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ルネッサンスはユダヤ人の奥の手

ルネッサンスはユダヤ人の奥の手

現在の人間が生きている命は、譬(たとえ)としての命なのです。学問はこの命を実証的に受けとめているわけですが、近代文明の学問は宇宙の真理全体を現しているのではないのです。近代文明が人間の歴史と共に始まったのならいいのですが、人間の歴史が古くなって、にっちもさっちもいかなくなってから、近世文明が顔を出している。ユダヤ人によって専門学が造られたのであって、ルネッサンスというのがこれなのです。  ルネッサンスで考えている学問は、人間本位の学であって、本来の学ではありません。命といっても、専門学で考える命は、ルネッサンスの概念に基づく命なのです。ルネッサンスとは何かといいますと、ギリシャ・ローマの文明が復興したのです。いわゆる文芸復興です。古代ギリシャ・ローマの文明が、ユダヤ人によって焼き直されたのですが、これには非常に巧妙なテクニックが潜在しているのです。それを現代の学者は知らないのです。      古代ギリシャ・ローマの文明というのは、ヘレニズムの文明であって、異邦人の文明です。ヘブライズムの文明とは違うのです。これをヘブライであるユダヤ人が取り上げたというのには、それなりのトリックがあるのです。ユダヤ人は、簡単にギリシャ・ローマに頭を下げるはずがないのです。それを日本のルネサンスの学者は、西欧の学者の意見をそのまま鵜呑みにしているのです。それで日本の学者は通用するのです。大学で月給がもらえるのです。大学教授として通用するのですから、イージーゴーイングな感覚になってしまって、西洋のルネッサンスの認識を日本で切り売りしているだけのことです。日本の学者が本当にルネッサンスの中へとびこんで、それを体験したのではないのです。だからルネッサンスに対して根本的な批判ができていません。これが現代の日本の学問の根本的な欠陥なのです。それがノーベル賞を無上に有難がる傾向になっているのです。  ユダヤ人が学をしっかり押さえこんでいる。ユダヤ人に認めてもらわなければ、世界的な学説にならないのです。これがルネッサンスというお芝居です。これをのりこえていかないと、命は分かりません。キリスト教の教義は、全部ルネッサンスに同調しているのです。ルネッサンスを根本的に批判するということは、誰にもできないのです。ルネッサンスの文明が、今日の世界を行きづまらせている。専門学を袋小路へ追いこんでしまったのです。専門学はこれ以上発達しないでしょう。コンピューターによる情報管理、インターネット、遺伝子組み替え、情報ハイウエー、情報技術(IT)が精一杯で、これで終わりなのです。  ユダヤ人がヘブライズムを捨てて、ヘレニズムの軍門に下ったように見える。ユダヤ人が旧約聖書の面子を捨てて、あえて、ギリシャ・ローマの文明に頭を下げたようなかっこうになっているのはどういうことか。文明の裏側を読んでいかないと、現代文明の根本的な欠陥は分からないのです。  現代の専門学は、部分的な学です。それぞれの専門は、それぞれの部分であって、全体を統括する認識はないのです。だから科学の弱点を政治が押さえることができないのです。また、政治の弱点を科学が押さえることができないのです。科学と政治を統括する世界観が、今の世界にはないのです。サミットとか、G7で世界の首脳を押さえるような全体的な世界観、世界のリーダーシップが取れるような世界観がないのです。アメリカの大統領がいくら力んでもだめです。世界の文明はその程度のものです。だから文明をあまり高くかつてはいけないのです。  人間は文明のためにあるのではありません。文明が人間のために奉仕すべきなのです。学問を尊ぶのはけっこうですが、無条件に受け入れるのはいけないのです。学問には学問としての良さがありますから、それを大いに利用すればいいのです。飛行機や車を大いに利用したらいいのですが、それを拝んではいけません。こういう分かり切ったことが、分からないのです。いい高校、いい大学と、誰も彼も大学へ行きたがっていますが、これは文明に対する認識がまちがっているからです。こういう批判は、聖書をマスターしなければ分かりません。  今の人間が考えている命は、専門学的な命であって、神が人間に与えた命ではないのです。宇宙本来の命ではないのです。私たちは宇宙本来の命を発見しなければならないのです。それが目的で人生があるのです。宗教とか文化、学問は、現代文明の産物であって、ルネッサンス以降の傾向です。キリスト教も仏教も、あらゆる宗教は、ルネッサンスに頭を下げている。私はそのルネッサンスを批判しているのです。  人の命が本当の命ではないというのは、ルネッサンスに対する認識がまちがっているということからも、証明されるのです。私は何も宗教とか学問に、いちいち罵声を放って楽しんでいるのではないのです。本当の命とは何かということを、述べているのです。学問には学問としての価値がありますから、大いに利用したらいいのです。今の学者は、もっと謙虚になればいいのです。学問は部分的なものであって、人間に奉仕すべきものであると考えれば、学者は今日のようにいばらずに、もっと謙虚な学者になるでしょう。謙虚な大学になるでしょう。だいたい大学という名称が悪いのです。学びの館ぐらいでいいのです。  現代人は文明という中毒にかかっているのです。薬学的な中毒も苦しいのですが、精神的な中毒には恐るべきものがあります。私たちは知らず知らずのうちに、文明中毒にかかっているのです。これをまず反省して頂きたいのです。現代人が文明に中毒した原因がどこにあるかと言いますと、肉体的に生きている命が本物の命だというように考えた所にあるのです。人間に与えられている理性や良心は、文明を批判すべき能力性であって、人間は文明のために生きているのではない。文明が人間のためにあるべきなのです。文明を利用するのは大いにけっこうです。文明を利用するというのは、靴のようにはいて用いたらいいという意味なのです。靴を頭の上におくからいけないのです。学問も文明も、学校数育も、本来的に人間のためにあるべきなのであって、人間が学校のためにあるべきではないのです。「教え」といいますけれど、どんな宗教であっても、その教えはただの教えにすぎません。学問も教えです。人間が造った教えは、スリッパや靴のようにはいて用いるべきで、帽子のように頭にかぶってはいけないのです。  ヘブライズムは、本来的には神から流れ出た思想です。宇宙存在の絶対性、地球存在の根源から流れてきたのが、ヘブライズムなのです。ヘレニズムはこの世の人間生活から生まれたものです。これに対して地球の根源であるヘブライズムを遵奉すべきユダヤ人が、ローマやギリシャの文明に頭を下げて文芸復興だと言っているのは、何かトリックがあるにきまっているのです。  人間文明のことを聖書は、偽キリスト王国といっています。なぜ、偽キリスト王国ができたかということです。ユダヤ人は、イエスをキリストとして認めたくないのです。イエスを認めないと正面から言いますと、キリスト教の人々から憎まれます。ユダヤ人は何といっても人間の数が少ないのですから、世界中の人間から憎まれたら困るのです。だからキリスト教が間違っていると言わないで、キリスト教を骨抜きにする政策を考えたのです。イエスはキリストではないと言わなくても、自然にイエスがキリストではなくなるという方法を考えたのです。これがルネッサンスの奥の手です。  ユダヤ人はどこまでもイエスをキリストとして認めたくないのです。それを認めたら、自分達がイエスを十字架につけたことに対して、全責任を負わなければならなくなるからです。イエスがキリストではないことにすると、自分達がイエスを殺したことについて、責任を回避するという理屈が成立します。ユダヤ人はこれをねらっているのです。日本人は、イエスがキリストであっても、キリストでなくても、どちらでもいいのです。これは日本人の生命観、世界観が、非常に浅薄なものであることを、示しているのです。  天地創造の原理が、日本人には全然分かっていないのです。古事記に書かれている国産みというのは、御伽噺であって、創世記とは違います。創物記でもありません。これはセックスを神話として書いているのです。地球がどうして造られたかという原点は、好むと好まざるとにかかわらず、旧約聖書の創世記を勉強するしかないのです。  だいぶ前に、アメリカで「天地創造」という映画が製作されましたが、これはアメリカ人の御伽噺なのです。そのように、いろいろな御伽噺がありまして、現代文明は御伽噺のジャングルみたいなものです。学問という思想、常識、知識に係る思想、宗教、政治、経済、文化に係る人間のあらゆる思想は、御伽噺です。般若心経は、それを五蘊と言っているのです。これを信じこんでしまうと、人間の霊魂は台無しになるのです。  私たちが本当の命を得るためには、今ある命を乗り越えなければならない。般若心経のねらいは、ここにあるのです。今の命を乗り越えるのです。今の命は仮に存在する命です。死ぬにきまっているということは、仮に存在しているもの、仮定的なものを意味しています。私たちは、現在、仮の命を経験しているのです。神は人間に、仮定的な命を与えて、これを踏台にして、実体的な命を見つけることができるかどうかを、試験しているのです。 『獅子は三日にして子を谷底に突き落とす』という寓話があります。親獅子が本当にそんなことをするかどうか分かりませんが、これを神が人間にしているのです。人は神と一緒にいたのですが、神を見失ったために、現世という谷底へ突き落とされたのです。ここから這い上ってきたものだけを抜擢しようとしているのです。現在、学問的、常識的にとらえている命を、実体だと思いこんでしまいますと、失敗に終わるのです。ところがイエスが現れて、肉体的に生きているのは本当の命ではないことを証明したのです。イエス・キリストの命が、神から提供された事実の典型なのです。この事実をとらえるためには、今人間が生きている命が仮定のものであることを、認識しなければならないのです。  学者が全部学問に心酔しているかというと、そうではありません。日本で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹さんが、大学を退官する日に、最後の講演をしました。それをNHKのテレビで放映していました。湯川さんはメモ用紙に落書きをしながら講義をしていましたが、その内容は、科学はいつでも仮定的な状態をふまえている。今日の科学は今日の仮定であって、明日の実体を意味するのではない。科学はいつでも前進がなければならない。私は科学の世界の一部に奉仕したが、私にはまだまだ未知の世界が無限に広がっている。あなたがたは、大学で修めた学を踏み台にして、前進しなければいけない。科学者は未知の世界へいつでも前進すること。分からないもの、見ていないものを、とことん見なければならないという気持ちに、いつでも燃えていることが、良心的な科学者の基本的な態度であると、繰り返し言っていました。現状に満足してはいけない。いつでも前進しなければならないと言いながら、メモ用紙に落書きをしていたのです。それをカメラが写していましたが、そこには山の向こうにあるものを見ると書いていたのです。  山の向こうにあるものとはどういう意味で湯川さんが使っていたか分かりませんが、科学で説明できないものという意味も含まれているでしょう。科学は一つの山です。その向こうを見るのです。科学が科学を乗り越える、ここに科学の完成があるのです。この世に人間が生きているということは、仮定の命であって、永遠の存在ではないのです。仮定的に存在している人間が、この世で生きているのは、暫時、暫定です。それを永遠の事実と思ってはならないのです。人間が生活するために、科学は役立っています。生活をするために役立つということは、生活をするための知恵なのです。科学のみならず、法律学も、経済学も、全部生活の知恵なのです。現在の文明には、仮の命をこえて、仮に存在している地球をこえて、永遠の存在を見るという思考方式がありません。  今の地球は完全な物質ではありません。それは地震があったり、洪水があったり、砂漠、飢饉があることからもわかります。やがて地球に、人間が住めなくなる時がくるでしょう。そのように、地球は不完全なものです。神が不完全なものを造って、喜んでいるはずがないのです。それではこういう不完全な地球がなぜできたのか。不完全な物質がなぜあるかということです。こういうことは、キリスト教では全然分からないのです。今の学問でも分かりません。どうして不完全な物質があるのか。地球はなぜ造られたのか。存在の根本原理を勉強しなければ、命は分かりません。  このように言いますと、非常に難しいもののように思われますが、そうではありません。現在生きている人間を、真正面から見れば分かるのです。冷静に、平明に、綿密に見れば分かるのです。人間の理性が、どれほど霊妙不可思議なものであるか。例えば私たちの目の前に、ごちそうが出るとします。そうするとおいしそうだと思います。食べる前に、おいしい味がだいたい分かります。なぜ食べる前に味が分かるのでしょうか。これが我々の魂の本質です。私たちの魂は、無限の可能性を持っています。神の本質と同じ可能性を持っているのです。深さにおいて、また高さにおいて、神と同じ可能性を与えられているのです。それにもかかわらず、人は死ななければならないと勝手に思っているのです。肉体的に生きている自分を、自分だと勝手に思っている。そして、ぐちを言ったり、へそをまげたり、人を恨んだりしている。常識的な命を、自分の命だと思いこんでいるから、いけないのです。

(内容は梶原和義先生の著書からの引用)


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