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向こう岸


 般若心経の中に、「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故無有恐怖 遠離一切顚倒無想 究竟涅槃」という言葉があります。

 これは何かと言いますと、般若波羅蜜多の思想によって心無罣礙になるというのです。般若波羅蜜多とは向こう岸へ渡った知恵ということです。

 こちらの岸は人間が生きている生活概念です。生活観念です。自我意識です。これがこちら岸です。向こう岸へ渡るというのは、人空、法空を体得した境地です。人空とは人間が空であるということです。法空というのは現象世界が空であると言っているのです。

 向こう岸へ渡ってしまった状態を般若波羅蜜多と言っているのですが、般若波羅蜜多の思想によって心に少しも差し障りがない。だから恐怖が全くない。人間のすべての考えはひっくり返っていて、夢のような考えをしている。これを遠く離れてしまっている。そうして究竟涅槃の境に入ってしまうのです。

 涅槃とは冷えて消えてなくなってしまうことです。自我意識と現象意識がすべて消えてしまって空になっている。これが生まれたままの赤裸の人間です。

 般若心経は究竟涅槃が目的です。人間が消えてしまうことです。これが目的です。しかしこれでは命の実体を捉えたことにはならないのです。

 命とは何か。何のために生まれてきたのか。命の経験をするという、この目的を般若心経でははっきり捉えていない所があるのです。

 私は般若心経の思想を尊敬します。しかしこれだけでは完全だとは言えないのです。そこで般若心経にプラスしなければならないことがあるのです。

 ナザレのイエスという人物は、「私は命である。私は道である。誠である」と言っています(ヨハネによる福音書14・6)。「私は生けるパンである。私を食べなさい」と言っているのです(同6・51)。

 仏典は総合的に申しますと、究竟涅槃を説いているのです。ニル・バー・ナーを説いているのです。涅槃寂静の境を説いているのです。聖書は永遠の生命を説いているのです。究竟涅槃、空であり無であることが土台になって、初めて本当の永遠の生命が分かるのです。

 キリスト教が間違った根本原因は何かと申しますと、今生きているままの気持ちでキリストを信じようとすることです。ここに間違いがあるのです。

 この意味で世界中のキリスト教が全部間違っているのです。はっきりそう言えるのです。現在のキリスト教の人々は、死んだら天国へ行くと考えています。天国へ行くことが目的で聖書を信じているのです。

 死んだら天国へ行くということは聖書に書いていません。もしそう書いてあると思われたら、聖書を読み間違えているのです。

 十字架にかけられている犯罪人に対してイエスは、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒にパラダイスに入るであろう」と言っていますが(ルカによる福音書23・43)、この箇所を引用して死んだら天国へ行くと言っているのです。これが間違っているのです。

 本当に神を信じるということは、人間の思想で神を信じてもだめです。本当の信仰というのは神自身の思想です。キリスト自身の思想です。

 聖書に、「神を信じなさい」とありますが(マルコによる福音書11・22)、これを英訳ではHave faith in God.となっています。

 神における信仰を持てと言っているのです。神において信仰を持てというのです。神の信仰を持てという意味です。それを神を信じると訳しているのです。宗教観念で訳しているからそういうことになるのです。だから間違っているのです。

 神の信仰を持とうとしますと、まず人間が空であることを悟らなければいけない。現在肉の思いで生きている人間がそのままの状態 でいくら聖書を信じても絶対に救われません。

 まず空になることです。はっきり五蘊皆空を信じることです。五蘊皆空を信じることは、聖書の十字架を信じることと同じことになるのです。十字架と般若心経は同じことです。

 パウロは言っています。「私はキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない」(ガラテヤ人への手紙2・19、20)。

 イエスと共に死んでしまうこと、イエスと共に葬られてしまうことです。そうして全く新しい生命の存在として、新しい命の自分として、もう一度聖書を見直すことです。これを新に生きると言うのです。

 こういうことがキリスト教では正しく説かれていないのです。聖書には書かれているのですが、今のキリスト教はそれを正しく読んでいないのです。今のキリスト教は神に関する説明ばかりをしているのです。

 例えば、神が全知全能であるとか、イエス・キリストを信じれば救われるとかいうことは神に関する説明です。神そのものを教えているのではありません。キリストそのものをはっきり教えているのではありません。こういう点がキリスト教が間違っている所です。

 イエスは一通りや二通りで分かる人物ではないのです。今の文明の概念から言いますと、全く奇々怪々な人物です。大工の青年がなぜキリストであったのか。こういうことを本当に知ろうと思ったら、まず自分の概念が空であることを悟ることです。悟る上に救いがあるのです。

 般若心経には悟りはありますが救いはありません。そこで般若心経という悟りの段階を経て救いの段階へ入りますと、本当に聖書がはっきり分かる。そうして皆様の実体が分かるのです。皆様の命の実体が分かるのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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