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衣替え


 これを分かりやすく言いますと、肉体を着たままの人間を自分だと思い込んでいると、とことん死んでしまうと言っているのです。だから衣替えをしなさいと言っているのです。肉体ではないもう一つの体を着るのです。イエスの復活の栄光体を着るのです。

 イエスは生きている間に、変貌の山で変わってしまった。白く輝く肉体になったのです(マタイによる福音書17・1~8)。イエスは生きていながら永遠の生命の実物を持っていたのです。皆様も持つことができるのです。イエスと皆様は同じ人間ですから、彼も人なり、我も人なりとお考えになれば、イエスが持っていた命を持つことができるようになるのです。

 イエスは復活して、彼の主張が正しいことを証明したのです。日曜日は彼の復活を記念する日です。一週間に一回ずつ休んでいることは、イエスの復活を記念していることになるのです。これは歴史的な必然です。

 イエスが復活したことは歴史的事実です。皆様は皆様の中にある魂の本質をはっきり掴まえたなら、死ななくなるのです。

 パウロは「古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を着よ」と言っています(エペソ人への手紙4・22~24)。これを実行して頂いたらいいのです。これは宗教観念ではありません。イエスの復活が歴史的事実であるように、私が申し上げていることも事実です。

 般若心経や聖書は非常に次元が高いものでありまして、一足飛びに飛びつくことはできません。それで普通の常識よりもレベルが高いもの、しかし永遠の生命よりもレベルが低いもの、中間的なものを狙うということが必要です。

 例えば法律の勉強をしている人は法律の根源を究明しようと考えるのです。哲学者であるなら哲学の根源を究明するのです。商売人であれば商売の根源を究明するのです。

 文学、絵画といった芸術的な面に興味がある人は、芸術を深く究明しようとしたらいいのです。深くと言いましても専門的な勉強をする必要はありませんが、例えば皆様の家を絵画にすることができるのです。皆様の奥さんのお顔を絵に描いたらいい絵になるのです。

 その奥さんの顔に現われているものは何であるのか。生気があるのです。生気とは何であるのか。これをじっとお考え頂いたら、五蘊皆空の向こうにあるものがちらっと見えてくるのです。

 歌でも俳句でも、音楽、写真でもいいでしょう。人間の文化意識の奧の方には必ず造化の神秀があるのです。人間は天地自然の力の原理を知りたいと思っているのです。それが芸術になって現われているのです。

 商売人でも会社員でも、人間の本質を究明したいという気持ちを持ち続けるなら、自らその人に真理の門が開かれると思います。

 イエスは、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」と言っています(マタイによる福音書7・7)。求めよというのは英語でアスク(ask)になっています。何をアスクせよとは書いていないのです。ただ求めよと言っている。何を求めよとは一切言っていません。

 例えば幸福を求めよと言っていない。また、救いを求めよと言っているのではない。キリスト教の人々は救いを求めよと考えている人が非常に多いのですが、無明煩悩から生まれた人間が、罪の塊の気持ちを持っている人間が、救われたいと思うことが罪になってしまうのです。

 イエスは、「自分の命を救おうと思う者はそれを失う」と言っています(同16・25)。自分の気持ちを救いたいと思う者は滅ぼされると言うのです。私のために自分の命を捨てる者は、その命を与えられるとあるのです。

 自分を愛する者は滅びるのです。自分の命を憎む者は返って救われるのです。

 芸術を熱心に真面目に究明すれば、自らこういうことが分かってくるであろうと思われるのです。

 人生には思いと命と二つしかないのです。利害得失とか喜怒哀楽は思いの方です。ところが皆様の五官の働き、目で見ている、、耳で聞いている、舌で味わっているというのは命の方になるのです。

 見ているのは何を見ているのか。聞いているのは何を聞いているのか。食べているとは何をしているのか。これが分からないのです。

 花を見たら美しいと思います。美しいとはどういうことか、なぜ美しいと思うのか、これが分かっていないのです。

 高田好胤さんとか、松原泰道さんが般若心経について色々書いていますが、これは悪いというのではありませんが、彼らは宗教家でありまして商売人です。本当のことを言うと商売にならないのです。本当のことを言わない所に魅力があるのです。こういうおかしいことになっているのです。

 宗教は本当に困ったものです。本当のことを言わない所に魅力がある。これは日本社会の大欠点です。

 これは宗教家だけのことではありません。学者でも政治家でも、本当のことを言うと流行らないのです。これが人生です。彼らは人間の思いだけを説明していて、命のことを全く知らないのです。

 生きているとはどういうことか。これを説明しているのが般若心経の目的です。涅槃という言葉がありますが、これは空っぽになることです。現在の自分を空じてしまうのです。自分の思いを空じてしまうのです。

 自分という言葉の使い方を高田好胤さんも松原泰道さんも知らなかったのです。

 日本の仏教の大欠点は空と言いますけれど、空の本質を知らないことです。空じるということは、空に同じるということです。空に同調することです。自分が空になり切ってしまうことです。これを空じるというのです。

 ところが空という言葉の本当の意味が仏教では分からないのです。空というのは口で言えない、人間の普通の心では感じることができないものです。こういうものを掴まえるために、空という言葉が般若心経に出ているのです。

 もう亡くなられましたが、東京大学の哲学の中村元教授が、色即是空ということは、物質、または物体が現象的に存在していることが空であって、目に見えているものがそのままあるのではないということを説明しているのです。

 目で見ていることがないということは、本当のものではない。目で見ていることが空だ、耳で聞いていることも空だ、舌で味わっていることも空だということは、空でない本当のものがあることを知るために色即是空と言っている。中村元さんはここまで言っているのです。

 中村元教授は日本では優秀なインド哲学の大家でした。人間の五官の感覚は、感覚そのものが本当のものを掴まえているのではない。これを空じることによって、本源であるものを掴まえるために般若心経が言っていると説明しているのです。

 学者はここまでしか説明できないのです。松原泰道さんや高田好胤さんと同じです。ここまでの説明なら一般の常識でできるのです。

 ところが本源であるもの、すべての万物の本源であるものは何か。命の本源を掴まえるために空じるのですが、学者や宗教家が本源が分かっているかというと、分かっていないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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