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自我意識


 ところが人間には自我がある。これが大変悪いものだとハイデガーは言っているのです。しかし自我がどうして人間に入り込んできたのか、どうしても分からないというのです。

 自我が悪いということは分かっています。どうして自我が入り込んできたのか、また、自我意識をどのようにして克服するかについては、分からないのです。

 人間が一番苦しめられている原因は自我です。この自我を何とか始末する方法がないことには本当の人生は分からないのです。私が言っているのは宗教でもないし、哲学でもありません。ハイデガーは哲学という立場から自我が悪いと言ったのです。自我意識は現代文明の中心思想である。中心意識であると考えてもいいのでしょうけれど、これが人間自身を苦しめる元凶であるということができると思います。

 デカルトの「我思うゆえに我あり」という考えは、近代哲学が形成される第一原理のようなものです。これに基づいてドイツ観念論哲学ができているのです。イギリスの経験主義、フランスの唯物論も同様です。すべて我という人格が近代文明の中心になっているのです。

 基本的人権という思想も我に基づいているのです。自我という思想が人権という思想に発展してきたのです。ただ今は基本的人権が王様になっているのです。自我が王様になっているのです。

 人間は自我という妄想、妄念に振り回されているのです。そうして人間自身が苦しんでいるのです。文明というものは魂にとって公害です。ルネッサンス以降の文明は、白人主義の現象意識に基づいてできあがったものですが、これは人間に対する認識が根本から誤っていることを示しているのです。虚妄を足場にした考え方です。これが近代文明という蜃気楼を造っているです。近代学は現象意識に基づいて、白人主義に基づいて構想されていますが、これは生活のためには役に立つのです。生活は便利になりましたが、人間の精神はだんだん追いつめられているのです。

 文明の度合いが高い所ほど人間の本質が悪いのです。文明の度合いが低いほど、人間の質が良くなるのです。人間の質というのは、いわゆる文化概念とか、文明思想ということになれば、文明の高い所ほど高いのですが、例えば心理状態の健全性、肉体構造の健全性が人間の本来の姿であろうと思われるのですが、これが文明によって損なわれているのです。

 例えば、東京やニューヨークという大都会よりも、田舎の町の方が心理的に健康な方が多いと言えるのです。田舎の人は新しい情報は知らないですけれど、心理的にまた、健康的には健全であると言えるのです。これは科学技術の公害を受けていないという点と、人間の迷いが少ないという点からこういうことが言えるのです。

 文明によって、人間は心理的にと、生理的にと両面からだんだんと苦しめられているのです。これが文明の弊害です。文明は間違っていますから、やがて文明は潰れるだろうと思うのです。

 以前に日本沈没という映画や本が売れていましたが、こういうことは文明の世紀末現象です。これは文明自体が腐っていることを示しているのです。人間の思想の基本的な概念がずれていることが原因になっているのです。

 現在の人間の考え方が間違っているのです。簡単に言えばこうなるのです。私たちは何とかこの状態から抜け出さなければならないのです。

 現代人は自分が死ぬと思い込んでいるのです。これは命の本質を知らないからこういうことになるのです。命の本質というものは、死なないものです。

 死なないものを命というのです。死ぬに決まっているようなものを命とは申しません。肉体はただの生命現象にすぎないのです。生命現象と命とは違います。

 生命現象は中断することはあり得るでしょう。これは当然のことです。人間の肉体は一つの消耗品ですから、やがて古くなっていくのです。肉体は消耗品ですから、やがて欠落するのはしかたがないのですが、魂が死ぬということとは別の問題です。

 人間は現世で楽しむために生まれてきたのではないのです。マイホームを楽しむとか、お金儲けを楽しむことのために生まれてきたのではありません。

 何をしに来たのかということを簡単に申しますと、経験しに来たのです。この世に何かを経験しに来たのです。何を経験しに来たのか。端的に申しますと、命を経験しに来たのです。これが人間の唯一無二の目的です。

 これは宗教ではありません。すべて人間が行き着く所です。今の人間は命を経験しに来たのに、命を知らないのです。そして遊んでいるのです。マイホームを楽しんでいるのです。または自分の欲望の奴隷になって得々としていることは、人間存在の本質から全くずれてしまった虚妄な行為です。妄念の行為です。

 現代の文明はこういう生き方を当たり前のように考えているのです。人間とは何かをまともに考えようとしない。命とは何かを全然考えようとしないのです。

 今の学問でも命を考えているものは一つもないのです。生命現象を考えている学問はありますが、命そのものを考えている学者は一人もいないのです。

 宗教家にもいません。哲学者にもいません。現代文明は命について全く知らないのです。一番大切なことを一番疎かにしているのです。こういうばかな状態になっているのです。

 生活環境を考えたり、人間の健康増進を考えることも大切なことです。人間の目の前の生活向上を考えることも大切ですが、自分の命を考えることはもっと大切であると考えて頂きたいのです。このことを皆様に提案しに来たのです。

 生きているとは何であるのか。命とは何であるかということです。これを知るためには、般若心経と聖書を勉強していくしか方法がないのです。これをしっかり勉強して、命そのものを突き止めて頂きたいのです。

 般若心経は五蘊皆空と言っていますけれど、現存在の人間の考え方は全く空そのものです。般若心経の思想は釈尊の思想でありまして、今から二千五百年も前の思想です。この時代においても、釈尊は人間は空であるということを喝破しています。

 もし釈尊が今現われてきたとしたら、何と言うでしょうか。空と言ったくらいでは追いつきません。一体人間の学説とか、思想とかいうものが集合したものが学問ですが、学説とか理論とか、思想というものは、自我意識を持った人間が排泄した老廃物です。

 人間の思想というもの、人間の理論というものは、その人の精神的な排泄物です。そうすると現代の文明社会というものは、排泄物が堆積しているのです。これが文明の実体です。

 文明思想の根源は人間の排泄物です。人間はこれを有り難がって崇拝しているのです。これによって幸福になりたいと考えている。こういう根本的な間違いが現代文明にあるのです。

 釈尊は五蘊皆空とはっきり言っているのです。人間の考えていることは全く空です。無です。何の価値もありません。人間の本質にとっては全く無価値です。人間の生活にとっては価値がありますけれど、人間の本質には空なるものです。

 人間は生活するために生まれてきたのではないのです。命の経験をするために生まれてきたのです。生きることと、生活することとは違うのです。

 生きるということは心理的に命を自覚して生きるのです。生活するということは、経済的に肉体的にこの世で生きることです。生活することは人間の目的ではありません。

 政治の目的は生活を豊かにすることです。しかし人間存在の目的は、生活することではないのです。生きているそのことを突き止めることです。

 トルストイが死ぬ直前に言った言葉ですが、「私は人間として一番しなければならないことをとうとう考えられなかった。人間として成さねばならないことを、とうとう成さずに死んでいくことになった」と言ったのです。

 トルストイは一番成さねばならないことを、一番疎かにして死んでいったのです。これが文豪のトルストイです。

 ゲーテは死ぬ時に、「ああ暗い、もっと光を、もっと光を」と言ったのです。もっと光をというのは、生理的にだんだん目が暗くなったから、もっと光をと言ったのでしょうけれど、心理的には暗い気持ちがあったと思われるのです。

 人間は生きている間にどうしてもしなければならないノルマがあるのです。息が切れるまでにどうしてもしなければならないノルマがあるのです。それは何かと言いますと、命を知るということです。

 般若心経は人間の考えは空だと言っているのです。しかし空だというだけでは命が分かったことにはならないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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