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実と有が分からない仏教


 空だ空だと言いますけれど、本当の実を提供することが出来ないのです。実を勉強する用意なしに、空だ空だということが間違っているのです。

 日本の禅宗がいう空は間違っています。臨済宗も曹洞宗も、空だ空だと言いますが、空というなら実が分かっていなければならないのです。

 空という言葉を使う以上、実という言葉の意味がはっきり分かっていなければ、空という言葉を使ってはいけないのです。ところが宗教家は平気で空だ空だと言っているのです。

 私は宗教は商売だと言っていますけれど、この言い方は少し酷であるかもしれないのです。しかし、あるお坊さんは宗教は商売だと割り切って言っているのです。

 空という言葉の対称は実です。無という言葉の対称は有になるのです。有が分かっている無、または実が分かっている空ならいいのです。

 日本の宗教家は本当の実が分かっていないのです。本当の有が分かっていないのです。色即是空で空じるとどうなるのか、実はどこにあるのか。空即是色というけれど、空の実体は何なのか。この説明ができないのです。できないままの状態で、ただ空だという観念論をふりまいているのです。

 宗教はただの観念論です。哲学と同じようなものです。大和尚とか大僧正とか言いますけれど、皆商売をしているのです。

 私が宗教ではないと言っているのは、実をはっきり掴まえるために空を掴まえると言っているのです。空じることなしには実を掴まえることはできないと申し上げているのです。

 仏教の観念論、哲学の概念で、人間の霊魂が割り切れるものではありません。私が申し上げたいのは、人間の妄念を空じることです。空じることによって命を見極めることができるのです。空じることによって実である命を掴まえることができると申し上げているのです。

 だから般若心経という入口と聖書という奥の間の両方がいるのです。入口だけではだめなのです。

 花が美しいと思うのは、直感的に皆様に命を感じさせているのです。目で見るという感覚というのは命の働きです。目で見て美しいと思えるのは命そのものが感じられているということです。命を直感しているのです。これを美しいと受け止めているのです。

 美しいというのは人間の魂の真髄に触れているのであって、美しいという感覚は死なない命の感覚です。永遠の命の感覚です。これが美しいというように目で感じられるのです。

 美しいと感じているのは、皆様の霊魂がそのように感じているのです。皆様は美しいと感じているけれど、その意味が分かっていない。ということは魂の目が開いていないからです。

 般若心経の解説書にごまかされないで頂きたいのです。私たちに必要なものは、概念ではなくて本当の命です。命が必要です。

 今皆様が経験しておいでになる命は、肉体的に生きている命です。肉体的に生きている命というのは、やがてなくなるに決まっているのです。

 般若心経は究竟涅槃と言っています。涅槃というのは冷えて消えてなくなることをいうのです。今生きている人間は涅槃になるに決まっています。自分自身が涅槃を悟るか、この世に生きていることができなくなって涅槃になってしまうか、とにかく人間は死ぬに決まっているのです。

 涅槃というのは自分が消えてしまうのです。死んでしまうことを先取りしてしまうのです。これが涅槃です。

 死んでしまうことを先取りしてしまいますと、死ななくなるのです。涅槃だけで死ななくなるのではありませんけれど、涅槃は冷えて消えてなくなってしまうことですから、死ぬべき自分が消えてしまうのです。

 涅槃が本当に分かりますと、今生きているのが本当の命ではないことがはっきり分かるのです。今生きている命はやがて消えてしまう命ですから、本当の命を知るためには、今生きている命を早く見切ってしまった方が、本当の利益になるのです。

 今生きている命を見切ってしまうことが、本当の命を掴まえるための入口になるのです。般若心経は悪魔を退散させるすばらしい力を持っているのです。

 般若心経に悪魔退散の力がどこにあるかと言いますと、涅槃というからです。はっきり涅槃をうたっているのです。色即是空、五蘊皆空、究竟涅槃と言っているのです。

 般若心経の空というのは、現在生きている人間を見切ってしまうことを言っているのです。これは宗教ではありません。宗教家が般若心経を説明するから間違ってくるのです。

 松原泰道さんは宗教家の立場から般若心経を説明するから、般若心経の真意が分からなくなってしまうのです。

 色々な宗派の人が般若心経の解説書を書いています。私が言いたいのは、宗教家の人々が般若心経の解説をするのはやめなさいと言いたいのです。それでお金儲けをしているから困ったものです。

 まず現世に生きている人間を見切ることです。自分自身が生きているという感覚を見切ることです。何のために見切るのかと言いますと、皆様が生きている命の奥の院に、死なない命が座っているからです。

 花を見てきれいだと思う感覚、これはおいしいという感覚が、実は永遠の命の感覚です。お酒が好きな人は一杯飲みたいと思うのです。命を知って一杯飲むならいいのですけれど、命を知らずに一杯飲んでいると、ばかを見るのです。

 おいしいというのは魂が感じているのです。魂が味わっている感覚です。魂は死なないものです。霊魂不滅という言葉がありますように魂は死なないのです。

 仏典一万七千六百巻の経典の中に、魂という文字が一字もありません。霊魂を言わないのです。霊魂に似たようなことは言いますが、魂という言葉が出ていないのです。ですから、仏教家で魂が説明出来る人が一人もいないのです。もしできるという人がいたらいんちきです。

 仏教の専門家であって魂の説明がする人がいたら、偽者だということになるのです。

 死んでから極楽へ行くと言いますが、一体誰が行くのでしょうか。分からないという返事が返ってくるのです。

 正信偈に次のようにあります。

 「帰命無量寿如来

 南無不可思議光

 法蔵菩薩因位時

 在世自在王仏所」

 法蔵菩薩が無限を悟った。無量寿如来と無量光如来を悟ったことによって、法蔵比丘が阿弥陀如来に昇格したのです。これを大無量寿経で説いているのです。

 皆様の中にある魂の本質は無量寿如来、無量光如来です。この二つが魂の本質です。これが皆様の存在の奧にあるのです。皆様の存在の奧にある霊魂の本体、無量寿如来の本体が、花の美しさを見ているのです。だから美しいと思うのです。

 そこで無量寿如来の本体を掴まえるのです。この実物を掴まえるのです。皆様の霊魂を掴まえることです。これが永遠の命の本体です。簡単にいうとこういうことになるのです。

 毎日、皆様は食べたり、見たり、飲んだりしているのです。人間の営みというもの、衣食住の営みというのは、魂の営みでありまして、その中にとこしえの命があるのです。

 与謝野晶子の歌に、「劫初(ごうしょ)より つくる営む殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」というのがあります。人間の歴史の流れというのは何か分からないが、殿堂のようなものを造っているというのが、人間の考え方です。

 晶子は永遠の命を本当に掴まえていたのではないのです。だから黄金の釘という生意気なことを言える柄ではないのです。せいぜい真珠の釘くらいのものでしょう。

 皆様もよく考えて頂きたいのですが、皆様の中に理性と良心があるのですが、これが魂の働きです。理性は無限の真理を求めています。良心は最高の善を求めているのです。これが人間の霊魂の持ち前です。理性と良心をひっくるめて命というのです。また、言(ことば)ともいうのです。

 言が命です。大無量寿経では言と言わないで光と言っているのです。南無不可思議光の光です。聖書に、「この言に命があった。この命は人の光であった」とあります(ヨハネによる福音書1・4)。

 聖書も大無量寿経も同じことを言っているのです。命が皆様には理性となり良心となって現われているのです。皆様の理性は何を求めているかと言いますと、絶対の合理主義を求めているのです。最高絶対の合理主義を求めているのです。

 良心は最高絶対の善を求めているのです。これは人間が考える善悪とは違うのです。普通の人間の常識では考えられない善を求めているのです。

 皆様の魂の働きというのは、皆様が承知しておいでになってもならなくても、自分で信じても信じなくても、皆様の精神、またはハートの本当の真髄は、理性と良心の他にありません。

 理性は無限の真理、最高の真理を求めているのです。良心は最高の善を求めている。この二つはどちらも無限を求めているのです。無限無窮を求めているのです。無限無窮とは永遠の命に決まっているのです。仏教はこれを仏国浄土と言ってみたり、阿弥陀如来と言ってみたりしていますけれど、無限無窮のものです。

 阿弥陀というのは無限という意味です。阿は無という意味です。弥陀とは限りという意味です。阿弥陀とは無限という意味です。

 無限を求めるのが理性と良心です。これが皆様の魂の実体です。美しいと思うのは何か。無限が美しいという格好で現われているのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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