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エホバとイエス


 一番確かなことは、エホバという神の名前に対してイエスという生ける神の子の名前があるということです。父なる神の名前がエホバです。子なる人の名前がイエスです。エホバとイエスの名がきちっと一つになっているのです。これが信仰の基準になっているのです。

 エホバとはありてあるという名前です。イエスはありてあることが救いである、エホバという名前が救いになっているという意味です。

 エホバという名前がそのまま救いになっているのです。エホバが救いになっていることがイエスの名前です。エホバとイエスの二つの名前がきちっと理解できていて、自分がそのようになっていたらいいのです。

 これがキリスト教にはないのです。まずエホバが分からなければ、イエスは分かりません。エホバが自分の救いになっているのですから、エホバが分からないようではイエスは分かりません。

 エホバを生きること、エホバという名前を生きることです。エホバの名前の中に自分の命が入ってしまっていることが実感できるという感覚でなかったらだめです。

 また、男の場合は女をどう見るかです。アダムがエバと名付けたのは、エホバを知らない人間の名付け方です。エホバを信じていないアダムが自分の妻をエバと名付けたのです。自分の妻をエバと名付けた時にセックスが始まったのです。

 セックスという感覚で女を見たら間違っているに決まっているのです。それならセックスという感覚で女を見ないとしたらどう見たらいいのか。どのように見たらいいのか。

 セックスはアダムがエバを見た感覚です。エバは肉体の女を指しているのです。すべての生き物の母というのは肉体の女を指しているのです。

 肉体の女は本当の女ではありません。肉の思いで見た女です。肉の思いで見ない女はどう見たらいいのかです。

 エホバの御名の中に自分自身が溶け込んでしまおうと思ったら、物の見方が変わらなければいけないのです。物の見方が変わらないままの状態で分かった、分かったと言っていても、全然分かっていないのです。

 分かっていないことが悪いのではなくて、分かっていないことに気がついていないことが悪いのです。

 女があることをどのように見たらいいのか。物があるということをどのように見たらいいのか。自分の信仰の欠点に気がついて、これを御霊に質問するのです。そうしたら成長があるのです。聖書の勉強会に出席するたびごとに、魂の成長があるような出方をして頂きたいのです。ただ出席したらいいというのではないのです。

 自分の信仰の欠点は自分で考えなければいけないのです。人に考えてもらうという無責任な考えがいけないのです。

 自分が生きているという生き方が霊的にはっきり変わってしまわなかったらいけないのです。エホバの御名を信じ、エホバの御名を崇めるということが、そのまま生きているという実体にならなければいけないのです。そうでなければ信仰とは言えないのです。

 自分が生きていたらいけないのです。エホバの御名を経験するのです。これが自分が生きていることなのです。

 神が万物を造ったのは目的があるのです。地球に霊魂がなければ、神が万物を造っただけでは、霊なる言葉にはならないのです。

 神が万物を造った。人間は神が造った万物を人間自身の五官によって、見たり、聞いたり、食べたりしている。これによって人間は神と触れ合っているのです。神が造った万物と人間の霊魂が触れ合っているということが、霊なる言葉になっているのです。

 霊なる言葉が神の国を造っているのです。これをイエスは神の国と呼んでいるのです。神と人間の霊魂との係わり、父と人間の霊魂が触れ合っているから神の国を生んでいるのです。

 これは新に生まれなければ分からないのです。ただぽかんと生きていたのでは、現在神の国を造っていながら自分自身で分からないのです。そこで「新に生まれなければ神の国を見ることができない」と、イエスが言っているのです(ヨハネによる福音書3・3)。

 また、「水と霊とによって新に生まれて神の国に入りなさい」と、言っているのです(同3・5)。

 新に生まれて神の国を見るというのは、三章三節で言っているのです。三章五節では神の国に入りなさいと言っているのです。

 神の国を見たり、入ったりすることが、聖書を勉強する目的です。聖書を信仰していると言いながら、神の国を見ていない。また、神の国に入っていないとしたら、聖書を信仰しているとは言えないのです。

 人生を経験しているのですが、経験ということが神の国を生み出していることになるのです。キリスト教はこれが全く分かりません。生ける神を知らないからです。だから自分の魂が生きていないのです。

 神の国に入ることが非常に重要なポイントです。私たちは実際に生きている場において、聖書の言葉をこなしていなければならないのです。

 私たちの生活の中に神の国があるのです。

 人間の霊魂は神にかたどりて神のかたちのように造られているのですから、私たちの霊魂は神の実物を目の当たりに見ることができるはずです。

 神にかたどりて神のかたちのように造られているのが人間の霊魂ですから、神の国、神の実物が分からなければならないはずです。

 ペテロは次のように述べています。

 「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの父なる神。神はその豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それにより私たちを新に生まれさせて、生ける望みを抱かせ、あなた方のために天に貯えてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者としてくださったのである」(ペテロの第一の手紙1・3、4)。

 天に貯えてある、朽ちず、汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者となるためには、神の国に入らなければならないのです。

 私たちは何かを食べている時には、現実に神の国に入っているのです。食事をしていることが、神の国に入っているのだということを経験している者は、その経験を積んでいるのです。

 五年、十年とその経験を積んでこの世を去っても神の国に入っていくのです。そうなるために聖書の勉強をしているのです。

 普通の家庭生活はありません。人間の生活は神の国に決まっているのです。信じても信じなくてもそうなっているのです。

 常識で生きるということがいけないのです。認識で生きるのです。生きているという気持ちが常識的であってはいけないのです。神の国にいるという感覚をいつも持っていることです。

 生きていることは神の御霊と霊魂が触れ合っていることです。神の御霊と人間の霊魂が触れ合っていなければ、生きているとは言わないのです。

 人間の霊魂が生きていることが、神の御霊に触れ合っていることです。これが神の国です。生活していることは、現実に神の国を経験しているのです。経験していながらそれを認めない。神の御霊を崇めずに知らん顔をしていると、心臓が止まったら真っ暗な所へ放り込まれてしまうのです。

 「心の内に光がなければ、その闇はどんなであろう」となるのです(マタイによる福音書6・23)。この世から出てしまうことになると、神との交わりがなくなるから、その闇がどんなであろうとなるのです。どこへ行くのかさっぱり分からないのです。

 人生を終えてしまうと神の国がなくなるのですから、何のために何十年も生きていたのか分からなくなってしまう。そこでうろうろ、うろうろすることになるのです。

 やがて地球の歴史が終わってしまう。そして地獄が始まるのです。生きていると千年王国が来ますから千年もあるのですけれど、死んだ後は短いのです。うろうろしている間に、あっという間に過ぎてしまうのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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