということです。

 基本的人権という言葉はユダヤ人が造った言葉ですが、アメリカの占領政策の結果、日本の憲法に割り込んできたのです。これは国連憲章の中の一句です。

 国連憲章の中の一句を日本の憲法の中に入れているのです。憲法に基本的人権という文句を入れているのは日本だけです。

 基本的とはどういう意味なのか。基本的というのは人間存在の基本原理を指すものでなければならないのです。ところが日本の憲法では、ただ現世に生きていく権利だけに、基本的という過大な文句を使っているのです。

 日本の憲法を造った人は熟語の意味を知らなかったのではないかと思われるのです。基本的人権と言いたければ言ってもいいでしょう。基本的人権というのは現世に生きている間だけの権利ではないのです。人間存在の基本論に係わる権利ですから、これは彼岸、永遠に通じる人権でなければならないのです。

 彼岸は今生きている命ではないもう一つの命であるという意味ですが、これに通じるような人権を意識するなら、これは立派なものです。そうしたら日本の憲法は世界一と言えるでしょう。

 日本の政治家はそういうことを考えないで、ただ現世で生活するということ、例えば就職の権利とか結婚の権利というようなありふれた生活権に対して基本的人権という言葉を用いているのです。

 人権と言いたければ言ってもいいでしょう。これは人間が造った思想であって、もし人権というとしたら、義務、責任を当然考えなければならないのです。

 権利を考えて義務を考えない。権利を一方的に押しつけて、義務、責任をはっきり認識させようとしないところに、日本の教育の荒廃の原因があるのです。

 正しい認識のない子供に、権利ばかりを教えますと、先生を先こうと言ってもいい意識になってしまうのです。おやじをおじんと言う意識になってしまうのです。こんなことが文部科学省になぜ分からないかと言いたいのです。

 権利は義務と同時に説くべきものです。これは分かりきったことです。一体日教組の委員長は何を考えているのでしょうか。権利を考えるなら義務を同時に考えなければならないのは、当たり前のことです。

 生きている権利があると思うなら、生きていることに対する本質的責任を自覚することは当たり前です。親に対しては子供としての責任を自覚すること、教師に対しては生徒としての責任を自覚することは当然のことです。

 こういうことを考えないで、先生は人権、人権と言って生徒を煽て上げているのです。その結果、校内暴力、家庭内暴力が頻発しているのです。こういうことが現代教育の大欠点です。

 現代学は人間の肉性です。肉性というのは人間の欠陥性を意味しているのです。例えば物忘れをするとか、言い忘れをするとか、考え違いをします。何かの約束を忘れてしまうことは、肉体を持っている人間の必然的な欠点です。これが肉性です。

 これをごまかすために、学問が邪に用いられているのです。

 人間は不当な権利があるように考えさせられているのです。こういう思想がユダヤ主義です。

 人間が肉体で生きているということが、本来の目的ではありません。皆様は命を知っておいでになるのです。生命意識があるからです。生命意識があるということは、生命の本質を究明しなければならない責任があるのです。

 生命の本質を究明すれば、死なない命ははっきり分かるのです。私はそれがはっきり分かっているからお話ししているのです。

 死なない命はあるに決まっているのです。例えば皆様が肉体的に生きていらっしゃるということは、形があるということの上に立って生活を考えておいでになるのです。唯物主義とか即物主義という生き方、物があるという立場で生きておいでになるのです。

 般若心経の思想は、物があるという立場で生きていることに、真っ向から反対しているのです。色即是空という有名な一句はこれを意味しているのです。

 ところが般若心経は色不異空、空不異色、色即是空、空即是色とありますから、色が本当なのか、空が本当なのか、よく分からない面があるのです。これが般若心経の欠点と言える所かもしれないのです。

 皆様が色即是空という単純な考えになりさえすればいいのです。死ぬに決まっている命を自分の命だと思い込んでいることは、命に対する根本的な認識不足の結果によるのです。その結果死んでからどうなるかという問題があるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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