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自分という神様


 自分というのは皆様自身の神様です。皆様は誠の神の他にもう一つの自分という神を持っているのです。自分が生きているという神です。加藤さんという人間は加藤さんという神です。この神がありながら誠の神を信じようとしてもできません。

 イエスは自分を持っていなかったのです。おまえは誰だと聞かれたら、イエスは自分は神の子だと答えているのです。自分の母親を掴まえて、「女よ、あなたと私と何の関係があるのか」と言っているのです(ヨハネによる福音書2・4)。

 プラスのエネルギーが本当に働き出すと、マイナスのエネルギーのあり方を変えてしまうのです。人間の精神が本当にプラスのエネルギーと一つになりますと、精神のあり方が変わってしまうのです。死なない命に変わってしまうのです。

 私たちの意識が科学的にどういう力を持つかということです。まず固有名詞の自分が生きていないという所から出発しなければいけないのです。一足飛びにイエスのあり方になる訳にはいかないのです。

 プラスのエネルギーによって人間の精神を訓練すれば、人間の精神は無制限に向上するのです。目未だ見ず、耳未だ聞かず、人の心に未だ思わなかったこと、人の心に思い浮かばなかったようなことが教えられるのです。

 人間には自由意志が与えられていますから、マイナスを選ぶこともプラスを選ぶこともできるのです。選んだ結果がどうなるのかと言いますと、プラスを選んだ人はプラスの命に溶け込んでしまうのです。マイナスを選んだ人は、マイナスの命に溶け込んでしまうのです。

 生きているという事だけを見ると個々の人間になるのです。生きているという状態は全体ですが、自分という場から見ると個人です。全体と個人は一緒に住んでいるけれども、同じものではないのです。二人の人間が皆様の中に同居しているのです。

 生活的な認識としては個の認識ばかりをしているのです。自分が生きている、自分が生きていると思っているのです。しかし自分が生きているのは、神を選ぶか悪魔を選ぶかという選択の場になっているのです。神に選ばれた人もいるのです。

 神を選んだ結果どうなるのかというと、神と一つになるのです。イエスは「いつも私は父の内にいる」と言っています。I am in the fatherと言っています(同14・10)。父の内にいることが私であると言っているのです。

 イエスは生きていながら、神と同じ命を経験していたのです。その時には個はなかったのです。個がなかったから死がなかったのです。

 私たちもイエスの生き方を学んで実行したらいいのです。私たちが生きているという客観的な状態は個ではなくて全です。例えば砂糖をなめたら百人でも千人でも甘いと感じるでしょう。塩をなめたら誰でも辛いと感じるでしょう。

 五官の働きは万人共通です。全人的なものです。かつて私は世界一周旅行を二回して、全世界の色々な国の人々と会って、色々な料理を食べてきましたが、味覚が全人類共通な感覚だということを実感しました。

 ところが利害得失を考えると個的になるのです。利害得失の考えはマイナスです。利害得失を考えないで、生きるということを考えるのです。リビング(living)を考えるのです。そうすると全体が分かるのです。

 リビングを通して神という意識を持つことができるのです。これがイエスの生き方です。私がいうリビングというのは概念的なリビングではなくて、ザ・リビングというものです。ザ・リビングというのは味の実体、音の実体、色の実体になるのです。単なる色ではなくて色の実体になるのです。

 赤い色を見るとしますと、赤い色が人間の魂にどのような影響を与えているか、赤いものを見ていることによって脳神経にどう影響を与えているかということです。

 円い形を見る時と三角の形を見る時とでは感覚が違うのです。これによってその人の魂が生きたり死んだりしているのです。

 物の言い方をどのようにしたら、どう影響を与えるかです。どのような論理をどのように展開すれば、誰にどう影響を与えるかです。これが皆生命の法則に関係しているのです。これが山上の垂訓(マタイによる福音書の五章~七章)に現われているのです。

 私たちは永遠の命を、私たちの霊魂の実体を通して学ばなければならないのです。実はザ・リビングが霊魂の実体です。これは人間とは違うのです。人間はライフ(life)の方です。ライフとリビングとは違うのです。

 生活しているのは人間です。固有名詞の人間です。生かされているのは人間ではなくて魂です。生かされている魂と、生きている自分とを区別して考えるのです。そうすると利害得失が消えてしまうのです。

 生かされている自分、リビングとしての自分を捉えるなら、五蘊皆空は何でもないのです。色即是空は当たり前になるのです。自分の常識から出ることができるからです。脱人間ということが十分に可能です。

 リビングが自分になればいいのです。五官の感覚が魂が求めているものを現わしているのです。上手下手はないのです。五官の感覚に素直になればいいのです。味というのが神の愛を示しているのです。愛は霊魂を生かすためにあるのです。人間の霊魂に無限の希望を与えるのです。これが愛です。

 愛は光であり恵みでもあります。また命でもあるのです。私がお話ししているのは理論としての愛を言っているのです。論理方式の愛です。

 パウロは「心を更えて新にせよ」と言っています。精神の霊を転換するのです。精神の霊を転換することが難しいのです。五蘊皆空を実行したらこれができるのです。

 皆様は新約聖書とかイエスを勉強しようと思ってもだめです。まず五蘊皆空を学ばなければいけないのです。五蘊皆空を徹底的に説かなければならないのです。これが十字架を説くことになるのです。

 今の人間は死んでいるのです。生きているような形をしているけれども、死んでいるのです。死を肯定していることは死ぬことを認めているのです。死ぬことを認めていることは既に死んでいることになるのです。

 死から逃れるためにはどうしたらいいのか。今までの記憶を捨ててしまったらいいのです。今までの世界観や価値観を捨ててしまうのです。これが悔い改めるということです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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